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功罪の卵うどん

 台風は夜半から翌日の昼過ぎまで、島を吹き飛ばす勢いで荒れに荒れた。


「この島に台風が近づくことは滅多にないんだがな……何年か前にあったきりだ」

 壁を叩く激しい風の音を聞いて、皆本が顔をあげる。

 そして全身シャワーでも浴びたような燕を見て苦笑した。

「よりにもよって一番ひどい時に出てきちまったな。あと10分程度で止むだろうに」

「一回風が止んだので、もう出られるかと勘違いしました」

「台風のケツで殴られる方がキツいんだよ」

 昨夜、燕の民宿ではホースで水を掛けられているような音が一晩中響いていた。朝になればそれに風が加わったが、昼過ぎに一度風と雨が落ち着いたのだ。

 平地に建てられた民宿でさえ、あれほど揺れた。皆本の工房などひとたまりもないだろう……と、心配になってきてみれば彼は平時と変わらない様子で古い絵に向かい合っている。

「田中は、まだ帰っていませんか」

「昨日の船に間に合わなかったらしい。今日も欠航だ。この分じゃ帰ってくるのは明日だよ」

「誠も?」

 台所の冷蔵庫を漁りながら燕はさり気なく尋ねる。

 昨日、誠の家まで行ってみたものの、インターホンを押す勇気が出なかったのだ。

 誠の家はオレンジの温かい光に包まれており、窓に映る影も柔らかい。それを見た途端、燕は躊躇してしまった。

 ……誠の親は、自分の親ではない。

 勘違いをして押しかければ、迷惑をするのは誠である。

「さあ、あいつも家だろう。この雨じゃあな。で? お前は何をしてる?」

「せっかく来たので、皆本さんの食事を作っておこうと」

「こんな日くらい宿で寝てりゃいいのに。真面目だな、お前さんは」

 皆本は笑うが、燕の行動は優しさからではない。何かしていなければ落ち着かない、それだけのことだ。

「皆本さんも真面目ですね」

「まあ、これが仕事だからな」

 皆本といえば古い絵をイーゼルに置いて、表面の汚れを丁寧に落としている。目が痛くなるような光に照らされて、彼はどこか孤独に見えた。

(……冷蔵庫の中も少しさみしいな)

