苦みと甘みのコーヒーかき氷
台風が予報を外れ四国方面に流れてきている。
朝のニュースはその話題でもちきりだった。
大きな板をしっかりと窓に打ち付ける。その作業は思ったより重労働で燕は流れる汗を腕で拭った。
顔を上げると、普段は静かな海に白い泡が立っているのが見える。風が不気味な音をたて海を揺らしているのだ。
風は時刻とともにどんどん強くなり、木も大きくしなり始めている。
燕はひさしにかけられていた修復工房の看板を取り外し、他にも吹き飛びそうなものがないか確認した。
(建物ごと吹き飛んでしまいそうだ)
そんなことを考えながら、燕は地面に投げ出してあるスマホに視線を送る。
そこからは本日5回目となる、ベートーヴェン『運命』が大音量で流れていた。
「……ああ、やっと出てくれた」
渋々とタップすると、途端に嫌味な声が響く。想像通りの声に、燕はスマホを耳から遠ざけた。
「大島君が電話に出てくれないと、先生に愚痴を漏らしてしまう寸前でした」
かけてきたのは柏木だ。整髪料の香りが電話越しに流れてきた気がして、燕は少しだけ息を止める。
「そちらの生活も10日目になりますが、いかがですか。少しは協調性と社交性が育ったんじゃないですか?」
「急用でなければ切っていいですか。台風対策に忙しいので」
相変わらずの口調に、燕の声もついつい尖った。が、彼は気にもしないように続ける。
「いえ、今回は喧嘩するつもりじゃないんです。ちょっと確認をしたいことがありまして」
声が響いているので、彼はいま倉庫のような場所にいるのかもしれない。
カタカタと音が響いているのは、キャンバスを整理しているのか。
この夏以降、律子は絵を家ではなく別の場所に保管している。そのことに燕は気がついていた。
個展の文字がまた燕の脳裏に浮かんだ。
柏木も律子も秘密が好きだ。いつもそうして燕を驚かせようとする。微笑ましくもあるが、腹もたつ……特にこんな離れた場所にいる今は。
燕は肩でスマホを肩と耳で挟んだまま、わざと音を出して板を打ち付け、袋に詰まったゴミをまとめる。が、柏木は気づかないように言葉を続けた。
「実は先生宛に額縁入りの絵が届きました。差出人の名前がなかったので、君が送ってきたのかと思いまして」
「俺が? 荷物を?」
燕は道具を片付けながら空を見る。どんよりと雲が重く、緞帳のように垂れ下がっている。近いうちに雨がふり始めるのかもしれない。
島の暮らしが10日続くと、雲を見るのに長けてきた。代わりに荷物の発送などの一般的な作業のやり方を忘れつつあるのが不思議だ。
「いえ……こっちからは何も。また律子さんの元教え子からの贈り物じゃないんですか」
律子のアトリエは住所を公開していない。贈り物をしてくるのは、主に律子の元弟子たちだ。イベントごとに食材が届くことは日常茶飯で、手放した律子の絵を見つけ出して送ってくれることもある。
「絵を送ってくる。よくあることじゃないですか」
「しかし、これは絵……といえるのかどうか」
柏木には珍しい歯切れの悪さだ。しばらく言い淀み、彼は困ったように言葉を足した。
「……真っ白なんですよ」
「白い?」
その奇妙な言葉に燕はスマホを耳に押し当てる。
「何も描かれていない、ただのキャンバスだけですか?」
「古いものらしく、随分黄ばんでますので真っ白というわけではありませんが……確かに四国にも教え子はいますので、そちらかもしれませんね。後はこっちで調べます」
「ちょっと待」
しかし柏木といえば用は済んだと言わんばかりに電話を切った。待って。と言った燕の声だけが虚しくスマホにあたって返ってくる。
「燕、それ苦虫を噛み潰した顔っていうやつだろ」
