追憶のグリーンそうめんチャンプルー
燕は魚が恐ろしい。
ふと顔を上げれば、巨大な魚がこちらをじっと見つめていた。
水槽のガラスに隔てられているとはいえ、ぶつかればガラスなど簡単に砕けてしまう気がする。
恐怖に足がすくみ燕は一歩、後退した。
ひやりとした空気が肺まで冷やすようだった。
緑色の誘導灯がチカチカと不規則に輝き、消火栓の赤いランプが煌々と光っている。
「……水族館?」
周囲を見渡し、燕は呟いた。
円柱の水槽に囲まれたここはまるで海の底だ。
藻がはびこる暗いグリーンの世界で、魚たちが動きを止めて燕を見つめている。
気づけば客は誰もいない。水槽の前に残るのは燕だけ。
そのせいだろうか。魚たちが四方八方から集まって燕を覗き込んでくる。焦点の定まらない目がぼんやりと燕を見つめてくる。
驚いて立ち上がると、膝に置いておいたスケッチブックと鉛筆がリノリウムの床に転がった。
拾い上げようとして燕は、はたと気づく。
(魚が大きいんじゃない)
燕が幼いのだ。
スケッチブックに描かれた魚の絵はぐちゃぐちゃで形になっていない。
ただ絵の端には『選外』という赤い陰影が見えた。
選ばれなかった、認められなかったその絵を、魚たちが感情の無い瞳で見つめている。
「燕」
泡を吐き出しながら魚が燕の名を呼んだ。
「お前には無理だよ」
魚が恐ろしいほどはっきりと、燕に向かって口を開いた。
「自分の絵もまともに描けないくせに」
魚は燕の絵を見つめている。線がぶれてぐちゃぐちゃになった絵を。
思わず後退するが、後ろは水槽だ。どこにも逃げられない。悲鳴もあげられず、燕は呆然と目の前の魚を見つめる。
「お前に人の絵なんて直せるはずがない」
呟く魚の顔は、父に似ていた。
「……!」
その瞬間、燕は覚醒した。
浅い息を繰り返していたせいか、息が苦しく鼓動が早い。
まず見えたのは、見覚えのない天井だ。
律子と暮らす東京の天井は、彼女のせいで色鮮やかに塗りつぶされている。が、ここの天井は、古ぼけた木肌が広がるばかり。
いつもと異なる天井を見上げるのは、数年ぶりのことだった。
「おはよ。燕。言っとくけど、工房の始業時間は朝6時だからな。もう2時間近く遅刻だぞ」
突然聞こえた声に驚き、燕は飛び起きる。が、声の主を見て燕は頭を押さえた。
枕元に田中と誠の顔が座り込んでいる。
……ただし、二人ともその顔は絵の具で汚れているが。
「田中、あの」
「燕。気になることは口に出した方がいいし、多分聞いてくれた方が俺らも言いやすいから」
あぐらをかいた田中が真っ白な手のひらを見せつけてくるので、燕は渋々と口を開いた。
「なんでふたりとも絵の具を被ってるんだ?」
枕元でふて腐れたように膝を抱える誠と、疲れたようにあぐらをかく田中。どちらも顔から体まで真っ白だ。
その正体は絵の具だろう。田中の頬は筆でひとなでされたように、筆先の跡までくっきりだ。
絵の具はまだ乾いていないようで、部屋の中に白い足跡が広がっていた。
襖の向こうで誰かの悲鳴が響き、燕はため息をつく。
ただの作業程度で、ここまで絵の具まみれになるはずがない。
「田中、いい年して小学生と喧嘩をするんじゃない」
「違う! 俺が青に負けるわけねーから。これは別のガキにやられたの!」
誠の言葉に、田中が意味ありげな視線を燕に飛ばす。と、誠の顔が真っ赤に染まった。
「……お……俺より、ちょびっと年上のガキ! 燕に追いかけてもらおうと思ったのに、役立たず!」
燕の布団を蹴り上げて誠が立ち上がる。そして燕と田中を交互に睨んだ。
「今日は俺、市内まで出る用事あるから。代わりに二人であのガキ捕まえておくように!」
部屋を飛び出しかけて、彼は慌てて戻って来た。
「あ。捕まえたら縛っとけ、俺が帰ってくるまで逃がすなよ。ガキでも容赦すんな」
「へーい」
田中の気のない返事の向こう、朝8時のチャイムが響くのが聞こえた。
早朝の島は湿った空気に包まれている。外に出てあくびを噛み殺した。
「燕、眠れなかった? めちゃくちゃうなされてたけど」
田中の言葉に燕は曖昧な笑みを浮かべて見せる。慣れない船旅の疲れのせいか、ひどく懐かしい夢を見たのだ。
(小学校の頃か)
思い出さなくてもはっきりと覚えている。あの夢は小学校4年、夏の再現だ。正確に言えば、絵画教室で行われた写生教室の夢だった。
あのとき、燕の描いた絵はひどかった。
薄暗い水族館が恐ろしく絵に集中できなかったのだ。
水族館の絵画コンテストに出されたが、色塗りが間に合わなかったせいで選外の烙印を押された。