 冷蔵庫を覗き込み、燕は困惑する。

 冷えた冷蔵庫の中には、卵、ネギ、野菜が少々。そういえば今朝は商店も閉まっていた。船が来ない時は売る物もない。売る物がなければ店も閉めるのだろう。

 合理的だが、ここで暮らす人は大変ではないのか。 

 しかし皆本に尋ねれば、問題ないと笑う。年を取れば少しの物で生きていけると彼は言う。

「……今日を入れて研修はあと3日だな、坊主。台風に巻き込まれるわ、誠の世話をさせられるわで、なんの勉強にもならなかったろう」

 皆本の言葉を聞いて、燕は動きが止まる。そうだ。研修は2週間。長いと思っていたのに、気がつけばあっという間だった。

 明後日には帰り支度を整えて燕は船に乗るのだ……親のサインをどうするか、その解決策を見つけられないまま。

「どうした? 今日でも帰りたくなったか?」

 皆本の言葉に燕のどこかがチクリと痛んだ。

 彼の「帰るか」は出会った時からの口癖だ。

 ことあるごとに、帰るか、そろそろか、今日は来なくてもいい。そんなことをいう。

 帰ってほしいのか。燕の存在が邪魔なのか。

 しかし、今は帰りたくてもポケットの奥に入れた書類が燕の決意を揺るがせる。

 聞こえないふりをして、燕は乱れた台所を片付けはじめた。こんな時、逃げ隠れするのは燕の悪い癖だ。

 ……これでは三年前と変わらない。

「お、山場を越えたか」

 皆本が手を止めた。そして扉を開き、彼は心地よさそうに伸びをする。

 見れば彼の開けた扉の隙間から、淡い夏の光が漏れているのだ。

「おい。坊主。島の案内をしてやるからついてこい」

 皆本の気遣うような一言に、燕はひととき悩みを忘れることにした。


 燕をびしょ濡れにさせた雨雲は、あっという間に遠くへと去ったらしい。外に出ると湿った空気が潮風と共にゆるゆると流れている。

 皆本は海の様子を遠巻きに眺め、目を細めた。いつもは湖のように大人しい海が、今は激しく上下に揺れている。

「もうすぐ静かになるさ。そうなると魚が大量に釣れる。大島、お前釣りの経験は?」

「いえ」

「そうか。台風後の釣りはいいぞ、入れ食いだ」

 皆本は腕に覚えがあるのか、杖を釣り竿のようにひょいっと動かしてみせる。

「瀬戸内の魚は大体旨いが、一番旨いのはイイダコだな」

「たこ?」

「小さいタコだよ。味が濃いんだ。おでんにしても、揚げてもいい。ただし旬は冬だな。夏ほど楽しくないかもしれねえが、冬は冬でいいもんだ。暇なら遊びに来るといい」

 皆本の何気ない言葉に燕の肩が揺れた。

 ……冬に来ればいい。その一言が、ゆっくりと体に染みこんでいく。思わず力が抜けて、燕はその場に座り込んでしまった。 

「どうした、めまいか?」

「いえ……あの、皆本さんは俺が邪魔なのだとばかり」

「お前さんが不安そうに見えてな。馴れねえ島は辛いのかと」

「東京にやり残したことがあるんです。そのことで少し……」

 皆本が燕に向かって手を伸ばす。乾いたその手を掴むと、驚くほどの強さで引き上げられた。

「つまり、何か嫌なことから逃げてる、というわけだな」

 恐る恐る頷くと、皆本が微笑む。 

「台風のあと、なぜ魚が釣れると思う」

 皆本は杖で海を指した。青と緑の混じるその表面に、今は魚の影など見えない。

「台風の間、魚は海の底でじっとしてるんだ。そして嵐が去ったら顔を出す。まあ、だから入れ食いになるんだが。とにかく荒れてる時に顔は出さない。それをずるいと思うか?」

 皆本は目を細めて海を見る。そして燕の肩を軽く叩いた。

「俺は、賢い生き方だと思う」

 燕は魚が恐ろしい。

 魚の集う海の底を思うとぞっとする。

 ……しかし嵐の間、ダークブルーの海の底で沈む魚は賢く美しい。と、燕は思った。

「先生ぇ、こんな所におっちゃってかぁ」

 突然、背後から明るい声が聞こえて、燕ははっと顔を上げる。島の住人が、散ったゴミを集めているのだ。

「さっき先生の冷蔵庫にな、うどん置いといたわい。うちの打った麺やけんな、美味しいか分からんけどぉ」

 おう。ありがとうよ。と言いながら皆本は歩き始める。慌ててその背中を追うと、彼は相変わらずの健脚で、坂道をものともせずに上がっていく。

「皆本さんはこの島の出身ではないんですね」

「なぜそう思う?」

「訛りがないので」

「生まれは東京だよ。若い頃は風来坊でな、あちこちで絵を直すような仕事をしていたんだ。この島に本格的に腰を据えたのは10数年前だな。そのせいか、とうとう訛りは移らないままだった」

