風邪引き夜に雪スープ
ぐっと冷え込んだその日。深夜から明け方にかけて初雪が積もった。
「一日中、冷えたところで絵を描いていれば、誰だってそうもなります」
心底呆れたように、燕は吐き捨てる。目の前のベッドでは、顔を赤く染めた律子が横たわっていた。
けほけほと、盛んに咳き込む。かと思えば、寒そうに震える。
すっかり、風邪を引き込んでいる。
ベッドの前で腕を組み、燕は溜息を吐いた。
「だけど」
「言い訳は聞きません。寝ていてください」
「描き」
「描くことは禁止します。少なくとも……」
電子音が鳴り、律子がおずおずと体温計を取り出す。温い熱を持ったデジタル体温計は、38度の文字が光っていた。
「……熱が下がるまでは」
それをぱちりと容器に戻して、燕は加湿器を律子の枕元に置く。
途端、暖かい湿度と風邪特有のぬるい空気が混じり合った。
「いまは薬を飲んでとにかく寝ることですね。今夜も冷えますので」
燕は窓の外を見る。もうすっかり暗い。雪の気配がないが、風が強いのか時折木々が激しくたわむのが見えた。
……昨日、夜遅くに初雪が降った。初雪は積もらないものと思い込んでいた燕だが、不思議と昨日の雪は冷たく大地に降り注ぎ、朝には見事な雪原を生み出した。
窓を開ければ、目の前の家も大地も、電柱も、商店の屋根もすべて白い。あまりの白さに、目がくらむほどだった。まだ誰も起き出していないのか、不思議なほどに静かであった。雪が屋根を滑って落ちる、低い音だけが響いていた。
雪ですよ。と燕が言うまでもない。
目を離した隙に律子は外に飛び出していた。当然のように、数時間経っても戻らない。探しにいけば、彼女は傘も差さず公園のベンチで黙々と絵を描いていた。真っ白に染まる木を、遊具を、道を、雪の世界を。
白い雪を黒い鉛筆で描く。難しい技を彼女は難なくこなす。鉛筆がたどった跡は確かに雪の冷たい曲線を描いている。
無理矢理、家に引き戻せばすぐさま熱を出した。当然だ。あれほど冷え込む雪の上、何時間居たというのか。
「どこが痛みます」
「喉」
けほけほと乾いた咳をする律子の顔は赤い。
「あとお腹」
「お腹?」
「お腹が空かないの」
さも重要なことのように、律子が宣言する。朝に食事も取らず、ずっと描き続けた。いつもなら描き終わった途端に食欲が復活するはずが、今日はちっとも腹が空かないのだ。と律子は驚きに満ちた顔で言う。
「それは当たり前です。風邪を引いているんですから」
「でも、ホワイトシチューなら食べられるとおもうの、私」
「駄目です。あんな重い物」
白いからだ。と、燕は理解する。どうせ雪をさんざん見て、そこから食欲に直結したのだろう。つくづく、律子の食欲は色に支配されている。
理解はしたが、口には出さなかった。
燕が理解を示せば彼女は嬉しそうに微笑んで、結局燕が折れる羽目になるからだ。
「熱が下がるまでは、駄目です」
この部屋は、病人の香りがする。静かでほの暗く、熱を持った香りだ。
同じ香りをかつて、中学生の燕も嗅いだことがある。その時の思い出は、冷たく薄暗い自室と共に想い出される。
燕が中学生、冬休みの美術室。絵を夢中に描くうちに、夕方を越えて夜となった。
絵を描いている間には気付かなかったが、身体は芯まで冷え込んだ。当然、燕はその夜熱を出した。寝込んだ燕を呆れたように見ていたのは母だったか、父だったか。
体調を悪くした程度で、絵を描くのを止めるのか。吐き捨てるように耳元で囁かれた。それは嘲笑のようでもあったし、自分を否定する言葉であったような気もする。
ただ熱に苦しむ燕は、それに反論する余裕も無かった。何よりその言葉が燕の深いところを突き刺して、身じろぎもできなかった。
なぜ自分は倒れてもまだ描き続けなかったのだろうと、悔やんだ。悲しくて一人で泣いた。
湿気に似た熱の香りは、あの時の苦しさを思い出させる。
「いい加減、何度も言いますけど、律子さんはもう少し身体を大事にしてください……年なんですから」
「一言余計」
「食事を作ってきますので、寝ていてください」
けほけほと響く空咳を背に受けて、燕は病人の部屋を後にする。
「……白いもの。か」
白い物はホワイトシチューだけではない。病人にぴったりな白粥だって、ミルク粥だって、だいたい白い。
さらに言えば、勝手に風邪を引いた律子の我が侭に付き合う義理などどこにもない。
別に他の色であっても、とにかく風邪を治す食事であれば、それでいい。
しかし、燕の頭の中は白い料理が浮かんでは消えて行く。それ以外の色は、入り込まない。
(粥、粕汁、卵酒……)
ダイニングの机には、相変わらず律子が散らかした料理本が山と積まれていた。それは朝、律子が読みふけった形のまま放置されている。