顔を上げると、誠が工房の2階から顔を出していた。雨戸を閉めると言って2階に上がったはずなのに、昼寝でもしていたらしい。顔に畳の跡がついている。
「電話の相手って嫌なやつ?」
「世界で一番性格の悪い男だ。ところで皆本さんたちは?」
「師匠は朝の船で病院にいった。台風で船止まったら薬もらいに行けないからって。青のやつは仕事。急ぎで上司とウチアワセって、こっちも昼の船で出てった」
道理で静かなはずだ。と燕は納得する。
「でさ、燕。俺が寝て……じゃない。2階にいる間に客は来た?」
「ああ、いつもの人が」
燕は板の残りを窓に打ち付けながら海を見つめる。
今日もまた、いつもの眼鏡の男が早朝にやってきたのだ。
早朝なら会えると踏んでいたのだろうか。居ないと告げられひどくショックを受けていた。
「噂のメガネの人? その人、いっつもタイミング悪いよな。このまま一生会えなかったりして」
意地悪く笑い、誠は窓枠に肘を置く。そして気持ちよさそうに風に髪を遊ばせた。
「あーあ。青のやつ、かき氷機を貰ったから、すきなだけかき氷作ってやる。なんて言ってたのに、無視して出ていきやがって。あいついっつも言うだけなんだから」
彼の見つめる海にも坂道にも、見渡す限り誰もいない。そもそもこの島は人が少ない。海水浴客が途切れると、島は一気に静かになるのだ。
ましてや今日は台風の直前だ。客など来ないだろう。
島に来て、休み無くこき使われて10日経った。
ようやく一息つけそうな空気に燕はほっと息を吐く。
研修が終わるまであと数日しかない。
自分用のスケッチも律子へ土産代わりに描く絵も、まだ一枚も仕上がっていないのだ。今日こそ描ける、そう思うと心が少しだけ浮き立った。
海の青を律子は好むだろう。しかし嵐が迫る複雑なグレーとブルーの境目の色も喜ぶに違いない。さて、何を描くか。決めあぐねて顔を上げると誠が不機嫌な顔で唇を尖らせている。
「燕、なんかいいことあった?」
「いや……誠は不機嫌だな」
「かき氷のことだよ。かき氷にかけようとおもって、苦いコーヒーシロップ買ってきたのに」
「コーヒー味なんて食べられないだろう?」
「今の小学生なめんな。苦いのくらい余裕だって……あ!」
と、誠が思い切り立ち上がり、道の向こうを指さした。
「誰か来てる。もしかして噂のメガネかも」
その視線の先を追えば、大きな荷物を抱えて坂道を上がってくる人影が一人。
「燕。俺が代わりに話を聞くから、扉開けとけ」
心安らかな休日は泡沫のように消えた。と、燕は誠に聞こえないように小さく舌打ちをした。
「なんや爺さんおらんのか。前に直してもろうた絵やけどな、どうも額縁がガタガタで合わんのや」
地響きのような声に燕と誠は思わず目を合わす。
残念ながらやってきたのは、常連と名乗る男だった。
彼が取り出した大きなキャンバスには穏やかな水彩画が描かれている。絵はともかく、新しい額縁の具合が悪いのだ。と男は口をとがらせた。
「あとな。裏の落書きは孫のやけん、直さんでええわい」
彼は長々と文句を言いながら麦茶を5杯も飲み干したあと、ようやく腰をあげる。壁掛け時計を見ればもう昼過ぎだ。
男の持ってきた絵を見れば、なんてことはない。額縁の後ろを止める金具が全て折れ曲がっているだけだった。
「誠、これ額縁の留め金が壊れてる」
「そ。あの爺さん、師匠と話するためにこうやって何かしら壊して持ってくるんだ」
誠は当然。といった顔で肩をすくめた。
「今回は孫の描いた落書きを自慢したかっただけだと思う」
そして誠は額縁から絵を取り出し、絵をじっと見つめる。
「金具全部なおしても、どうせまた金具壊して持ってくるよ。あの人いつもそうだから」
急に吹き付けた風のせいで窓が揺れるが、打ち付けた板のおかげで工房の中は静かだ。