 海風を顔に浴びながら燕は考える。移住する人間は珍しくない。それでも、高齢での移住は珍しい。

 特に故郷でも無い島にわざわざ渡ってくるのは、少し奇妙な気がした。

 燕の顔に疑問符が浮いたことに気づいたのか、皆本が笑う。

「なんてことはない。ちょっとした縁でこの場所を譲ってもらったんだ。最初はすぐで出ていこうと思ったが、どうにも島の名前が気に入ってな」

 坂道の途中、皆本が壁にかかった看板を杖で叩く。花之島と描かれた文字の上にレトロな花のイラストが踊る、島でよく見る看板だった。

「なんでそんな名前か、知ってるか?」

「さあ……珍しい花が咲くからですか?」

「面白い話を聞かせてやる。こっちに来い。台風のあとの散歩にはちょうどいい」

 皆本がそう言うと、途端雲が途切れて青空が顔を出す。そして強烈な光とともにセミの声が復活した。

 容赦のない日差しが濡れた大地を乾かしていく。湿度の高い空気が体にまとわりつき、額から汗が溢れる。相変わらずの坂道に足がもつれそうになる。

 しかし皆本はまるで平地のように歩き始めた。

 かつて田中が言っていたように、体を少し斜めにして歩くのがコツなのだろう。真似てみると、足への負担が軽くなる。

「島に来て体力がついたろう」

「……おかげさまで」

 思えば息が乱れることなど、これまでの人生でほとんどなかった。

 照りつける太陽も潮の香りも疲れから前後不覚になって眠る夜も、この島に来て初めて経験したことばかりだ。

  律子へ話したいことばかりが積もっていく。どんな表情で彼女は島の話を聞くのだろうか。と、湿った風を受けながら燕はふと、律子の笑顔を思い出した。


「ついたぞ」

 突然足を止めた皆本に体にぶつかりそうになり、燕はよろけた。気がつけばそこは、坂道の終着点。花之島見晴台と立て看板が立てられている。

「こんな所、あったんですね」

「高い場所だからな。連れて行くのは慣れた頃がいいだろうと誠も言ってたな」

 開けたその先には、扇形に顔錆びた柵がつけられている。

 崩れやしないかと心配しながら身を乗り出せば、心地よい風とともに島が一望できた。

 遠目に広がる海。島影。砂浜で見る風景とは異なり、遙か向こうまで見渡せる。

 解体工事が進む緑の屋根も、誠が「みいちゃん」と呼んだ少女の家も見える。もちろん、皆本の工房も。

 見晴台の背後は山だ。緑がしげり、中には巨木もいくつか見えた。そんな木々に囲まれて古い建物も埋没しているようだ。

 赤茶けたレトロな屋根が、鬱蒼と茂る木の隙間に見える。

 以前、田中が言っていた古い学校かもしれない。随分前に廃校になったというなら、おそらく木造だろう。

 あの時、田中は山に入りこまれたら厄介だ。と言っていたが、地形を見て納得する。学校につながる山道はまるでジャングルだ。

 ただその木々が古い建物を守っている、そんなふうに見えた。

「あれは……学校ですか? 皆本さんが直していたという」

「ああ。でも近づくなよ。もうここ数年は触ってないからな。人の手が入ってない建物はもたないんだ……それより坊主、見てみな」

 燕の肩をたたき、皆本が眼下を指す。

「あの島の奥の崖っぷちにな、花畑がある。春になりゃあ、花が咲く。今は島の人間が管理してるが、花畑の始まりは100年以上も前だそうだ……当然、今と昔じゃ咲いてる花は違うだろうが」