燕の絵を見て父は明らかに落胆した。その顔を思い出し、胃の奥がぎりぎりと痛くなる。
両親は燕に絵を教え絵を恐れさせた。とうに距離を置いている。しかしいまだ時折、夢に見る。
「ずっとベッドで、布団は久々だったからかな」
「へー。俺なんて初日、追い出されて砂浜で寝たけど爆睡だったよ。起きたら日焼けがすごくってさあ」
へらへら笑う田中から視線を外し、燕は朝日に輝く朝の海を眺めた。
朝の海は緑と青が乱反射して、水彩画のように輪郭が淡い。
「もうちょい先まで行こうぜ。今の時間は干潮だから海に近づけるんだ」
田中はぬかるんだ砂浜をものともせず、どんどんと前に進む。
潮の引いた砂浜は少し湿って、海藻が流木に張り付いて転がっていた。割れた貝殻が散らばる雑多な砂浜の上、小さなカニが驚くように走っていく。
「何があったんだ?」
「夏休み、皆本さんのアトリエで観光客相手の絵画体験教室を開いたんだ。で、その時、書き損じのキャンバスが結構出たからさ。そういうの下地材で塗りつぶして再利用しよう。ってことになって」
田中はぬるく湿った砂浜に座り、足を伸ばした。そして絵の具で固まった前髪を、楽しそうに指で弾く。
「朝にその作業してたら、中学生くらいかな。知らない子が駆け込んできて。机に置いてた絵の具を掴んで振り回して、結果これ。気に入ってるシャツだったのに」
まだらに白くなったピンク色のシャツを掴み、田中が眉を寄せた。
「でさ、その時一枚キャンバスを盗まれたんだ。ちょうど塗りつぶしかけてたやつ」
田中は大きく伸びをして、熱を持ち始めた砂浜に足を伸ばす。
「一枚くらい無くなったって問題ないし、絵の具だって水彩画で洗えば落ちるのに誠が怒っちゃってさあ」
犯人捜しを田中はすっかり忘れたようだ。砂浜に寝転がり空など見上げている。
「お、見て燕、あの雲シュークリームみたいじゃね? この島っていいところなんだけど、コンビニがないのが不便なんだよなー」
……思えば、彼は出会ったときからずっとこんな感じだった。だから燕の肩の力も自然に抜けていく。
「で、田中。いつから?」
「お前の部屋についたのは15分くらい前だよ。俺が起きたのは4時間前だけど。俺さ、最近20時就寝4時起きで小学生並みなんだ。朝の海、めーっちゃ気持ちよくって朝から泳ぐのにハマっちゃって。あ、泳いだら絵の具落ちるかな?」
「田中、違う。待て」
今にも海に飛び込みそうな田中の腕を慌てて掴んだ。
「そうじゃなく。いつからこの島に? お前、春に美術系の雑誌社、就職しただろう」
田中は燕と同級生だ……正確には『だった』だ。
燕は2年の春に絵から逃げ、1年休学した。その間に田中は一足早く卒業を迎え、今年の春に念願だった編集者になった、はずである。
「決まったよ。その仕事がこれってわけ」
「仕事?」
胸を張る田中を見て、燕は首を傾げた。
シャツから伸びた腕も首も足も、見事な小麦色だ。数日で仕上がる色ではない。
「んー。社会人一発目の仕事が皆本さんの独占インタビュー……の、手伝い。だったんだ」
田中は眩しい海を見て、目を細める。
「皆本さんって知る人ぞ知る。っていう修復師だったんだけど。ちょっと前に有名人の遺品を直して話題になったんだよ。なのに島に引きこもってさ、子どもの絵も直す名人。しかも今度の美術祭ではワークショップもするらしい。年寄りだけど稀代の新人! でも過去は謎まみれ!」
田中は腕を広げ、大げさなポーズを取ってみせた。
「……そういうのは人の心をくすぐるんだよな。有名雑誌とかテレビとか、そういう取材も一切受けない。ぜーんぶ取材お断りって人だから余計に」
「断られるのに、インタビューにきたのか?」
呆れたような燕の言葉に、田中は肩をすくめる。
「俺はただのアシスタントっていう雑用係。先輩はグイグイ系だからさ、許可なんて後で取ればいいって。でも結局先輩、皆本さん怒らせて追い返されちゃってさ……おっと」
田中のスマホが揺れた。それを見て田中が眉を寄せる。おおかた、誠から釘差しのメールでも来たのだろう。
「……犯人探しだったよな。確か山の方行ったから、行くだけ行くかあ。誠のやつ、疑り深いし」
田中は砂浜を出て、坂道へ進む。同じスピードで追いかけると燕の足の奥がぎしりと悲鳴をあげた。
数メートル先を進む田中は軽快な足取りで振り返る。
「で。話の続きだけど。俺だけ誠に懐かれて残されたんだ。インタビューについて一言でも口にしたら追い出すって言われてるけど。上司もさ。うまくいけばインタビューとれるかもって期待しちゃって、夏の間はここで仕事していいって言ってるし、俺も海好きだし、ここならスーツ着なくていいし」