窓を打ち付けるための板も誠が用意した。雑に見えて、彼は器用な所がある。
「誠も修復師を目指してるのか?」
「んー。絵が壊れてるところ見つけたりするのは向いてるって言われるけど。俺、勉強キライだしなあ……あ、この絵。島の風景だ。ここが海で、んで。ここが師匠の工房。よく描けてんな」
彼は絵をひっくり返し、指差す。それは男の孫が描いたという落書きだった。砂浜から見た島の風景がのびのびと描かれている。
それを見つめて、誠は悔しそうに唇を尖らせた。
「……でも泥棒は描かれてないな」
「泥棒?」
「この島、防犯カメラないだろ。だからさ、最近の絵に泥棒が描き込まれてないかなって。最近チェックしてんだ」
また『泥棒』だ。と燕の手が止まった。
この島に来て10日。その不穏な言葉を100回は聞いたような気がする。
工房から一枚、絵が盗まれた。そんな話である。
しかし、島の人はこの平和な島で泥棒騒ぎなど聞いたこともない。と誰もが口を揃えた。被害者であるはずの皆本も、それが依頼品ではなかったせいか、特に気にする素振りもない。
大騒ぎをしているのは誠一人だけだ。
「警察に任せておけばいいだろ」
「だって、それは……」
その途端、誠の顔色が変わった。しかしそれは燕の言動のせいではない。
彼の視線はまっすぐ扉を見つめている。締めた扉の向こうに人の気配があるのだ。
思わず立ち上がった瞬間、玄関から低いブザーの音が鳴り響いた。
扉を開けると、酸っぱいような香りが広がる。それは雨が降り出す寸前の匂いだ。
そんな雨の香りとともに飛び込んできたのは中年の男性だった。その顔を見た瞬間、燕は納得する。
「……もしかして、誠君のお父さんですか」
男は島ではめったに見ないくたびれたスーツ姿だ。しかし少し垂れ目がちなところが誠によく似ている。
燕の言葉に、男性はますます垂れ目になって微笑んだ。
「ああ。良かった。誠、ここにいるんですね。家に行っても誰もいなかったので、あちこちに聞いたところ、この家にいると聞いて……申し遅れました。誠の父です。失礼ですが、あなたは?」
「大島といいます。誠君は……」
燕は振り返り、眉を寄せる。
先程までそこにいたはずの誠がもういない。代わりに、椅子を引きずる音が台所から小さく響いた。
(台所か)
彼を父親の元に引きずり出すか、どうか。しばらく迷って燕は首を振る。
「用事があって今朝、市内に出ました」
「もしかしてあの子、怪我とか病気とか……」
「いえ、元気なものですが?」
「……良かった。電話にも出てくれないので、どこかで倒れてるんじゃないかと、島に着くまで気が気じゃなくって」
燕の言葉に、彼は長い溜息をつき汗を拭った。
「ここ数ヶ月あの子を島の母に預けていたんです。その母が二週間ほど前に倒れて入院したって言うじゃないですか。出張で家を離れていたせいで、病院から連絡を受けたのが昨日でして……誠も誠ですよ。連絡もせずに」
安心したのか男は一歩、工房に足を踏み入れた。そして興味深そうに室内をキョロキョロと見渡す。
「幸い母の発作は収まりまして、まもなく退院だそうです。元気なら私に連絡をしてくれたらいいのに、忘れていたなんて言うもんだから大喧嘩ですよ。で、今日になって大急ぎで迎えに来たんですが……」
男の言葉が不意に止まった。彼は壁に掛けられた看板を見たのだ。
それはいつもは表にかけられている『皆本修復工房』の看板である。台風のために中に入れたおかげで、その文字は外で見るよりはっきりとよく見えた。
「……皆本?」
ここに来たのは初めてなのだろう。彼は壁にかけられた絵や、部屋のいたるところに散らばる絵の具を一通り見つめる。
そして最後、動揺するように燕を見た。
