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幸せ焼き芋、憎まれワイン

 ちょっと待ってね。もうすぐだから。が、律子の口癖だった。

 絵に夢中になっている時、声をかけると高確率でその答えが返ってくる。

 しかし、時には例外もあった。それは、外から焼き芋屋の音が聞こえたときである。


「あっ。お芋!」

 秋は特に空気が澄む。その澄んだ空気を切り裂くように、焼きいも屋の音が響く。ぴいぴいと耳に付く音だ。それが聞こえると、律子は筆を放り出してでも、外に駆け出していくのである。

 こんな時ばかり、彼女の耳はいやによく聞こえるらしい。パッと目を輝かせ、律子は立ち上がるなり筆を投げ出した。

「燕くん、私ちょっと行ってくる!」

「律子さん」

 どうせ間に合いやしませんよ。と言いかけた燕の声は律子に届かない。手にべったりと絵の具をつけたまま駆け出していった律子の背を見送って、燕はため息を吐く。

 目の前の壁では、柏の木が完成に向かいつつあった。幹は太く塗られ、緑は青々しく茂る。吹き付ける風さえ色がついたようだ。

 後少しで、燕の部屋の壁に柏の木が完成する。しかしそこに燕の姿は無い。燕の姿は律子のスケッチブックの中だけに、量産されている。

 燕はベッドに寝転がったまま、美しい木を見上げた。自分の姿がどこに入るのだろうか。自分ならばどこに描くだろうか、と考えて燕はその夢想を振り払った。

「……どうせ間に合いやしないのに」

 律子のことか、それとも自分のことか。

 呟いたあと、燕はそれを誤魔化すように台所に立った。


(芋など、わざわざ買いにいかなくても)

 燕が対峙するのは、巨大な段ボールに山と積まれた野菜である。

 にんじん、かぼちゃ、じゃがいも、ごぼう。

 数々の根菜類の隅っこに、さつまいもが、同じように山となって積まれている。

 赤紫に輝くそれを一つ、取り出して水でしっかりと洗う。巨大にねじくれ、ずっしりと重い芋だ。根も太い。自然の中で生まれた芋だ。ごつごつとした皮膚は大地の匂いがする。

 表面をしっかり洗うと、それをアルミホイルに包み、オーブンへ。

 温度は低温、時間はたっぷり90分。じじ、とオーブンに灯が灯る。じっくりと熱を帯び始めたそれをぼんやり眺め、燕は再び溜息を漏らす。

(どう消費しようか困るほど、あるというのに)

 先だって、律子の弟子がいつものように送りつけてきた段ボールである。

 北海道で農作を手伝っているというその弟子は、一枚の写真と一緒に野菜を送りつけてきた。

 広大な畑の真ん中、家族とともに両手を広げ笑う男が映っている。

 その写真を見て、絵を描けばいいのに。と律子は無邪気に言った。

 こんなに綺麗な場所にいるのだから、絵を描けばいいのに。

 そんな無邪気な言葉が、知らずに人を傷つけて来たことを彼女は知らない。しかしどれほど傷つけられても、彼女に惹かれる人間は多い。

「……おや」

 ぼんやりとオーブンの光を眺めていると、チャイムが鳴った。滅多にチャイムなど鳴らないので、燕は最初、それをチャイムとして認識することができなかった。

 様子を探るように、二度、三度。音はなる。ぶうぶうと無機質な音である。

 それは下のアトリエから響いている。 

「律子さん、お早いお帰りで……おや」 

 2階の扉を開けて階段を覗き込む。と、そこには律子の姿はない。代わりに、スーツを着込んだ男が一人、1階の玄関前に立っている。

 品のある立ち姿だ。真っ黒なスーツに、磨かれた革靴、なでつけられた髪。高級保険の外交員、と言われても違和感の無い出で立ちだ。

 ただ、目つきが少々鋭すぎる。

 彼は階段の上に立つ燕を見上げて、目を細める。 

「師匠はご不在ですか」

 律子の弟子の一人だろうか。贈り物は続々届くが、実在の人間としての存在を見たのは2度目だ。つまり、送られてきた写真と今、この瞬間。

 そして。師匠、という言葉の響きを耳にしたのは、今が初めてだ。 

 律子には弟子がいて、慕われている。当たり前だが、その事実を前に燕は少しだけ目眩を覚える。

「……残念ながら。先ほど出たところなので、あと一時間もすれば戻ると思いますよ」

 燕は壁に背を押し当てて腕を組み、言う。ひやりとした風が階下から吹き付けてくる。

 それは冬を予感させる風だ。

「出不精の師匠が珍しい。どちらへ」

「焼き芋屋の音を聞いて外に飛び出しました」

「でしたら、すぐ戻るでしょう」

「エンピツとノートをポケットに入れてましたから、恐らくスケッチに夢中になって、一時間は戻りません」

 燕のぶしつけな態度にも怒らず、男は声をあげて笑った。

「師匠の生き様を、よくご存じだ」

 笑うと顔の皺が深くなる。いくつくらいだろうか。律子より、5つ6つ、若いくらいだろうか。

 この男が絵を描くところが、どうにも想像できなかった。絵筆の似合わない男である。

「まあ今日は、贈り物を持って来ただけなので、代わりにこれを渡してください」

 男は足下に置かれていた紙袋を燕に差し出す。階段を下りそれを受け取ると、ずしりと重力が手にかかった。

 甘い香りも鼻につく。それは葉巻の香りである。

 男の身体は、ねっとりとまとわりつくような葉巻の煙に包まれている。

「数日遅れてしまいましたが、ボジョレーです。それと他のワインも少々……少し仕事で海外に出ていたもので、お渡しするのがいつもより少し遅れてしまったことを、お詫びください」

