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秘密の夜食に月光カルテットコンサート

 浅い眠りの中、桜は絵の具に溺れる夢を見た。


(眠れない……)

 

 桜は柔らかい布団を口元まで引き上げ薄目を開ける。

 ……そこは、律子のベッドの上。

 律子の部屋は絵の具の香りで充満していた。

 この部屋は、壁にも天井にも絵が描かれているのだ。薄暗い室内で、赤や緑やオレンジが、きらきらと輝いている。

(美術館で……寝てるみたい……)

 浅い夢を何度も繰り返し、桜は目を閉じては開く。寝返りを打ちかけて、止まる。

(そうだ……音がないんだ……)

 食事のあと、律子が部屋に招いてくれた。部屋の隅、ベッドは大きいものが一つだけ。

 あなたは右で私は左ね。と、律子はまるで子供のように無邪気に言った。

 誰かと並んで寝るなど、もう何年も経験していない。横に人の体温を感じるのは不思議な気持ちだ。特に律子の体温は高い。じわりと、右腕を通じて通ってくる。

「ねえねえ」

 その、暖かな体温の持ち主がベッドから起き上がる音がする。

「桜さん」

 声はいつもと同じトーン。ねえねえ、桜さん……数度、それを繰り返す。

「もう寝ちゃった?」

「……いえ、大丈夫です」

 桜はそっと布団から顔を出した。

 雨の音は聞こえない。布団から顔を出せば、絵の具の香りは余計に濃厚なものとなった。

「もう夜中かしら?……この家、ダイニングにしか時計がないの」

 桜は目をこすり、起き上がる。やはりここは、静かな家だった。

(確か……防音されてるって……前にいってたような……)

 まるで、深い水の中に沈み込んだような物静かさだ。

「少しだけ、一緒にきて欲しいところがあるの。あなたに見せたいものがあったのよ」

 律子はそっと、桜の手を取る。

「明日発表会ってわかってるけど、今日の夜は今日しかないもの。少しお散歩をしましょう」

 律子の手は乾いていて、そして温かい。

 暗闇の中でも律子は器用にベッドから降り、緑色の扉を開ける。

 扉の向こうはダイニングだ。散らかっているその場所は、暗いと更に難易度が上がる。床に転がる筆。絵の具。転がった木の枠……これはイーゼルというのだ、と律子がそっと教えてくれた。

