思い出カボチャ、未来のスープ
ハロウィンの翌日は、毎年困るのだ。と律子が珍しく愚痴をこぼした。その理由を燕は、朝早々に知ることとなる。
「……なるほど」
早朝。燕は、部屋の惨状を見て言葉を詰まらせた。町に化け物が溢れたであろうハロウィンの翌日、律子の家はカボチャで溢れかえっている。
「これはひどい」
「昔ね、カボチャを描く事にはまったことがあって」
律子はソファに深く腰を落としたまま、困ったように首を傾げる。
この家のダイニングは、けして狭いほうではない。大きなソファ、大きな机。律子の持ち込んだ画板、これらをおいてもまだスペースがある……あったはずだ。しかし今は、足の踏み場がないほどに、カボチャに占領されている。
「ほら、カボチャって面白い形をしてるでしょ。だからカボチャを買ってきて、と言ったらね弟子のみんながそれぞれ沢山買ってきてくれてね」
大きなカボチャ、小さなカボチャ、細長い変わった形のカボチャ、まるで水滴のような形のカボチャ。
さまざまなカボチャが、宅配便の段ボールに、さらに段ボールから溢れて床に、机に、あちこちに、ある。
律子は丸いカボチャを手の中にいれて、いとおしげになでる。
「そのときから、毎年みんなカボチャを買うのが恒例になったの……それはみんな絵をやめたあとも続くようになって」
燕は部屋を見渡す。ジャック・オ・ランタンのように顔を刻まれたカボチャもある。どのカボチャも、きれいで傷一つない。作り物のように綺麗なのは、描かれるために選ばれたせいだ。
かつては、この部屋いっぱいに多くの弟子がいて、律子を中心に皆で絵などを描いていたのだろう。その馬鹿騒ぎは、今はもうない。
ただ、カボチャの真ん中に律子がいるだけだ。
「だからこの時期は、このカボチャまみれになるのよ」
今日は、昨夜のハロウィンを洗い流すような雨となった。冷えるのか、律子はストールを深くまとって、かぼちゃを抱きしめている。
「ほんと、困っちゃうでしょ」
といってもこの家にハロウィンなどというものはなかった。律子は朝から晩まで絵を描き、燕は部屋の片づけをして終わった。ハロウィンであったのだ、と気づいたのはこの大量のカボチャを見てからだ。
つまり、一日遅れでこの家にハロウィンがやってきた。
足の踏み場もないほどに積み上げられたカボチャを眺めて、燕はあきらめたようにため息を吐く。部屋の床を覆い隠すほどに溢れるカボチャは、かえってシュールだ。
「……地道に食べて消費していくしかないですね、この量は」
「久々に描こうかな」
うず。と律子が動いた。気が付けば、彼女の手にはスケッチブックと、鉛筆が握られている。見ていると、食指が動いたのだろう。彼女にとっては、食べることも描くことも同じこと。
「燕くんも描く?」
「僕は描きません」
「描けません、じゃないのね」
律子は時折、鋭い。子供のような無邪気な目から逃れるように燕は台所に立つ。
一つ、ほどよい大きさのカボチャを手に取った。
律子は構わず、スケッチブックをめくる。そして、何やら描き始めた。
「……これまでは、冬までかけてみんなに配ってたの。私、料理はできないから。でも今年はそんな心配なさそうね。燕くんは何でも作れるし」
「勝手に期待しないでください」
見つめられ、燕は苦笑する。
「なんでも、は作れません。レパートリーはありませんし、あなたがその辺に放り出している、料理の本を読むくらいです」
燕は机の隅を指す。そこには、律子の本がある。それは料理の本だ。料理などいっさいしない律子だが、不思議とこの家には料理の本が多かった。それも和食、洋食、世界の料理、古い本から新しい本までざっと100冊はあるだろうか。
どれも保存状態がいい。大事に読んでいたのか、折り目こそあれ汚れているページはひとつもなかった。
