手巻きサンドイッチと黄金オーケストラ
7月半ばになっても、梅雨はまだ明ける気配もみせない。
じめじめと雨の続くある日曜日、カルテットキッチンの入り口に『幕間中』の看板が一枚かけられた。
『それで、あの発表会、成績はあんまり良くなかったんですけど……』
燕の耳元……スマートフォンから桜の明るい声が響いている。
これまでの中で、ひときわ明るい。弾けるように伸びやかな声だ。走っているのか、息が少し上がっている。
激しい雨の音も聞こえるが、桜がその音に怯える様子は無かった。
『たまたま発表会を見てた有名な先生が私のピアノを気に入ってくれて、夏休み、教えてくれることになって』
燕は椅子に腰を下ろしたまま、スマートフォンを耳に押し付けている。
目前にはカルテットキッチンの壁。そこは今、色鮮やかな一枚のキャンバスである。
青空、森、その中に様々な楽器を演奏するオーケストラ。
オーケストラの面々は、楽しそうに演奏を繰り広げている。空は夏特有の抜けるような青色……そんな絵が、今、誕生しようとしている。
絵の前に立つのは、律子だ。彼女は腕をいっぱいに伸ばして、無我夢中に絵を描いていた。
燕は耳にスマートフォンを押し付けたまま、平和な風景をじっと見入る。
「良かったな」
『そうなんです! 夏生と今、その話聞いた所で……。あ、お母さんが今日夜勤明けだから、今から合流してお店に戻りますね。みゆきさんたちも、そろそろ病院の検査から帰ってくる頃だし……そうそう、生まれた子、名前は夏美ちゃんです』
『夏美?』
『夏生まれだから』
絶対嫌だっていったのに。と、隣から夏生の叫ぶような声が聞こえた。
『すごく安直でしょ。うちの親と似てるんです。みゆきさん』
電話の向こうの桜もいかにも幸せそうだ。
苦しみもがくような色は、もう無い。
あの日……あの発表会の日、桜は演奏前に突然ステージを駆け下りる、という前代未聞なことをしでかした。
監視員がストップを掛けるその直前、彼女は演奏をはじめたのだ。
燕に音楽の良し悪しはわからない。しかし桜のピアノは、綺麗だった。ざわめいていた会場の声が静まり返るほどに、綺麗だった。
桜の背は真っ直ぐに伸び、まるで音符に包まれているようだった。幸せそうに、楽しそうに彼女の腕が動く。
それは律子が絵を描く時と同じだ。
夢中になると、まるで踊るように見えるのだ。
「わかった。食事の用意もできているから」
『はい! 急いで帰ります! あ、律子さんに絵のこと、あと10年前のことも……お礼を何も言えてなくて……あ、いいです。やっぱり私が言います。じゃあ、あとで』
元気のいい声は、やがて雑音とともに勢いよく切れた。
「桜さんね。すぐ来るの? 私もお話したかったのに」
律子が腕を止め、燕を見上げる。
「やっぱり、桜さんのお迎えに行けばよかったかしら」
「……こんな雨の中を? 風邪を引きますよ」
横殴りの雨に煽られて、表に立て掛けた木の看板がガタガタと音をたてた。
カルテットキッチンの入り口に掛けられた『幕間中』の看板は店長がふざけて作ったものだ。
そろそろリフォームを。という店長の鶴の一声で、店のリフォームがはじまったのは一週間前のこと。
一週間程度で終わるはずが、壁に絵を、ステージは補強を……と言っている間に、全体的なリフォームに話が広がった。
改装予定日はどんどんと伸び、おかげで燕のバイトも休業中。
本来は再開記念日となるはずだった今日も、「決起会」と名前が変わった。
「電話っていいわねえ。燕くん、家には電話があったはずなのに、もうずっと行方不明なの。探して付けなおそうかしら」
筆を握ったまま律子が唇を尖らせる。
「私だってみんなとお話したいわ」
「いつでも僕のを貸しますよ。電話なんてあっても邪魔でしょう。毎日電話がかかってきそうですし」
燕も筆をにぎり、壁に色を足していく。律子の塗り残した場所に、そっと痕跡を塗り込めるように、色を重ねる。
「……というより、桜に絵のこと話したんですね。それに10年前とは?」
「音がないこのお店はすっかり静かね」
「律子さん、ごまかさないで」
