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秋雨、もみじ、オムライス

 完成。と楽しげな声が響いたのは、秋も終わりの頃である。


 跳ねるような律子の声に誘われて目覚めてみれば、燕の目に夏の色が飛び込んできた。

 青である。緑である。美しく瑞々しい緑の葉である。それは木だ。巨大な柏の木である。

 葉の隙間から差し込むのは驚くほどに眩い、太陽の光である。葉脈が透けて、くっきりと美しい影を落とす。

 そんな、朝日を浴びた巨木が、燕の目の前にある。

 驚いて飛び起きると、冷たい風が身を打った。

「……寒い」

 暖かいと、そう思ったのは錯覚だ。

 夏の気温を錯覚させた柏の木はただの絵で、実際の季節は初冬。冷たい温度はしんしんと、身体を冷やす。

 寒さに震えた燕を見て、律子は無邪気に笑った。

「あら。起きたの燕くん。見て、絵が完成したのよ」

 先日から律子が打ち込んでいた柏の木が完成したのである。それは、圧倒的なボリュームで壁を埋め尽くしている。

 暖かな風が確かに、その絵から吹いた気がした。

 しかし、実際に吹き付けたのは全開の扉から吹き付ける、冷たい秋終わりの風である。

「こんな冷えた部屋で、夜通し絵を描いてたんですか」

「だって、換気しながらじゃないと、色が塗れないもの」

 手も顔も腕も、どこかしこも緑色に染めた律子が笑う。目の下にはクマが浮かんでいるが、妙に楽しそうだ。

 深夜から明け方にかけて、燕が眠る横で彼女は絵を完成させた。

 それは心地のいい疲労感だろう。それをみて、羨ましい。と燕は久々に、嫉妬した。

「それで、僕にこんなに布をかけて」

「だって風邪を引いたら可哀想だもの」

 コート、夏服、タオル、余った布団。燕のベッドの上には、布溜まりとなっている。家中の布を、燕の上に乗せたのだ。

 道理で、寝苦しかったはずだ。と伸びをする。

「そういうときは、僕を起こしてください。また何も食べてないのでしょう」

 律子は絵に夢中になると、食事も睡眠も忘れる。その細い身体のどこにそんな力があるのかと驚くばかりだ。 

 ようやく筆を手離した律子を見て、燕は床に降りる。ひやりと湿った空気が足から伝わった。耳を澄ませば、雨音が聞こえる。

 外は、秋冷えの雨が降っている。

「朝食を作ります。それを食べたら、少し寝て」

「寒いついでに、ちょっと、外にいきましょう、燕くん」

 燕の言葉を遮って、律子の声が跳ねる。

「雨ですが」

「きっと止むわ」

 楽しげに言って、へたくそなウインク。言い出したら聞かないその性格に、燕は溜息を返した。


 外は、雨がちょうど上がったところである。

 しかし、空は曇天。空気は湿り気を帯び、いつ降り出してもおかしくはない。そして、地面はじっとり湿っている。

 秋独特の、皮膚に粘りつくような雨であった。

「どこへ?」

「行きたいところがあるのよ」

 外に出るなり、彼女は率先して歩く。跳ねるように楽しそうに、彼女が歩くと大きなストールが左右に揺れる。

 赤と黄色で編まれたそのストールが、薄暗い空気の中で羽根のようにはためいた。

「転けますよ」

「転けても平気なところにいくの」

 歩きはじめて十分少々。住宅街を抜け、シャッターの降りた店の前を横切って、駅さえ越えて彼女が辿りついたのは線路沿いにある、大木な公園である。子供たちが遊ぶ広場を抜けて細道に入ると、途端に人が消える。

