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極彩色の食卓

 極彩色はずっと燕を苦しめる存在だった。

 きっと、三年前までは。


 体が斜めになるような激しい坂道を、燕は軽快に上がっていく。

 坂道を登っても、もう息切れを起こすことはない。

 横道から馴染みの猫が顔を出して小さく鳴く。その顔を撫でてやると、猫は不思議そうに燕を見上げた。

 まだ時刻は早朝。船も着かないこの時間、海水の香る燕が不思議だったのだろう。

 昨日の夜、燕は取るものも取りあえず、電車に飛び乗ったのだ。高松までなんとかたどり着いたものの、時刻はすでに深夜を回っていた。

 当然船があるはずもなく、薄暗い船着き場の前で朝を待つ羽目になる。

 そんな燕を救ったのは一人の男だった。

 島の漁師が偶然、朝競りに出ていたのだ。彼の船に揺られ、燕は一日ぶりに島へと戻って来た。

 海水が染みた燕の靴を懸命に匂う猫を引き離し、燕は坂道の途中で足を止める。

(……ここだ)

 燕の眼の前にあるのは、今にも崩れそうな石碑だった。

 苔むした石碑の向こうは茂みで覆い隠されている。が、よく見るとうっすらと石段のような道が奥に続いていた。

 足を踏み入れただけで鬱蒼とした木々に囲まれ、夜のような薄暗さに包まれる。

 細長い雑草が腰の高さまで伸びていて、青臭い香りが体を湿らせた。

 雨水なのか山から湧き出した水なのか、スニーカーがあっという間に泥水まみれになる。

 それでも足を進めると闖入者に驚くように、虫が燕の足元を右往左往と逃げていった。

 草を手でかき分けるように進むと、やがて大きな木に道を塞がれる。

 それは大ぶりの枝が三又に分かれた巨大なクスノキだ。地面にはヘビのようにのたうつ根が張り巡らされていた。

 そんな木の根元には、いつか律子が夢の中で見たという大きなホラが開いている。といっても大きさは30センチ程度で、当然その中に入ることはできない。

(道はここで終わってる……けど)

 燕は木に触れて、根本のはびこる雑草を足で踏みつける……と、木の横に細い道が見えた。

 近づくと、枝の隙間から夏の光が差し込み額を焼く。普段なら鬱陶しい夏の日差しも今はありがたい。

 よく見ると、クスノキには多くの樹木が寄りかかっていた。台風などで倒れた木が左右に広がった枝でせき止められているのだ。

 一度深呼吸をして、燕は額に浮かんだ汗を拭う。クスノキの横から伸びた雑草の道は、奇妙な形で折れ曲がっていた……まるで誰かが進んだ跡のように。

 燕は迷わずそちらに足を向ける。

 5分ほどぬかるんだ道を進んだだろうか。やがて目の前に赤茶けた木造の建物が現れた。かつて校門だったと思われる門柱は崩れ、雑草の中に転がっている。

 錆びたそれを踏みぬかないように気をつけて、飛び越えた先は深い水たまりだ。

 膝まで泥水を跳ね上げたが、それでも燕は足を止めない。

 かつての小学校の壁はツタに覆われ、ガラス窓は全て割れていた。

 入り口は半分崩れ、台風の痕跡なのか倒木が開いた窓に突き刺さっている。

 赤い屋根も崩れ、可愛そうなほどに斜めに傾いていた。

「ここが……皆本さんの直していた……」

 皆本は小学校を数年前までは直そうとしていた。と田中は言っていたはずだ。

 しかし数年前に島を襲ったという台風で、ここは壊滅的な被害を受けたのだろう。入口のモップだけが、むなしく墓標のように立っている。 

 まっすぐ正面にある階段は崩れて、上の階の床がめり込んでいた。これでは皆本も諦めるはずだ。と燕は思う。

「……6年、3組」

 燕は手元の写真を見て安堵した。

 モノクロで判別が難しいが、写真に映る窓には木の幹が見える。目的の場所はきっと、1階だ。

 崩れそうな床に気をつけて進めば、廊下と入り口を仕切る扉が斜めに傾いていた。

 それをくぐり抜けると、腐った木と土と泥と、緑の匂いがする。

 廊下の左手に続く窓は割れていたが、おかげで風がよく通った。額に浮かんだ汗を拭い燕は慎重に足を進める。

「6年、1組」

 手前の教室にかけられた表札は傾いていたが、かろうじてその文字が読み取れた。

 ゆっくりと進んでいけば、隣には2つ目の教室。

 その奥は。

「……」

 壊れた教室をのぞき込み、燕は深く息を吸い込んだ。かすかに絵の具が香る。柏木は言っていた。50年経っても乾かない絵の具があると。

(ここにもきっと、乾かない絵の具がある)