 その間にピカピカに輝くピアノが鎮座している。

 あれはあなたのピアノよ。と、この家についたときに律子が言った。驚きながらも唐突過ぎてまだ手も触れていない。

「そっとね。私の後ろをついてきて。それなら怪我をしないから」

 律子がささやき、ダイニングの奥、キッチンを指差す。そこには夏生と燕の影が見える。

 低い声で言い合いをしながら、何かを作っているようだ。ダイニングの壁にかけられた小さな時計はすでに深夜26時だというのに。

「……二人がなにか……作ってます?」

「きっとお夜食ね。楽しみにしましょう」

「ごはん?」

 平然と答える律子に、桜は呆れ顔のまま手をひかれる。

 夜食という言葉を聞いて不思議と緊張が薄れ、同時に桜の腹が鳴った。

「二人に気づかれないように……まるでスパイみたいね」

 すでに通電しているのか、キッチンには淡い光が灯っている。

 夏生と燕の低い声が心地よく混じり合い、響いている。二人に気づかれないように彼らの後ろを忍び足で通り抜けるのはなかなかのスリルだ。 

 律子が桜を誘い出したのは、3階につながる階段。階段に足をかけると、律子は下手なウインクをしてみせる。

「忍び出るのは得意なの。燕くんに気づかれないようにね」

 階段は薄暗く、そして冷たい。ぎぎ、と響く音に怯えながらのぼると、そこには薄暗い廊下だった。

「階段、滑らないように気をつけて」

 狭い廊下の左右に大きな木の扉が見える。

 あまりの静けさに、桜は目を白黒させた。

 ……外から見ると、たしかにこの家は大きい。

 3階があっても不思議ではない。しかしこの3階は不思議なほどに生活感のない空間だ……一気に空気が冷たいものとなる。

「律子さん、ここは……」

「昔この家はね、アトリエだったの。大勢の教え子もいて、絵画教室もしていたから、とてもお部屋が多くて。昔は賑やかだったのだけど」

「絵画教室? 音楽教室みたいな?」

 桜はそっと左右を見る。廊下の横に扉がいくつか。ここに大勢の人間が行き交っていたなど、想像もつかない。

「……そうそう、こっちよ。この部屋を見てほしくて」

 桜の手を、律子が優しく撫でる。

 ……アダージョ、アダージョ、アンダンテ。

 黒いワンピースをまとった音楽教室の先生が、何度も言っていた言葉を桜は思い出す。

 ゆっくりと、ゆっくりと、歩くスピードで。

 桜はなんでも急ぎすぎる、ピアノも考え方も、何もかもだ。

 桜が焦って急ぎがちになるとき、先生が静かな声で言うのだ。アダージョ、アダージョ、アンダンテ。

「さあ、いらっしゃいませ」

 律子は桜の手を引いて、一番奥の扉を開ける。

 思ったより軽いその扉の向こうは、一面の白……いや、雪景色だ。

「わ……あ」

 桜は一歩、部屋に足を踏み入れて思わず声を上げる。 

 目の前に、雪の風景があった。

 それは真っ白な雪の公園だ。ブランコも、すべり台も綺麗な雪で覆われている。その中で、小さな人影が2人。それは律子と燕だろう。

 それが絵であることに気づくまで少し、時間がかかった。気温は蒸し暑いのに、不思議と寒く感じて桜は自分の腕をさする。

 真っ白で、どこまでも静かな空気だ。

 逆側の壁を振り返ると、そこは春の絵。大きな桜の木、あたたかそうな……数ヶ月前に嗅いだ春の空気を思い出す。 

 大きな木の根本には、やはり律子と燕の二人が座っている。

「桜……の絵?」

 恐る恐る壁に手を伸ばすと、ざらりとした感触が指に伝わった。

 なんて立派な桜の木だろう。見上げると、ピンク色の花に包まれているようだった。ガラスの破片のような、透明感のあるきれいな花。

 桜は春が苦手だった。

 安直すぎる名前をつけられたせいで、生まれた月があけすけだ。

 春生まれだから、名前がそうだから、桜の花が好きでしょう……なんてセリフ、これまで何度言われてきただろう。 

 春に生まれたから桜。それは母の安易な発想だ。みゆき夫婦も桜の母も、名前の付け方が直感的すぎる。

 だから桜の季節は苦手だ。

 しかし今、この花からは目を離せない。

 この桜は……あたたかすぎる、色だった。

「そう、ここの部屋には新しい季節を描いてるの。毎年、季節ごとに。写真を撮るみたいに」

「毎年!?」

 桜は思わず目を丸くする。よくみれば、その絵の下には、別の絵の痕跡が見える。

「今年はあと2枚。夏と秋が残っていて……」

 律子は左右の壁を指す。そこはまだ、白い。

 部屋に入る前なら、壁としか思えなかっただろう。しかし今、2枚の絵を見た後にこの壁を見ると、大きなキャンバスに見える。

「いつか出会う人たちのために、あけておいたの」

 桜から向かって左側。律子は腕まくりをして近づくと、床に置かれた道具入れから筆を出す。

 桜が呆然と見ている間に、彼女はパレットの中に黒の絵の具を綺麗に伸ばした。

 白と、灰色と、青と紺。器用に混ぜると律子は息を深く吸い込み、筆を手にとる。

(……すごい)

