悪役は一人でいい! ~原作エンド後の物語~
これはワタクシではない。イーリス・エル・カッツェは、夢を見ながら思っていた。
身長が違う。体つきが違う。髪型が違う。瞳が違う。雰囲気が違う。笑い方が違う。何より夢のイーリスは孤高ではない。おまけに神剣も持っていない。何もかも違う所だらけだ。
夢の中のイーリスは、それはそれは酷いものだった。
その顔は美しいのだろうが、悪い意味で自信に満ち溢れており、見る者に威圧感を与える。
上品な言葉遣いだが、言葉の節々から相手を見下す侮蔑の感情が滲み出ている。
行く所全てで取り巻きを引き連れており、自ら何かをする気配はまるでない。狭い学園で女王にでもなったつもりなのだろう。
そして、大物のように振る舞っているくせに、やること全てが小さすぎる。噂話? 持ち物を捨てる? 階段から突き落とす? 何だそれは、お遊びか?
呆れのため息しか出ないイーリス。夢のアリスを追い詰める策を考え、実行させる様はまるで悪役だ。本人もノリノリで悪役をこなしているが、この程度では真の悪とは言えやしない。
つまるところ、イーリスから見れば夢のイーリスの小者であったのだ。
「あら……」
少し目を離していた隙に、どうやら場面は進んでいたらしい。
この場面はイーリスにも見覚えがある。正確には、この場面の舞台に見覚えがある。これは、高等部の三年生への進級記念のパーティだったはずだ。
夢では、夢のイーリス一人に対して、アリス・イル・ワンドと王太子であるカイル・エル・バハームド、それに名前の知らない数人の男子生徒が詰め寄っていた。
夢のイーリスは苛立たしげにアリスを睨んでいるが、その足は震えている。気丈と言えば気丈だが、やはり悪役であれば例え相手がどこの誰であろうと、堂々と立ちふさがるべきである。
イーリスであれば、不敵な笑みを浮かべ、腕を組んで仁王立ちしてみせることだろう。
『イーリス・エル・カッツェ! アリスへの鬼のような数々の所業! 到底見過ごせるものではない!』
『既に調べはついています。よくもこれだけのことができたものですね』
『貴族としての誇りもないのだろう。騎士として切りたいところだが、まだそれができないのが悔しいものだ』
イーリスには見に覚えのない光景だが、これが何なのかは理解できた。
「断罪ですわね」
イーリスが待ち望み、しかし得ることのできなかった光景である。
夢のイーリスが行ってきた様々な所業が、この場で明らかになる。イーリスから見れば全て小者の所業であるが、夢のアリスやカイルにしてみれば、絶対に許せないほど極悪な所業なのだろう。
『アリスさんと話さぬように徹底させ、アリスさんを孤独にする。アリスさんの評判を落とすための陰口や悪口。アリスさんの教科書や服などを切り刻む。ビンタ、髪を掴む、足をかけるなどの暴力行為、挙げ句の果てには階段から突き落とす殺人未遂。アリスさんが大切にしている物を盗み出し、粉々に砕いた、といったこともしていますね。もちろん、証拠や証言も全て揃えておりますよ』
『イーリス! 貴族としても、人としても腐れきったか! 貴様は断じてボクの婚約者などではない! 婚約は破棄させてもらう!』
『そんな! お待ちくださいませ!』
夢のイーリスが縋り付く。これは違うと、何かの間違いだと、必死に夢のカイルに縋り付く。
しかし、間違いなどあるわけがない。夢のイーリスは、確かに夢のアリスをいじめてきた。夢のイーリスは、確かに悪として夢のアリスを排除しようとした。
排除しようとしたところを排除された。ならばこれは因果応報であり、悪の敗北に他ならない。
『今まで我慢してきましたけど、もう限界です! イーリス様! 謝って下さい! そしてもう二度とこんなことはしないと約束して下さい!』
『ふざけないで! ワタクシは間違ったことはしていませんわ! 身の程をわきまえない女に仕置きをしただけですわ! 間違ったことなどしていない!』
『まだ言うか! 最後の情けをかけられたのもわからぬ愚か者め! 貴様は学園からも追放とする! 二度とその顔を見せるな!』
突き放された夢のイーリスは絶望し、その体から力が抜ける。そのまま、警備の兵に引きずられ、誰にも見送られることなく学園を去った。
場面は変わる。
『イーリスよ。お前にはほとほと呆れ果てた。何故私の娘はこんなにも愚かなことをしてしまったのか……』
『お父様! 何を仰っているのですか!?』
『黙れ! 貴様などもはや娘ではない! 出て行け! 金輪際敷地を跨ぐことも許さぬ!』
怒髪衝天の夢の父親が、夢のイーリスに告げる。夢のイーリスは絶望のまま家を追い出される。
場面は変わる。
『悪いですねえ、イーリス様。お父様より力を貸すなと言われておりまして』