 かすかな光に包まれた教室に一歩足を踏み入れ、燕は目を細める。床はくぼんで水がたまり、天井もたわんでいた。

 しかし、ここには色がある。

 壁に描かれた美しい黄色のフリージア。雨と湿度におかされてボロボロになっているのに、その黄色だけは今でも華やかだった。

 まるで花の揺れる音が聞こえたようだ。触れると露が指につきそうだ。

 教室の壁という壁に描かれた美しいフリージア畑に囲まれて、世界で一番黄色を愛する女性が座り込んでいる。

 その姿を見て、燕はゆっくりと息を吐き出した。

「迎えに来ました、律子さん」


「燕くんは、どこにいたって私の場所が分かるのね」

 電話越しではない律子の声は、実に2週間ぶりだった。手に怪我もなく、風邪も引いてはいない。その事実だけで今は十分だった。

 彼女はいつからここにいたのか、汚れた床に座り込んだまま、じっと絵を見つめている。靴はどろどろで、スカートも泥を含んで重そうだった。

「どうやってここがわかったの?」

「そうですね。頑張った、としか」

 律子の隣に立って、燕は苦笑する。

「もう朝ですよ。律子さんはずっとここに?」

「まあ。まだ1時間くらいしか経っていないかと思っていたわ。だってここは時間が止まっているようだもの」

 ……この島は時が止まっているようだろう。

 燕は今朝、皆本から聞いた言葉を噛みしめるように思い出した。

 

 今朝、揺れる船の中で燕は皆本から電話を受けたのだ。

 見知らぬ固定電話の着信にも驚いたが、それが皆本だったことにも二度驚いた。

『嫌だと駄々をこねていたが、それもどうも今日の夕方までだ』

 彼は診療所の主治医の命令で、今日の夕方の船で市内の病院へ移される。という。

『だから、最後の爺さんの戯言だと思ってしばらく昔話に付き合ってくれねえか』

 心配する燕の言葉など聞くこともなく、彼は溶けていく時間を惜しむように一方的に語り始めた。

 それは彼の抱えていた秘密の話である。

『この島はまるで時が止まっているようだろう。だから律子とのことも昨日のことのように思い出せるんだ』

 皆本は律子が幼い頃、三度だけ会ったという。

 もちろん父とは名乗れない。ただの絵描きとして彼は律子に出会った。

 一度目は言葉も交わさず、絵を描く姿を見せるだけ。

 二度目は向こうから近づいてきた。

 律子の母は彼女を絵の世界から遠ざけようとしたが、律子は密かに絵を描くようになっていたという。

 それを見た律子の両親は考えた。一度、皆本に彼女を任せてみようと。

『夏休みの一週間だけだ。俺がちょうど島で廃校の壁に仕事で絵を描いていたから、その手伝いという形で律子が来た。だから先に一枚絵を描いておいた……娘と競作なんぞ、この機会を逃すと二度と描けない。だろう?』

『食卓の絵ですね』

 燕が言うと、驚くように息を呑む声が聞こえた。

『……見つけたのは誠か。あいつはやっぱり才能があるな』

 そして彼は長い息を吐き出して、呟く。

『律子がどう暮らしているのかは探らないようにしていたんだ。でも、あの本を読んで……』

 燕は思い出す。20年ぶりに復活した伝説の画家、その記事を。

 記事には燕が修復師を目指していることまで描かれていたはずだ。

『お前と会ってみたいとそう思った。弟子のお前から、律子のことが聞けるかもしれねえ、なんて年甲斐もないだろう』

 はじめて出会ったときの優しい目つきを燕は思い出す。それは燕を通して律子を見ていたのだろう。早く帰れと口うるさく言っていたのは、燕に深入りさせないためだ。

 画家の父が贋作家など、世間に知られれば恰好の餌食になる。

 だから最初は燕に会うことだけが目的だった。しかし経歴書を手に入れ……律子の住む家を知ってしまった。

『手元にはあの食卓の絵があった。誠を追い出すために盗んでおいた絵がな……昔の俺ならそんなこと考えもしなかったが、焼きが回ったんだろう』

 そして、絵は律子のアトリエへと贈られた。

(もって、あと数ヶ月)