 桜は目の前の風景に釘付けとなった。壁に向かった途端、小柄な律子が急に大きく見えた。 

 それはまるで指揮棒を振るコンダクタのようだ。彼女が筆を振ると、色が応える。青に黒に、様々な色が音楽を奏でるように壁に描かれていく。

 やがて壁に現れたのは一台の大きなピアノ。

 律子はピアノの絵の上、大胆に雨を降らせる。周囲には、黄色のひまわりの花。

 遠くには黒い雲が垂れ込めている。雷も鳴っている。雨がひまわりやピアノを濡らす。

 しかしその雲の隙間には夏の濃い青空が透けて見える。梅雨の終わりの音が、聞こえた気がする。

「雨はじきに上がるし、雷は遠ざかっていくし、そうしたら、蒸し暑い夏がきて、涼しい秋が来て、冬がきてまた春が来るのよ」

 ぐるりと、律子は部屋を見渡す。壁は四面、四季も四回。季節は巡ってくる。

 桜はとりつかれたように、壁を見入る。

「律子さん、すごく、きれい……」

 あれほど嫌いだった雨が、雷が、急にきれいなものに見えた。

「ここに、皆を描くのよ」

 律子の手は止まらない。

 ピアノの周囲に小さく描かれるのは、律子に燕に夏生に……桜。

 それは小さな絵だというのに、自分だとわかるのだ。

 桜はピアノの前に座り、楽しそうに弾いている。まるで今にも動き出しそうな表情で、うっとりと目を閉じている。

 そんな演奏を、夏生に燕、律子が聞いている。楽しそうに、嬉しそうに。

 音楽は好きだった。

 奏でるのも好きだった。

 人が、自分のピアノを聞いて喜んでくれるのが何より好きだった。

 こんなに幸せな顔で弾いていたのは、いつの頃だろう。

 いつから、こんな幸せそうに弾けなくなったのだろう。 

 ……それは孤独だったからだ。

 気がつけば、母も父もいない。たった一人。聞かせる相手は、一人二人と消えていく。

 こんなふうに、皆に囲まれて、皆の前で幸せに弾いたのは、いつの頃だろう。

「雨の中で、ピアノ演奏会。何を弾いているのかしら。きっと綺麗な曲ね」

「……律子さん、私」

 絵の中の幸せそうな自分を見つめ、桜は震えた。

 絵の中の自分は、こんなにも満たされている。

「……私、寂しかったのかも」

 ほろりと、気持ちが桜の中からこぼれ落ちた。

 数ヶ月、溜め込んでいた思いが……自分でも気づいていなかった思いが転がり落ちていく。

「寂しかったんだ……って思います……」

 九州から東京に戻って数ヶ月。

 急に忙しくなった母、夏生との距離、知り合いのいない新しいピアノ教室、新しい学校。すべてが桜をじわじわ蝕んでいた。

 きっかけは、春の発表会だが、あれはただのスイッチで、きっとその前から桜は寂しかったのだ。

 寂しいと言ってはいけない。祖母の言葉は呪いの棘だ。深く沈んで、無意識のうちにその言葉を封印していた。

 ……しかしここにいるのは、律子だ。

 律子になら、聞いてもらえる。

「寂しかった……私……寂しかったんです……」

 ほろりと、目のふちから涙が溢れる。それを律子の指がさらっていく。

「素敵なピアノでしょう?」

 律子は床を指していう。そこには白と黒の鍵盤が広がっていた。

「弾いてみて、私に聞かせて」

「でも」

「どこが、ドの音になるの?」

 律子に急かされて、まだ匂いの残る床に座る。乾ききっていない鍵盤の真上、宙に指を止める。触れると本当に音が漏れそうだった。 

「……」

 桜は恐る恐る、鍵盤の上で指を構える。

 そっと鍵盤に触れる。

「……私も寂しくて怖かったの。あなたと初めて出会ったとき」

 ふと桜の周囲に冷たい風が吹いた気がした。それは10年近く前、幼稚園の思い出だ。

 冷たい雨の降るクリスマス、おもちゃのピアノから漏れる音だけが陽気に響いていた。

 あの幼い音を、むちゃくちゃな旋律を、律子は黙って聞いてくれた。

(あの……ピアノ)