 彼が指した場所は、海を望む小さな空間だった。確かそこは通称『夕陽の見える公園』である。

 今はもう使われていない古い灯台がぽつりと残り、海を見つめていた。

 その周囲は四角く区画が設けられていて、今は土しかない。しかしあの場所に花が一斉に咲けばそれは見事な風景だろう。と燕は思う。

「花の名産地だったんですか?」

「いいや。元々ここは流刑地だった。そしてこの山で、犯罪者たちが働いていたそうだ」

 皆本はぽつりと呟いた。

 ……その瞬間、急に寒い風が吹いた、そんな気がする。

「流刑地?」

「多くの人間が島から出ることなく死んでいった。家族も会いに来やしねえ。誰が考えたのか、そんな人間への手向けの花を植えたらしい。だから花の島、だ」

 燕は思い出す。最初この島にたどり着いた時、皆本は見事な花畑の絵を直していた。

 あの色であればいい、と燕は思う。寂しいシアンの空と海。そこにあの深い黄色があれば、どれだけ美しいことか。

「その花の色は黄色ですか」

「ああ。黄色のフリージアだよ」

 思わず尋ねた燕に皆本が優しく答える。

「幸せの色だ」

 そして皆本は優しく微笑んだ。


 18時を回ると、いつもどおり埴生の宿が流れる。台風で空気が澄み渡ったおかげか、音楽は明るく大きく聞こえた。

 いつもなら律子から電話が架かってくる時間だ。さりげなくスマホを見るが、着信はゼロだった。

 昨日から燕は何回か律子に電話をかけている。が、忙しいのか用事でもできたのか、彼女が電話に出ることはない。

 そのことが、小さなとげのように燕の中に引っかかっている。

「おい、坊主。これのどこに絵があるか、分かるか?」

 と。声をかけられ燕は慌ててスマホをポケットに突っ込んだ。

 見れば皆本は、依頼品らしいキャンバスをイーゼルに立てかけて燕を見ている。

「絵?」

 手を止めて燕はキャンバスを凝視した。それは有名な西洋画だ。ただし本物ではなく、印刷されたよくある複製画である。

「それが……絵では?」

「と、思うだろう?」

 にやりと笑って皆本が板に貼り付けてあった紙を、ゆっくりと剥がしはじめた。木枠に打ち込んでいた釘を外し、固まった画布をめくる。

 乾いた音と共に剥がれた紙の裏を見て、燕は「あ」と思わず声を漏らしていた。

「修復するにもまず、壊れた絵を見つけなきゃ意味がないんだ」

 複製画の裏に、もう一枚絵があったのだ。まるで隠されるように描かれているのは、瑞々しい女性の絵だった。それは古い鉛筆デッサンである。

 体に巻いた布が風にたなびき、恥ずかしそうに顔を伏せている。まだ20歳ほどの若い女性で、腹部が少し膨れている……妊婦だ。

 それはモノクロだというのに、まるで差し込む光がみえるような美しい絵だった。

「亡くなった人が最期まで手放さなかった絵だよ。でもただの大量生産された複製画だ。なんでそんなに大事にしているかわからないから、調べてくれ。と持ち込まれた」

 デコボコとした質の悪い紙に描かれているので、黄ばんで線も掠れている。しかも描いたあとにボードに貼り付けたせいで、上下左右が折れ曲がり、釘の跡も残っている。

 ……しかし、美しかった。

「この絵を見つけたのは誠だよ。あれは天性のもんだな。教えちゃいないが、隠れてる絵をすぐに見つけ出しやがる。なあ、大島」

 絵を見つめる燕を見上げて、皆本が首をかしげる。

「修復が怖いか?」

「いえ、あの」

「修復の作業をしようとすると、お前は一歩引くだろう。目はこっちを見ているくせに、手が拳だ」

 皆本がしわだらけの手で拳を作ってみせた。

 それを見て、燕は慌てて拳の力をほどく。爪が指に食い込むほど、無意識に手を握りしめていた。

 以前、川崎の絵を直そうと皆本が立ち上がった時。あの時も燕は固まってしまった。

 皆本は見ていないようで、細かいところまでよく見ている。

「そんなことは」

「嘘だな。坊主、お前は表情を押さえてるつもりかもしれねえが、俺には通じねえよ」

 皆本の指が不意に燕の頬を摘まみあげた。