 皆本の口から聞いた言葉を燕は思い出す。

 そしてなぜ絵を贈ってしまったのか。その理由に気づいて胸が痛くなる。

『でもな、お前を呼び寄せる手紙を書いた時、酔っていたのは嘘じゃねえ。翌日捨てるつもりだったのもな。酔った勢いで出したのだと思い込んでいたが、昨日誠に聞いたよ。封までしていたから、急ぎと思って代わりに出した、とな。結局、お前は祐二の孫が、引き寄せたんだ』

 皆本は苦笑し、やがて激しく咳き込む。そして枯れた声で呟いた。

『……因果な話だろう』

『因果なんかありません』

 燕は近づいてくる花之島を見つめ、そう言った。

 桜は燕と律子に救われたと言った。

 燕は三年前、律子に救われた。前を向いて歩けるようになったのは律子のおかげだ。

『因果にはさせません』

 今度は燕が救う番である。


「……本当に、綺麗な黄色ね」

 律子の言葉が聞こえ、燕ははっと顔を上げた。

 ここは船の上ではなく、皆本と律子がかつて出会った廃校の教室。

 皆本が最後まで守ろうとした律子は背筋を伸ばし、この薄暗い部屋で黄色だけを見つめている。

「律子さん、約束しましたよね」

 燕は恐る恐る律子の隣に腰をおろした。

「もし次会うときに僕の悩みが解決していたら、律子さんの秘密を教えて下さいって」

 建物が軋む音が響く。

 台風の後から風はずっと強いままだった。

 しかし不思議と恐怖はない。この絵に囲まれている空間はけして崩れることがない。そんな気がする。

 燕は絵を見つめ、言った。

「皆本さんはお父さんですね」

 尋ねると、彼女は戸惑うように燕を見て頷く。

「……燕くんも、知っていたのね」

「皆本さんはどんな人でしたか」

「小さな頃に、何度か絵を教えてくれた人。親は親戚の叔父さんと言ってた。でも子どものときから疑問に思っていたの……この人はもう一人の私なんじゃないかしらって」

 ボロボロの壁に手を置き、律子は目を閉じる。

「でなければ、絵を見てこんなに泣きそうになんてならないもの」

 燕は大事に抱えてきた鞄から食卓の絵を取り出す。それを見て律子の目が丸く開かれた。

「まあ。持ってきちゃったの」

 懐かしそうにそれを撫でる。つたない絵をなぞり、微笑む。

「このときね、嬉しすぎて熱を出したの。筆を生まれてはじめて使ったものだから。せっかくの一週間を熱のせいで寝て過ごすことになって、それは悔しくて。今でも夢に見るくらい」

 律子は燕を見上げて、弱々しく微笑む。

「時々思い出すことはあった。あの人は結局、誰だったんだろうって。この間、この絵を見つけたの。ねえ、燕くん。時間の経った紙って美しいでしょう。ずっと見つめていたら、このドアノブの線を見つけたの」