 床に落ちたピアノを思うと、胸の奥がぐっと詰まるようだ。

「何か……あったんですか。あのとき」

 じっと、律子が桜の目を見つめる。

 その目が少し潤んでいるように見えて、桜は質問したことを後悔する。

「あ、すみません。あの……変なことを」

「ねえ。プレゼントしたいものがあるの。あの時、渡せなかったもの」

 しかし律子は桜の言葉を遮って、深呼吸を一回。まるで勇気を振り絞るような顔をして、部屋の片隅に置かれた一枚の板を手に取る。

「ひまわり……の絵?」

 ……それは板ではない。絵だ。30センチほどの小さなキャンバスに描かれた、一枚の絵だ。

「あ。これ、あのとき」

 思い出したのは冷たいクリスマスの夜。雷と雨音と孤独と寂しさと。鼻の頭が冷たく冷えていたこと、指先がかじかんでいたこと、そして冬の匂いと、雨の音。

 桜は一気に思い出した。

 あの時の律子は、綺麗なグリーンのコートを着ていた。雨の中、突然現れて一枚の絵を見せてくれた。

 色鮮やかで、幸せそうなひまわり畑の絵だ。幸せそうな女の子と男の子が描かれている。

 その絵を見て、桜の喉が鳴る。 

「あの……この……女の子……」

 ……あのときは気が付かなかった。この絵の中央で微笑む少女の顔に見覚えがあった。小麦色の肌、元気のいい笑顔。歯を見せて笑う癖。

 少しだけ、桜に似ているその笑顔。

「……お母……さん?」

「そうね。あなたのお母さんと、お父さん」

 桜の動揺など気づきもしないように律子の筆が、どんどんと床に広がっていく。五線譜、記号、ピアノの上にはメトロノーム。

 床に、壁に、絵の具の香りとともに世界が広がっていく。

「あの、律子さん、なんで」

「あなたのお父さんは……」

 振り返った律子はそっと、筆をパレットの上に置く。

「ここにいたの」

 律子の声が、鮮やかな部屋に静かに響き渡った。



 律子は深い呼吸を一度して、まるで流れるように過去を語る。

 それは初めて聞く話だ。

 音のない四季の部屋で、父の、母の、聞いたこともない話が響く。

 病気で高校を辞めた、父の苦悩。

 入退院の間に、律子の絵画教室に通っていたこと。

「お父さんが……ここに」

 桜は部屋をじっと見つめた。ここに父が居たのだ。そう思うと胸が熱くなる。

「この絵は、咲也君が絵画教室を辞める直前に描いたの。恋人ですって連れてきたのがあなたのお母さん。お医者様になってお父さんの病気を治すんだっていってた」

 桜は絵を見つめたまま、その話をじっと聞く。

 母はちょうど、今の桜と同じ年代。父もそうだ。

 父の真正面の笑顔は、桜の笑顔によく似ていた。

 母の顔も、桜の笑顔によく似ていた。

 母は父の肩をぎゅっと抱きしめて幸せそうに笑う。

 はじめてこの絵を見た幼稚園のとき。その時は、ただ幸せそうな二人に見えた。

「咲也君は写真が嫌いだから、だから絵にしたの。顔をそらそうとするのを、お母さんがぎゅっと抱きしめて顔を前にむけて」

 この絵が描かれてもう20年以上経っているはずだ。それなのに、絵はまるで昨日描かれたように美しい。

 真ん中に置かれたおもちゃのピアノは、やはり桜の持っているものとそっくりに見えた。

「そうね。このおもちゃは……私の教え子が、咲也君に贈ったの。お母さんと随分取り合って、結局咲也君のものになった。記念に、私が色を塗って」

 律子が懐かしがるように、ピアノの絵を撫でる。

 桜は幼い頃の記憶をたどった。一緒に食べたクッキー。そして、拙いピアノの演奏を聞いてくれた、あの雨のクリスマス。

 律子はすべてわかった上で、桜を見つけてくれたのだ。

「この絵はずっとこの家の奥に隠してあったの。私が黄色を嫌いになったものだから……でもね、咲也君がもう長くないって聞いて、このままじゃいけない、この絵は咲也君と陽毬さんに渡そう、そう思ってあの日……」

 律子は言葉を濁したが桜にはわかる。

 きっと、父の危篤の知らせを知ったのだろう。だから絵を探してきて、渡そうとした。しかしあのクリスマスの夜、彼女は桜より先に父の訃報を聞いたのだ。

「あの時、この絵を渡せばよかった。でもその後にあなたが咲也君のことを聞くのだと思うと、どうしても渡せなかった。悲しくて、この絵を売ってしまって、今までずっと探して……やっと見つけた。やっと返せる」