踊るように坂道を駆け上がりながら、田中は大きく手を上げた。
「それに、なんかいっぱい知り合い増えたし!」
「まああ。青君、真っ白じゃなあ。あ、そうそう。野菜いっぱいあるから、持っていきまい」
「ああ、待って待って。青君。青君。お団子作ったけん、ちょっと待ってて!」
坂道を数歩進むたびに民家から老人が現れ、田中を捕まえた。一人、また一人。皆、嬉しそうに田中を見上げて何やら世間話をしていくのだ。
すっかり島に馴染んだ田中を見て、燕は目を丸める。思えば、大学で浮いていた燕に対して、偏見なく話しかけてきたのは彼だけだった。
「俺がいたら食材が増えるってのも、ここに残された理由の一つかも」
両腕いっぱいに食材を抱えた田中を見て、燕は苦笑する。
どうも田中の性格は変わっていないようだった。
「そういや、田中。お前の名前、初めて知った」
「わざと言ってなかったんだよ。だってさ、名前からして美術以外の仕事なしーって感じで恥ずかしいじゃん。てかさ、親も美術系進ませるつもりもないのに子どもにこんな名前つけといて、あとで俺の就職先に文句つけんだぜ。だから言ってやったよ、名前のおかげで面接の話題作りになったって」
笑いながら駆けていく田中は底抜けに明るい。
その明るさがまぶしく目をそらしたのを、疲れとみられたのだろう。田中が心配そうに首をかしげる。
「燕。坂道あがるときは体、斜めにしたほーが楽だよ」
「いや、俺は」
「あの。すみません」
……燕が額の汗を拭った。そのタイミングで不意に後ろから声が響く。
驚いて振り返ると坂道の下に、男の姿があった。
「皆本先生はどちらにいらっしゃいますか?」
それは大きな眼鏡をかけた中年の男だ。彼はキャンバスを運ぶ大きなカルトンバッグを肩に掛け、汗を拭っている。革の靴を履いているので、島の人間ではなさそうだ。
「あ、こんにちはー」
男を見て田中が元気よく駆け戻ってくる。
「たしか三日前にも来たくれた人だよね。工房いった?」
「ええ今日もご不在で……」
バッグを大事そうにかかえて男は言う。太い眉が困ったように斜めに落ちる。
「先日は夕方に行ってお留守だったので、今日は朝一番に来てみたんですが、その、工房が……」
「真っ白だったでしょ」
田中は笑って、絵の具まみれの自分自身を指差す。
「今日はちょーっと難しいかも。掃除もあるし」
「はあ」
「絵、預かっておこっか?」
「……いえ、またにします。今日は島を出るのでまた改めて」
しょんぼりと肩を落として男は来た道を下っていく。
それを見送り、田中が肩をすくめた。
「ほらな。皆本さんってこんな島に籠もってる割に人気なんだよなあ。あんな風に島の人以外からも依頼が来るんだよ」
見れば数ヶ月会わない間にすっかり彼の体には筋肉がついている。この島でこき使われているせいだろう。
誠にモヤシ、と呼ばれたことを思い出し燕は納得する。普段田中を見ているのなら、そう思われても仕方が無い。
「田中、島に来ていることを教えてくれたらよかったのに」
「……そっちこそ」
ぼそりと呟く田中の声が、セミの声でかすれる。
日差しはきついがセミの声は弱い。
まもなくやってくる盆を過ぎれば、もう夏も終わりの季節である。
「画家の弟子してること隠してたくせに」
顔を上げれば、田中が口をとがらせていた。
「別にあれこれ言うつもりはないけど、有名人と一緒に暮らすってさ、意外と面倒なことが起きがちだぞ」
田中が鞄から一冊の雑誌を引っ張り出し、燕に投げつける。
「こういうのは、俺みたいなのにすぐ嗅ぎつけられるんだよ。しかも昔から秘密主義の画家が弟子取ってるってなったら余計に。お前もさ、ほら、目立つし。心配だよ」
先ほどのセミだろうか。一匹のセミが燕の上を飛ぶ。その影が、雑誌の表面を撫でるように走る。
一段と暗くなったその文面を読んで、燕は一度目を閉じる。
(……なるほど)
小さな囲み記事に書かれているのは律子の名前だ。
律子がまだ絵を描いていたという事実は、燕が想像するよりも話題性の高いものだったらしい。
20年以上の時を置いて書き始めたかつての女流画家、住み込みの若い弟子。なるほど、話題にはなるものだと、燕は黒くぼやけた文字を追う。
田中に律子のことを伝えなかったのは、悪意があってのことではない。
ただできるだけ隠しておきたかった。律子との生活に現実を滲ませるのが億劫だった。
「よく調べてるな」
記事には盗み撮りでもされたのか、写真が一枚掲載されている。