聞こえないふりをするのは、律子の悪い癖だ。燕はわざと律子の前に滑り込んで、彼女を軽く睨む。
「小さな頃の桜に会ったことが?」
「燕くん、あのひまわりの絵、あれを見てどうおもった?」
律子が指差すのは、カウンターテーブルの上。そこには塗装の終わったピアノのおもちゃと、ひまわりの絵……そして咲也の描いた田園風景の絵が揃って並べられている。
「……綺麗だと」
「でもね、綺麗じゃないって、昔は思っていたの。だって……間に合わなかったから」
間に合わない。とは、咲也のことだ。彼女は10年前、教え子の最期に間に合わなかった。
律子は筆で壁を撫でながら、懐かしそうに微笑む。
「……でも、あの子が、綺麗って言ってくれたの」
「桜が?」
「桜さんが幼稚園の頃……クリスマスの夜」
律子がとつとつと呟く。
「……この絵を病室に持っていこうと思った矢先に、知らせを受けて」
それは苦しい衝撃だっただろう。また一歩、間に合わなかったのだ。
かつて彼女は夫の死の直前、黄色を使って絵を描いていた。
今度は黄色の絵を運んだ時、教え子の死を知った。
律子はきっとその時、夫の死を思い出したはずだ。だから絶望し、絵を手放した。
「桜さんが陽毬さんを待っていると聞いたの。その日は二人で面会に行く予定だったんですって。陽毬さんは病院だし……雨の中で待つあの子を、放ってなんておけなかった」
律子は自身の描いた黄色を、じっと見つめる。
「その後も桜さんのことは気になってたけど、できるだけ介入はしたくなかった。だって、今更……名乗り出ても何もできないもの。ひまわりの絵も手放してしまったし……お父さんの話は、陽毬さんがするべきで、私がするものじゃないものね。でも燕くんに会って」
三年前、出会ったのは夏の公園。その時の虫の声や蒸し暑さを、今もまだ覚えている。
「……色を、取り戻して」
彼女はパレットの黄色に筆を置く。壁に塗ってみると、それは昔の黄色よりもう少し優しい色合い。新しい『律子の黄色』である。
「しばらくして……ひまわりの絵を思い出したの。あれは手放しちゃいけない絵だった。どうしても見つけて、あの子にプレゼントしなくっちゃ、そう思ったの。だって、お父さんの真正面の顔は、ここにしかないんだから」
律子は一筆一筆、命を生み出すように丁寧に色を塗る。
「そして、返せた。まさかこんなに時間がかかるとは思ってなかったけど」
「あなたが……クリスマスに幼稚園で絵を描くのは」
燕ははたと、思い出した。彼女は年に一度、クリスマスの日に近所の幼稚園に絵を贈る習慣がある。それは燕と出会った年を含め、ずっと続いている彼女のイベントだ。
じっと見つめる燕を見ても律子は肩をすくめるばかり。
「もう隠し事はないといったはずなのに」
「燕くんだって」
しかし律子はいたずらっぽく笑って、鞄から一枚の白い封筒を取り出した。
「これ」
「隠しておいたのに」
それはシンプルな封筒。後ろには、美術工房の名前が刻まれている。
律子は同じ鞄からリーディンググラスを取り出して、それをじっと見つめた。
「何度か面接に行ってたでしょ。知ってるの。だってスーツを着た燕くんはすごく綺麗だったから」
中に入っているのは、内定通知書だ。それは田中の紹介を受けて訪れた、小さな工房。絵の具の香りと筆の音だけが響くそこで燕を待っていたのは、穏やかな男性だった。
何回かの面接のあと、通知を受け取ったのは昨日のことだ。
律子は手をたたき、微笑む。
「おめでとう。ここのバイトは、もう辞めちゃうの?」
「……いえ。まだ目標に達していないので……もう少しがんばります」
「燕くんが桜さんと知り合いになって……絵を返すきっかけになれば、と思ったのは確かだけど……まさか本当にバイトをするだなんて。なんでバイトをするつもりになったの?」
燕は、律子の顔にかかった美しいリーディンググラスをじっと見つめる。
それは、宝石のような色があしらわれた、彼女お気に入りの一品。
……柏木からのプレゼントで、彼女がここまで大事に使うものはこれだけだ。
「……を、買い直そうかと」
「なにを?」
「……ちょっと欲しい物があっただけです」