「律子さ……」

 律子は絵を、桜の腕の中に押し込む。そうすると、まるで両親を腕の中に抱きしめるようだった。

「これは、あなたの絵よ。遅くなってごめんなさい」

 桜は浮かんだ涙をごまかすようにうつむく。視線の先に見えたのは絵の鍵盤。そっと指を置く。まだ乾いていない絵の具が指に絡んだ。

 驚いて手を離そうとすれば、律子が桜の指を掴んで首を振る。

 桜は息を吸い込み、鍵盤を叩いた。

 たん。たん。たん。指が床に触れる音だけが部屋に響く。

 それだけのはずなのに。

「……音が聞こえるみたい」

 律子が目を閉じて、耳を済ませる。そこに音はないはずなのに、この静かな家に不思議とピアノの旋律が聞こえた気がした。

「明日はきっと弾けるわ。お父さんとお母さんが見てるもの」

 その声はおまじないのように、桜の中にゆっくりと広がる。

「観客席で、絵を持ったまま、あなたの演奏を聞くわ。咲也君にも聞こえるように」

 腕の中に収まった絵が、あたたかく熱を持ったようだった。

「……私、この絵を描いた時……一本のひまわりのドライフラワーをみながら、ひまわり畑を描いたの。それも、あなたのご両親の学校で」

「学校?」

「学校に皆が集まってくれてね、観客がいっぱいの中で絵を描くなんて、初めてのこと。しかもその頃はずっと今より人見知りで内気で、恥ずかしがり屋だったものだから、どうしようって困っていたらね」

 律子はいつだって自信に満ちあふれている。困る律子は想像ができない。

「どうしたんですか?」

「池ちゃんが……前にあなたのお店に一緒にいたあの子ね。あの子に、観客は全員イモクリナンキンだと思えって言われたの」

「イモ……?」

「お芋、栗、カボチャ。そういわれたらそんな気持ちになって、びっくりするくらい、スラスラ絵が描けたの。でも描き終わった後に誰かに声をかけられて、カボチャが喋ったわって言っちゃって」