「伝説の女流画家の一番弟子は、若き修復師……まだなってないのに、こういうのはいい加減だな」
写真の画質は低いが、燕を知る人間が見ればわかるだろう。
燕は気にもしないが、律子に迷惑がかからないか、それだけが気にかかる。
「撮られてるのも全然気付かなかった」
「駄目だって、感心してないで怒れよ、盗撮とかさー。怒っていいんだぞ、怒る権利あんだからな」
田中が頭を抱え、燕の背中を痛いほど叩く。
「でも島に来てよかったかもな。お前の性格じゃ、記者に追いかけられたら面倒なことになるだろうし」
「お前も俺のことを書きたいか?」
「俺は……」
雑誌を返すと、田中の声が静かに落ちる。こんな彼の声は初めて聞く。
「……やだな、こういうのは」
ふ、と田中の顔が曇って見えた。
「田中?」
「あ!」
田中の顔色が気になり、顔をのぞき込む。が、彼の顔が曇ったのは一瞬のことだ。急に叫び、彼はまっすぐ山に向かって指をさす。
その先を追うと、中学生くらいの少年がちょうど坂道を駆け上がっていくのが見えた。
雑誌サイズほどのキャンバスを抱えた少年である。
「あいつだ! 燕、走れっ!」
言いながらもう田中は走り出していた。坂道をものともせず、飛ぶように駆け上がっていく。
少年は田中に気づき、慌てたように周囲を見渡した。道はちょうど袋小路で奥にはいけない。思い詰めた彼はキャンバスを抱きしめたまま、田中の真横をすり抜けてまっすぐ駆け降りてくる。
……つまり、燕に向かって駆け下りてくる。
「燕、そっち! 捕まえて!」
田中の叫ぶ声に思わず手を伸ばした燕だが、少年はその腕の真横を易々すり抜けた。
あげく、少年は大きくカーブして燕の背後にある細道へ滑り込もうとする……が、その前に田中の腕が少年の襟を掴んでいた。
「セーフ!」
もがく少年からキャンバスを取り上げてみると、それは画面の8割を白の下地材で塗りつぶされたものだった。
元々は風景画だったのだろうか。
描かれているのは、空の青と入道雲。
下地材の薄いところに鮮やかな緑色が透けて見えた。
田中に掴まれて、少年は腕を振り回し体をひねる。が、田中は動じない。
「暴れない暴れない」
「離せよ!」
「だーいじょうぶ。俺は怒ったりしないから」
田中は暴れる少年を担ぐように掴み上げると、器用にスマホを弄る。すぐさま返信があったようで、田中は燕に向かってピースサインをしてみせた。
「よし。今日の仕事完了! ていうかこの奥、山に繋がってるんだよ。今じゃ登山道もないし、奥行かれたらやばかったけど、間に合ってよかった」
「山……」
ふと、視線を落とすと道の端に古ぼけた石碑が見える。
崩れないのが奇跡というほどの小さな石碑には小学校、と刻まれていた。学校名は削れてしまってもう見えない。
「こんな山の中に小学校?」
「この道のずっと奥な。もう廃校だけど」
燕の言葉に田中がふん。と鼻を鳴らす。そしてポケットからメモ帳を取り出して自慢そうに話はじめる。
「島のこと、取材しといたんだよね……えっと。昔はここも漁師町で子どもが多くて小学校も2つくらいあったらしい」
調べるのは職業病なのだろうか。案外神経質に書き込まれた文字を、彼は目で追いかけて語る。
「廃校になったのは60年以上も前。数年前まではちょいちょい皆本さんが直しに行ってたみたい。数年前にでっかい台風が来て、本格的に倒壊しちゃってからはいけなくなったみたいだけど」
「皆本さんが?」
「そ。あの人、壊れてるもんに目がないから」
今は緑に包まれたそこを、燕は見上げる。と、その視界の端に影が差した。
「捕まえたか」
振り返ると、まさにその皆本が立っている。工房ではかくしゃくと見えた老人だが、外で歩くときには杖が必要らしい。
皆本は暴れ疲れてぐったりとした少年を見つめ、杖で地面を叩く。
「ああ、お前は知ってるぞ。川崎さんちの坊主だな。幼稚園の頃まで島にいたろう。大きくなったな……俺も年を取るはずだ」
彼は苦笑し、そして坂の遥か下を指した。そこには今日も穏やかな瀬戸内が揺れている。
「工房へ来い。事情は聞いてやるが、やったことは悪いことだ。誠には謝れよ」
杖を掴みゆっくり坂を下る彼は、工房で見るより少し小さく見えた。
「随分と暴れたもんだな」
想像よりも荒れ果てた工房を見て、皆本の放った言葉はそれだけである。
床にも壁にも白い絵の具がべったりだ。さらに地面に落ちた絵の具を踏み抜いたのか、あちこちに色々な色彩が散っている。
燕は頭を抱えそうになるが、皆本も田中も驚く素振りもみせなかった。
「水彩の絵の具を選んだのは賢い選択だったな」
