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孤独の夕陽ミルク

 オレンジ色の夕陽がじりじりと窓から差し込み、部屋を薄暗く染めている。

 いつもならその色を見て歓声が聞こえるはずだ。

 いつもなら絵の具が香り、まるで空をそのまま映し出したような絵が描き上がるはずだ。

 そして、それを燕はすぐ近くで見ているはずだった。

 しかし今、夕日は描かれることなくあっけなく沈んでいく。

 燕は誰もいない家に足を踏み入れて、ただ呆然と暮れる夜を見つめていた。


 柏木の電話を受けた後、燕はまっすぐ港へ駆けたのだ。

 なかなか来ない船を待ちながら、燕ははじめて自分が律子からひどく遠い場所にいる。という事実に震えた。

 昨日の柏木は何度聞いても「先生が消えた」としか言わなかった。彼にしては不明瞭な言い方だ。

 その後、細々伝わる状況を組み合わせて分かったのは、律子が2日ほど前から家に帰らないという最悪の事実だった。

 最初に異変に気付いたのは桜だという。

 カルテットキッチンへ食事に行く……そう言っていたのに、律子は姿を見せなかった。

 律子が行き先を告げず出かけるのは珍しくない。しかし彼女はけして約束をやぶらない。

 心配した桜が家に行くと鍵が開いていて、声をかけても反応がない。そこで彼女は常連になっていた柏木に連絡を取った。

 柏木も当初は「スケッチにでも行ったのだろう」と気軽に構えていたらしい……律子の家に来るまでは。

「なるほど」

 燕はリビングに行き、呟く。柏木の焦った理由が床に落ちていた。

 それは律子愛用のスケッチブックと筆記用具のセット。近くの自動販売機に行くときでさえ、彼女は絶対にこれを手放さない。

 スケッチブックを拾い上げると、最初のページに美しい海の風景が広がっている。青い海、白いさざ波、遠くに見える緑の島影に赤い船。

(……島に行った日に俺が電話で伝えた風景だ)

 2週間前、確かに彼女はここに座ってこの絵を描いていた。

 燕はスケッチブックをひっくり返す。と、隙間に挟まっていたチラシが床に落ちた。

 それは先日の写真に写っていたトレーラーだ。竹林律子個展『ホーム・スイート・ホーム』。

 まだ作成中なのか、絵が掲載される箇所はぽかりと空いていた。それがまさに今のこの家のようで、燕の背中に冷たい汗が流れる。

 スケッチブックもトレーラーも空白を残したまま、持ち主だけがそこにいない。

「……律子さん」

 燕は無意識にスマホを取り出し律子にかける。

 しかし聞こえてきたのは本日数十回目になる『おかけになった番号は電波の届かないところにあるか……』の無情なアナウンス。

(律子さん……)

 探しに出ようとして、燕は足を止めた。

 柏木から命じられたのは留守番役なのだ。

 すでに律子のお気に入りであるパン屋も公園も喫茶店も、そして彼女のかつての夫の墓さえも。全て探索は終わっている。

 これ以上探しに行く場所がない、という事実が燕を絶望させた。

「律子さん、どこにいったんですか」

 焦れる気持ちを持て余し、燕は床に座り呟く。

 会いたい。と燕は願う。言いたいことは山のようにあった。

 何よりも皆本のことを伝えなければならない。

「……皆本さん……」

 燕はポケットに入れたままになっていた、律子の写真を引っ張り出す。

 ここに映るのは律子の両親だ。しかし彼女にはもう一人父がいる。

 黙っていれば、律子は平穏に過ごせるはずだ。優しい両親に育てられた竹林律子として。

(それでも)

 燕は写真を撫で、そっと机の上に置いた。

 皆本に会うか会わないか……それを決めるのは律子である。

 しかし律子がいないのであれば、どうしようもない。

(必ず律子さんを連れていくと約束をしたのに)

 律子のことは心配ない、と燕は皆本にそう言い切って島を出たのだ。

 皆本は返事をしなかったが、今も島で燕の連絡を待っているはずである。

「律子さん何があったんですか」

 燕は1分ごとに律子にかけ、柏木にかけた。

 桜にも夏生にも、思いつく限り知り合い全員に電話をかける。しかし誰にも繋がらない。ただ電池の数字が減っていくのが、痛々しい現実として燕の心に傷をつけた。

「……律子さん」

 落ち着かず、燕は台所に向かう。と、そこにはフライパンが出しっぱなしになっていた。

 シンクには大きな皿。何を食べたのか、パンくずとミルクの跡が残っていた。

(腹が減っては戦はできぬ、か)

 大悟の言葉を思い出して冷蔵庫を開けると、冷たい風が燕の顔を撫でる。いつもなら心地よく感じるというのに、今は不思議なくらい何も感じない。

 真っ白な光に包まれた冷蔵庫には、いくつかの食べ物が転がっている。

 牛乳、バター、野菜が少々。カルテットキッチンのロゴが入った小さな袋は、桜が差し入れしたものに違いない。

 光が強すぎるせいか、全てが白味かかってみえる。

(ムンカー錯視……)

 燕は牛乳パックを手に取り、そんなことを考えた。周囲の色にひっぱられ、別の色に錯覚する。それがムンカー錯視だ。

(俺も、そうだ)