 律子は肩をすくめる。

「ひどく、ひんしゅくを買ったの」

 その言葉に思わず桜は吹き出す。笑うと肩の荷が一気に降りた気がした。

 律子が絵の具や筆を片付けはじめる。

 夏の絵が増えたこの部屋は、最初に足を踏み入れたときよりもずっと華やかに見える。

「ねえ桜さん、お腹が空いたわね」

 そんな桜を見て、律子が手をのばす。

「私ね、空腹が一番嫌いなの。だってお腹が空くと寂しくて悲しいわ。だから、お腹が空いたらすぐご飯を食べることにしているの」

「お母さんも……言ってました」

 誰よりも空腹に弱い人を思い出し、桜は苦笑する。

 たった10数時間前にはあれほど腹を立てていた相手に、今、無性に会いたくなっている。

「でしょう」

 だからご飯にしましょう。

 まるで踊るように階段を下り、律子はキッチンにむかう。薄暗いキッチンでは大きな鍋にお湯がわき、蒸し暑いほどだ。

 夏生は驚くように振り返ったが燕は振り返らない。燕の背に向かって、律子は声をかける。


「お腹が空いたわ、燕くん」


 深夜を回ったこの時間に、不思議なほどこの言葉が綺麗に響いた。



「二人共、先に手を洗う」

 ダイニングに現れた桜と律子を見ても燕は一切動じない。

「まあ、スープ?」

 手を洗い、食卓につく。小さな丸テーブルの上には、大きな鍋が一つ。

 それは、黄色い卵のスープだ。まるでひまわりのような、綺麗な黄色が鍋いっぱいに広がっている。

「餃子スープです」

 燕は平然というと、小さなお椀にスープを注いだ。黄色のスープの中から、驚くほど綺麗な緑色の餃子が顔を出し、律子が嬉しそうな声を上げる。

「ひまわりの黄色に、緑の茎の色」

「深夜に餃子を作ったのははじめてです」

 燕は淡々というが、よく見れば少しだけ眉が下がっているのがわかる。嬉しいんだな。と、桜は少し感動する。感情が見えにくい燕にも、密かな感情があるのだ。

「まるで宝石みたいね」

 律子は箸で餃子を掴むと、うっとりとつぶやく。

 それは色鮮やかな水餃子だ。白くて薄い皮の向こうに、鮮やかな緑が透けて見える。

 わざと電気をつけず、暗いままで囲む皿の上、その水餃子だけが水分をまとってぴかぴかと輝いているようだった。

「ヒスイみたい」

 うっとりと、律子が言った。

「ヒスイ?」

「すごく濃いグリーンの宝石。幸せの象徴なの。緑色って、見ているだけで幸せになるでしょう?」

「でもそれ、ほうれん草だよ」

 夏生は相変わらず、眉を寄せたまま。しかし、どこか楽しそうだ。先日より、ずっと表情が明るい。

「夏生も作ったの?」

「桜よりは上手だろ」

 言って、持ち上げたのは形の崩れかけた水餃子。

 吹き出しそうになるのを我慢して、桜はあえて形の悪い餃子を掴み上げる。

 スープの中から顔を出したそれは、もろもろとした卵を薄くまとって、美味しそうに輝いている。

「中詰め過ぎじゃない?」

「多いほうが、うまいだろ」

 箸で掴むと、ずしりと重い。落とさないように気をつけて、思い切って一口で。つるりと、驚くほどあっさりと口の中に滑り込んできた。

 もちもちと柔らかい餃子が口の中いっぱいに広がって、喉の奥がきゅっと痛くなる。そして同時に、胃がぐうと鳴る。

 あわてて腹を押さえると、夏生が吹き出す瞬間のような顔をした。

「水餃子ならつるっと入って美味しいわね。スープも、あったかくて美味しいし」

 しかし構わず、律子は楽しそうにいう。

「……こんな時間に水餃子を食べたのははじめてです」

「多分、全員そうだろう」

 燕はこの時間まで起きていることが常なのか、眠そうな気配もない。

(そういえば……私も眠くない)

 律子にすべて吐き出したせいなのか、昨日からの興奮が続いているのか、不思議と眠くない。

 ダイニングにかかった小さな時計は、もう深夜4時近い。

「雨はもうやむし、夜もあけていくわ」

 律子が立ち上がり、窓の外を見る。

 外はほんの少しだけ明るくなりつつあった。

 まだ少しだけ雨が降っているが、それは囁くような優しい雨だった。

(授業で……朝ぼらけって、習った気がする)