「ここは……皆本さんという方の工房なんですか? 絵を描く?」
「いえ、ここは壊れた絵画などを直す、修復工房です。誠君もその手伝いを」
「あなたはここの社員さん?」
「研修生です。期間限定の」
そう。と彼はつぶやき、口を閉ざす。先程までの人の良さそうな表情は一変し、口元がこわばり、目の奥が曇って見えた。
彼は机に置かれた手紙を横目で見る。それは画廊から届いた謝礼の手紙だ。それを見て男の顔がゆっくりと歪んだ。
「評判……なんですね」
先ほどまで浮かべていた穏やかな顔つきが、少しずつ剥げ落ちていく。その顔を見て、燕は引っかかりを覚えた。
その顔を、その表情を、燕はどこかで見たことがあるはずだ。
しかしそれを思い出すより前に、男は燕に背を向けた。
「今日は帰ります。すみませんが、誠が戻ってきたら島の家に戻るように伝えてください」
扉を開けると先程よりも風が一段と強い。雨混じりの風に、男が顔を伏せる。そのせいで彼が呟いた一言はきっと、誠には聞こえなかっただろう。
「……騙されてるんだ、みんな」
男は、そんな言葉を一言吐き捨てた。
「もう行った?」
男が去ってたっぷり10分。誠が気まずそうに台所から出てきたとき、外はもう豪雨になっていた。
台所の扉から顔を半分覗かせたまま、誠は唇を尖らせる。
「なんだ。燕でもあんな大人っぽい対応できるんだ」
「大人だからな」
散らばったままの絵の具を片付けながら燕は苦笑する。
初めて出会った人間とスムーズに話をするなど、三年前の自分が見ればきっと驚くだろう。
慣れたのは喫茶店のアルバイトのおかげである。
しかし、いまだに慣れないこともある……相手の気持ちにどこまで踏み込んで良いのか、ということだ。
「青のほうが、そういうの得意だと思ってた。いい加減なこと言ってさ、なんていうの、ほら」
「煙に巻く?」
「そうそれ。もし親が来たらさ、青をぶつけとけばいいや。ってそう思ってたのにな。燕もできるんだ、そういうの……うん……その、びっくりした」
誠の軽口は冴えない。目は燕を見ようともしない。溺れる魚のように口を開き、やがてゆっくり閉じる。
それを見て、燕は立ち上がった。
三年前の自分が見たら驚くことはもう一つだけある。
「誠、かき氷食べるか?」
ときに食事が人を救うことがある、と知ったことだ。
風が斜めに吹いて、トタンの屋根を揺らす。雨が壁に当たる音が聞こえる。
燕がいつものように台所に立つと、誠も静かについてきた。
そして戸惑うように隅っこで、膝を抱えて座り込む。
(これがかき氷機か……)
台所の机には青緑に輝く手動のかき氷機が鎮座していた。田中が貰ってきたというものだろう。まるで骨董品のような重量感で、台所に青い影を落としている。
真ん中に氷を押さえるバネがあり、手回しで氷を削るタイプのものだ。隣にはこれ見よがしに無糖のコーヒーシロップが置かれていた。
「俺のせいなんだ」
やがて、誠がぽつりと口を開く。
「師匠の絵、盗られたの」
燕はなんと答えるか少し迷い、結局口を閉じた。
誠は燕に解答を求めていない。
だから燕は冷凍庫から特大の氷を出してバネの下に置いた。
ぐっと力を込めてハンドルを回すと、抵抗は一瞬だけ。引っかかりを超えると軽快に氷が回り、涼しげな音と共に氷が皿の上に積もっていく。
「俺さ、が……学校で……」
燕に聞かせたいというよりも、自分に言い聞かせるように誠の小さな口がゆっくりと開かれた。
だから燕も彼の喋るペースに合わせて氷を削る。
「あの……あのさ」
しゃくしゃくと、心地よい音が蒸し暑い室内に響いた。
「俺、さ……いじめっていうか」
しかし、誠の言葉はそんな清らかさとは遠くかけ離れたものである。