 以前、田中は燕のことを明るくなったと言った。

 確かに最近はバイト先でもうまく接客をこなせている。人と会話をすることも、苦でもなくなっている。

 ……だから燕は勘違いしていたのだ。自分が明るく、まっすぐに立てる人間だと。

 しかしそれは気のせいだ。律子という明るさに燕の色がごまかされているだけだ。燕の性格は、あの水族館の日から一つも変わっていない。

 燕は牛乳をカップに注ぎ、レンジにかける。

「……あ、これは……」

 レンジの隣に見覚えのある丸い瓶を見つけ、燕は思わず手を伸ばした。それは律子が自慢そうに写真を送ってきた瀬戸内みかんの蜂蜜だった。

 とろりと夕暮れ色に輝くはちみつを燕はホットミルクに落とす。ゆるゆると沈むその色は美しい。しかし律子だけがここにいない。

(前にもこんなことがあったな)

 燕は思い出す。三年前、律子が燕を置いて夫の墓参りへ出かけた日だ。あのときも一人きりの空間が恐ろしかった。

 しかし今はあのときより、ずっと恐ろしい……帰って来る保証がどこにもないからだ。

 燕はホットミルクを持ったまま、ふらふらと3階へ上がった。そこには4つの部屋がある。

 ここは律子の描く、四季の部屋だ。

 彼女はかつてこの場所に、自分の過去を閉じ込めていた。

 今は過去の絵は全て塗りつぶされ、燕と過ごす四季が各部屋の壁に描かれている。

(春の部屋。夏の部屋)

 桜が舞い踊る春の部屋をのぞいたあと、続いて燕は夏の部屋を開ける。

 ここにも当然、律子はいない。

 燕は部屋の真ん中に座り、温くなったホットミルクを口にする。考えてみれば島を飛び出して今まで、何も口にしていなかった。

 乾いた体の中、ミルクがゆっくり染みていく。少し酸味を感じるはちみつミルクが体の芯を暖めていく。

(……あったかい)

 燕ははじめて、顔を上げた。

 この間までは途中までだった夏の部屋にも、今は絵が描き上がっている。

 ここに描かれているのは喫茶店だ。

 壁の中央には白黒のピアノ。そこに座る少女、ヴァイオリンを弾く少年。それを見つめる律子、キッチンで何かを作る燕。

 窓から差し込むのは、黄金色の光。むっとこもるような、夏の気温がここにあった。

 その絵に触れた瞬間、燕のスマホから柔らかい音楽が鳴り響く。

「燕さん、もしかしてもう、島からこっちに?」

 ……が、聞こえた声に、燕は落胆の声をぐっと押さえた。

「ああ今、ちょうど家についたところだけど、やっぱり律子さんは」

「はい。まだ……でも授業が終わったから、夏生と二人で駅の向こうの商店街見てきます。前、律子さんが行きたいって言ってたお菓子屋さんがあるんです」

 聞こえてきたのは桜の声だ。隣で夏生もいるのか、二人の息遣いが聞こえる。

「20分でいって帰れるって燕にいっとけ」

「……ってことです」

 桜の声にも夏生の声にも、どこか無理をした明るさがあった。

 高校生を引っ張り回している事実に燕はため息をつく。

「ありがたいけど、もう暗くなるから、帰ったほうがいい。行くなら代わりに俺が行くから」

「嫌です」

 燕の言葉を桜の強い声が遮り、燕は思わず声が詰まった。

 こんなはっきりとした言葉を使う少女ではなかったはずだ。

「燕さん、私たち手伝いますから」

 いつもあたふたと、困ったような顔をする少女である。強い言葉なんて使えない少女だ。

 それが今、これまで聞いたこともないような、はっきりとした声を響かせている。

「桜、でも」

「今、遠くで雷が鳴ってます。多分、あと一時間くらいで雨が降ると思います。でも私平気なんです。二人のおかげで」

 桜はかつて、雨を恐れていた。雨が降ると嫌なことが起きる。そう信じていたからだ。

 しかし律子と出会い、少女は雨を克服した。

「私、二人にお礼がしたいんです」

「俺は……何もしてない」

「してます。燕さんの作るご飯はなんていうかすごくて。私も助けられたし、それに律子さん、いつもいうんです。燕さんのあれが食べたい、これが食べたいって。多分一食一食が全部思い出に繋がってて」

 燕はふと、壁を見る。壁の端っこあたりには、律子の落書きが残ってた。サンドイッチ、カレー、ポタージュ……燕の作った料理の数々。

「だから律子さんも、燕さんの料理で個展をやるって」

「桜っ! バカっ」

「あ! ごめん! 言っちゃった!」

 個展の響きに燕は硬直する。

 と、内緒の話だったんです。としおれたように桜が呟いた。

「実は律子さん、周りに個展を勧められてもずっと断ってたんです。でも私が律子さんの前でピアノの練習をしたとき、それを聴いて個展のタイトルにしたいって言い出して……」