『そんな……お父様、そこまで……』
贔屓にしていた商人を訪ねるが、商人に申し訳なさそうに告げるのみ。どれほど商人を訪ねても、皆同じ回答だ。夢のイーリスの絶望は深くなる。
場面は変わる。
『美しいですねぇ。妾ならいいですよ』
『な……ワタクシが妾……』
無礼と知りつつ、顔も知らない豪商や貴族を訪ねるが、返ってくるのはそんな返事だけだ。
夢のイーリスは、貴族としての後ろ盾を失い、持っているのはその美貌のみだ。その美貌を失ってしまったら、あっさりと捨てられるだろうことは想像に難くない。絶望を深くして、夢のイーリスは屋敷を立ち去る。
場面は変わる。
『はぁ? 料理なんて嫌だって? そんなんじゃ雇えるわけ無いだろ!』
『やったこともないものをできるわけないでしょう!』
『覚える気もねえってんだろ!? 雇えるわけ無いだろ!』
平民として生きるしかないと覚悟を決めるも、その覚悟も甘いもの。接客をできず、料理もできず、言葉遣いもわからない。夢のイーリスは、全てを失っても貴族としての生き方を忘れることができなかった。
当然、それでは雇われるわけもなく、夢のイーリスは誰にも雇われることもなく、絶望のままひたすら王都を歩き回る。
場面は変わる。
『美人だねぇ。娼婦になったら稼げるよ、いや本当に』
『……』
既に墜ちるところまで堕ちた夢のイーリスは、絶望のまま全てを受け入れ、娼婦として生活をしていた。
だが、夢のイーリスは娼婦としての技術、マナー、生き方を学ばない。全てを受け入れるイーリスは、流されるままであった。当然稼げるわけもなく、三年経つ頃には店から放り出されてしまった。
場面は変わる。
かつての美貌は見る影もない。太陽が落ちつつある薄暗い裏路地で、孤独に夢のイーリスは蹲っていた。
『どうしてこんなことに……』
思い出すのは、かつての栄光。学園にいた頃の、夢のような日々。貴族としての、輝かしい生活。
『ワタクシは間違っていない。ワタクシは正しかった。ワタクシは貴族として正しい行動をした……』
そこに通りがかったのは物乞いだ。自分よりも更にひどい姿をしている女を見て、物乞いは大笑いしながら立ち去っていった。
それが、更に夢のイーリスの絶望を深くする。
『ワタクシが間違っていたというの? これがワタクシへの罰だというの? それほどまでの大罪をワタクシは犯したの?』
婚約者に纏わり付く虫を排除する。それだけのはずなのに、どうしてここまで堕ちてしまったのか。
本当に、何もかもを失ってしまった夢のイーリス。誰にも手を差し伸べられることはなく、刻々とその命を失おうとしている。
いや、夢のイーリス自身も、既に生きる気力を失っていたのだ。このまま、誰にも知られることなく、ひっそりと消えようとしていたのだ。
『こんなことなら、やらなければよかった……』
それは、はじめての後悔だった。夢のイーリスは、はじめて自らの過ちを認めたのだった。
『ごめんなさい……』
死を前にして、ようやく夢のイーリスは自らの過ちを認め、たとえ誰に聞かれることがなくとも、あの二人に謝ることができたのだった。
夜の闇が深くなりつつある。夢のイーリスの命が失われつつある。このままでは、夢のイーリスが死ぬのも時間の問題だろう。
しかし、神は見捨てていなかった。神は、夢のイーリスを見放していなかった。
『大丈夫ですか?』
優しい声だった。その声に夢のイーリスが力なく顔をあげると、心配そうな表情の男性の姿が見えた。
その右手は夢のイーリスに差し伸べられており、夢のイーリスにはまるでそれが救いの手のように見えた。
これが最後のチャンスである。根拠はないが、夢のイーリスはそう思った。そして、それが正しいと感じた。
こうして、男性に拾われた夢のイーリスは命を失わずにすんだのだ。
自らの所業を、自らの過ちを、そして自らの歪みを自覚した夢のイーリスは、二度と過ちを犯すまいと、心を入れ替え生きるようになった。
底の底まで堕ちて、全てを失ったことで、ようやく夢のイーリスは新たな生を始めることができたのだった。
そして、自身を救ってくれた男性に支えられながら、同時に男性を支えることを願い、これからの人生を男性とともに、幸せに歩んでいくことを決めたのだった。
貴族として生まれ、婚約者に排除され、娼婦として生き、そして捨てられた夢のイーリス。全てを失った夢のイーリスは、しかし最後の最後で救いを得ることができた。
きっと、夢のイーリスの幸福は、ここからはじまるのだろう。
きっと、夢のイーリスの人生は、ここからはじまるのだろう。
きっと、夢のイーリスは、男性とともに幸せに生きるのだろう。
夢のイーリスは、ようやく救いを得ることができたのだ。
本当に?
