夕暮れナポリタン
律子の声は、その性格に反して落ち着いたものだった。
少し低めく、掠れるような声である。緩やかで耳になじむ声である。
昔、まだ律子が「世界的な女流画家」として話題だった時代。彼女は一度だけ、洋画の吹き替えに出たことがある。
20年以上前、もちろん燕が生まれる前に作られた映画だ。その中に出てくる、ホテルの女支配人の声を律子が当てた。
それは主人公を見守る役柄である。
海沿いの古びたホテルに夕陽が差し込み全てがオレンジ色に染まる中、混迷の縁にある主人公が戻って来る。それを女支配人が玄関まで迎える。二人の長い影が壁にくっきりと黒い跡を残す。
静かに、まるで歌うように支配人が囁く。「外に出ましょう。夕陽がきっと綺麗よ」
そう呟く声が、燕の耳に今も残っている。
「やだ。よくそんな古い映画。ほんと、吹き替えなんてはじめてで……棒読みだったでしょ」
映画の話をすると律子はひどく照れた。画板で顔を隠し、少し漏れた耳は真っ赤に染まっている。
「当時は色々誘われたけど、出たのはあの映画だけよ。あれはとても、話が好きだったの」
有名人を起用する、そんな映画会社の思惑が見え隠れするものの、確かに筋は悪くない映画だった。ただ話が緩やか過ぎたせいか、時代に合わなかったのか。それほど売れることなく、終わっていった。
「燕くん、そんな古い映画いつみたの?」
「高校の時に」
「変なの、変なの」
「そんなに変ですか」
「売れなかったし、人気も無かったし、しかもそんな古い映画どうやってみつけたの」
律子の言葉を燕は敢えて無視した。
「少し寝てきます」
軽い朝食ののち、急に眠くなった。だから律子の言葉を無視し、さっさと自室に引きこもる。
白い壁には、律子の描いた柏の木の下絵がある。それに触れ、燕はうっすらと記憶を辿った。
(あの、映画は確か……)
……古い絵画雑誌に、その情報が載っていた。メディア嫌いで有名な女画家が映画に出た……当時としては少々、話題になったようだ。
高校生の燕は、その雑誌をたまたま古本屋で見つけた。
律子の名は聞き覚えがあった。人嫌い、メディア嫌いの変わり種の女流画家。画家とはそうあるべきだと、当時の燕は顔も作品も知らない彼女に同調さえしていたのである。
だというのに、映画に出た。随分浮ついた話だ。半分苛立ち、半分は興味をもって映画を借りた。
絵描きは絵だけを描くべきだ、そう罵る気持ちで借りたというのに、見ている間に引き込まれた。
中東の海沿い、田舎町が舞台だった。物語は静かで緩やかで、もの悲しかった。
律子が声を当てる女支配人は常に夕陽に照らされていた。そのせいで、深い影のある女だった。
その声を、台詞を、燕は不思議と今でも覚えている。
そしてその声がきっかけで、彼女の絵や写真を何枚もあつめた。そして、その絵の才能に驚き嫉妬さえした。
しかし、振り返ればあの一声が律子との出会いであったのである。
「おはよう、燕くん」
そしてその時の声は、今、燕の隣で響いている。
「まだ眠い? さあ、そろそろ起きて」
当時よりも声はさらに低くなった。その分、深みがでた。
「燕くんは寝顔も綺麗ね」
「……人の寝顔を覗くなんて趣味が悪いですね」
静かな声に揺り起こされて、燕は目を開ける。目覚めの瞬間は常に無防備だ。開いたばかりの目に、女の笑顔が見えた。
ソファの背に身体を預け、まるで上から覗き込むように律子が燕を見つめている。
目が合うと、彼女は目尻の皺を深くして笑った。
「綺麗だったから見ていたの。眠っていると肌の色がすっと消えて、無色になるのね」
律子は相変わらず、真上から燕をのぞき込んだまま。蛍光灯の明かりが律子の顔で遮られ、燕の視界は薄暗い。
燕の身体の上には、律子が掛けたであろう様々な布が散らかっている。タオル、シャツ、ハンカチ。彼女の絵と同じく、それは色も様々に。
「また、色々かけましたね」
「布団をかけるには暑いかと思って。でも何も無いと寒いでしょ」
昼前、軽い眠気に誘われソファに寝転がった。そこから記憶が途絶えている。
久々に惰眠をむさぼってしまった。と、燕は欠伸を噛み殺して起き上がる。
すでに何に遠慮をすることもない生活だというのに、昼から惰眠をむさぼると妙な嫌悪感と罪悪感が体を蝕む。
今は何時頃だろうか。と思いながら伸びる。息を吸い込むと、絵の具の香りがした。
「一応、僕も男なので。あまり綺麗綺麗と言われるのは……まあ、言われ慣れてますけど不愉快に感じることもあります」
「あら。絵を描く人間は、表面の皮だけをみて、綺麗とか汚いっていうわけじゃないのよ」
律子の手が極彩色に汚れている。部屋の壁に絵を描いていたのだろう。
手の汚れと心地よい疲労で包まれた顔を見ると、燕のどこかが痛んだ。それはすでに捨てたはずの、自尊心の欠片である。
「……さあ、分かりません。僕は絵を描きませんので」
「私は描くわ。もう少しで、柏の木が完成するの」
壁を見ると、柏の木が色づきはじめている。緑の葉に注ぐ光が、赤や黄色の木漏れ日となって幹に注ぐ。光は昼の色彩だが、これから来る夕暮れを予感させる色だった。
「ずっと描いてたんですか」
「あら。ずっと、なんてことはないの。途中で燕くんの寝顔をスケッチしたりもしたわ」
心外だ。というように口を尖らせる律子を見て、燕はため息を付く。この女画家には愚問であった。
