一話 召喚はされていない
世界は一枚の額縁だ。
額の中には何枚もの小さな板がある。
それはバラバラに散らばっているが、指定された位置に配置すると完成する。
ジグソーパズルというものを知っているなら話は早い。
あれは全てのピースを決められた位置に置くことで完成するが、これは違う。
ジグソーパズルのピースを殆ど取り除いたような形をしている。
これは世界だ。
世界は一つ一つの、不完全なピースが集まってできている。
この世界のピースは果てしなく多く、限りがない。
無限に限りなく近いのだ。
完成したことがないこの世界のパズルは、歪。
誰かが言った。
「不完全だからこそ、この世界は完成している」と。
今、世界が少しだけ動こうとしていた。
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旧魔王軍の幹部である、デス・トーカーは歩いていた。
荒野を、平原を、森を、砂漠を。
雨に打たれ、強風に煽られ、雷がその身を襲い、砂が体を打ちつけても。
脚からは血が垂れていて、顔は苦悶の表情に歪んでいても。
その歩幅は変わらず、一歩一歩、前進していた。
その旅を始めてから、優に半年。
日が沈み魔物が湧き始める時間に、目的の場所に到着した。
天を貫きそびえ立つ、直立不動の古代遺産。名は召喚の塔。
外壁には幾何学的な文様が彫られていて、神聖な雰囲気を漂わせている。
デス・トーカーは、その建物に到着したことに安堵や感動を覚えていた。
だがそれを振り切って、塔の中へ続く扉を開けた。
静かに、冷静に、警戒しながら中に入った。
塔の内部は冷えていた。しもやけになりそうなほどまでに。
白い息を吐きながら、指を振る動作だけで体内の魔力を使って火を生み出し、種火のそれを背負っていた鞄から取り出した藁に移す。
部屋の中心部に薪をくべて、焚火を作る。
デス・トーカーは塔の入口である最下層。その中心で一晩を過ごすつもりだった。
「…………よかろう」
唐突にそう呟き、体に鞭打ち立ち上がり、魔力が解放された。
異空間に閉じ込めていたそれが突然現れ、ひんやりとした塔の床へ静かに着地する。
「召喚師よ、貴様のせいで我がこんな手間をかけなくてはいけなくなったのだ。絶対に成功させろ」
「……尽力します」
現れたのは、男だった。
黒髪、白い布を体にまとい、背には鞄。
特別といえる特徴はない。普通の人だ。
人間は無表情、気に入らないのかデス・トーカーはフンと鼻を鳴らす。
「寝る。明日に備えよ」
「……はい」
固い石の床に転がったデス・トーカーは、数分も経たぬ内に寝静まってしまった。
それを確認した人間は、静かに、だが急いで塔を登り始めた。
気付かれないように、ゆっくりと。
塔の内部は危険極まりなかった。
あるときは毒の矢が降り注ぎ、またあるときは不気味で道を塞ぐように巨大な肉塊が転がってきたり、魔物が数千匹いたり。
塔の頂上へは絶対に行かせないとばかりに、罠が仕掛けられていた。
それを人間とは思えない機敏さで回避し、倒していく召喚師。
魔物を殴る蹴る息を吐くだけで昏倒、粉砕、滅殺していく。
人外の領域へと足を踏み込んだその者を、魔人と互角以上に渡り合える者を、人は尊敬と畏怖の意味を込めてこう呼ぶ。
『超越者』と。
この者もその人外の一人であった。
数時間後。
塔の頂上へ辿り着いた召喚師は、感嘆の息を漏らした。
「ほぅ……」
綺麗な部屋だった。
床には石ではなく、布のような不思議なものが敷いてある。
そして部屋の中央に、目的の物があった。
それは台座に鎮座している球体。魔王召喚に必要な宝具。
圧倒的な存在感を放つそれは、部屋の中心で光輝いている。
「よし……」
それに歩み寄った瞬間、閃光。
目も開けられないほどの光が網膜を刺激し、反射的に目を閉じるも光は消えず更にその輝きを増していく。
腕で顔を覆い、光を視界から完全に遮断する。
その体制で何分経過しただろうか。
目がチカチカしていたのも治まり、もういいだろうとゆっくり腕を降ろす。
心なしか体が軽い。
いや、気のせいではない。体の感覚が狂っている。立てない。
「うぐっ……」
幸いにも床には敷物があり柔らかく、頭から倒れても怪我はしなかった。
腕を必死に動かして、床を押さえつけ、膝を立たせ、自らの胴体を宙に浮かす。
その状態からやっとのことで立ち上がれると、その顔は驚愕の色に染まった。
「なんだ、これは」
人間の召喚師の視点は、低くなっていた。
まるで子供の頃のように低い。
部屋の端にある姿見を見つけ、一目散にかけだす。
その途中で転んだが、そのまま這いずり、姿見に映し出された自分の姿を見た。
「……なんだこれは! どうなっている!?」
召喚師の体は、子供になっていた。
しかしそれは召喚師の子供の頃の姿ではなく、全くの別人。
しかもこの肌の色は魔人のそれである。
驚いたままそうして茫然としていると、階下から足音が響いてきた。
十中八九、旧魔王軍幹部『粉砕のデス・トーカー』だ。
「召喚師ィ! 貴様ァ裏切りおったなァ! 逃がさんぞォ!」
怒声が聞こえる。
まずい、この体では抵抗すらままならない。
一瞬で粉砕されてしまうだろう。
拙いと思いながら、這いずって隠れようとしたが遅かった。
開け放たれた扉に目を向けたまま這いずって移動していたが、もう遅い。
そこには汗を流し顔が真っ赤のデス・トーカーが。
しかし次の一声は召喚師を内心驚かせるに十分なものだった。
「そんな馬鹿な……なぜ魔王様の気配が、魔力が!? 裏切ったのではなかったのか!」
召喚師は心の中で、なぜだ、と思った。
自分は召喚をまだしていないと。
デス・トーカーの言葉に返事をする者はいない。
それも当然。この部屋には一人の少年が蹲って蠢いているだけだ。
「なるほど、召喚は成功したがなんらかの異常事態が発生し、魔王様がそのせいで幼体のまま召喚され、召喚師は反動で消え去ったというわけか……それなら納得がいく」
とんでもない勘違いだが、デス・トーカーの中では筋が通っている仮説だった。
床を這いずる召喚師の前で膝をつき、頭を垂れる。
「――今ここに魔王が降臨したことを世に知らしめる時である!」
デス・トーカーは少年、魔王に右の掌で触れる。
魔王の魔力を少量ながらも吸収し、自分の魔力を繋ぎにし、魔力の波動を塔の頂上から世界に発信させる。
そしてその瞬間。全世界がその魔力を受け取って理解した。
――新たな魔王が召喚された、と。
「この波動は――奴か。全ての王に集合命令を出さなくてはいかんな」
塔から一番離れた『希少板』の支配者は、その魔力が発信される前にいち早く察知し行動していた。
魔王を、止めるために。