「いや、そんな大したことじゃないんだけど、でもすげー嫌な奴がいて。俺が時間かけて作ったプラモデル壊されてさ」
積もった氷の上に燕はコーヒーシロップに手を伸ばす。が、その前にこっそりと冷蔵庫から練乳を取り出した。
「……で、そこから学校が嫌になって。ずっと学校サボってたんだけど。でも親父のやつ学校行け行けうるさいし。で。俺、ばーちゃんち行くって立候補したんだ。親父、婆ちゃんのこと嫌ってて、あんまりここに来たがらないからちょうどいいやって。で、もうプラモデルもどうでもよくなってさ。海に投げ捨てようとしたんだけど、そしたら師匠と会って……」
「皆本さんが直した?」
燕の言葉に誠は小さく頷く。
「……捨てたら、もう二度と手に入らないって怒られて」
燕は想像する。この島に来たばかりの誠はきっと、絶望していたのだろう。絶望は気力をそぎ落とす。
燕も三年前に、それを経験した。
「でさ、俺。暇だし師匠のとこ、通うようになってさ。留守番も任されるようになったんだ」
それで。と彼は少し口ごもった。
「一ヶ月くらい前かな。昼寝してる間に絵を盗まれた。依頼された絵じゃなかったけど、師匠が大事に少しずつ修復してた絵。もう何十年も直してるって言ってた、一番大事な絵」
誠は2階に繋がる階段を見た。2階で眠っていた彼は異変に気付き、この階段を駆け下りたのだろう。しかし間に合わなかった。扉は開かれたまま。一階にあった絵は消えている。
その時の絶望と恐怖はきっと、彼にしかわからない。
「皆本さんは怒ってないだろう」
「でも俺の責任だから。だから絶対泥棒捕まえて、絵を取り返すんだ。だから家に帰れないんだけど、親父は絵が大嫌いで、どうせ言っても分かってくんないし」
言い訳をするようにつぶやく誠の姿は、まるで自分だ。と燕は思う。
サインから逃れるために研修にしがみついている燕。
学校から逃れるためにこの島にしがみついている誠。
「……あの親なら、ちゃんと話をすれば分かってもらえると思う」
自分でもできないことを言いながら、燕は誠に氷の積もった皿を差し出した。
「本当に?」
燕が思い出したのは、誠父の靴だ。
彼の足元は砂と雨にまみれてドロドロになっていた。誠がここにいると聞いた時、本心から安心しきった顔をしていた。
それは息子を心配する父の目だった。
「探しに来てくれる親は良い親だと思う」
……少なくとも、と燕は心の中で続ける。
(大学から逃げ出して行方不明になった息子を探しもしなかった、俺の親よりは良い親だ)
気がつけば、真っ白い氷に黒いシロップがたっぷりとかかっていた。じわじわと黒いシロップに白い氷が浸食されている。
苦みが強いかき氷だ。
しかしその中に、練乳を仕込んだことを誠は知らない。
誠は恐る恐るスプーンを差し込み、しゃくり。と冷たい音を立てて氷を噛み締める。
「……ふうん。コーヒーシロップ、全然余裕じゃん」
誠はこれまでの表情を隠して、いつもの軽口で燕に向かって満面の笑みを浮かべてみせた。
時間が経つごとに、風はどんどんと強くなる。
今日の船は次の便が最終だ。と島内の放送が流れるのと同時に皆本から着信があり、うまく船に乗り込めたという。
誠といえば、言いたいことを言ってすっきりしたのか、床の上でぐっすり眠りこけている。
絵を一つのところに固めて、その前で番でもするように眠っているのは、盗まれた一枚が相当悔しかったせいだろう。
燕は自分用に削った氷の上に、コーヒーシロップだけをかけてみる。色に引っ張られるのか、その味はひどく苦く苦しい。
(……話し合う、か)
恐る恐るポケットから出したのは黒いスマホ。画面を見ると、父からの不在着信の履歴が見えた。
それを無視して、燕は律子へ電話をかける。