そんなに都合のいい話があるわけがない。
男性が夢のイーリスを拾ったのも、男性が夢のイーリスを支えたのも、全ては男性の目的のためである。
男性は、夢のイーリスが学園から追放されたことを知っていた。家族から捨てられたことを知っていた。見捨てられ続けたことを知っていた。
夢のイーリスはどん底まで堕ち、全てが信じられなくなっていた。そこに手を差し伸べた男性を、夢のイーリスは救いの神のように思ったことだろう。
もちろん、男性が計算した行動である。
男性は、とある神を信仰していた。その神のために今まで人知れず準備を進めてきた。
全ては、その神を降臨させるために。
その神は、罪であった。
その神は、許されなかった。
その神は、禁忌であった。
その神は、抹消されていた。
その神は、破滅であった。
その神は、邪神と呼ばれる、滅びの悪夢であった。
夢のイーリスに手を伸ばしたのは、邪神であったのだ。
夢のイーリスが全てを知った時には既に遅かった。既に、男性の準備は終わっていたのだ。
夢のイーリスが眠っている隙に、男性は魔法陣を準備。その中央に夢のイーリスを横たえることで、邪神は姿を現したのだ。
夢のイーリスが目を覚ましたのは、全てが終わる直前だった。全てを知った時には、既に手遅れだったのだ。
『何をしているのですか!? これは何!? 何かがワタクシの中に!』
『ああ、イーリス。愛しているよ。君は素晴らしい生贄だから愛してあげるよ』
『そんな! こんな! 何で! やっと出会えたと思ったのに! あなたと一緒に幸せになろうって!』
『もちろん、僕は幸せだよ。だって、神様がこの世界に現れてくれるんだからね!』
『痛い! 痛い! やめて! 嫌だ! 助けて! いや、いやあああぁぁぁぁ!』
夢のイーリスを喰らうことで、邪神は降臨したのだ。
邪神が降臨した瞬間、邪神の穢れた神気が王都を奔った。王都中に広がった穢れた神気は精霊を穢し、王都に存在する精霊の半分を消滅させた。
次いで、邪神は吼えた。音のない邪神の咆哮は、音の代わりに物理的な破滅となって王都を襲い、王都の四分の一の建物と人々を破壊した。
精霊の残骸を、王都の瓦礫を、人々の死体を喰らい、邪神は大きくなっていく。どんどん成長を続けた邪神は、ついには王城を超えるほどまでに大きくなった。
全て、終わる。
化物が現れた。その一報は一時間もせずに王都中を駆け回り、王都の住人全てが知るところとなった。
生き残った王都の人々は、絶望していた。王城では、ようやく兵士や騎士団が動き始めていた。王や姫は、神に一心に祈っていた。
もちろん、止まらない。
醜悪な邪神は暴れまわり、喰らい続け、世界を破壊し続ける。
そんな終わりを、夢のイーリスは邪神の中で見続けていた。
夢のイーリスは、死んでいなかったのだ。
いや、肉体的には死んでいるのは間違いない。だが、精神的には生きており、そしてその魂は邪神に取り込まれ、傷つくことなく生き続けていた。
邪神が保護しているのかもしれない。もしくは、夢のイーリスにはそういった能力があったのかもしれない。理由は不明だが、夢のイーリスは完全には死なずに、邪神と一緒になって王都が崩れるのを見続けていた。全てに絶望した夢のイーリスは、全てを受け入れて見続けていた。
死んでいく。
何もかもが死んでいく。
民が死ぬ。兵士が死ぬ。騎士が死ぬ。貴族が死ぬ。知り合いが死ぬ。かつての友人が死ぬ。知らない人が死ぬ。何もかもが死んでいく。
ふと見ると、かつて愛した男性の顔が見えた。
邪神を呼び出した、あの男性である。
いつの間に着替えたのか、真っ黒なローブを身にまとい、狂笑を浮かべていた。自身の神に出会えたからだろう。恍惚とした表情をしている。夢のイーリスを拾ったのも、全て計画しての行動だと理解したら、夢のイーリスの擦り切れた心にも怒りが浮かぶような気がした。
だが、それもすぐに終わる。男性は、邪神の前に飛び出すと、あっさりと邪神に轢き潰されたのだ。しかし、あれほど信じていた邪神に殺されたのだから、もしかしたら男性も本望かもしれない。