「曲?」

「ホーム・スイート・ホームっていうんですけど。そのタイトルがすごく良いって。有名な曲だから燕さんもきっと、知ってると思います」

 桜が息を吸い込み何かの曲を歌おうとした……その瞬間、玄関からゆるやかな、チャイムが鳴り響く。

「律子さん!?」

 その音を聞くなり燕は立ち上がった。

 手短に桜へ謝り、電話を切りながら部屋を飛び出していく。

 階段を一段とばしで駆け下り、床に落ちている絵の具を蹴り上げ、燕はまるで飛ぶように玄関へ駆けた。

 たった数メートルなのに、その距離がもどかしい。

「律子さん」

 腕を伸ばし、ドアを押し開け。

 そして。

「どこ行って……」

「燕」

 目の前にあり得ないものをみて、燕は固まることになる。

 そこに立っていたのは律子ではない。柏木でもない。

「……ああ、本当にここにいた」

 それは燕の両親である。


 父の顔には珍しく優しい笑顔が浮かんでいた。

 父の後ろ、影となっている母も穏やかな顔だ。

 しかし二人を見る燕の顔は、自分でも分かるほどにこわばっていた。鼓動が跳ねて血の気がぐんぐんと下がっていく。

 感覚のなくなった手を壁につき、燕はなんとか体を支えた。

「なんで」

「知り合いが持ってきてくれたんだ。雑誌に載ってるのは燕じゃないのかと。それで住所を調べて……」

 父が手に持つのは、いつか田中が見せてくれた雑誌だった。父はその雑誌を燕に押しつける。思わず振り払うと、雑誌は音をたてて床に落ちた。

 それを見て、父は不思議そうに首をかしげる。

「なんで早く言わないんだ。竹林律子の教え子なんてすごいじゃないか」

 父の口から漏れた律子の名に、燕の背がぞっと震えた。足の先からゆっくり体が冷えて、首筋を汗が流れていく。

 しかし父は燕の変化にも気付かない。

 そもそも、この人は昔から燕を見ないのだ。

「さすがは父さんの息子だな。父さんの言うとおりの絵を描いてきて良かっただろう」

「父さん」

「今日はお前に話があってきたんだ。これを見てくれたら、お前ももう修復師なんてことは言わないだろうから」

 父は鞄から四角い塊を取り出す。布にくるまれたそれからは、古い絵の具の香りがする。嫌な予感がして、燕は一歩退きかけた。

 しかし、燕が下がれば父は家に入り込む。だから燕は震える足でしっかりと床を踏みしめた。

 父の姿は夢に見た巨大な魚の影と同じだ。

 見えない壁を破って、父の冷たい影が律子と燕の家に入り込もうとしている。

(……それは)

 それだけは、嫌だった。

「父さん、話なら外で」

「そうだ、竹林先生に会わせてくれないか? お礼を言わなくては」

 しかし父は燕の言葉に耳を傾けない。燕はそんな父の前に立ち塞がる。父を前にするだけで膝が笑い、腕が震える。

 それでも燕は一歩も引かなかった。

「父さん、だからどこか別の場所で……あの、就職先の修復工房の話もしたいから」

 燕が修復という言葉をだした瞬間、父の肩が揺れる。その顔に影が落ち、父の長い溜息が燕の耳の横を流れていった。

「……燕」

 低い声に燕の体が凍りつく。その隙に、父の足が一歩玄関を踏みしめた。

「言ってるだろう。お前に修復なんてできやしないって」

(止めなくては……)

 頭ではわかっているのに体が動かない。

(早く、止めないと、この人が中に……)

 動けない自分が悔しい。言い返せない自分が情けない。律子がここにいないことだけが幸いだ……そんなことを考えてしまう自分の小心っぷりに嫌気がさす。

 握りすぎて白くなった指先を見つめ、燕は苦笑した。

 結局自分は、あの水族館の日からなんの成長もしていないのだ。

 父が迫り、燕は退く。もう、あと一歩進めば父の体はこの家に入り込んでしまう……それなのに、燕はそれを押し返すことができない。

「父さん……」

「せっかく先生に学んでいるのにまだ言ってるのか。修復を目指すなんて、馬鹿なことを」

「……確かに」

 しかし、父の動きが急に止まった。顔を上げれば、誰かが父の後ろに立っている。

「息子さんにはもったいないくらい素晴らしい先生ですよ、先生は」

 その声を聞いて、燕の体が震えた。

「こんにちは。大島さん。三年前お会いしたきり随分ご無沙汰しています。柏木です」

 父の背の向こうに見えたのは柏木の顔だ。

 彼にしては珍しく、前髪が乱れている。走ってきたのか、少しだけ息が上がっていた。

「師弟というのは不思議なものですね。先生が素晴らしいのは言うまでもありませんが、大島君も期待にちゃんと応えてますよ」

 突然乱入した柏木を見て父は一瞬ひるんだが、やがて自信を取り戻したように胸を張る。

「そうでしょう。それなら余計に、修復師なんて」

「大島さん、あなたも美大を出ていますね。画家を目指して、絵を辞めた」

 ……が、柏木の言葉に父の勢いが落ちた。

 痛いところを突かれたように、父の目が泳ぐ。母の手が父の背に添えられたが、それに気付かないように、一歩下がる。

 代わりに柏木が、一歩迫った。

「失礼を承知であなたのことを調べさせていただきました。立派なものですね、名のあるコンテストで賞をとっていらっしゃる」

「違う」

「ご謙遜を。なかなかとれる賞ではありませんよ」

「……違う」

「ええ、そうです。正確にはあなたの絵ではなかった。賞をとったのは、あなたの絵を修復したもの、ですね」

 柏木の言葉に、父の喉が鳴る。

 動揺して腕の力が抜けたのか、抱えていた荷物の布がほどけた。中身は想像通りキャンバスだ。

 しかしそれを見て、燕は眉を寄せる。

「……その絵は?」

 燕は自分の古い絵が出てくると思い込んでいたのだ。しかし父が抱きしめているのは、見覚えのない絵である。

 それは鮮やかな油彩だ。

 真ん中に女性が描かれている。色が白く線の細い女性だ。髪は長く表情は柔らかい。口元は少女のように明るい笑みを浮かべている。

 人の目を惹く美しい絵だ。ただ、ちょうど組まれた手の当たりに大きな穴が空いていた。

 モデルは母だ。と気付いた瞬間、燕の背が伸びた。

「……運搬の時に落とされたんだ、それで傷がついて……」

 父の声が裏返った。燕は呆然と柏木を見上げる。彼は黙っていろ、というように首を振った。

「そうです。会場に運ぶ前に落として傷が入った。その傷を同級生に直されたんですよね。でも賞をとった。直されたところを評価されて。その手のところに開いた穴はあとでついたものですね。コンテストのあと、ご自分で壊された?」