 彼女はきっとこの裏に絵があることを知っていたはずだ。

 額縁から外し、裏を見た。そして想像通りのものがそこにあった。

「でも、この絵と皆本さんを繋げるものなんて」

「燕くん。大人になるってね。子どもの時よりズル賢くなる代わりに、子どもの時の可愛い妄想を打ち消してしまうことなのよ」

 律子はそっと、絵の下を指す。そこには薄い文字が見える。まるで図形のように描かれたそれはサインだ。

 薄い色なのは、律子の絵がまだ完成していないからだ。

「きっと子どもの頃なら、このサインを見て色々妄想したでしょうね。もしかすると絵の神様なのかしら。なんて……でも今なら何でも調べられてしまうから」

 今の律子にはサインの持ち主を探し出すだけの伝手もある。サインが皆本のものだとすぐに分かったはずだ。同時に彼が贋作事件を起こしたことも。

 律子は好奇心旺盛でもある。なぜ皆本が幼い律子に絵を教えてくれたのか、調べたはずだ。

「もう両親はなくなってしまったけど、母方の叔母さんはお元気なの。どうしても知りたいって駄々をこねたら、やっと教えてくれた」

 それは律子の両親が隠して持っていった、家族の秘密。

「……あの優しい人はもう一人の私じゃなかった。神様でもなかった」

 律子の指先が震えているのを見て、燕は絵を伏せる。

 この絵は、今の律子には刺激が強すぎる。

「でも本当のお父さんだとしたら、なぜ姿を消したのか分かるわ」

「律子さんのため、ですね」

 燕が呟くと、律子は頷く。そして乾いた手で燕の手に触れた。

 いつもは温かい手なのに、今日は温度がない。まるで陶器のような手のひらだった。

「律子さん、なぜ居なくなったりしたんです」

「そうね。理由はいっぱいあるけど……きっとお父さんと同じ理由」

 律子の言葉に燕は唇を噛みしめる。その言葉を燕は薄々想像していた。

 律子と燕が師弟関係であることは、すでに世間に知れ渡っている。そんな律子の父が贋作家であると分かれば世間はもっと騒ぐだろう。 

 その風に燕をさらしたくないと、律子は考えるはずだ。

 しかし律子がそんな事で心を痛めたことを、燕は悔しく思う。

「……僕はずっと、あなたの絵になりたかったんです」

 燕は律子の幼い絵にふれて、目を閉じた。

 出会いは三年前。ただただ苦しく自暴自棄の時だった。

律子に出会い、律子が描く自分の姿にさえ嫉妬した。彼女の手によって、色づいた世界に落とし込まれる自分がうらやましかったのだ。

この人の絵になれたら、苦しみを味わわずに済むのではないか。そんなことを本気で考えた。

「燕くんは絵じゃないわ」

「あなたが変えてくれたから」

 驚いて抗議する律子に燕は微笑んでみせる。こんな風に笑えるようになったのも、律子のおかげだ。

「あなたのおかげでようやく人になれました。だから僕は外野から何を言われても気にもならないんです。あなたが悲しまなければそれでいい」

「でも燕くん」

「律子さん、絵は嫌いですか」

 ふと問いかけると律子の眉が揺れた。それはいつか、律子が燕に投げかけた問いだ。

 いつもは手にしている筆もスケッチブックもない。それを忘れるくらい必死にここまで駆けてきたのだろう。

「絵を描くのは……好きよ。だって、今も燕くんのその顔を、描きたくてたまらない」

「僕が料理を作って幸せでしたか」

「……幸せ。だって燕くんの料理は美味しいもの」

「僕も律子さんに作れるのは幸せです。律子さんは描いて、僕は作る。それでどっちも幸せになれる」