バイトを決めたのは、子供みたいな嫉妬心だ。
メガネを一つ、買い直すだけの金が欲しかった……などとは、口が裂けても言えそうもない。
「今後はお互いに秘密をあまり持たないようにしましょう」
「でもねえ。全部見せるより、ちょっと秘密があるのは素敵だと思わない?」
やぶ蛇になりかねない会話をうちきり、燕は壁の絵を見る。絵は、どんどんと完成に近づいている。
森の中の楽団。幸せそうなオーケストラ。
「きっと燕くんだって卒業して働きはじめたら……秘密を持つようになるのよ」
店は静かだった。普段ならにぎやかな桜も夏生もいない。
最近は忙しすぎて、こうして律子と静かに過ごすのは久しぶりだった。この懐かしい湿度に、燕はほっと息を吐く。
ここ数ヶ月、周囲に人に振り回されてきた。それは生まれてはじめてのことで、今になって疲れがどっと襲ってくる。しかしそれは、不思議と心地のいい疲労感ではあった。
「すっかり燕くんも大人っぽくなっちゃったし」
その声が少し寂しそうに響き、燕は筆を止めた。
「子供だと思ってたのに。みんなすぐに成長しちゃうんだから面白くないわ」
「律子さん」
静かな店内に燕の声が響く。
「……あの人から、『また』あなたが寂しがると聞いたんですが」
思い出したのは柏木の言葉だ。この店で、柏木は言ったのだ。
急に大人になると『また』律子が寂しがる。
「……どの、また。ですか?」
「やあ少年。聞いたぞ、修復師だって? いいじゃないか」
しかし燕の質問は、途中で途切れることとなる。
「うんと素敵な就職祝いをくれてやるよ、楽しみにしてな」
扉を豪勢に開けて池内が入ってくる。後ろには、ワインの袋と花束を抱えた柏木が顔を出した。
「池内女史、私もそれに一口乗りましょう」
「どうしてあなた達まで来るんですか」
「少年とこの店のお祝いだからな。いやあ、しかしすごい雨だった。おかげでびしゃびしゃだ」
げっそりとした燕の顔をニヤニヤ見つめる彼らのすぐ後ろ、また扉が開く。
現れたのは大きな傘を持つ、みゆき夫婦、小さな妹を濡れないように恐る恐る運ぶ、夏生の顔。
「ただいま。わあ。見て見て、日向君、壁がすごく綺麗なことになってる!」
先程まで静かだった室内が、ひとり増えるごとに賑やかになっていく。
(色が重なるみたいな……音が重なるみたいな……)
燕は立ちつくしたまま、目前を見る。扉が開くたびに、この喫茶店に色が重なっていく。
「大島君、素敵な絵をありがとう。大島君のお師匠様も、ありがとうございます。ね、日向君。すごいわ、壁が美術館みたいになってる」
「みゆきちゃん、すごいなあ、これ!……ああ、この人が、大島君のお師匠さん? えっと……どこかで会ったこと……あったかな?」
身軽になったみゆきは飛んで喜び、少しやつれた店長もその手を取って喜んでいる。見た目より勘のいい店長は少し訝しげに律子を見たが、それだけだ。
「気のせいかな。うん、僕は女の人は一度見たら、忘れないから……特にこんな綺麗な人は」
ふざけて笑い合う彼らは、目の前にいる律子が誰であるか分かっていない。
しかしそれは桜と律子の秘密だ。だから、燕も口を閉じる。
「ただいま、律子さん!」
続いて店に飛び込んできたのは、桜。そして、その手に引かれて顔を見せたのは……。
「ひまちゃん!」
みゆきがぴょんと飛び上がり、嬉しそうに白衣の女性に飛びかかる。
「おかえりなさい! 久しぶり!」
夜勤明けらしく、しょぼしょぼとした目で笑う彼女は、確かにひまわりの絵と同じ顔をしている。
桜はつま先立ちになってこっそりと陽毬に耳打ちする。
陽毬は驚くような顔で律子を見て一度震え……そして、小さく頭を下げた。
律子はそっと二人の前に立ち、少し照れるように手を差し出す。
指についた黄色の絵の具を包むように、陽毬がぎゅっと律子の手を握りしめた。
「ただいま、先生」
「おかえりなさい、陽毬さん」
その後しばらくすると、店には十数人の人間で溢れることとなる。
みゆきと店長が昔入っていた楽団のメンバーが、花束を持って現れたのだ。
オープンできてないって伝え忘れた。と、店長は楽しそうに笑い、楽団の人々は呆れ顔で笑った。