複雑怪奇な色だまりとなった工房に目もくれず、皆本が最初にやったことは少年……川崎を椅子に座らせることだった。
「坊主。事情くらいは言わねえとな」
しかし川崎は、ふてくされたようにうつむいたまま。坊主頭に細い体。おそらく中学生くらいだろう。
ようやく口を開いたと思っても、漏れる言葉は離せ、バカ。それだけだ。
それも段々と力を失い、今では呻くような声ばかり。それを見て、皆本はパイプ椅子に座り込む。
「ほら、雨も降ってきた。長丁場になって、どっちが折れるか勝負するか。言っとくが俺は年寄りだから気が長いぞ」
気がつけば、外は雨が降り出していた。先ほどまで雲一つ無かったというのに、島の天気は変わりやすい。
一気に部屋が薄暗くなり、燕は電気をつける……と、川崎の持っていたキャンバスの後ろに文字と押印があるのが目に入った。
それは指で何度もこすったのか、ぼやけていて見えにくい。燕は光に翳し、それをじっと見つめる。
川崎俊平『僕のたからもの』。ぼやけているが文字は丁寧だ。キャンバスを見ると、白い下地材を削り落とそうとするような爪痕がかすかに見える。
「……もしかして」
燕は思わず川崎の顔を見つめていた。
「絵を塗りつぶされるのが嫌だった?」
川崎の目が驚くように見開かれる。おびえるような、期待をするような。
「よし」
とん。と雨がトタンで跳ねた。その音に重なるように、皆本が席を立ち、燕の持つキャンバスを掴む。
「直してやる」
「返せ!」
「悪いことはしねえよ。俺はプロだ」
部屋の奥に進みかけ、皆本はふと足を止めた。
佇む燕に気づいたように、彼は表情を和らげる。
「おい大島、そこに貰い物の素麺がある。あと、田中が何かしら色々貰ってるだろ。その辺使って飯を作っておけ。終わったら飯だ。坊主、お前も心配なら一緒にこっちに来い。おい、田中、サボってるんじゃねえぞ。お前は掃除だ」
「えっ……はぁい」
田中は渋々といった顔で燕にどっさりと紙袋を押しつける。
特に目を奪われたのは、鮮やかな夏の色だ。
「ゴーヤと、ピーマンと、オクラ」
「大島。使い慣れねえか?」
「ピーマンは……家族が好まないので」
張りのあるピーマンを手の中で転がして燕はふと、律子を思い出した。
律子はピーマンの苦み嫌うくせに、この深みのある緑色を愛した。いつも色を褒めながら渋い顔で食べるのだ。
東京も今頃雨なのだろうか。あの色彩に溢れた家の中で律子は一人、絵を描いているのだろうか。
「そりゃ良くない。なんでも好き嫌い無く食わさねえと」
「えー野菜も好きだけど肉も食いたい。冷蔵庫にあるソーセージ入れてよ。誠のだけど、あいつ食べ忘れてシワシワになってるし」
「青くらい好き嫌いがねえのも困るがな」
後は任せた。と、皆本は燕の肩を力強く叩いた。
雨は島を湿らせるだけ湿らせて、一瞬で去った。残ったのは尖ったような雨上がりの香りだけだ。
窓から差し込む日差しが燕の手元を照らす。フライパンの上、湯気を上げているのは、ゴーヤにピーマン、オクラ。ソーセージ。
(新鮮な野菜だな)
輝くような緑色を見て燕は感心する。まるで夏の空気で染め上げたような鮮やかな色である。
シワの寄ったソーセージは、たっぷりの油で炒めるうちに綺麗なつやを取り戻した。
しっかり全体に油が回ったところで、軽くゆでてぬめりを取った素麺を落とし込む。
最初はひとかたまりだ。フライパンの上でぼってりと固まって動かない。しかし、根気よくほぐせば、ゆっくりとほどけていく。
味付けはシンプルに塩と胡椒。ただし胡椒は少し強めに。しっかり混ぜた後、フライパンの鍋肌に、醤油を少しだけ落とした。
じゅ、と焦げるような音がして香ばしい香りが煙とともに舞い上がる。
緑の野菜は火を通すことで不思議なくらい鮮やかになった。その色は先ほど見た、潰されたキャンバスの緑色に似ている。
「上に塗られた色は落とせる。すぐには無理だが、綺麗に戻せるぞ」
後ろから声が響き、燕は慌てて火を止めた。
振り返ると皆本がキャンバスを光に翳していた。先ほどと同じく白く塗りつぶされたままだが、角の白色が落ちて鮮やかな緑が姿を見せている。
それは、とがった屋根のように見えた。
現れた緑色を見て、川崎の瞳が輝く。キャンバスを抱きしめるようにして、ほっと息を吐いた。
「……この絵、俺の家なんだ」
ぽつり、と川崎は呟く。呟いた瞬間、彼の首が耳まで赤くなる。
「俺が4歳の時まで住んでた。死んだ母さんも、妹も……いつか島に戻るって聞いてたのに」
皆本に見つめられるうちに、川崎の顔から尖った色が消えた。絵を抱きしめたまま、彼は床に座り込む。