そんな男性の姿を見て、夢のイーリスが感じたのは歓喜であった。負の歓喜であった。自分を騙した男があっさりと死んだのだ。ざまあみろと、夢のイーリスはドロドロとした喜びを感じていた。
夢のイーリスが喜び、そして考えているうちにも邪神は暴れ続け、成長し続ける。邪神は止まらず、誰も止めることができず、ついに王城に辿り着いてしまった。
王城の前で騎士達が布陣しているが、おそらく無意味に終わるだろう。王城の倍はあろうという大きさに成長した邪神を、普通の人間ごときが止められるわけがない。
案の定、潰され、蹴散らされ、喰い散らかされた。
騎士達を鏖殺した邪神が狙うのは、もちろん王城だ。
邪神が体の一部を伸ばし、王城の上部を薙ぎ払う。王城の三分の一が吹き飛ばされ、瓦礫が王都に降り注ぐ。
邪神が王城を見て、次いで夢のイーリスも王城を見た時、夢のイーリスは目を見開いた。
それは、偶然だったのだろうか。必死に祈る夢のアリスと夢のカイルの姿が、そこにはあった。
『カイル様、それに……あの女!』
学園にいた時のことを思い出した夢のイーリス。そして、浮かんでくるのは強烈な憎悪。
邪神の力である。邪神に取り込まれた夢のイーリスは、邪神の影響を受けることで怒りや憎しみといった負の感情が無限に増大しているのだ。
夢のイーリスを諦めが支配していたのもそのためである。夢のイーリスが喜びを感じたのもそのせいである。男性に裏切られて絶望したことで、夢のイーリスは全てを諦めてしまっていたのだ。
そして、敏感に夢のイーリスの感情を察知する邪神。今まで漠然と暴れまわっていたのを止めて、明確に夢のアリスを標的に定めたのだ。
邪神がその身体を伸ばして夢のアリスを貫こうとする。咄嗟に夢のカイルが盾になろうとするも、一足遅かった。夢のカイルが盾になるよりも、邪神の攻撃が夢のアリスを貫くほうが速い。
叫ぶ夢のカイル。目を瞑る夢のアリス。強大な邪神が相手では、普通の人間は為す術を持たない。
そして、邪神が、夢のアリスを貫――けなかった。
光。そうとしか言えないだろう。
一閃。一瞬の煌きは、邪神の身体を見事に切り飛ばした。
吼える邪神。圧倒的な破壊の衝撃は、しかしその剣の力により封じ込まれた。
聖剣ユートピア。百人の聖人の祈りが込められている、世界を護るためにのみ振るわれる聖剣である。
『何事でしょうか、これは? ユートピアの導きに従って来てみれば、大変なことになっていますね』
場にそぐわない涼しげな声が響く。男がいるだけでその場に聖気が満ちる。精霊が男を喝采する。
男の声を聞き、男の姿を見て、夢のカイルとアリスは目を見開いた。そして、男の正体を知り、ようやく二人は安堵した。
その男は、英雄だった。幾度も世界を救った勇者だった。数多の悪を滅ぼしてきた正義だった。
騎士の中の騎士。聖剣に選ばれた勇者。民に仕える騎士。正義の化身。
放浪の聖騎士セイヴァー・キース・ロードレットであった。
彼の持つ聖剣は、人と精霊が力を合わせて創り上げた希望の結晶である。イーリスの持つ神剣アラストールには及ばないが、魔に屠る剣としては最上級の代物だ。聖剣の名に相応しい威力を誇っている。
邪神も神の一種だが、魔なる神だ。おまけに生まれたばかりでは、聖剣に対抗するのは難しい。
夢のセイヴァーはまるでバターのように聖剣で邪神を切り刻み、浄化していく。浄化された邪神は苦しみの声を上げながら、どんどんその姿を小さくしていく。
圧倒的だった。これが英雄である。これが勇者である。世界を護る聖騎士は、見事に世界を護るためにその力を発揮していた。
縦横無尽に夢のセイヴァーは邪神を切り刻み、最終的に邪神は人を一人包むことができる程度の塊を残して霧散した。
邪神は消滅していないし、ここから成長することもできるだろう。しかし、少なくとも国が滅びるという結末は回避されたのだ。最後の残った邪神の欠片も、聖剣でとどめを刺すことで消え去るだろう。