そのせいでカウンター席には花束が重なり、まるで花園のようだ。
「まあ、いいよね。せっかく集まったんだし。防音壁のチェック代わりに適当に演奏しようよ」
そんな店長の明るい声に、誰かが持ち込んだフルートが音をたて、桜がピアノを弾けば夏生がヴァイオリンの調整をはじめる。まるで音が、部屋中にあふれるようだ。
「今日、オープン間に合うつもりで楽器も運んじゃったんだよねえ、まだ、店はぜんっぜんだけど」
店長は自分のチェロを取り出しながら、にこにこ微笑む。
「なので、適当に食べる、飲む、弾く、で! あ。もちろん、絵を描く人は描く方向で!」
「食事、ありますよ。軽食ですけど」
だから燕は呆れ顔で、テーブルに大きな皿を運んだ。
店で一番大きな皿の上、耳を落とした真っ白い食パンが薄切りにして盛り上げてある。
その周囲を囲む小皿には、きゅうり、カニカマ、バターにジャムに、海苔に卵、いろんな具材が山のように盛られていた。
……どうせ今日は人がたくさん集まると聞いていた。
大皿で料理を作ったところで限界がある。店の台所はリフォーム中で使い勝手が悪い。
そこで思いついたのが、手巻きサンドイッチだ。
「サンドイッチ!」
店長が目を丸くして、皿を見つめる。
「これ、適当に自分で挟んでいいやつ?」
昨夜は、律子が気に入っているパン屋でサンドイッチ用の食パンを買い込んだ。
朝から卵を焼き、家に余っていたジャムにはちみつ、バターを用意する。贈答用で持て余していたベーコンを焼いて、生クリームを泡立て、カスタードクリームを人生で初めて作った。
おかげで家のキッチンは大変なことになっているが、ここに盛られたものは色も形も美しいものばかり。
「すごいでしょ! 燕くんがつくったの。私もお手伝いしたのよ」
「ジャムを選ぶところだけですけどね……適当に、自分でサンドイッチを作ってください。挟んだり……巻いても。手間がなくていいでしょう。冷蔵庫に生クリームとカスタードとフルーツもありますから」
律子と柏木がその響きに少しだけ反応する……が、柏木はすんでのところで、それを押し隠した。
「すごい。好きなサンドイッチを作っていいですか? じゃあ私、卵がいいな」
桜が楽しそうにステージから軽々飛び降りて、また夏生が怒鳴る。そんな二人の声にみゆきと店長のヴァイオリンとチェロ、陽毬のピアノがかさなった。
真ん中のテーブルには、大量に積まれたサンドイッチ。桜や律子など腹をすかせたメンバーが早くも駆け寄ってくる。
「色々と用意したので、お好きにどうぞ。律子さん、どれにします?」
「私はねえ……」
律子の指示通り、カニカマにかぼちゃのペースト、ツナをパンにたっぷり乗せる。薄いパンで挟んで渡せば彼女は早速それを頬張った。
燕もナスのペーストを薄く塗っただけのサンドイッチを軽く巻いて、口に運ぶ。不思議と、夏っぽい味が口に広がる。
色々な具材があるおかげで、サンドイッチのコーナーは大賑わいだ。一歩引いて、そんな風景を見る。
室内は食べる音、話す声、楽器の音に、様々な音楽。
柏木は店長に誘われて楽器を握り、予想外に下手な音をたてる。
夏生は両手にサンドイッチを持って頬張って、桜は塗装を終えたピアノのおもちゃを楽しそうに弾く。店長の昔なじみの面々が、そんな桜の演奏にあわせて、フルートを吹き、サックスが鳴り響く。
ひまわりの絵は、そんなステージの横、まるで特等席のような場所に堂々と置かれ、音に包まれていくようだ。
「少年が立派に成長しているせいで、また律ちゃんが寂しがるな」
池内が音を邪魔するように、燕の横に滑り込んでくる。音もなく現れるのは彼女の得意技だ。手には、ぎゅうぎゅうに具材を詰めたサンドイッチを握りしめている。ハンバーグ、チーズ、ローストビーフにベーコンだ。
「……また、ってなんですか」
「教えてほしいか、少年。いや、このサンドイッチはうまい」
池内は大きな口をあけてぺろりとサンドイッチを平らげる。彼女も大食漢だった。
「よしサンドイッチのお礼に教えてやろう」
そして相変わらず相手を見透かすような顔で、指を拭って燕を見た。