「だから俺、父さんの転勤先ついていったのに。夏休み、やっと家に戻れて嬉しかったのに、なのに潰すって」
父の転勤先に引っ越して10年。先日島に戻ったが、理由は片付けのためだった。と川崎は呟く。
止める間もなく、先日から工事が始まった。古い荷物は捨てられ、彼の描いた絵もゴミに出されるところだった。
「ここでキャンバスを塗りつぶして再利用してるって聞いて。だから、せめて誰かに使ってもらったらいいな。って、そう、思って」
川崎はキャンバスの表面を恐る恐る撫でる。薄く見える、その緑の場所を。
「夜のうちに、ここの前に置いといたんだ。でもやっぱ、いやになって、朝に取りに来て」
「塗りつぶされかけてて、思わず暴れた、ってところか」
皆本の言葉に川崎が頷く。そしてキャンバスをじっと見つめた。
「……別にいいんだ。夏休みの宿題で描いただけだし、だけど」
「この絵が好きなんだな」
「あの家の写真、父さんが全部捨てちゃったんだ……だから、もう」
家の姿は、この絵の中にしか残っていない。と、川崎はうつむいたまま呟く。鼻をすすり、それをごまかすように彼は顔を背けた。
「下手な絵だし、もういいんだ。いいよ、塗りつぶしても」
「あの緑の屋根は、綺麗だったな」
皆本が台所の窓に近づき、目を細める。
「そうだそうだ。お前のおふくろさんが緑の屋根にすると言って、親父さんが毎年塗り直してたんだ」
「……え? 父さんが?」
「思い出はいいもんだが、増えすぎると辛いこともあるもんだ。でも思い出を捨てるかどうかを決めるのは本人だ。他人じゃない」
皆本は台所の前にキャンバスを置いた。数歩下がって見つめては、位置を何度も調整する。
「お前さんがこの絵を捨てるというなら、俺が拾う。綺麗に直して、それからここに置いておく」
「ここ?」
「この窓から、家が見えるだろ。ここに置くと同じ角度だ。飾っていれば、ずっと残る」
川崎は窓に向かって精一杯伸びをする。それに気付いた田中が彼の体をひょいと持ち上げた。と、川崎の目が大きく見開かれた。
窓の向こう、ゆるい坂道の下。ブルーシートに包まれた建物がある。
風が吹きシートがめくれた。見えた屋根は空の青にも負けない緑だ。彼の描く絵と同じ緑色だ。
尖った屋根は解体されてしまい、柱も部屋も丸裸。風が吹くたび、土煙が風に舞う。
潰される家からは独特の匂いがする。それはきっと、家に残された思い出の香りなのだろう。
川崎は田中に抱えられていることも気づかないように、ぽかんと腕の力を抜いた。
「絵と……同じ角度」
「また遊びに来るといいさ。ここに絵をずっとおいておくから」
「ほんとうに?」
「俺は約束を守れる男だ……さ、飯にするか。大島が何かこしらえてくれてる。ああ、いいな。素麺を炒めたやつか」
使い込んだフライパンをのぞき込み、皆本がにやりと笑った。
燕が作ったのはゴーヤにオクラ、きゅうりが踊る緑の素麺チャンプルー。緑の色は驚くほど鮮やかに白い素麺に映える。
味はシンプル。ゴーヤもあまり苦みを取っていない。そのせいか、湧き上がる湯気まで緑色に見えるほどだった。
「いただこうか」
皆本がそう言うと、気付けば田中も川崎もテーブルに集まっている。
皆本は年に似合わない健啖家だ。大きく箸ですくい上げ、するりと吸い込む。それを見て、川崎も田中も一斉に箸を取った。
燕も一口、すすってみる。爽やかな色なのに、噛みしめると甘い苦みが広がった。熱の入ったきゅうりとオクラはとろとろと熱く、素麺と不思議とよく絡む。
「すげえ。燕、料理できたんだなあ」
驚くように田中が言い、皆本もうまいな。とため息のように漏らした。
「どうだ、うまいか?」
チャンプルーを夢中でかきこむ川崎は、皆本に声をかけられて顔を赤くした。
「うん。家じゃほとんど食べないけど。父さん、ゴーヤ嫌いなんだ苦いからって」
お前は好きか。と言われて彼は恥ずかしそうに頷く。
「好き」
「じゃあお前の勝ちだ」
皆本はにやりと笑い、川崎の細い背中を叩いた。
「苦みは旨みなんだ。でも諦めの早いやつはそれに気付く前に嫌いだ、ってなっちまう。諦めなかったお前は偉い……絵のこともな」
皆本の言葉に川崎は小さく頷く。その震える背を、皆本が強く叩いた。
「今度来るときは親を連れてこい。俺が怒ってやる」
「……はい」
工房を汚してごめんなさい。と、川崎はようやく小さな声で謝った。
食事のあと川崎は工房の掃除を行った。
そんな彼を船着き場まで見送りに田中も消える。残された工房には皆本と燕だけだ。
夕日がゆるりと空を染めるのを見上げて、皆本が燕を見つめた。