 右手には線路の枕木、左手は枯れかけた深い木々。細道に入ると不思議と、薄暗さはますます深くなる。

「ひどく暗い」

「そうね。雨の日は、あんまり人がこないのよ」

 まだ昼にもなっていないというのに、この世の終わりのように暗い。不気味さよりも、不安が募った。律子に声を掛ける間も無く彼女の足が砂利を蹴り上げ、走る。

 年だというのに、彼女の動きは俊敏だ。追いかけると、息が上がる。

「律子さん……」

 駆け出した彼女の肩を掴むと、律子はまるでワルツを踊るように優雅な動作で振り返る。

「ほら、見て」

 突然目の前が開けて、そして光が目を打った。

「まるで、黄色の絨毯」

「……これは」

 先ほどまでの、灰色に慣れた目に黄色が刺さる。いやこの色は、金色だ。黄金の色だ。

 児童公園ほどの広さの空間一面に、銀杏の葉が散っていた。

 一面、どこも隙間がないほどに積もった銀杏の葉。見上げれば、その場所は一面ぐるりと、銀杏の木が植えられているのである。

 まだ木にも葉が残っているが、今が名残と言わんばかりに降り落ちてくるのである。それは、燕が見上げている間も続いていた。

 朝に降った雨のせいか、葉はどんどんと降り落ちてくる。まるで黄金の雨だ。露をまとった葉が風が吹く度に宙を舞う。

「すごいでしょう。ここは穴場なの」

 律子は黄色く染まった大地を踏みしめて楽しげに回る。

 くるくる回る彼女の上にも葉が降り落ちて、雪のように積もる。

 周囲を見れば、数人の家族連れが同じように天を見上げていた。

 ただ、それだけだ。これほど絶景なのに、人が少ない。律子の言う通り穴場である。

「雨が降ると、あまり人もこないの。雨降りの時こそ、綺麗なのにね」

 さあ。と律子が手を差し出す。その手を取れば、律子はまるで燕をエスコートするように、引いた。

 地面を踏みしめると、水を含んだ葉が柔らかく足に絡む。まるで絨毯を践むような錯覚と、色による眩しさに燕は目を細める。

(……外から見て僕達は)

 どう見えているのか。

 ふと気になって顔を上げるが、やがて馬鹿馬鹿しくなり首を振る。

 誰も二人のことなど見ていないし、目の前の律子はただ楽しそうであるばかりだ。

「すごく綺麗。曇りの方が綺麗でしょう。グレイの空と、ふかふかの黄色の地面」

 律子の目はすでに絵を描きはじめている。彼女の頭には、描きたい構図が浮かんでいるのだろう。

「赤い紅葉もいいけど、私は銀杏の黄色が好き」

「あれだけ、緑色の葉っぱを描いておいて」

「緑も好きだけど、秋の深まる色も好きよ」

 雨がまた、はらりと降った。酷くなる前に帰りましょう、と誘うと彼女は満足したように頷く。

 このままでは、明日には銀杏の葉は全て落ちてしまうに違い無い。この絶景は、まさに今日が盛りである。

 しかしもう充分に満足したのか、彼女が銀杏を振り返ることはない。それが律子の冷たさであり、100名もいた弟子が居着かない理由なのかもしれない。と燕はそう思った。

 しかし律子はまるで子供のように、燕を見上げるのだ。

「ねえ、燕くん。今日の昼ご飯は」

「黄色い物ですね。たとえば……」

 聞かれなくても分かる。そして、二人の声がかぶった。

「……オムライス」

 二人同時に言ったその言葉は、この薄ら寒さを吹き飛ばすのに充分な力を持っている。


 

「……といっても」

 台所に立ち、材料を切りそろえる。全ての用意を調えておいて、燕は振り返って言った。

「僕はオムライスをあまり作ったことがないので、適当ですが」

 だから期待をしないでください。と、いう燕の言い訳は律子には届いていない。彼女はさきほどから、銀杏の絵ばかり描いている。

 だから燕は気にせず、フライパンにバターを放り込んだ。

 オムライスの元となるチキンライスに必要なのは、たっぷりのバター。卵にも、たっぷりのバター、そしてミルク。大事なのは、それだけだ。

 と、かつて燕に料理を仕込んだ女はそう言った。

 包めなければ乗せればいいのよ。と、女は気怠そうに煙草を吸い込み、そう言っていた。

 おかげで、燕はオムライスを包むことができない。

(チキンライスは、鳥肉と、タマネギ、ニンジン。最後に、少しのトマトジュースと、ケチャップ。それと少しだけマヨネーズ)

 チキンライスは少しべっとりと湿り気があるほうが美味しい。トマトジュースが白米を蕩けさせ、ケチャップの赤が米の色を染める。マヨネーズは隠し味。

 香りがたったそれを、大きな皿に移すと、真っ白な皿に赤い島が浮かび上がったように見えた。

(卵はたっぷり4つ。そこに砂糖と胡椒と、牛乳)

 軽く混ぜ、バターが踊るフライパンに投げ入れると白身が固まり、白いキャンパスに黄色の筋が描かれたようになる。それを切るように、混ぜる、フライパンの隅に寄せる。手早く形を整えれば、それで終わり。