「ところで何時です」
「14時だったかしら」
この部屋には窓も時計もない。律子が14時と言い切るならば、彼女が別の部屋でみた最後の時刻がその時間だった。ということである。
つまり今の時刻は、
(15時か、16時か)
ということになる。
「じゃあ、そろそろ晩飯の支度をしてきます」
「最近寒いから、暖かい物が食べたいわ」
「曖昧ですね」
立ち上がり上着を羽織る。最近は昼と夜の気温差が激しい。昼が終わるとひどく冷える。
「そうね……」
律子は洗いたての筆を優しく撫でながら、首を傾げた。
「夕陽の色の食べ物……それに、若木の緑色」
……漏れた言葉は掠れた、少しハスキーな。
「きっと綺麗よ」
それはあの映画の声と、同じだった。
律子は時折そうやって、食事を色で指定してくることがある。
「……さて」
台所から見える外は真っ赤に染まっている。14時どころではない。すでに17時半である。
夕陽がゆるゆると落ちている。今日は秋分だ。昼と夜の長さが同じになる日。昼が終わろうとしている今は、一日がちょうど半分終わった頃。
窓の隙間から秋の空気が染みだして燕の手を冷やす。夕陽が部屋を真っ赤に染めている。
寝起きの頭を振り払うように、燕は机に食材を並べた。
タマネギとピーマン、マッシュルームにソーセージ。全てを刻む間に、大きな鍋に水と塩を一振り。光る鍋底から大きな輪が湧き上がる、輪が弾け湯気が上がる、その一番いいタイミングで一握りのパスタを放り入れる。
(……限界まで、柔らかく)
キッチンの隅に置かれた時計を横目に見て、燕は思う。できるだけ柔らかく、じっくりと時間をかけてパスタを湯の中で遊ばせる。それがきっと今日の料理には合う。
湧き上がる湯気が肌に心地良い。先日までは湯気に当たるだけでぞっとしたものだが、今は湿ったその暖かさが嬉しい。
パスタがゆで上がる直前、燕は大きなフライパンを火にかけた。そこに落とすのは、たっぷりのバター。熱に触れ、じゅくじゅくと溶けて広がる。
バターが焦げる直前まで耐えていると、パスタが仕上がった。野菜も準備万端。
全てをまとめてフライパンに投げ入れると、焦げバターの香りが部屋に広がる。
(……焦げそうでも、強火で)
バター、パスタ、野菜が高熱で一気に炒められていく。焦げそうになっても、腕を動かしている限り、あせることはない。
バターの熱で全てが柔らかくなったのを確認し、上からたっぷりのケチャップと塩胡椒、コンソメ少々。
調味料がフライパンに当たると、音とともに香りがはじけた。
「まあ。懐かしい匂い」
「ええ、ナポリタンです」
「喫茶店でよく食べてたの。昔、両親が連れていってくれたものだわ、懐かしい」
いつの間に台所に来ていたのか。律子がうっとりとフライパンを覗き込む。
「熱くて甘くて柔らかくて」
律子の身体を器用に除けながら、燕はフライパンを揺らす。箸でざっくりと混ぜる。
ケチャップの甘い赤は、鮮やかな赤ではない。淡い色だ。落日の色だ。夕日が染みこんだような、色だ。そこに、鮮やかなピーマンの緑が映える。
(……よし)
仕上げに、少しだけ牛乳を染みこませる。尖った香りが、優しいものに変わった。
「牛乳?」
「ええ、少しだけ……まろやかになりますから」
まだふちがぐつぐつ小さく泡だっているうちに、火を止めた。端のパスタがバターで焦がされ、薄く茶色になっているのがかえって食欲をそそる。
燕はテーブルの上の鍋敷に、直接フライパンをおいた。熱い料理は熱いうちに食べなければならない。それは昔付き合った女の信念であった。
思えば燕の料理の信念は、すべて過去の女に彩られている。
「あとは昨日の残りのスープでいいでしょう」
「……おいしい」
早速、フライパンからパスタをすくい上げた律子が感嘆の声をあげた。
「美味しい!」
フォークにたっぷり絡まるそれは、柔らかいパスタにカリカリに仕上がったソーセージ、くたくたのタマネギとピーマン。
つられて食べると、口の中に甘味が広がった。トマトの持つ尖った甘味が牛乳で蕩ける。
夕陽が差し込むせいなのか、ナポリタンの彩りが深くなる。
「律子さんピーマンよけてます?」
ふと顔を上げると、律子は小皿にピーマンを避けていた。指摘すると、まるで子供のように照れてその小皿を手で隠す。
「ちゃんと食べてくださいよ」
「……私ピーマン嫌い」
「じゃあなんで、緑色を入れろなんていうんです」
「だって色がきれいだもの」
しばし逡巡していたようだが、やがて意を決したように、ピーマンを口に放り込む。噛みしめる。そして笑顔になった。
「でも不思議ね、このピーマン苦くないの。ケチャップのせいかしら。それとも柔らかいから?」
「……それは良かった」
ねっとりと味の絡んだナポリタンは、全てが柔らかい。野菜も、パスタも、甘く酸っぱく一つの味になっていく。
郷愁の味だ。それは不思議と、高校生の時に見たあの映画のワンシーンに繋がる。
柔らかな夕陽の色。夕陽でできた女の影。甘い声。
「夕陽もナポリタンもオレンジで綺麗ね。あとで、オレンジの色を使って燕くんを描いてもいい?」
「どうぞお好きに」
フォークにたっぷり絡めた夕陽色のパスタを食べながら、燕は窓の外を見る。
夕暮れはそろそろ終わる頃。夜を予感させる紺色の雲の隙間、烏が一羽飛んでいくのが見えた。