 柏木の言葉を聞いて、燕は呆然と父を見た。

 父は口を固く結び、柏木を睨む。母はおろおろと燕を見て、そして白い顔を俯けた。

 母の顔を見て燕は絵の違和感に気づく。

(……母さんはこんな顔で笑わない)

 直されたのは口元だ。

 絵を直した人物は母を知らなかった。だから絵に似合うように、口元を柔らかい笑みに変えてしまった。

 しかし直された絵で父の絵は講評を受ける。そして過分な評価を受けた。

 プライドの高い父がどう感じたのか。それは彼の人生が示している。

 絵の道を諦め、絵を捨て、遠ざかった……そして夢を息子に押しつけた。

「父さん……」

 燕の視線に気付いたか、父は絵を隠す。その顔はこわばり、手は震えていた。

「な……なぜ、関係のないあなたにそんなことを言われなければならないんです」

「息子さんの助太刀に来たんですよ、不承不承ですがね」

 柏木といえばいつもと同じ。胡散臭い笑顔で父を見つめている。

 父はあちこちに視線を飛ばし、唇は震えていた。これほど焦っている父を見るのは初めてのことだ。

 最近、父の言葉に毒が含まれるようになったと燕は感じていた。

(あのときからだ)

 燕は思わず父の顔を凝視する。

 父が変わったのは、彼に修復という言葉を伝えたときからだ。数ヶ月前、燕は父に電話で内定の話を伝えたのだ。

 燕が修復の仕事につくと言った時、父の声が震えていた。彼の声に毒が含まれるようになったのはそれからである。

 その言葉は、父の過去を刺激するからだ。

 ……父のプライドを、傷つけるからだ。

「これは私の絵じゃない!」

 父は絵を睨み、それを床に放り投げた。

「そうですね。同じように、あなたの息子さんはあなたではありませんよ」

 思わずふらついた燕の背を、柏木が支える。大きな手だ。支えられた悔しさと安堵に、燕は唇を噛みしめた。

「でも、修復なんて……せっかく竹林先生の……」

「私はここ三年の大島君しか見ていません。しかしこの子には、あなたにはない才能があります。しぶとくて、粘着質です……おっと失礼。しかし、まあ諦めの悪さも度がすぎれば長所になる」

「柏木さ」

「……何より、人の気持ちに寄り添える子です」

 ふと、柏木が笑う。

 それはいつか、彼が燕に自分の過去を語った時と同じ微笑みだった。

「きっと立派な修復師になりますよ。残念ながら私の見立ては、外れたことがないんです」

「燕、違うといいなさい。父さんの言う通りに進んで、これまで間違ったことはなかっただろう? お前は修復師なんて向いてない。父さんなら分かるんだ」

 父の言葉はずきりずきりと、燕の柔らかいところを刺激する。耳を閉ざそうとしたが、思い出したのは皆本の「神様か?」の一言だった。

 あの時、皆本に掴まれた頬の温かい痛みを燕は思い出す。

「燕のことは父さんが一番分かってるんだ。小さな時からずっと絵を見てきたんだから」

(……誠)

 続いて燕は誠の声を、顔を思い出す。

 誠は今頃父親と向かい合っているのだろうか。

 海で隔たれたあの場所で、逃げることのできないあの場所で。

「お前には才能がある。だからずっと、目をかけてきたんだ。そうだろう?」

 きっと誠は逃げ続けることはしない。そのうち立ち止まり、必ず父親と向かい合う。

 そうすれば彼は父親に自分の気持ちを伝えるはずだ。

 皆本のこれまでを父親に説明するはずだ。

「……父さん。俺は」

 腹の底が温まっていることに燕は気がついた。先ほど飲んだミルクが体をじんわりと温めているのだ。

 まるで夕陽みたい。と律子が言った。オレンジ色の蜂蜜だ。あのときの声を燕は思い出し、ふと口元が緩む。

(そうか)

 空腹は寂しい。空腹では戦えない。

 だから律子はいうのだ「お腹がすいたわ、燕くん」と。

(誠はハンバーガーを食べたかな)