「私、はじめて料理の本をみたときから、料理の本は画集だと思ってたの」
律子が手も止めずに言う。
「はじめての料理の本はまだ私が子供の頃、両親が買ってくれたの。たぶん料理でもしろってことだったのね。もちろん白黒だったけど、すごく……なんていうのか、色が想像できるすごくきれいな写真ばかりで」
しゅ、しゅ、と律子が鉛筆を動かす音が心地いい。
それは、迷いの無い音だからだ。まるで電車の音のように、リズムを刻む。
「それ以来、料理の本を画集だと思ってたくさん買い集めたわ。でもだめね。作り方はみないのよ。だから、目ばかり肥えてしまったの」
律子の集めた本は、たしかにどれも美しかった。海外で買ったものもあるのだろう。見たこともない言語で描かれた、見たこともない海外の料理。食べたこともないのに、見ているだけで目の前に色が広がる。それは不思議なことに、味となって想像できた。
絵は、色は、味になるのだ。
「はじめて燕くんの料理を食べたときね、ああ。あの画集の料理が現れたんだって思ったの」
今日は朝から雨が降り続き、まだ昼にもなっていないというのに部屋は薄暗い。深秋独特のひやりとした空気が窓の隙間から滑りこんでくる。
ぱたぱたと、窓を雨が叩く。滑り落ちる雨の滴は、見るからに冷たい。
もうすぐ冬だ。冷えた部屋は、これほどカボチャが転がっていてもどこか灰色に感じられる。
「ねえ、燕くん。かぼちゃのきれいな黄色を、食べたいわ」
「心配しなくてもしばらくは食卓が黄色に染まりますよ」
カボチャの皮は固い。慎重に包丁をいれ、種を取るとできるだけ小さめのサイズに切り分ける。つくづく、かぼちゃ料理は男の料理だ。と燕は思う。外敵から身を守るかのように固い皮。それを切り分けるのは、女性には骨が折れるだろう。そのくせ、中身は女性好みの甘い味。
綺麗な黄色の断面を、燕はそっと撫でる。すでに香りが甘い。
それを水の入った鍋に放り込み、昆布の切れ端も一緒に投げ込んだ。
火をつけると、色の無い部屋に光が点った。
「カボチャの料理って何があるかしら。真っ黄色で、とてもきれいなとろとろのポタージュ。かぼちゃの繊維の、少しざらっと舌に残る感じ」
律子は歌うように、つぶやき絵を描き続ける。
台所に立つ燕の絵と、カボチャの素描。相変わらず、律子は描くのが早い。迷いがないせいだ。サッと描き、ページをめくる。そして、またそこに絵が生まれる。
燕は絵から目をそらし、鍋を見つめる。カボチャはぐつぐつに煮込まれた。伸びきった昆布を取り除くと、出汁と甘いカボチャの煙が鼻をなでた。
「あとはね、形を崩さずことこと煮込んだ、かぼちゃの煮付け。皮の緑と中の黄色」
鍋の中で柔らかくなったカボチャを丁寧につぶし、それを伸ばすように牛乳を流し入れる。そして、少しの味噌。
そうしておいて、燕は冷蔵庫を覗く。奥に、小さくまとめられた白い固まりが見える。
それを、ごく小さくちぎって鍋に沈めた。白い粒は、あっという間に沈んで消える。
「あとは小さなカボチャをくり抜いて、グラタンもおいしいわ。皮が少し焦げ色になって、あつあつのクリームをすくうと、中から黄色が見えるの」
「変わり種では、赤ワインでカボチャを煮込むというのもありますよ。赤と黄色で、それほどきれいな色にはなりませんけど」
燕は鍋の中を混ぜながら棚を指す。そこには、まるでコレクションのようにワインの瓶が並んでいる。
燕は酒に詳しくない。特にワインともなるとさっぱりだ。しかし、このワインは律子の弟子から届くものなので、けして安物ではないだろう。
問題は、律子がたった一杯のワインで酔ってしまう。ということだ。
そして燕も、酒を好まない。
つまり、この家に届くワインは消費されることなくただの棚の飾りとなっている。