 燕はふと、台所に隅に積み上げられている数々の段ボールを思い出す。高級食材の詰まった箱には、生真面目な男の名前が書かれている。

 それは、ワインの詰まった箱にも描かれていた。

 綺麗だが、四角張った文字であった。この男か、と見上げると彼はあくまでも紳士的に微笑む。

「どうしました?」

「……有り難いですが、律子さんは酒を飲みません」

「知ってます。ついでに、貰ったものはけして捨てない……でしょう?」

 古いビルの階段には、電気が付いていない。昼とはいえ、薄暗い。冬に近い晩秋は、特に空気が薄暗い。

 男は燕にだけ聞こえるような声で、囁いた。

「……師匠の家に、私の贈り物が埋まっていく。それだけで、私は満足なのですよ」

 ぞくりとするほど冷たい声である。冬帯びた風が、二人の間を冷たく抜けた。

「君は師匠の、新しい弟子ですか。それともモデルさん?」

「さあ……どちらでも……」

 自分は果たしてこの家で、何者だろうか。そう考えて、燕は首を振る。ただの居候だ。居候と胸を張って言えるほど立派なものではないが。

 ただ、居着いているだけだ。

「住んで良いと言われましたので、ただ居るだけです」

「そうですか。羨ましい」

 彼は優しげだが、棘のある目をしている。

「あの男が……この世を去って、今度こそと思いましたが」

 最後に燕の顔を冷たく見下げて、そして顔をそらした。

「なるほど師匠好みの、綺麗な顔だ」

 ふい。と男は背を向ける。高そうな革靴が無機質な階段を蹴り上げ、去って行く。その音は、いつまでも響いているような、そんな気がした。



「燕くん、駄目だったわ。お芋屋さん、すごく早いんですもの」

 肩を落とした律子が帰宅したのは、燕が予想していた通り、ちょうど1時間と30分少し前のことである。

 しょんぼりと声に元気はないが、放り出したエンピツはすり減っているし、新しかったはずの小さなスケッチブックは黒く汚れている。

「どうして、お芋屋さんはあんなに急ぐのかしら。あんなに急ぐのなら、音なんか鳴らさなければいいのに」

「律子さん」

 燕はふと彼女に近づき、その手を取った。冷たい。 

 手を離さないまま、顎を彼女の肩に乗せた。

「……冷えてますね」

 燕の耳に触れた彼女の頬は冷たい。全身が冷え切っている。これほど冷え切っても、彼女は絵のことばかりを考えている。

 机の上にわざとらしく置いたワインの瓶には、気付くそぶりもない。

 彼女は尊敬を集めている。まるで信仰に似た尊敬だ。しかし、だからこそ律子には、誰も近づかないし、誰も側に寄ろうとしない。孤高だ。

 孤高の中で、彼女はこれほど無邪気に絵を描き続ける。

 恐らく、それを支えたのは噂に聞く夫の存在だろう。

「どうしたの燕くん」

「……いえ」

 律子はきょとんと首を傾げて、おかしそうに笑った。

「子供みたい」

「ええ、まだ子供ですから」

 苦笑して、燕はその身体から離れる。

 抱きしめることなどしていない。ただ手を取り、身を寄せただけだ。それは、かつてどこかで見た宗教画のようだった。

 フレスコ画のそれは、マリアに縋る男の絵だった。光に包まれたその美しい絵の中で、マリアは孤高であった。

「……あら? 良い匂いがする」

 律子はくん、と鼻を動かす。ちょうど部屋に夕暮れの日差しが差し込んで、空気が緩んだところである。

 同時に、オーブンから甘い香りが漂ってくる。それは夕陽の色に似た香りである。

「どうせ、あの動きじゃ、買いに出たところで間に合わないと思いまして」

「焼きいも!」

 オーブンが音を立てて止まる。用心深く、ホイルに包まれたそれを取り出すと、律子の目がパッと輝いた。

「すごい。家でも作れるの? すごいわ、燕くん」

「低温で、長時間かければ、まあ店のようにはいきませんけど、それなりに」

 真っ白な皿にホイルごと放り出す。赤紫の皮はますます濃く、赤い。気をつけてそっと割ると、真ん中からふわりと湯気が上がった。

「割って、燕くん、割って」

 身を乗り出した律子が、子供のようにはしゃぐ。

「黄色が綺麗。焼く前はそうでもないのに、焼いたらなんで、こんなに綺麗で深みのある黄色になるのかしら」

 さつまいもは、焼く前は情けないほど淡い黄色である。火を入れるだけで、化けるように美しくなる。 

 割った半分を渡せば、彼女はあついあついと喜びながら、かぶりつく。

 それはねっとりと舌に絡む、甘い甘い味がした。甘いだけではない。根菜類独特の、大地の味がする。大地の栄養を吸い取った重い甘さだ。

 繊維をかみ砕いて、どろりと甘いそれを飲み下す。官能に似た甘さであった。

 それを飲み込んだあと、燕はふと棚に並べたワインの瓶を見る。まるでコレクションのように並んでいる、音もなく静かに並んでいる。

 その瓶の向こうに、男の冷静な声が潜んでいるような気がした。

「そうだ、律子さん。今夜は、ビーフシチューにしましょうか」

「燕くんのビーフシチュー、おいしそう」

 巨大な焼きいもを相手に奮闘している律子は、燕の言葉にうっとりと目を細めた。

「濃厚で、熱々で。濃い赤の、綺麗なビーフシチュー」

「赤ワインを、たっぷり消費できますので」

 ついでに、ニンジンもじゃがいもも消費できる。

 そうと決まれば。と、燕は立ち上がり台所に向かう。

 そこは眩しいほどの夕陽の赤。目を細めて窓の外を見れば、どろりとした夕陽が、今まさに沈むところである。

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