 空腹では難しい。でも腹が満たされたらきっと戦える。

 燕も、きっとそうだ。

「俺は、修復師になろうと思ってる」

 その一言は、自分でも驚くほど素直に口から飛び出した。

 詰まることなく言えたその一言に、驚いたのは燕自身だ。

「俺は父さんの過去は知らないし、多分、詳しく聞いても分からないと思う。俺がずっと苦しかったことを分かって貰えないのと同じように」

「燕」

「ずっと逃げてごめん。でも俺は、修復師になるよ」

 皆本さんのような。

 燕の言葉を聞いた父ははじめて、何も答えないまま首を垂れた。


「雨が降り出しそうだ。どうぞお気をつけて」

 父と母の背が、ゆっくりと階段の下へと消えていく。それを見送る柏木を見上げ、燕は渋々と口を開いた。

「柏木さん無理に褒めて頂かなくても、俺は最初から修復師になる、と言うつもりでしたが。でもまあ、ありがとうございます」

「いつも一言余計なんですよ。褒め甲斐のない」

 柏木は渋い顔をして眉を寄せたあと、ふと「ところで」と呟く。

 父と母が去ると、この家はまた静寂に包まれた。

 散らかった床には筆もペンも絵の具も落ちている。いつか律子が設置したピアノもそのまま。

 ただ、律子だけがいない。

「君の研修先の……皆本さんのことですが」

 柏木はピアノの前にある赤いベロアの椅子に座り、ピアノを一音、叩いた。

「柏木さんも皆本さんのことを、ご存じですか?」

「ええ、腕の良い修復師ですね、ただ贋作の過去がある」

 律子の父だ。と言いかけて、燕はすっとその言葉を飲み込む。

 ……彼はまだ、そのことを知らないのだ。

「相変わらず、情報が早いですね」

「これでも仕事上、一通りそのあたりの記事には目を通すようにしてます。60年も前に大規模な贋作事件を起こしそれから20年前にも、未然に終わっていますが贋作を」

「律子さんもその記事を?」

「ええ、私がお知らせしました。それと、記事といえばこれも」

 柏木は、燕に雑誌を差し向ける。それは先ほど父が落としていった雑誌だ。ピンボケの写真をとん、と叩いて柏木は肩をすくめた。

「気をつけていたつもりですが、防ぎきれなかったのは私のミスですね」

「これを見て、律子さんは」

「君の心配を。色々と重なったものですから、向こうで君がややこしいことに巻き込まれていないかどうか……まあ君は図太いから平気だと言っておきました。君も妙な記者なんかにぺらぺらと喋らないでくださいよ」

 柏木はスマホを覗き、小さくため息をつく。

 まだ律子からの連絡はない。しかしそのことを口にするのを恐れるように、二人はその言葉を避ける。

「ともかく、先生のことは私に一任してください。君もそろそろ学校がはじまるでしょう?」

「でも」

「それに少し寝た方がいいですよ。珍しく怒ったりするもんだからせっかくの男前がひどい顔だ。まあ、その方がいつものすかした顔よりも、好感は持てますが」

 嫌味を言って柏木は立ち上がった。玄関を開き、そして。

「おや、これは」

 玄関の外、扉の脇に身をかがめて柏木が燕を見る。

 それは父の絵だ。父が置いたものではないだろう。絵は母の匂いが染み付いたスカーフに包まれている。

 スカーフをほどくと、傷が痛々しく、燕は唇を噛みしめる。

「知っていますか。絵の具は50年経っても乾かないことがあるそうです」

 柏木は冷たい目で絵を見つめた。

「この絵の絵の具も乾いていないのかもしれませんね」

 嫌味は健在だが、彼も眠れていないのだろう。

 疲れたような目で彼は燕を見て微笑んだ。

「……まったく、君もご両親も人を頼ることが下手すぎる」

 その声は、廊下に広がる夕陽と同じくらい切なく聞こえた。


 柏木が去った後、部屋は再び痛いほど静かになる。

 燕はリビングを片付け、ソファに座り、また立ち上がった。

 父と向き合ったのがまるで夢のようだ。

 指が震え、落ち着かない。だから部屋を歩き回り、燕はやがて一枚の額縁の前で足を止めた。

「ああ、これが白い絵……」

 律子の部屋の扉の前、一枚の絵が立てかけられているのだ。

 それはリーフ模様の額縁に収められたキャンバスだった。大きさは12号ほどか。

 随分古いもののようで、紙は黄ばみ虫食いの跡もある。茶色く変質している箇所もあった。

 ただ、何も描かれていない。絵のない紙を白と呼ぶのであれば、これは白だ。

 台風の前の日、柏木が言っていた白い絵はこのことだろう。

 額縁はサイズが合っていないのか、中で絵が少しだけ傾いているようだった。

 額縁に張り付けられている伝票の差出人名は『同上』だ。しかし柏木が調べたところによると、これは島に近い高松市から発送されたらしい。

(なんでこんな絵がここに?)

 何も描かれていない空虚な白い絵を燕は見つめる。この話を聞いたときは穏やかだった。

 あれからまだ数日しか経っていないことに燕は驚く。

「白いキャンバスなのに律子さんが手を出さないのは、不思議ですね」

 燕は無意識に抱きしめていた父の絵を床に置き、白い絵と父の絵の間に腰を下ろす。

 そして、目を閉じた。

 目を閉じると眠気が体を包み込む。緊張と疲れの蓄積のせいで、手足の先がかすかにしびれていた。

(そうだ、あの日……)

 目を閉じると空の唸る音が聞こえる。それは雷の音だ。桜の言うとおり、雨が迫っているのかもしれない。

(……あの水族館にも、こんな音が)


 燕は少し、眠っていたのかもしれない。

 夢に見たのはまたあの薄暗い水族館の風景だった。青白く染まる世界。大きな水槽。人はいない。父も母もいない。

 燕はもう、子どもの姿ではない。

 大人の燕は水槽を見つめている。魚は幼い頃見た時よりも小さく、弱々しい。魚の黒々とした目も、もう恐ろしくない。

 手元の画用紙には、相変わらず不安定な絵が揺れている。

(見られる前に、破り捨てないと)