邪神は討伐されたのだ。
『ありがとう……本当にありがとう、セイヴァー殿。貴殿のおかげで国は救われた』
『私からもお礼を言わせて下さい。本当にありがとうございました』
『今はこんな状況でしばらく余裕もないだろう。落ち着き次第、セイヴァー殿には望む報酬を与えたい』
『不要です。僕はユートピアに導かれただけ。しばらくはここに残り、邪神の影響がないか警戒したいと思います』
『ならば、せめて宿だけでも用意させてくれ。無論、滞在にかかる全ての費用は我々で負担させていただく』
『……わかりました、ではお願いします』
夢のセイヴァーは深々と頭を下げ、聖剣を鞘に収める。その瞬間、この場を支配していた聖気は一気に霧散した。
おそらく、それに反応したのだろう。
邪神の欠片がまるで粘土のように姿を変える。大きくなり、小さくなり、邪神の欠片は徐々に一つの形を作っていく。
怯える夢のカイルとアリスに、邪神の欠片を静かに見つめる夢のセイヴァー。三人が見守る中、邪神の欠片はついに完全に姿を変えた。
そこにいたのは、一人の女性であった。
邪神の核として生贄に捧げられた、イーリス・エル・カッツェである。
捨てられ、娼婦として生活し、ボロボロになっていた姿はどこへいったのか、まるで今まで貴族として生活してきたかのように、綺麗な姿のままだった。
これは夢のイーリスが身体を構成するにあたって綺麗な姿でいたいと望んだことが原因なのだが、今はそれは関係ない。
夢のイーリスが、かつての姿のままこの場に現れた。重要なのは、その事実である。
目の前に現れたのは、憎き元婚約者だ。夢のカイルが憤るのも仕方ないことだった。
『貴様……イーリス・エル・カッツェか! 貴様か! 全て貴様の仕業か! 学園にいた頃の復讐か!』
夢のカイルが夢のイーリスに掴みかかろうとするが、それを夢のセイヴァーが止める。夢のイーリスは邪神の欠片から出てきたのだ。警戒するのも当然だろう。
その様子をボンヤリと見つめながら、夢のイーリスは考えていた。
復讐? 誰がそんなことをするものか。死を前にして、ワタクシは自分の罪を思い知った。自分の罪を理解した。
それなのに、復讐などするわけがない。
『ワタクシの……せい? 全く、滑稽ですわね……』
ああ、この王子にとって、ワタクシは学園にいた頃のままなのだ。何も変わっていないと、そう思っているのだ。
そんなわけがないのに。
それに、学園にいた頃の自分だとしても、こんなことをするわけがない。仮にも国に忠誠を誓う貴族の娘だ。その国を破壊するなど、するわけがない。
ああ、カイル様。あなたは、ワタクシがそれほどまでに愚かだと思われているのですね。
夢のイーリスは、それが悲しく、しかしどこか面白かった。
『ええ、そうですわね。ワタクシのせいですわ。ワタクシがこの化物を呼び出したのですから!』
『墜ちるところまで堕ちたか、イーリス! 貴様は楽に死ねると思うなよ!』
ならば、教えてやろう。追放された後、夢のイーリスがどんなことをして、どんな生を送ってきたのかを。
『いいわ、ならば見なさい! 聞きなさい! これがワタクシの罪よ!』
それが罪だと言うならば、言えばいい。邪神を呼び出したワタクシの罪、存分に知りなさい。
今の夢のイーリスは、邪神と一体化している。つまり、使おうと思えば邪神の能力を使うこともできるのだ。
夢のイーリスは、既に肉体が失われている。こうして身体を持っているのは、邪神の力で失った肉体を構成しているからだ。
その力を使うことで、邪神の能力を使うことも可能である。
そして、夢のイーリスが邪神の力を発動する。それは国を破壊するわけでもなく、夢のアリスとカイルを殺すわけでもない。
ただ、夢のイーリスのこの数年間の人生を、二人の記憶に焼き付けるだけである。
記憶を焼き付けるのだ。それは反動でものすごいショックを相手に与える。記憶が操作される影響で、夢のアリスとカイルは意識を失った。次に意識を取り戻した頃には、夢のイーリスが与えた記憶も定着しているだろう。