 まるで誠にするように思い切り引っ張られ、燕は思わず苦笑する。悩んでいるのが急に馬鹿らしくなったのだ。

「……ある人に、修復師に向いていないと言われました」

「なんだい。そいつは神様か?」

 皆本は鼻で笑い飛ばし、古びた道具を机に並べ始める。

「人の話はな、半分聞いたら上等だ。相手の言う事をまるっと信じるなんざ、バカのすることだ」

 机の上に並ぶのは、ちびたヘラ、筆、布、綿棒。

「明後日帰るのに、何も教えてねえ。じゃお前んとこの所長に顔向けもできない。少しだけ、教えといてやる」

「疲れてませんか?」

「この年になるとな、体の疲れには鈍感になるんだ。まあ、無理だと思ったら切り上げるさ」

 道具の音、キャンバスの擦れる音。

 燕は息を止めて皆本の前に腰を下ろす。

 昨日とは打って変わって穏やかな風景だ。台風の後はこんなにも静かなのかと、燕は驚いた。


「すみません。お願いがあって来たんですが」


 来客は、そんな穏やかな時間に滑り込んで来た。

 開いた扉の向こうに、男が一人が立っている。その顔を見て燕は思わず立ち上がった。

「……あなたは」

 それは眼鏡の男だ。

 いつもすれ違っていた、あの男がいつもの鞄を持って立っているのだ。

 ようやく会えたかと、燕は安堵する。同時に、これほど皆本に直して貰いたがっている絵とはどんなものか興味がわく。

 燕は急いで半分落としていた電気をつけ、イーゼルを整えた。

「皆本さん、お客さんです」

「おう。ちょっと最近色々とつまり気味でな。時間がかかるが……」

「それでもいいんです」

 ……しかし男は、燕の顔を見ることもなく通り抜け、皆本の前に立つ。

「あなたに見てほしい絵があります」

 男は鞄から、一枚のキャンバスを取り出した。3号サイズで、実際はそれほど大きくないはずだ。しかしキャンバスサイズ以上に重く大きく見えた。

 描かれているのは重苦しい色の風景画。

それを覗き込んだ皆本の腕がぶるりと震える。そして、まるでまっすぐ立っていられないように彼は椅子に崩れ落ちた。

「皆本さん?」

「……直せない」

 これまで聞いたこともないような低く、小さな声だ。まるで絵を恐れるように顔を背け、腕が白くなるほど掴んでいる。

「直せないんだ」

「皆本さん、大丈夫ですか?」

「……大悟!」

 燕が皆本の体を支えようとした瞬間、また声が聞こえた。それは眼鏡の男よりも激しい声だ。

 音をたてて誰かが工房に踏み込んでくる。

 振り返れば、誠の父がそこにいた。


「誠はどこだ」

 加納の顔には怒りがある。先日燕に見せた優しい父の顔は、すでに消え去っていた。

彼は眼鏡の男を押しのけて皆本に近づく。

 咄嗟に皆本をかばうよう間に立つが、彼は燕など目にも入っていないようで、あっさりと押しのけられる。

「誠をどこに隠した」

「……家に帰ったはずだ。今日は見てない……」

 呆然と呟く皆本を、加納は鋭い目で睨んだ。

「いや、いない。朝からずっと。家から消えた。ここに隠してるんじゃないのか」

「止めてください」

 今にも皆本につかみかかりそうな加納をみて、燕は思わず彼の前に立ちふさがる。加納の前に立つと、彼は一瞬たじろぎその目が泳いだ。

 やがて加納は、小さく舌打ちした。

「犯罪者のくせにのうのうと、人まで雇ってるとはね」

 ここは流刑地だったのだ。

 そんな皆本の言葉を燕は思い出した。

 ……あの時、皆本は自嘲するように笑っていなかったか。

「君も騙された口だろう。だから教えてやる」

 加納は燕の肩を掴み、揺さぶる。食い込んだ指がぎりりと痛い。しかしそれよりも皆本の顔色の悪さが怖かった。

 あれほど力強かった男が、ただただ椅子に座ってうなだれている。

「皆本さ……」

「この男は贋作家だ」

 男の声が嫌味なほどはっきりと響いた。

「俺たちの父親の絵を奪った、贋作家だ」

 せめて埴生の宿が流れているときであれば、彼の声は紛れたかもしれない。