 できるだけ、綺麗なオムレツの形に作り、先ほどのチキンライスに重ねる。崩れないように。そこだけ、気をつければもうそれでよかった。

「凄い!」

 いつの間に覗き込んでいたのか、律子が歓声を上げる。

「二つ作るのが面倒なので、取り分けて食べればいいかと思いまして」

「充分よ」

 大きな皿に、船のような形で盛られたチキンライス。その上には、今にも崩れそうな巨大なオムレツ。振れば緩やかにたわむ。

 オムレツの上に、ケチャップで静かに線を引いた。

「そういえば燕くんは、ほかの部屋を見た事がなかったわね」

 崩さないように、大事に皿を持ち上げた律子が、まるで大事な事を打ち明けるように燕に耳打ちする。

「別の部屋?」

「付いて来て」

 彼女が燕を誘ったのは、3階であった。それは、この家に来て初めて足を踏み入れた場所である。

 ここには、春の風景を壁一面に描いた春の部屋があった。そして恐らく、それ以外の部屋もあるはずだ。扉の数だけは多かった。

 しかし、住み始めて以来、燕はこの階に足を踏み入れていない。ここだけは空気がおかしいのだ。

 どの部屋よりも冷たい。人の気配がしない。律子自身も、あまり足を踏み入れない。

 だから二人の間で3階は話題に上らない。忘れ去られた場所であった。

「ここ、開けてみて」

 春の部屋の隣の扉を、律子は指す。両手の塞がっている彼女に代わり、燕がそっと押し開けた。

 鍵でも掛かっているかと思いきや、それは恐ろしく軽く開く。

「……これは」

 ある程度の覚悟は、あったはずである。

 春の部屋を見た時の衝撃を、燕は忘れていない。目の前を吹く桜の風まで感じる部屋だった。  

 しかしその覚悟は、秋の風に吹き流される。

「……これは」 

 言葉が出ない。目の前には、赤があった。黄色があった。紅葉の森である。目の前に、巨大な銀杏の木があった。それは先ほど見た、あの大銀杏である。

 巨大な木は、黄金の葉に覆われている。葉は大地にも降り注ぎ、そこは黄金に輝いていた。

 銀杏の周囲を囲むのは赤いカエデだ。葉が赤に、オレンジに、黄色に、何と美しいグラデーション。

 窓などないというのに、眩しい。顔を上げれば、天井に広がった紅葉は光の反射で暗く描かれ、まるでシルエットのようだ。その隙間から、光が描かれている。

 葉の縁だけが、赤色に輝いていた。

「凄い」

「秋の間っていうの。紅葉もほとんど終わってしまったから今日はここで、紅葉狩り」

 真ん中に置かれた机に、律子は皿を置く。地面に描かれた銀杏の絨毯の上、オムライスは不思議と似合っていた。

「あとは、夏と冬があるんですか」

「また見せてあげる。その時になったら」

「その時?」

「そう、その時にね」

 それがどの時か、彼女は言わない。問う前に、彼女の歓声によって、その空気は振り払われた。

 律子が、オムライスの卵を割ったのである。

 ぎりぎりの柔らかさで保たれていた卵が、とろりと崩れる。赤いチキンライスに、黄色の波が溢れる。赤と黄色が、混じり合う。甘い煙が鼻をくすぐると、律子の腹が盛大に鳴った。

「赤と黄色。この部屋にぴったりね。いただきましょう」

 大きなスプーンにすくうと、ねっとりとしたチキンライスに、まるで液体のような卵が絡むのである。口に運ぶと、甘さが広がった。

「美味しい……」

 吐息のように律子が漏らす。その声を聞いて、はじめて燕の口の中にも旨味が広がった。

 律子は頬を押さえて、うっとりと呟く。

「包んでないオムライスは、卵が柔らかくて……黄色も、濃いのね。なぜかしら」

 粘りを残したチキンライスが卵とよく調和する。湿った空気に似合うオムライスだった。

 そして、紅葉の絵に似合うオムライスだった。

 木の葉が動く音が聞こえた気がして、燕は顔を上げる。

 周囲は動かない。目をこらしても、動かない。当然だ。絵なのである。

「律子さんはなぜ、こんな部屋を?」

 ふと、燕は絵の中に小さな人影を見つけた。それは小さく描かれた、男と女の後ろ姿である。

 そういえば、春の間。桜の部屋の絵にも小さく描かれていた。

「そうね。閉じ込めたかったのかもしれない」

 律子はオムライスを食べる手を休めて、絵を見つめる。

「記憶にある風景よ」

 その記憶とは、なんの記憶なのか。

 言いかけた言葉を、燕はオムライスとともに飲み下す。

 やはり、絵から音が聞こえた気がした。

 それは、枯れ葉がこすれあい、舞う音に似ている。

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