それを見た二人が何を思うのかは、夢のイーリスの知ったことではない。
そして、全ての力を使い果たした夢のイーリスに待っている結末は、一つである。
『消えるのね……』
全ての力を使い果たした夢のイーリスの体が、光となって消えていく。
今の夢のイーリスは、邪神の力で失った肉体を構成しているのだ。肉体を構成する力すら失ってしまえば、夢のイーリスはもう一度肉体を失うしかない。
『これもまた……ワタクシに……相応しい末路……』
人として墜ちるところまで堕ちた夢のイーリス。引き上げられたと思ったら、更にこれ以上ない深淵まで突き落とされた。そして、人として死んだ結果、邪神の一部として破壊の限りを尽くしている。
救いなど、どこにもなかった。
『聖騎士様……ありがとうございます……』
もはや、死という安息を持ってしか、夢のイーリスが救われることはなかった。
『ワタクシは……やっと……救われ……』
ようやく救いを得ることができた夢のイーリスは、穏やかな笑みを浮かべ、完全に消滅したのだった。
そこで、夢は終わった。最後の最後で終わりを受け入れたその姿勢は、潔いと評価できるものであった。
しかし、やはり夢のイーリスは小者であると言わざるをえない。悪であれば孤高であれ。どれほどその身を堕としたとしても、敗北を受け入れ、しかし誇りは高く、這い上がるために力を尽くすべきだ。
それがなんだ。たった一回の敗北で心を閉ざし、見えていたチャンスも棒に振る。
生ぬるい環境であったが、夢のイーリスは悪として君臨し、悪として夢のアリスを打ち倒そうとした。それを逆に打ち倒され、そのまま転落するしかできなかった。
たった一度で諦めるのか。なんという無様。悪であるなら諦めるな。それは自ら打ち倒そうとした宿敵に対する侮辱にほかならないのだから。
それができないから小者なのだ。大成するのはいつだって誇りを高く持ち、目指す先を明確にし、どれだけ堕ちても諦めない者だ。
自分ではないが、自分だからだろうか。夢のイーリスのあまり不甲斐なさに歯噛みするイーリス。そんなイーリスの耳に、小さな声が聞こえてきた。
『いずれはあなたもそうなるのよ。ええ、それが楽しみだわ。とてもとても楽しみだわ』
不快な声だ。何重にも重なった、歪み、穢れきった自分と同じ声だ。
二? 三? いや、もっとだ。百、二百、もっと多くの声が重なって聞こえてくる。
『ワタクシたちは残骸』
『ワタクシたちは絞りかす』
『ワタクシたちは塵』
ボンヤリと姿が見え始める。煙のような、霧のような何かだ。
『そして、ワタクシたちは成れの果て』
霧のような何かはついに人型となり、イーリスと対峙する。
その姿を、イーリスは知っていた。
その姿を、イーリスはいつも見ていた。
「まるで亡霊」
『そう、亡霊。ワタクシ達は亡霊そのもの』
それは、確かにイーリスであった。イーリスの亡霊であった。
不思議なことに、亡霊は何重にも重なって見えた。残像などではなく、薄い亡霊が何十、何百と重なって見えていた。
「大半は消えたワタクシの、それでも消えることのできなかった一部。肥大化しすぎて聖剣でも浄化し切れなかった残り滓。そんなところでしょう?」
『大正解ですわ』
全方位から拍手の音が聞こえてきた。どうやら、見えている以外にも無数の亡霊がここにいるらしい。
『どう? 楽しかったかしら? 絶望したかしら? 後悔したかしら?』
クスクスと、楽しそうに亡霊は告げる。
『あなたもこうなるのよ。あなたも捨てられるのよ。あなたも醜くなるのよ』
それは、予言だ。
『ああ、楽しみだわ、楽しみだわ、とてもとても楽しみだわ』
それは、喜びの声だ。
『早く一緒になりましょう。早く混ざり合いましょう。歓迎してあげるわ』
それは、仲間を呼ぶ声だ。
今見た夢が、ずっと繰り返されてきた光景ならば、なるほど確かに邪神は現れるのだろう。いずれ邪神はイーリスの前に現れて、対峙する運命にあるのだろう。
だが、それがどうした?