「……3年前、少年が学校に戻った頃、課外授業で何日か家を留守にしただろう」
「池ちゃん!」
と、池内が話し始めた途端、サンドイッチのコーナーから、律子が飛び上がってこちらに駆けてくる。彼女は耳だけはいいのだ。
「あの時はなあ、そりゃあ律ちゃんが寂しがってな」
「池ちゃんったら!」
「その時に今回のこと、思いついたんだろ。私を呼んでさ、この悪巧みを」
まだなにか言いかけている池内の背を店の中央まで押し返して、律子が珍しく戸惑うように顔を伏せる。
「……もう、何でもすぐに言っちゃうんだから」
「律子さん」
それを逃すまいと、燕は律子の腕を取った。
「寂しかったって本当ですか?」
「……だ、だって」
燕があの家に住み始めてちょうど一年経った頃、大学の授業で一週間の課外授業があった。
あのとき燕は、苦痛で仕方がなかった。あの家から……律子から一日でも離れると、寂しくて仕方がない。
……自分だけがそう感じていると、思っていた。
「急にいなくなったら……そりゃあ寂しいわ」
しかし律子は少し照れて数歩、燕から離れる。そして、戸惑うように言った。
「……家族だもの」
わあ。と誰かが声をあげ、店が一瞬歓声に包まれる。
その声に驚いて、燕はその声の方向を見た。
「晴れてきた!」
誰かが嬉しそうに言う。
雨が段々と晴れてきたのだ。この店は窓が大きく、雨もよく見えるが日差しもよく届く。
グレーの雲が押し流されて、青空が見える。遠くに薄く虹がかかっているようだ。窓についた雨のしずくは夏らしい日差しを吸い込んで、黄金色に輝く。
その輝きが、店の中を明るく染めた。
色では表現できない、複雑な黄金の光。それが、今、律子の描いたオーケストラの絵を明るく照らしだす。
ひまわりの絵も、田園の絵も、まるで黄金の海に揺らめくようだ。
もう梅雨明けだ。暑くなるぞ、と店長の楽しそうな声が響き、赤ん坊の夏美が、弾けるような鳴き声をあげた。
(家族……か)
夏生の言った言葉を燕は不意に思い出した。
あのカルテットの夜、あそこに血の繋がりは無かった……しかし、確かに強い絆は存在していた。
それは、今この瞬間も。
(俺は、家族に……固執しすぎていたのかも)
燕の自室に置かれたままの、顔のない家族の肖像。
そこに暖かさなどかけらもない。しかしそれが家族だと、燕は諦めながらそう思っていた。
燕は頭の中でその絵を白く塗りつぶし、代わりに一つの絵を思い浮かべる。
段々とそれは、頭の中で一枚の絵になっていく。
桜の顔、夏生の、みゆきに、陽毬に……律子に。
それは燕にしか描けない、燕だけの家族の絵だ。
(思い……ついた)
黄金の筋は、二本、三本、四本。どんどんと増え、改装中の店内は、光に満ちていく。
サンドイッチの白いパンも、楽器も、全て綺麗な雨上がりの光に持っていかれる。
そんな光を、律子が目を細めて見つめている。
この人がどんな顔で寂しがったのか、見てみたかった、と燕は思う。
「律子さん」
燕は息を吸い込み、律子の横に立つ。
先程の律子の言葉がようやく燕の体に染み込んで、指の先まで熱で満たされた。
「今度は僕も、悪巧みに参加させてください」
新しい家族の絵には、律子を真ん中に描こう、と燕は思う。
彼女の立ち位置は、常に真ん中で……そして燕の隣だ。
今の律子はカウンターの席で燕と二人きり。燕はカウンターの冷たい机をきゅっと握りしめた。
「家族なんだから」
「……そうね」
律子の含み笑いと同時に、誰かが、いち。に。さん。と声をあげた。
桜かもしれない、陽毬かもしれない。
それに合わせるように楽器を持つ人々がそれぞれに音を奏でる。ヴァイオリン、ピアノ、チェロにフルート、ヴィオラに、クラリネット。
最初はばらばらだ。しかし、段々と音が揃い始め、重なる、広がる、深くなっていく。
人との関係も同じだ。一年、二年、重なるごとに深くなっていく。
やがて店中に、軽やかな音が響き渡った。
それはどこかで聞いたことのあるクラシック。夏の予感を秘めた、明るい音が店を明るく染め上げる。
黄金の光と黄金の音、まるで輝くような演奏会の始まりだった。