コール音はきっかり3回。
電話など無視しそうな律子だが、案外着信音を聞き逃さない……というのが島に来て知った新たな彼女の側面だった。
「燕くん?」
「律子さん」
律子の声が少し薄暗く聞こえ、燕は思わず立ち上がる。
「律子さん、大丈夫ですか?」
叩きつける雨の音の向こうに、小さく音楽が聞こえたのはその時。いつもの夕刻を知らせる『埴生の宿』だ。
夕刻、埴生の宿が流れる頃に律子へ電話をかける。それは、気がつけば習慣化していた。
柔らかい埴生の宿が今日は雨のせいか、どこか薄気味悪く響く。
「大丈夫よ。なぜ?」
「いえ、声が……」
スマホを耳に押し付け、彼女の吐息さえ逃さないように耳を澄ます。
「燕~」
しかしそこに、邪魔をするような誠の声が響いた。目を覚ました誠が扇風機に口を当てて叫んでいるのだ。
「口んなか苦いんだけど。なんか甘いもの食べたいから作って」
「俺が電話してるの見えないのか。後だ後」
「じゃ。いいや。家に帰る。父さん、いるんだろ」
「ちゃんと話し合えよ」
スマホを押さえたまま、燕は誠の背中に向かって言う。が、彼はひらひらと手を振って雨の交じる坂道を駆け上っていった。
扉が閉まると工房は恐ろしいほどの静けさに包まれる。
先ほどまで吹き荒れていたはずの風の音は急に凪いだ。
かき氷機から氷の溶けるぽたりぽたりという音だけが響く。
「燕くんが楽しそうで良かったわ」
その静けさの中、柔らかい律子の声が響いた。その声を聞いて燕は安堵する。律子の声はいつもどおりで、そこに暗い影はない。
おそらく黒いシロップを見ていたせいで、気持ちが引きずられてしまっただけだ。
「楽しいわけじゃないです。毎日こき使われて」
ゆるゆると燕は腰を下ろす。
見渡せば台所の片付けも、部屋の片付けもある。思えばこの島に来て、片付けばかりをしている気がする。
「生意気な子どもがいるんですよ。夏生みたいな」
燕の言葉を聞いて律子が少しだけ楽しそうに笑った。
「この夏から燕くんは大忙しね。カルテットキッチンに、島の生活に。拠点がいっぱい」
「拠点?」
「人ってね、拠点をいっぱい作るほうがいいのよ。新しい場所、新しいお友達……燕くんが息をつける場所」
「僕には律子さんのアトリエ以外、ほかの場所は必要ないです。早く帰りたいです」
そうかしら。と暢気な口調で律子が言う。今日は珍しく彼女側から筆の音がしない。そのことが燕のどこかを不安にさせた。
「東京は平気かと思いますが、もし台風が近づいたら外に出ないでくださいね。スケッチは家の中で」
台風、と口にした瞬間。燕は水の香りを思い出す。そうだ。あの水族館の絵画教室は台風が迫る日に行われたのだ。
だから閉館がいつもより早くなり、急かされた。
水族館の中にいても響く風の音が恐ろしかった。
台風の風が壁を突き破り、水槽を壊し魚があふれるのではないか。そんな妄想を抱いた。
だから筆が止まり、早々に片付けをはじめてしまったのだ。
誰より早く立ち上がった燕のことを、父が軽蔑するような眼差しで見つめていた。
その眼差しを燕はつい先程も見た……そのことを急に思い出す。
(誠の……父親の目……)
あの目はかつての父と、同じ色を持っていなかったか。
「燕くん、あのね、私ね」
「律子さん、すみません」
電話の向こう、律子が何かを言いかける。が、その前に燕は立ち上がっていた。
「少し用事ができました。またかけ直します」
燕は電話を切りながら外へ駆け出す。大粒の雨が燕の顔を叩いたが、それを振り払ってあたりを見渡した。
しかしもうそこには誠の姿はない。
ただ埴生の宿の最後一小節だけが、ゆっくりと流れてた。
台風が近づく空は、コーヒーシロップのようにどんよりと濁った黒の色である。