 しかし、こんな時に限って音がない。

 いつもあれほどうるさい田中は不在だ。

 外の風は凪ぎ、雨の音もない。セミもいつのまにか鳴くのをやめた。台所でいつもうるさく響く冷蔵庫さえ今日は静かだ。

 だから声がやけによく響く。

「贋作をやる男だよ」

 加納は笑うように言って、燕の肩から手を離した。

「犯罪者のくせに、うちの息子をたぶらかすのはやめてもらいたい」

 吐き捨てるように加納が言う……その時、階段から音が響いた。

 二階に繋がる階段の隅。薄暗いそこに小さな影が見える。

 振り返った燕は唇を噛みしめた。

「……誠」

 階段の隅、青白い顔で固まっているのは誠だ。

 いつからそこにいたのか。彼は目を見開いたまま、皆本を見つめていた。


 もう外からは雨の音も風の音もしない。

 開いたままの扉の向こうには夜が来ていた。街灯などないこの島は、夜になると自分の手の先さえ見えないほどの暗闇になるのだ。

「皆本さん大丈夫ですか」

 扉を締めながら燕は尋ねた。

 皆本はいつもの椅子に深く腰をおろし、杖だけを握りしめている。

 いつもなら彼は真っ直ぐ顔を上げて座る。しかし、今日はまるで消え入るようにじっと腰を丸めて座っていた。

「誠は?」

「父親と一緒に帰りました……多分、家に」

「そりゃあ、よかった」

 あの騒ぎのあと、加納は恐ろしい勢いで息子の手を掴むと、何も言わず立ち去ったのだ。この工房に残ったのは燕と皆本と……あと一人。

「失礼しました、名乗りもせず」

 眼鏡をかけた男が、部屋の隅にまだ残っている。

 燕の顔に緊張が浮かんだことに気づいたのか、彼はゆっくりと頭を下げる。

「私は加納……大悟です。先ほどの景吾は兄、誠は私の甥っ子です。ご存知かと思いますが……」

 大悟と名乗ったその男は、先ほどのキャンバスを皆本の眼の前に置いた。

「加納祐二。あなたが20年前、贋作を行った画家の息子です」

 それは先程ちらりと見えた、暗い色調の風景画である。

 夕刻、雨の降る沼を描いているのだろうか。どんよりと暗く、重い。真ん中で一輪だけ咲く蓮の花が鮮烈な色をしていた。

「この絵、残っていたのか。もう捨てたと思っていたが」

「あなたの作品ですね」

「贋作だよ」

 皆本は手を伸ばし、恐る恐る絵に触れる。その指先の皺を見て燕は息が苦しくなった。 

 燕は贋作の恐ろしさや凶悪さを知っている。しかしその響きは、どうしても皆本にそぐわない。

「皆本さん、あなたは」

「贋作をやった馬鹿な男だよ」

「嘘ですよね」

 思わず声が震える。と、皆本は静かに首を振る。

「嘘はつかないさ。最初にやったのは、お前さんくらいの年の頃だったか。絵が中途半端に描けたせいで悪い奴らに褒められ浮かれ調子に乗った。結果はどうだ。大切なものをごっそり失った」

「大切な物?」

「……家族だよ」

 皆本はしわの寄ったまぶたを震わせ、どこか遠くを見つめる。が、彼は静かに首を振った。

「いや、それはどうでもいい。そのあと40年もあちこちうろうろして、禊をしていたはずなのに、60を超えて性懲りもなくまたやった。ここにある絵だ」

 皆本はふと微笑み、燕を見つめる。

「大島、腹が減った。うどんを作ってくれ……卵を入れてな」

 皆本の言葉は柔らかいが断固とした強さがある。燕はそれ以上何も言えず、薄暗い台所に向かった。

 いつも台所に立つのは昼の明るい時刻だけだ。

 誠もいない、田中もいない、夜はこんなにも恐ろしくて暗い。

「ああ、お前の顔を思い出したぞ。祐二の葬式んときにいた、下の坊主だな。随分りっぱな大人になったもんだ」

「父が亡くなって、20年以上が経ちました」

 二人の姿は遠くなったが、声だけははっきり聞こえた。

「祐二も、俺があんなことをしなけりゃ、もう少し長く生きたかもしれねえ。誠を抱かせてやれたかもしれない。俺のせいだ。恨まれて然るべきことをした」

 燕は音を立てないように鍋を取り出し、冷蔵庫を覗き込む。

(……うどん、野菜、惣菜……増えてる)