 燕は立ち上がり、食卓の絵を鞄に片付けた。そして律子の手を引っ張り上げる。

「あなたにしかできない方法で、皆本さんを幸せにしませんか」

「でも、それは、多分駄目なことで……」

「誰が駄目だと言ったんですか? 神様ですか?」

 戸惑う律子の目が、驚くように丸く見開かれた。そして彼女は燕の手を強く握りしめる。

「……誰も駄目なんて、言ってない」

 彼女の手はもう、熱が通っていた。


「言葉が出ないわ、燕くん」

 狭い公民館に律子を誘うと、彼女はまるで溺れるように呟く。

 目の前に、車椅子に腰を下ろした皆本がいる。

 隣には誠。そして誠の父と、大悟もだ。

 公民館の部屋を美術館にするという計画は粛々と進んでいたのだろう。壁には色とりどりの絵が飾られている。

 煌々と白い光の中に置かれた絵の数々は、まるで色彩の洪水だ。

 戸惑う律子を前に押しだし、燕はイーゼルに食卓の絵を飾った。

 ここに到着する前に立ち寄った工房で、絵の具も筆も必要な物は全て調達してある。誠にも説明し、皆本を不意打ちで連れてきてもらったのだ。

 皆本は突然現れた律子を見て、声をかけることもなく顔を伏せた。

 車椅子を掴む指が震えている。今にも逃げ出しそうな皆本の腕を、誠がしっかりと掴んでいた。

 美しく直された絵。その真ん中に置かれた未完成の絵。それを中心に向かい合う皆本と律子。一見すると異様な風景だ。

 誰も声もなく、音もしない。

 ただ色だけがある。

「燕くん、なにを言えば……」

「律子さん。得意なことをすればどうですか」

 戸惑う律子の背を押して、燕はその手に筆を握らせる。パレットと絵の具を用意すると律子の目の色が変わった。

 描きかけのハンバーグを愛おしそうに撫でて律子は呟く。

「ヘンテコでぐちゃぐちゃで可愛い……私の絵、お帰りなさい」

「祐二だよ」

 そんな律子の姿を見て、はじめて皆本が口を開く。

「律子の描いた絵を見て、最初に褒めてくれたのは祐二だったよ」

 祐二。その響きを聞いて誠たちの肩が揺れる。

 立ち去ろうとしていた誠の父も、足を止めてこちらを見ている。

 皆本は誰に言うでなく、ぽつりぽつりと呟いた。

「もう50年も前かな。この島であいつと出会ったんだ。年は離れてたが、気があった。あいつは俺のやらかしたことも、気にしちゃいなかった……ああもう50年も経つのか」

 皆本の濁った目の向こうに、過去が見えているのだろう。懐かしそうに、彼は肩を揺らして笑う。

「祐二のやつに娘の絵だといってこの絵を見せたらな、いつか絶対に続きを一緒に描いて完成させろと。声がかけにくいなら俺が言ってやると、そう何度も言ってくれた。その頃には俺は爺さんだ。筆も持てねえよと言ったら、娘さんに介助して貰えばいいなんて、あいついい加減なことばっかり言いやがって。ずっと、冗談が好きなやつだった」

「皆本さん……」

 大悟が一歩、前に出た。

「父と……友人だったのですか?」

「あいつが描けなくなったのは、いつからだろうな……きっと、ずっと悩んで、とうとう決壊したのが20年前だ。深夜に電話をかけてきてな」

 皆本は覚悟を決めたように大悟や誠、誠の父を順番に見つめる。

「どんどんと筆が鈍っていたのは知ってた。悩んでることもな。それなのに個展を開き新作を作ることになった。画家人生の集大成だ。ただ新作が描けない。何度も描いて破いて捨てて、筆も握れないと……悩んで、悩んで」