料理に使うくらいしか、消費の方法がないのである。
「ワインも消費しないと、これ以上、じゃまですから」
「そうそう、ワインもボジョレーの時期とクリスマスにたんと届くのよ」
「……」
「ワインって、瓶がすごく綺麗でしょう?」
困ったわね。と言わんばかりに律子が笑う。困っていないような顔で。
そして、小さくくしゃみをした。
「冷えますか?」
「部屋が急にあったかくなったから……あ、いいにおい」
鍋の湯気は、部屋を暖かく包みはじめた。冷えた空気に、湯気はぬるく広がって部屋を生気あるものにする。
律子はスケッチブックを放り出して、燕の肩越しに鍋を覗く。
「すごく、きれい。ポタージュ?」
鍋には美しい黄色のスープが揺れている。どろりと重く、淡く黄色く、濃厚な。
真っ白なカップに流し込むと、黄色と白が綺麗に映える。
「和風ですけど……朝御飯代わりにとりあえず」
律子に渡すと彼女は目を輝かせた。
「お酒の味!」
わざと粗めにすりつぶしたカボチャのポタージュ。そこに落としたのは、酒粕だ。これもまた大量に届いた。粕汁でもいいが、カボチャのスープに沈めると濃厚で甘みが増した。
体を芯から、じっくり暖める。それは冬の食べ物だった。
「それくらいなら、酔わないでしょう」
スプーンですくって、口に運ぶと、濃厚な味わいが舌に触れた。
カボチャそのままの甘みだ。かぼちゃの色が、そのまま味になった。
「初めて食べたわ、この料理。すごいのね、燕くんは、私の知らない料理をたくさん作るから、生きた料理の本みたい」
驚くべき食欲で、律子はスープを食べ尽くしてお代わりをせがむ。
「はじめて燕くんをみたときに、思ったの」
熱々のポタージュに、一生懸命息を吹きかけて、律子は言った。
「ああ、なんて極彩色の人だろうって」
……はじめて、律子と出会ったのは夏の頃。まだ蝉が鳴いていた。公園の片隅。薄暗い夏の夕刻。
生きる気力もなく、ただ座っていた。
その時、燕には世界がモノクロに見えた。
しかし、同じ世界を律子は極彩色に見た。
「……極彩色、ですか」
「複雑な色よ。そんな色、私の人生で、二人目だった」
スプーンにたっぷりのポタージュをすくいあげて、律子はうっとりと目を細める。
「二人目?」
「夫よ……大昔の話」
すぐさまに二杯目を飲み干すと、三杯目をせがむ。美味しいと、微笑んだ。その顔から燕は目をそらす。
「美味しいわ。何杯でも食べられそう。酒糟って、暖めると甘くなるのね」
律子は無邪気にいうが、燕は言葉に詰まる。
そんな燕の態度に気付かないのか、気付かない振りをしているのか、律子はポタージュをスプーンですくう事に忙しい。
「……そうですか、ところでその夫というのは」
雨が唐突に強くなり、窓を揺らした。風も出てきたようだ。家の中は温かいが、外は酷く荒れている。
「凄い雨ねえ。外にスケッチいくの、今日は無理かしら」
「……そうですね」
「ねえ、燕くん。今晩は、これが食べてみたいのだけれど」
律子は積み上げられた料理の本をぱらぱらとめくり、その中の一つを指す。
それはカボチャのニョッキ。つるんと、可愛らしい黄色のニョッキが、クリームソースの中を泳いでいる。なるほど、律子が好みそうな色合いである。
「食べたことがないから」
「いいですよ」
「よかった。実は、そろそろカボチャが届く頃だなあと思った時から、お願いしようと思ってたの。あとはねえ……ちょっと待って、探す。すぐに探すわ」
料理の本を横目に見て燕はぼんやりと応える。一瞬、胸をよぎった感情が何であるのか理解する前に、全て雨音に持っていかれた。
複雑で重苦しく、燕の胸を塞ぐ。それは冬の寒さに似て、燕を不安にさせる。
それは、かつて絵から逃げたときに感じた閉塞感と同じである。