 青く冷える冷蔵庫の中に、見覚えのない食材が増えていた。

 近所の人たちが入れてくれたのだろう。うどんに野菜、その他細々としたものがパズルのように詰まっている。

 それを見て、燕は律子の家を思い出した。

 彼女の家にもいまだに多くの元教え子から食材が届く。届く食材の量は、人望の厚さだ。

 皆本もこの島で、多くの人に愛されているのだ。

(出汁まである)

 冷蔵庫の一番上、ボウルに入っているのは黄金色の出汁だった。

 この付近は、イリコと呼ばれる煮干しで出汁をとる。その濃い黄金色は冷蔵庫の中で輝いて見えた。

 出汁を鍋に移し、コンロに火をつける。と、台所が少し明るく染まった。

 同時にコクのある独特な香りが広がる。

「皆本さん。私はあなたを糾弾にきたわけじゃないんです」

 大悟の緊張するような声が聞こえ、燕は思わず火を止める。そして音を立てないよう、部屋を覗き込んだ。

 真っ白な光の中、落ち窪んだような水彩画だけが異質だった。

「私は兄と違って絵に興味がありません。そのせいでしょうか、冷静に調べることができました。大昔……あなたが20代に起こした事件、贋作の腕前は一流だったそうですね。皆、本物と信じ込んでいたくらいに」

 皆本は表情を変えず、椅子に座ったまま。

 大悟はそんな皆本の前にキャンバスを近づける。

「だから逆に気になりました」

「何がだ?」

「後年の父は画家としては下火です。贋作など作っても売れないでしょう」

 すう、と息を吸い込み、大悟は皆本を見つめた。

「教えて下さい。なぜ、そんな父の絵を描いたんですか」

 しかし、皆本はすっと視線をそらす。常に絵に向かい続けてきた彼にしては珍しい態度だった。

「20年前、父は思い悩んで亡くなりました。兄は贋作のせいだと決めつけていましたが、違うはずだ。だって贋作は世に出る前に見抜かれました。父の名誉は傷ついちゃいない」

「……罪はな、卵みたいなもんだ」

 ぽつり、と皆本がつぶやく。

「卵?」

「例えばうどんに卵を入れてみろ。どんなに綺麗に浮かべても、ゆっくり落ちて鍋底にくっつくだろう」

 燕はコンロを見る。出汁の中、あそこに卵を一つ落とせば最初こそ黄身は柔らかい白身にくるまれる。 

 しかし時間の経過とともに気がつけば卵は底に沈んでいく。そして沈んだ卵は、鍋底にかすり傷のような跡を残すのだ。

「罪ってのは鍋底にくっついた卵だよ。上から見てもわからねえが、底にはひっついて離れない……それこそ、一生」

 籠に盛られた卵を見て、燕は逡巡した。ここに卵をいれるか、どうか。

 しかし、そんな心配をする燕の背後で、大悟の激しい声が響く。

「皆本さん!?」

 振り返ると、椅子に座っていた皆本がゆっくりと床に崩れ落ちていくのが見えた。燕は慌てて台所を飛び出し、彼の体を支える。

 掴んだ皆本の腕は古い枝のように細く乾ききっていた。

(さっきまで、あんなに穏やかだったのに……)

 燕はほんの10数分前、夕刻の時刻を思い出す。

 台風の後は、こんなにも静かになるのかと、驚いたものだ。

 しかしそれは勘違いだ。と、燕は今更になって気がつく。

 静かなのは嵐の後ではない……前なのだ。

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