 燕はそんなことを考える。

 そうだ捨ててしまえばいい。捨てれば父も母も見ることはない。

 無かったことにすればいい……大人になった今なら、絵くらい簡単に破き捨てられる。

「絵を見せて」

 そう思い画用紙に手をかけた瞬間、不意に声が聞こえた。 

 顔を上げると一人の女性が燕の隣に立っていた。優しく、掠れたような声だ。

「綺麗ね、とても」

「この絵が?」

「すごく綺麗」

 伸ばされた手が燕の絵に触れた。

 その瞬間、触れたその場所に光が満ちた気がする。

 寒さも恐怖も、全て黄金色に重ねられていく気がする。

「もう二度と、捨てちゃだめよ」

「……律子さん?」

 燕は思わず、その名を呼んでいた。


「……っ」

 空気を震わせるような雷音に、燕は飛び起きる。

 慌ててスマホを覗き込むがまだ誰からの着信もない。眠っていたのもほんの30分程度だ。

 気付くと部屋は薄暗い。雨が降り始めたせいだろう。時折光る雷だけが、部屋を白く染めた。

 開けたままになった窓から吹き込んだ雨水に顔を叩かれ、燕はようやく覚醒する。

(窓を閉めておかないと)

 立ち上がろうとした、その時だ。

「……?」

 何かが見えた気がして、燕は動きを止める。

 燕の目の端にあるのは、壁に立てかけられた『白い絵』だ。

 雷が光った瞬間、幻影のように黄色が見えた気がした。

(見間違えか?……寝ぼけてた?)

 目をこすると、もうそれは見えなくなる。

(……それか、隠れた絵?)

 不意に思い出したのは皆本の言葉だった。

 隠された絵、隠れた絵を誠は見つけるのがうまい……そんなことを言っていたはずだ。

 雷光は、四度、五度。

 目を凝らしても、もうあの幻は見えない。

 しかし諦めきれない燕はゆっくりとスマホを手に取る。そして、一つの番号をタップした。


 コール音は10回。留守番電話に切り替わる直前、小さな物音と共に繋がる。

「……誠?」

「燕! 電話してくんの、おっそい! 俺からかけにくいことくらいわかるだろ! 大人のくせに!」

 いつも通りの生意気な誠の声が響き、燕の緊張がするりととけた。

「ところで燕の師匠が行方不明なんだって? 見つかった?」

「どうしてそれを?」

「師匠に聞いた」

 師匠、その響きに燕の肩の力が抜ける。

 やはり誠は、立ち止まって逃げ出すような人間ではなかったのだ。

「……皆本さんは、どうしてる?」

「血圧が上がってまだ診療所。本当は市内の病院に移った方がいいらしいんだ。転院の準備をしたいんだけど、師匠。燕と約束があるから島を出ないって言い張ってて……」

 誠の声に風の音が重なる。外で作業をしているのか、電話の向こうで大悟ともう一人、低い男性の話声が聞こえた。

 何か荷物を運んでいるようで、落とさないように。気をつけて。響く声は優しい。

 誠はその声の主にまるで叫ぶように声をかけた。

「親父! その絵の向き逆だよ。絵、詳しいんじゃなかったのかよ」

 誠の言葉を聞いて燕の口からほっと息が漏れる。

 それに気づいたのか、誠がごまかすように鼻を鳴らした。

「……俺、あのあとさ、親父と大げんかしたんだ……で、一時休戦してるってわけ。だってさ、よく考えたら師匠に話を聞かなきゃ、本当のところなんてわかんねえし。なんで贋作なんて描いたのかって……その話聞くまでは、喧嘩してても意味ないだろ。師匠が落ち着くまで、話を聞くのは無理だけど」

 気恥ずかしさを隠そうとしているのか、早口だ。その声は波のように揺れて聞こえる。そんな誠の言葉を燕はうらやましく聞いた。

 もし誠くらいの年頃に父と思い切り喧嘩をしていれば、今の人生は大きく変わっていたかもしれない。

(それでも、その場合は……)

 その時は、律子の色とは出会えない人生である。燕は首を振り、まっすぐに白いキャンバスを見た。

「それより、誠に頼みたいことがあるんだ。お前、絵を見つけるのが得意だっただろう?」

「得意だけど……なに、なんかあるの?」

「真っ白な絵が家にある。実際は紙が黄ばんで汚れてるけど、ただそこに絵はないんだ。でも一瞬、黄色が見えた気がした」

 燕は電話をビデオ通話に切り替えて、キャンバスにカメラを向ける。誠はまるで覗き込むように、じっと絵を見つめた。

「まって、右側寄って……そう、その下の方……あ、そこ」

 誠の動きが止まる。同時にまた雷が鳴った。白い光が部屋に溢れる。光に照らされた白い絵の中央、燕も確かにかすかな違和感を見た。

「線……がある?」

「そうそう。なんかそこ、描いてないか? 薄くだけど」

 至近距離から見つめて燕は首をかしげる。よく見なければ分からないくらい薄い。

 しかし確かに、丸い何かが描かれているのだ。

「円?」

「もしかして、ドアノブじゃないか? ほら、師匠んちのトイレのドアのノブもこんな模様あるだろ。あのドアノブ、島の伝統的な模様なんだって。役場の会議室とかもその模様だし。で、それがドアノブってことは」