「くだらない」
そう、くだらない。
「くだらない。ええ、くだらないですわ」
邪神がなんだ。結局はただの悪役ではないか。
打倒される悪ではないか。
「それがどうしたというの? 世界に悪はただ一人! このイーリス・エル・カッツェだけですわ!」
そして、この亡霊も悪ではないか。
「あなたたちもまた、悪としてアリスさんを排除しようとして、逆に排除されたのでしょう? 負けたのならば堂々と負けなさい。その結末を受け入れなさい」
少なくとも、夢のイーリスは最後の最後でその結末を受け入れた。潔く、誇り高く悪として立派に散った。しかし、この亡霊たちはそれができていない。しようとも思っていない。
ならば、イーリスがすることはただ一つである。
「それができないのならば、ワタクシが引導を渡してあげましょう」
『な……その剣は一体……』
それは、圧倒的な聖気を纏った剣であった。夢で見た聖剣ユートピアか? 否、そんなものとは比べ物にならない。
聖気を超えて、神気を纏ったその剣を、数多の世界を見てきた亡霊は見たことがなかった。
「ワタクシにも慈悲の心はありますわ。あなた達を憐れむくらいはしましょう。しかし、あなた達のような存在をワタクシは認めない。こんな醜悪なものがワタクシの末だとは決して認めませんわ」
そう、イーリスの手に現れたのは神剣アラストール。遙か古代より受け継がれてきた神の力を宿した剣であり、魔を屠るための究極の兵器である。
当然、イーリスの果てである亡霊のような存在には、絶大なる効果を発揮するだろう。
『お、お前ええええぇぇぇ!』
「消えなさい、亡霊。あなたはいるだけで害悪ですわ」
イーリスは躊躇うことなく亡霊に向かって神剣を一閃する。神剣はその効果を遺憾なく発揮し、何万ものイーリスの果てが集まった亡霊を一瞬で霧散させた。
そして、イーリスはため息を一つ。嘆くように言葉を吐く。
「認めたくありませんわ、あんなのがワタクシと同じ存在など……」
神剣を握る手が強くなる。ひび割れそうなほど強く握られた神剣が抗議するように刀身を強く光らせるが、イーリスは気付かない。
「それに、邪神? この世界にはいらない存在ですわ。世界に悪はただ一人。このイーリス・エル・カッツェだけで十分ですわ!」
宣言するとともに、神剣を再度一閃。亡霊の創り出した腐りきった夢の世界は破壊され、何も存在しない白の空間が現れた。
「さあ、往きますわよ、アラストール。世界のゴミを掃除しますわ!」
吼えるイーリス。神剣も答えるように神気を発し、最強が動くことを世界に宣言する。発せられた神気は国中の精霊を活性化させ、人々の魔力を揺るがした。
なお、これはイーリスの見ている夢である。つまり、今は夜中であり、イーリスは真夜中に精霊を活性化させたのだ。
当然人々も夢の中であり、精霊が活性化することで魔力が揺れた人々は、驚きとともに飛び起きた。
人の迷惑を考えないイーリス。彼女こそまさに覇王であり、稀代の悪と言ってもいいだろう。
イーリスが復活した邪神を滅ぼしたのは、この夢を見た二日後のことであった。二度と復活できぬように、極大消滅呪文でその魂まで粉砕したのだった。
ついでに、邪神への攻撃にアリスを巻き込んだのもその時であった。なお、極大消滅呪文は彼女の服を消滅させ、アリス自身は何事もなかったように帰ってきた。