 燕の心のどこかに痛みが走る。思うように描けない苦しみは、経験した人間にしか分からない。

 皆本もその経験をしたのだろう。だから親友の苦しみが分かった。

 ……分かったからこそ、描いたのだ。親友の贋作を。

「だから俺は、間違った手伝いをした。頼まれてもやっちゃいけないことだ。頼みなんぞ断って、思い切り叱ってやるべきだった」

「ねえ」

 律子は震える手で、皆本の手を握りしめた。そして自分の右手に重ねる。

「この時、私ね。描き切れなくてすごく悔しかったことを思い出したの。その祐二さんという人の言うとおりだわ。一緒に描きましょう」

 車椅子を押して皆本を絵の前に誘導する。パレットを用意するのは律子だ。

 腰を曲げ、目線を皆本の高さに合わせ、律子は歌うように言った。

「まず私が描くわね。キュウリだけのサンドイッチ。あとはサツマイモの刺さったビーフシチュー。そうだ、ふかふかして大きなスコーンに、赤いイチゴのジャム」

 律子の手が動くと絵が生まれた。それは真っ白いサンドイッチだ。間にみずみずしいキュウリが輝いている。

 黒々と輝くビーフシチューにはサツマイモが黄金の輝きが添えられた。

 生み出される絵はどれも温かい。

 燕は生まれていく絵をじっと見つめる。誠たちも驚くようにぽかんと口をあけたまま。

「カレーも、そうね、いつもの茶色いのじゃなくってミキサーで混ぜるのよ。色んな色が混じって、とても深い色になる」

 律子は皆本の手に筆を握らせた。

 その上から自分も手を重ねて、キャンバスに向き合う。

「最後は一緒に描きましょう」

 息を吸い込み、彼女は皆本の手を支えたまま筆を動かした。

「最後にここへ乗せるのは、フレンチトースト。チーズと塩味で、あったかくて美味しいの」

 食卓いっぱいに絵を描いた律子と皆本の手は、様々な色に輝いている。

 黄色、赤、青。まるで花が咲くように、同じ色に染まっているのだ。

 皆本は震える手で、絵にサインを入れた。律子のその隣にサインを添える。

「ねえ、この絵にタイトルはあるの? 完成したら決めようって、そういう約束だったわね?」

 そして律子は皆本を見つめる。

 その顔はまるでほんの小さな子どものようだ。

「そうだな。俺は約束を破らない」

 皆本も微笑む。その顔にはもう苦しみの色はない。

「もう決めてるの。いっせーので。で言うのよ」

 律子は筆を置き、一歩絵から下がった。

 幼い頃の絵は手直しをされ、その隣には様々なごちそうが並ぶ。

 黄色のフリージアの上、大きな食卓には、今や世界中の色が渦巻いているようだ。

 律子は極彩色の手で、皆本の手を握りしめた。

 そして二人は顔を見合わせ、同時に口にする。

「……極彩色の食卓」

 はらりと、律子の目から涙が一粒散った。それは皆本の手のひらの上で砕ける。

 皆本は律子の頭をそっと抱きしめた。

「お嬢さんにはこんなキャンバスじゃもう、小せえな」

「そうね。あなたが言っていた通り、もう天井にまで描くことができるのよ」

「大人になってよかっただろう」

「……ええ、お父さん」

 律子はまるで子どものような顔で、素直に頷いた。


 最終の便で市内の総合病院へ向かう……皆本がそう言ったのは、絵が完成したあとのことだ。

 律子も燕も東京に戻る。そのついでに病院へ送ることにした。

 フェリーはいつも通り船着き場に到着し、タラップが下ろされる。いつもと同じ乗降作業の中、誠がわざとらしく口を尖らせたまま、皆本の前に立った。

「師匠。贋作のこと、難しくてよく分からなかったけど、結局はおじいちゃんのさ、スランプ救ってくれたってことだろ?」

 大悟も誠の父も、皆本の話を聞いたあとはまるで毒気が抜けたような顔をしていた。

 それでも、誠の父が息子の肩を抱きしめているのを見て燕は安心した。

 この親子は、まだ救われる。 

「ありがとう、師匠」

「……誠、工房にある絵の配達を頼めるか。終わっている絵が、何枚もあるんだ。あと、遠山のお嬢さんに絵を送り返す作業もな」

「え?」

「こういうのは一番弟子に頼まねえとな」

 皆本の言葉に誠の顔に赤みが指す。唇が震え、やがて彼はいつものように偉そうに胸を張った。

「そうだよ。モヤシの燕にも、帰ってこない青よりも、俺が一番役に立つもんな。一番弟子だもん」

 飛ぶように島へ駆け戻っていく誠を見て、皆本は穏やかに微笑んでいる。数日前より老けたようだが、その表情はこれまでの中で一番穏やかだ。

 続いて彼は船の甲板で海の絵を描く律子を見つめた。

「みんな若いもんだ」

「皆本さんも若いですよ。俺はその年になって絵を直せる自信がありません」

「コツは思い出を作ることだ。年を取るとな、思い出で生かされる。それが力になる」

 皆本がいつものようにニヤリと笑う。と、船が揺れて出航を伝えるアナウンスが流れた。

 頬に当たる風は強いが台風ほどではない。波も穏やかで、秋の気配がある。

 皆本は涼しい風に気づいたか、心配そうに律子を見た。

「そろそろ律子に部屋の中へ入るよう言ってやってくれ。あいつはすぐに風邪をひくから」

 見ると絵を描く律子の周りには多くの観客が集っていた。

 律子は皆本と燕に気がついたのか、手にしたスケッチブックを開いてこちらに見せてくる。

 皆本の工房にあった大きなスケッチブックは、偶然にも律子のお気に入りのブランドと同じだ。

 いつもの感覚で描いたのか、短時間の間に海も島も空も全てが描かれていた。

 そして、皆本と燕の絵も。

「皆本さん。俺の台風は去りました」

 燕は美しいだけの海を眺めて呟く。

 燕の中にあった台風は荒れに荒れて、去った。 

「奇遇だな、俺もだよ」

 残ったのは、ただ美しい極彩色だけである。

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