 ぶつぶつと誠はつぶやき、やがて「あ! 分かった!」と叫ぶ。

「ノブは引っ張る。ってことは後ろに絵があるんじゃないか?」

「裏? 普通後ろなんて」

 通常、木枠に張り付ける画布は片面だけだ。裏面は額縁にいれると隠れてしまう。描いた絵をわざわざ隠すような真似は普通しない。

「でもキャンバスにも裏はあるだろ?」

 誠の言葉を聞いて燕は息をのんだ。

(でも……普通ではないことが、起きている)

 燕はスマホを床に置くと、額縁から慎重に絵を外す。

 そして中のボードを丁寧に取り出し……そして。

「……黄色」

 そこには確かに色があった。


「これは……」

 キャンバスの裏側を見つめたまま、燕は固まる。

 裏に描かれていたのは、かつて皆本が描いていた黄色の花だ。

 同じ花がキャンバスの中で揺れている。

 描かれているのはそれだけではない。花畑には大きな食卓が置かれ、食卓には美しいレースのクロスが描かれているのだ。

 花畑の食卓の上に載せられているのは、オムライス、ハンバーグ、クリームソーダ……しかし、食べ物の絵は半分が下絵のままだ。

 相当古いはずだが、色の美しさが保たれているのは皆本が修復を続けていたためだろう。

 食卓や花の絵は緻密で美しい。しかし、食べ物の絵は未完成な上、幼い。はみ出す色もあれば、塗り足りない箇所もある……しかし、燕には分かる。

(これは律子さんの絵だ)

「待って、待って、燕。ちょっと!」

 カメラを絵に向けると、誠が慌てたように叫んだ。

「それ、盗まれた絵だ!」

「盗まれた?」

 その言葉を聞いて、燕は誠の作ったリストを思い出した。

「あ……食卓の絵?」

「燕、近くに発送伝票ってある?」

 上に張り付けていた伝票をカメラに向けると、誠の声が詰まった。

「誠?」

「……それ、師匠の字だ」

 あー、もう、最悪。と叫ぶ声が聞こえ、やがて画面が揺れる。砂浜に倒れたのか、画面に美しい夕陽の色が映し出された。

「あー。どろぼー見つかんないはずだよ、師匠が隠してんだもん」

 燕は思い出す。皆本は誠を追い出すために絵を盗んだのだ。

 その絵をどうしたのかは聞いていない。しかし今分かった。

 彼はそれを律子に……娘に送ったのである。

「師匠と出会ったときさ、俺、ずっと追い払われたんだ。ここは危ない工房だから近づくなって。絵を盗られたときも全然怒んなくてさ、これで危ない工房って分かっただろ。だから出ていけって……まあ、その程度じゃ俺は逃げ出さないけど」

 思い出すように、噛みしめるように、誠は呟く。

「よく考えたらさ、分かったことなのに。この島で師匠の絵を盗むやつなんて、誰もいないってことくらい」

 よし。と叫んで誠が立ち上がる音がする。

 大きく旋回した画面の向こう、見えたのは大悟や誠の父親だ。そちらに向かって駆け出しながら誠は言う。

「そうそう。しばらく公民館借りて師匠の絵を飾れることになったんだ。来年の美術祭は、公民館を美術館に変身させるつもりだから」

「でも美術館は……」

 燕は言葉を濁す。田中の持ってきた記事がどんな影響を与えているのか燕は知らない。しかしすんなりとは終わらない。そんな気がする。

「うん。叔父さんから、師匠のニュースのこと聞いた。来年のワークショップも美術館もどうなるかわかんないんだって。でも島の人も親父も叔父さんも来てくれる。客はゼロじゃないってわけ」

 それでいいだろ。と、誠は笑った。

「それより燕、早く帰って来いよ。青のやつ、サボってんのかどこにもいないんだ。だから人手が足りないし、それに飯もさ」

 口をとがらせて誠はいう。そして、少し照れるように顔を俯けた。

「……ハンバーガー食べたんだ。でもできたての方がうまいなら、また作ってほしい。それとかき氷も、練乳のこと、気付いてるんだからな。でも次は、甘いのがいいけど……って、あれ?」