 桜も立ち上がり、窓に触れる。

 外に広がるのは薄く青く、紫のまだ夜と朝の境目。朝靄のような霧がうっすらとかかっている。月が雲の隙間からぼやけて見える。

 これが、朝ぼらけというのだろう。

 月はひまわりと同じ、金の色。席の隣に置いたひまわりの絵に月光が滲んで、柔らかい色に染まっている。

 月光というソナタの曲を、桜は不意に思い出した。窓に指を這わせる。その指は、たしかにその旋律を刻んでいく。

「こんな時間まで起きてたの、久しぶりです」

「……色んな悲しいことがあっても、こんな夜が思い出になって、重なっていくのね」

 その言葉は、桜にしか聞こえなかっただろう。

 律子はその重苦しい空気を振り払うように、皆を振り返る。

「起きておくための用意をしなくちゃ。ねえ夏生君、人のヴァイオリンって弾ける?」

 突然声をかけられて、夏生は慌てたように水餃子を飲み込む。

 律子が部屋の隅から取り出したのは少し古ぼけたヴァイオリンケースだ。

「昔、ここの教え子たちが楽器で遊んでたの……ある人の影響でね。そのとき、買ったヴァイオリン」

 律子はそう言って、桜は下手くそなウインクをしてみせる。それは、父のことだ。そう思うと桜の胸が熱くなる。

「……すっげえ、いいやつだこれ……触っていいの?」

「もちろん」

 律子が差し出したヴァイオリンはケースこそ古いが、中はぴかぴかに磨かれている。調律も不思議と整っている。

 高級なそれを、夏生は少し興奮したように肩に乗せる。おそるおそる弦を弾くと、それは深くてきれいな音がした。

「ピアノもあるのよ。コンサートが開けるわね」

 律子が桜の手をつかみ、新品のピアノの前に座らせる。蓋を開ければ、薄暗い中に鍵盤だけが輝いてる。

「あの、律子さ……」

「私は絵を描くわ。燕くんはどうする? 歌う?」

「いや、片付けがあるんで……」

 声をかけても、律子はすでに筆を握っている。燕は食器を器用にキッチンに持っていく。

 不規則に水の流れる音と、冷蔵庫の唸る音。そして律子の筆が紙をこする音。

 音はそれだけになった。

「あの、律子さん、私」

「おい、桜」

 とん、と背を突かれて、振り返ると夏生が立っている。

 彼は緊張するように拳を桜にむけた。小さな拳だ。桜は膝の上できゅっと握った拳を、ゆっくり持ち上げ……。

「うん」

 こつん、と拳は宙で混じり合う。

「月光?」

 夏生が窓の外を見て言う。そこには先程まで桜が見上げていた月がある。

「うん、私もそう思ってた」

 ゆっくりと。と、かつての先生の声が蘇る。

 落ち着いて、ゆっくりと、繊細に。

 ピアノは、音は、逃げないのだから。

 その声を何度も思い出し桜は鍵盤に指を置く。撫でるように、そっと押せば頭の中に音符がふわりと浮かぶ。

 桜は幼い頃から、焦って鍵盤を叩く癖がある。

 ピアノを弾くたびに、先生の神経質な指にそっと押さえられた。焦らないで。ゆっくりと。と、何度も言われた。

 ……それは、何かに急かされていたからだ。忙しい母に少しでも長く聞いてもらいたい。夏生の音に遅れたくない。 

(ゆっくり……繊細に……)