「どうだ大島、そろそろ東京に帰るか……別に帰ってもいいぞ」
台所を片付けながら、燕ははたと気がつく。
燕が料理を作ると知ったせいか、昨日は無かった調味料がいくつか増えているのだ。
そのことが妙にくすぐったく、燕は咳払いをする。
「でも俺をここに呼んだのはあなたですよね」
「酔った勢いでな。知り合いの工房に手紙を書いた。若手を一人よこしてほしいと」
川崎の残した絵を眺めながら皆本は呟いた。
「やめときゃいいのに、妙な欲気を出しちまった」
「欲気?」
「……若いのに教えるのもいいかもしれない。そんな風に思ったんだ。年甲斐もなくな」
燕は数日前の夜を思い出す。所長は嬉しそうな声で燕に電話をかけてきた。めったに人を頼らない人が頼ってくれたと。
「よくよく考えてみりゃ手が足りないわけでもなし。若いやつの時間を取るのはよくねえ。で、手紙は捨てた……はずなんだが、数日後に所長から電話があってな。お前さんを寄越すと言ったんだ」
酔った勢いでポストに入れてしまったのだろう。と皆本は苦笑する。
「酒は怖いな。ご覧の通り雑用しかねえし、ここにいたって誠にこき使われるだけだ。帰りたいなら止めやしねえが」
時刻は昼を回り、外の気温は上がっていた。川崎家の解体工事が再開されたようで、窓の向こうから唸るような重機の音が響いている。
その音を聞いて皆本が痛ましそうに目を細めた。
彼にはそんな優しいところがある。誠の家に保管された絵を思い出した燕は、まっすぐに皆本を見た。
「皆本さんが直した絵を見ました」
「ああ、誠が持ち帰ってるやつだろう。一回、盗まれたことがあって、厳重に溜め込むようになっちまった」
穏やかな口調に不穏な響きが滲み、燕は眉を寄せる。
「盗まれた?」
「依頼の絵じゃない、俺の絵だ。だから放っておけといってるのに、今日も警察に相談にいくって言って……あの性格だ。止めても聞きゃあしない。どうせそのうち飽きるさ……絵だけじゃなく、この工房のこともな」
皆本の言葉を聞いて燕は誠の表情を思い出す。生意気で我が儘だが皆本を見る目だけは真剣だった。
(飽きるわけがない)
と燕は思う。離れられるはずがない。心から師事したい人間に出会ってしまえば。
尊敬からくる執着は、ただの執着よりもたちが悪い。そのことを燕は誰よりもよく知っている。
「もう少し勉強したいので、俺もここにいてもいいですか」
燕の言葉を聞いて、皆本が皺だらけの目を丸めた。そして小さなため息をつく。
「……俺は特別なことをしちゃいないよ。絵が直りたがってるんだ。直りたがらないものは絵でも人でも、どうしようもねえよ」
燕は自分が捨ててきた絵のことを思った。どの絵も死んだ絵だと燕は思っていた。しかし中には生きたいと願った絵もあったのではないか。
一度、自分の絵を皆本の手に託してみたかった。燕は捨てた絵に対して、はじめてそんなことを考えた。
緩やかな夕陽が砂浜に広がり、その上にはしゃぐような影が揺れている。
誠が田中と一緒に波打ち際で遊んでいるのだ。それを遠目に眺めながら燕は熱の残る砂浜に腰を下ろした。
島に来たときの焦燥感は不思議と薄まり、潮風の心地よさが分かるようになっていた。
だからこのとき、燕は油断しきっていたのだ。
穏やかに終わった川崎の事件。波の音と潮の香りと二人の無邪気な声のせいで。
ポケットに突っ込んでいたスマホがぶるりと震え、燕は画面も見ずにタップする。
燕に電話をかけてくる相手など、世界に一人しかいない。そう、思っていた……思い込んでいた。
「律……」
「燕か」
冷たい声が聞こえ、燕の喉の奥がひゅっと鳴る。
その声を聞くだけで夕陽の熱さが消え去った。
「夏休み、今年も帰ってこないつもりか」
その低い声を聞くだけで息が苦しくなり、燕はそっと胸に手を置く。鼓動の速さが布越しにもわかる。
「と……父さん」
それは久々に聞く父親の声だ。
相変わらず電話の向こうは静かである。母親もそばにいるのかもしれない。しかし何の気配も聞こえない。
あの家は燕がいるときから、無音で無臭で無色だった。
「今は……内定先の研修で、遠くに来てるから」
燕はポケットにずっと入れたままになっている、身元保証人の書類を掴む。
「その、内定先のことで」
サインを。と口にしかけて、それは言葉にならない。
「まさかその内定先というのは、前に言ってた修復の仕事じゃないだろうな」
父のあきれるような一言で、燕の思考は停止した。背中に冷や汗が流れて全身が冷えていく。
「言っただろう、お前にはそういう仕事は向いてない。修復なんて、お前がやれるはずがないんだ。よく考えなさい」