 ふと、誠の顔が真剣になる。先程の照れを忘れたように、彼はじっと画面を見つめている。

「燕、その後ろの絵は?」

 ちょうどカメラが下向きになり、燕の背後に置いていた父の絵が映ったのだ。慌てて隠そうとするが、誠は絵を見たまま眉を寄せる。

「その絵……」

「これ、は」

 どう答えるべきか。燕が迷っている間に、誠がぽつりと呟いた。

「穴、ひどいなあ。あと口元も傷が入ってる?」

 誠の言葉に燕は驚く。

 彼の言うとおり、口元にも薄く浅く傷がある。それは爪痕だ。

「勝手に直された絵、らしい。直されたのは口元で、それを多分、剥がそうとして……」

 燕は絵を見つめ、恐る恐る触れた。そんなことをしても父の気持ちなど分かるはずもない。ただ口元のざらりとした感触は悲しかった。

「……直そうとして、こんな傷が付いたんだと思う」

「直るよ」

 誠の明るい声に、燕は目を丸める。

「直る?」

「修復失敗した絵だろ。そういう絵、前にも依頼が来たんだ。結構時間はかかるし、ちゃんとした道具がないと無理だから、島では無理だけど……あと、もちろん穴も直せるし」

 父の絵を燕は見つめる。おそらく何度も捨てようとしたのか、板張りは壊れ、四隅は裂けている。

 父の人生を狂わせた絵だ。

 つまり。燕の人生を狂わせた絵だ。

「直していいのか」

「壊れていい絵なんてないだろ?」

 誠の言葉が、まるで光のように燕の耳に柔らかく広がった。


 電話を切ると、無音が耳に染みる。薄暗い室内のせいで、モノクロの世界にいるようだった。

 そのモノクロの中で、皆本と律子の絵だけが光り輝いている。

「……食卓の絵」

 絵をひっくり返し、何度も見つめて燕はため息をつく。

 食卓と花は皆本が描いたのだろう。食べ物は幼い律子が描いたものだ。なぜ二人が出会い、こんな競作をしたのか燕には分からない。

「手紙も、何もなしか」

 燕が期待したのは皆本が手紙に真実を書き、律子を島に呼び出した、という筋書きだ。

 律子は燕と行き違いで島へ行ったのではないか。そこまで考えて燕は首を振る。

(……律子さんは皆本さんが父親とは知らないはずだ)

 もし律子が皆本を実父と知っていれば、燕が研修へ出た時に気付いたはずである。

 律子の様子がおかしかったのは、あの台風の直前。誠の父に気を取られて電話を切った、あのタイミング。

(あのとき、ちゃんと話を聞いていれば)

 鳴らないスマホを見つめ燕は悔しく思う。

 額縁に再び収めようとして、燕は動きを止めた。額縁の間に一枚の紙切れが見えたのだ。

(……写真?)

 そっと手に取るとそれはモノクロの写真だった。ずいぶん古いもので、画質は悪くかすれている。

 ただ、どこかの教室のようだった。真ん中に映っているのは黒板か。

 その黒板を中心に、中高年の男女が集っている。学生には見えないので、同窓会か何かの写真なのかもしれない。

 周囲の壁には一面、絵が描かれている。

 細かすぎて何を描いているのかは見えないが、黒板に描かれた大きな文字だけははっきりと読み取れた。

「第一小学校……6年3組」

 ありがとう。と黒板には描かれている。

 その名前には見覚えがある。崩れた石碑に刻まれた廃校。数年前まで皆本が整え、道が途切れたので諦めたと言っていた。あの小学校だ。

 なぜこんな写真がここにあるのか。もう一度よく見ようと顔を寄せた途端、手元のスマホがぶるりと震える。

「……桜?」

 気がつけばスマホが光っていた。見ると、桜からの一通のメッセージ。メッセージだけでなく、動画も一枚添付されている。

 タイトルは、ホーム・スイート・ホーム。

『この曲を私が弾いて、律子さんが個展のタイトルを決めたんです。私の弾いた曲が個展のタイトルになるなんてすごく素敵で、だから絶対に成功してほしいんです……くれぐれも律子さんには内緒で!』

 メールに目を通したあと、動画を再生して、燕は息をのんだ。

 流れたのは桜が演奏する短い音楽だった。彼女がピアノの前に腰を下ろし、まるで歌うように鍵盤に指を這わせる。

 ……と、音楽が生まれた。

 それは柔らかく温かく、少し寂しい。

 その曲の別名を、燕は知っている。

「埴生の……宿」

 数時間前に、島でもきっとその曲は流れたはずだ。

 二回目を再生したとき、桜から追伸のメールが届く。

『律子さん、小さい頃にこの曲を聞いたそうです。すごく懐かしくて大事な思い出だって言ってました』

 燕の手元にあるのは、廃校になった小学校のモノクロ写真。そして鳴るのは島で流れる埴生の宿。

 偶然の重なりに燕は戸惑う。

 学校への道は封鎖され、獣道も残っていない。道はないと言っていた。

 一瞬浮かんだ考えを燕は振り払う。 

「……まさか」

 もう一度写真を見つめ、燕はふと気がついた。黒板に、大きな木の絵が描かれているのだ。隣に描かれた文字は校歌だろうか。

 文字は潰れて全部は読めない。しかしクスノキ、という文字だけは読み取れた。

(クスノキ……大きな、ホラのある)

 思い出したのは律子の声だ。いつか彼女は夢を見たと言っていた。大きなクスノキのホラを通ると、秘密の場所にたどり着いた、という夢だ。 

(あり得ない)

 律子が島にいるはずがない。

(まさか)

 彼女が行くはずがない。

 燕は落ち着かなく立ち上がり、座り、再び立ち上がった。

 風が出てきたのか、窓が揺れて激しい音をたてるのが、また燕の心を焦らせる。

(学校にたどり着けるはずがない)

 ……しかし、もし、律子が夢に見たクスノキがあれば? そこに秘密の道があれば?

 このまま家で柏木の連絡を待ち、律子の帰りを待つのがおそらく一番『正しい』ことだ。

 どこに行ったのか分からない人を闇雲に探すのは『愚か』なことだ。

 ……しかし、三年前のクリスマスの日。どこに行ったか分からない燕を律子は探しに来てくれた。

「律子さん」

 立ち上がった燕は、食卓の絵を布にくるみ、大きな鞄に押し込む。玄関へかけ出そうとしたその足先に父の絵が触れた。

 思わず投げ捨てようとして、燕はその手を止める。

(……壊れて良い絵なんてない) 

 迷ったのは数秒ほど。燕はその絵を包み、鞄の底にそっと沈めた。

 転がるように外へ飛び出せば、雨はまもなく止むところである。

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