 しかし今は明け方前、皆が眠る時間に焦りは必要ない。

 やがて、桜の手元から音が溢れた。繊細な、まるで月のあかりが降り注ぐような優しい音色。重い雲が晴れて、そこからゆっくりと光が注ぐような……そんな旋律。

 気がつけば、恐怖も焦りもなにもない。ただ。腕が動く。

 自然に、緩やかに。アダージョ、アダージョ、アンダンテ。先生の声が聞こえてくる。

 夏生のヴァイオリンの音が静かに響く。二人の旋律は一瞬ぎこちなくぶつかったが、やがて桜の音に夏生の音が応えるように重なり、追いかけ、混じり合っていく。

 その音に、律子の筆の音と燕の水を使う音が重なり、それは不思議な調和となっていく。

「……上手だな」

 まるで驚くような顔で燕がつぶやくのを聞いて、

「カボチャが喋ったわ」

 と、律子が吹き出す。つられて吹き出しそうになるのをこらえ、桜は一楽章を弾き終えた。

「まるでカルテットね」

 最後の音の余韻に、律子がつぶやく。

 その声に応えるように、外の雨が止む。

 気の早い蝉が、喜びの声を上げるように急な声を張り上げた。



「いけるか?」

「大丈夫」

 会場についたのは、発表会のはじまる30分前。

 制服に着替え、ステージの脇に待機したのは15分前。二人揃ってステージの端から客席を見る。

 客席は大入り満員だ。一瞬春の苦しみを思い出したが、それはやがて薄れた。

 ちょうど真ん中の席に、律子がいた。その右側には燕、その隣には見知らぬ男性が腰を下ろし、燕と険悪そうに、何かを話し込んでいる。

 律子はまるで宝物を抱えるように、ひまわりの絵をこちらに向けてくれている。

「……」

 夏生が桜の肩を叩き、スマートフォンの画面をみせた。そこには、みゆきと店長が手を振る姿が映っている。

 みゆきの腕の中には、小さく赤い頭が見えた。慌てて手を振り返すと、みゆきは「落ち着くように」というように、胸に手を当て深呼吸のマネをしてみせた。 

 ……まもなくで、桜の出番なのである。

「桜、おばちゃん、見られるって」

 こそこそと、夏生が桜に耳打ちをする。続いてスマートフォンに写ったのは、母の顔だ。少しだけ気まずそうに、少しだけ嬉しそうに。

 それを見て、桜は高校時代の母の顔を思い出す。あのときから、ちっとも母の顔は変わっていない。

 あんな笑顔の下で、どれだけ寂しかっただろう。不安だっただろう。笑顔で不安を押し隠すのは、桜とそっくりだ。

 今も、困惑したように微笑んでいる。

 母が口を開くより先に、桜は夏生のスマートフォンを奪っていた。

「お母さん」

 ごめんなさい。その言葉を、桜は飲み込む。

 謝るには、少しだけ、時間が足りない。

「帰ったら、お父さんの話を聞かせて。顔が良くて、音楽が上手で病気がちだったこと以外に」

 桜が言い切る前に、会場にアナウンスが流れる。それは桜の順番を告げる声。

「じゃあ、行くね」

「桜」 

 母の声が、スピーカーの向こうにかすれて聞こえる。

「頑張って」

「うん」

 夏生が差し出してきた拳に拳をぶつけ、桜は胸を張る。真っ白なステージに、黒い革靴がきゅっと擦れる音をたてても、もう怖くはない。

 客席に向かって一礼。膝の震えを押し隠して椅子に座る。幕の向こうで夏生が大きく腕をあげているのがみえた。

(おかあ……)

 夏生が掴むスマートフォンの画面、母が相変わらず映っている。

 母は、白衣だ。その格好のまま、手をふっている。やがて、母はなにか黒いものを写した。

 遠くてよく見えないが、それはきっと病院のレクリエーション室にあるピアノだ。幼い頃、桜も父とよくそこでピアノを演奏した。

 誰かに代わって撮影してもらっているのか、母は黒い塊の前に座る。まるで、自分が発表会に出ているような、緊張した顔で。

(……)

 桜はピアノの前に腰を下ろそうとして……まるで弾かれたように立ち上がる。会場に、ざわめきが起きた。夏生が驚くように目をむいている。

 しかし気にせず、桜はステージ脇の階段から一気に観客席に。

 監視員が驚いて腰を浮かすが、その隙間を駆け抜けて観客席に滑り込む。

 ……そこに、律子がいた。燕がいた。ぽかん、と驚く燕を押しのけ、律子に手を伸ばせば、彼女は察したようにすぐさま桜の手に、硬いキャンバスを押し込む。

 がんばって。律子の口は、小さくそう動いた。

 頷いて、駆け戻る。ステージの上は光で真っ白に染まって、眩しいほどだ。ステージに上がって観客席を見ても、ただ黒い固まりにしか見えない。

 ピカピカ光る床に跳ね返る白い光。黒い群衆。低い囁き声に高い声。

(うん……かぼちゃだ、律子さん)

 律子のことのことを思い出せば、少しだけ心が暖かくなった。

 監視員に頭を下げてピアノの前に。桜は絵をわざとステージ脇に見えるような位置に置く。

 キャンバスの裏側には、走り書かれた文字が見えた。

 ……SとH、ひまわり畑にて R

 夏生が慌てて、スマートフォンを絵に向ける。

 画面に映る母の顔は訝しいものから、驚き、動揺に変わり……やがて母は、絵から目をそらすことなく、ピアノに着座した。

 いち、に、さん。音は聞こえないが、なぜか聞こえた気がする。 

 母の癖は、目を閉じて「いち、に、さん」と音を取ること。 

 そして、桜の癖も、母にそっくりだ。

 きっと父も、同じように音をとったのだろう。 

(今日の曲目は……)

 桜は目を閉じ、リズムを刻む。頭の中に、五線譜が流れてくる。暗譜は得意だ。目を閉じていたってピアノは弾ける。 

 頭に流れていたのは、今日の演目。

 ……私のお父さん。

(いち……に……さん)

 桜は息を吸い込み、鍵盤に指を置く。 

 その指に、父の指が重なってみえた。

 昔、一緒にピアノを弾いた。細くて、長くて、そして力強い指だ。

 母の指もそこに重なる。

 三人の指が、重なった。

(……お父さん、お母さん)

 やがて旋律が桜の手から溢れる。頭からも、心からも、一気に音が溢れ会場を満たしていく。

 ゆるやかで、壮大で、まるで川の流れのような音楽だ。旋律はまるで色づくように会場をめぐり、桜に注ぐ。 

 最初にピアノを教えてくれたのは父だ。 

 才能を伸ばしてくれたのは、母だ。

 ……音は、桜を置いて行ったりなどしていない。

 ピアノは楽しいだろう? と、懐かしい父の声が聞こえた気がする。


 (……うん、楽しいよ)


 桜の指から溢れたのは、光の色をまとう音だった。

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