父と最後に顔を合わせたのは三年前の大晦日だ。その日、父は少しだけ優しかったと記憶している。
燕が復学した時も、その後も。相変わらず距離はあるものの、かつてのような強権的な怖さは薄れつつあったはずだ。
……しかし数ヶ月前からまた父の言葉に毒が混じり始めた。その毒はどこから来ているのだろう。
燕は苦い物を飲み込むように唇を強く噛みしめた。
「父さん、俺は」
「まだ絵のこともまともにわかっていないお前が、一体何を直せる? 今のお前が直しても、それはただの偽物だ」
父の毒が燕の体の熱を奪った。
思い出したのは、あの水族館でのできごとだ。
他の子どものそばには両親がついていて、絵を褒めていた。
しかし燕の両親は燕の絵を冷たく見るだけだ。両親の視線が恐ろしく、筆はどんどんと鈍っていった。
恐ろしかったのは、魚ではない。暗闇でもない。
……両親の目だ。
「うちで絵を教えていた兄さんの子だがな。あれじゃ駄目だ、使い物にならない」
その言葉で燕は思い出した。
数ヶ月前、燕は自宅のそばまで近づいたことがある。そのとき、室内に従兄弟がいたはずだ。両親は中学生の従兄弟に絵を押しつけようとして、また失敗したのだろう。
「帰ってきなさい。やはり、燕。お前でなければ」
燕は反射的に通話を終了していた。同時にスマホが震え、今度こそ律子の名前が浮かび上がる。が、燕は着信をそっと中断させる。
それから一度深呼吸しメールを立ち上げた。
なんとか打ち込めたのは、一文だけ。
『少し手が離せないのでメールでもいいですか』
律子は勘が鋭いところがある。今の状態で電話に出れば、きっと彼女は燕の異変に気づくに違いない。
離れた距離で彼女を心配をかけるのは嫌だった。
文面に気を遣い、送信を押すとしばらくして再びスマホが震えた。
『そちらの天気はどうですか。私は、はちみつを買いました』
メールになると途端、敬語になるのが律子の癖だ。文字を眺めて燕は返信をする。
『綺麗に晴れています。このあたりはいつも穏やかです』
『燕くん。見てください。瀬戸内産の蜜柑はちみつ』
メールにつけられた写真には、小さな瓶が映っていた。
淡い夕陽を浴びているせいだろうか。丸い瓶はぼやけながらオレンジ色に輝いて見えた。
『これを、ホットミルクに入れようと思います。もう、ホットミルクは作れるんです。電子レンジの使い方をマスターしました』
「ピントが合ってませんよ、律子さん」
ぼやけた瓶の輪郭を眺め、燕は苦笑する。と、そんな燕の顔に冷たい海水が降りかかる。
海辺から誠が水鉄砲で海水を飛ばしているのだ。
「燕もこっちこいって。きもちいーから!」
誠はカニのようなポーズで煽るが、燕はそれには乗らず首を振る。
「筋肉痛だから無理」
「鍛えろよ。燕。川崎のこと、捕まえることできなかったんだろ。弱すぎー」
怒っていた誠も、川崎の事情を聞くところりと態度を変えたのだ。
言ってくれたら工事を止めたのに。と、できもしないことを言って川崎を喜ばせた。
船に乗る川崎を見送る頃には数十年来の親友のような顔をして、いつまでも遠ざかる船に手を振っていた。
そして船に乗った川崎も甲板の上でいつまでも手を振り返していた。
諦めなかったお前は偉い。と言われてから、幼い顔に自信がみなぎった、そんな気がする。
燕も律子と共に暮らし始めて人生で初めて自信を得た。しかしそれは押せば揺らぐほどの自信である。
今のように、父の声を聞くだけでまだ燕はぐらぐらと揺れてしまう。
ふとスマホを見ると、再び律子のメッセージが届いていた。
『蜂蜜のオレンジは、夕陽の色です。東京はそろそろ暮れて夜になります』
律子の打ち込む文字に薄闇の色が滲んだ。
しかし、こちらでは柿のような濃い夕陽が蕩けるように海の向こうに沈み込むところだ。
水平線は島影の緑を吸い込み、柔らかいグリーンをまとって揺れている。
瀬戸内の海は、燕の知っているどの海よりも穏やかだった。
たった6時間しか離れていないのに、二人の見える色は少しだけ異なっている。
それが不思議で、少し寂しい。
『こちらはちょうど、夕暮れが綺麗な頃です……茜色と、紫と群青色。雲は筆で撫でたような淡青色』
できるだけ感情を抑え、燕は律子にメッセージを打ち込んだ。ついでに、空の写真も添えてみる。
と、すぐさま律子からメッセージが届いた。
『私が少し前に見た色です。まるで夕陽のリレー』
小さなスマホの画面の中で揺れる文字は、律子の声となって再現される。燕はようやく呼吸を思い出したように深く息を吸い込んだ。