雪の予報を聞いた昨夜、彼女は料理の本を読みふけっていたのである。
(ホワイトシチュー)
律子の読んでいたページはすぐに分かった。古いモノクロの料理本。最初のページにある、見開きのホワイトシチュー。
(ご丁寧に証まで付けて)
そのページはモノクロのくせに、妙になまめかしい。大きな鍋に、大きくカットされたニンジン、ジャガイモ、タマネギ、巨大な鶏のミンチボール。湯気さえ見えるような大きな写真が一枚。
背景には暖かそうな暖炉、テーブルには木の食器。アンティークな机が幸せの色に彩られている。
律子はそのページにしっかりと折り目を付けて、机に置いてあるのだ。雪のニュースから想像を広げたのか。燕に対する無言の要求か。
(相変わらず、律子さんは依存体質だ)
椅子に腰を下ろしてそのページをざっと眺めた後、燕は折れ跡を真っ直ぐに伸ばす。
「……さて」
そして静かに台所に立った。
「ホワイトシチュー!?」
たっぷりと大きなスープ皿に夕食を注ぎ、律子の枕元に届けると彼女は途端目を輝かせた。
病人とは思えないほどの腹筋で飛び上がると、早速皿をのぞき込む。
「雪が積もってるみたい!」
それは真っ白なスープ。その上に、さらにこんもりと、白い固まり。彼女は目を輝かせて燕とスープ皿を交互に見た。
「ホワイトシチュー作ってくれたの?」
「さあ、どうでしょう」
スープ皿からは、暖かい湯気が舞い上がる。真っ白なスープだ。
律子はそうっと、スプーンを差し込む。大事なもののように、おそるおそる。そして一口食べ、今度は目を丸めた。
「あ。違う。もっと優しい……」
燕も隣の机に自分のスープ皿を置いて、一口。それは、ホワイトシチューよりもずっと軽い。そのくせ、とろりと柔らかい。
ふわりと、甘い味わいが口に広がる。
そして、身体を芯から温める。
「大根おろしのスープです」
大根をたっぷりすり下ろし、少し濃い目に作ったコンソメの中でゆっくり混ぜる。それだけだ。混ぜるうちに、とろとろと柔らかくなる。
ただ時間を掛けて弱火でゆっくり混ぜる。ゆっくりと混ぜれば、不思議と蕩けるような味わいになる。
最後にその上から、少しだけ大根おろしをかけてやると、まるで真っ白いスープの中に雪が積もったように見えた。
「珍しいわ。はじめて、こんなおいしいスープ」
「風邪にいいんでしょう、大根は」
「鶏団子!」
スプーンの先に大きな固まりを見つけて、律子が子供のように喜ぶ。それは、山芋と鳥肉を柔らかく練った団子だ。ほんの少しだけ、加えた。
それはスープの白さを少しだけ、深くする。
「少しだけですけど」
「雪合戦の雪みたい」
柔らかい団子をゆっくりと噛みしめて、律子がしみじみ呟いた。
「ほんとうに綺麗」
「それ食べたら、ゆっくり寝てください」
「ねえ燕くん。私ね、はじめてなのよ」
スープ皿を両手で包み込んで、律子が呟いた。
しゅん、しゅん。と静かな部屋に加湿器の音だけが響いていた。これほど静かな家だっただろうかと燕は思う。
「弟子も、みんな、誰もが私にいうの。絵を描けって」
律子の目は、机の上に置かれたままのスケッチブックに注がれている。それは雪の公園が描かれていた。
スープを飲みこみ、燕は気まずく顔を俯けた。風邪は燕の古い思い出を刺激する。
「描くなって言われたのは、はじめてなの」
「……嫌だとは、おもいますが」
「違うの」
……が、律子の声は明るい。
「少し、止まってもいいんだなって、驚いたの」
熱はまだ高いのだろう。顔を赤く染めて律子は笑った。
「疲れたときは、体調のよくないときは、休んでいいんだなって思ったの」
燕の手が思わず止まる。
しかし、それと悟られないように、何事でもないような顔をして窓を見た。
室内の湿度が高すぎるせいだろうか、窓には水分が浮かんで何本もの水の筋を残して垂れる。その向こうの暗い闇には、また粉雪が舞っていた。
「また雪ですね」
「大丈夫。もう外にいかないわ……熱が下がるまでは」
ごちそうさま。と手を合わせる律子の顔色は少しましになっている。
「それまでは、描くのをお休みして、しっかり寝る」
「……そうしてください」
雪の音がどこかから聞こえる。また今夜も積もるのだろう。
「そうしてくれると、僕の心労も、少しは減りますので」
燕の体に悪霊のようにつきまとう焦燥感に似た苛立ちを、律子は意識もせずに剥がしてしまう。剥がされたあとに残されるのは、怒りと悔しさと、安堵だ。わかっていて、離れられない。
(大概、僕も依存体質だ)
自嘲の言葉はスープの味に溶けて喉の奥に流れていく。
風邪が移ったかのように、小さな目眩が燕を襲った。