黒の夜 土鍋ごはんにレトルトカレー
律子宅の玄関のインターホンが激しく鳴ったのは、燕たちが家に着いて1時間以上あとのことだった。
「ここにいるのかよ!」
燕が玄関を開けると、濡れ鼠のような夏生が転がり込んで、大げさに叫んだ。
「店にいねえし! 電話! かけても出ねえし!」
今の彼は、頭からつま先まで等しく濡れている。
くせ毛は水に濡れてうねり、彼はそれを気にするように何度も髪をかきあげる。口が悪いのは照れ隠しだろう。
「ふっざけんなよ燕、お前……俺がどんな探したか……お前、連絡先教えろつったろ。おふくろには教えてるくせに」
「個人情報だ」
燕はタオルを夏生に投げつけ、肩をすくめる。
「それに教えなくても、ここを見つけただろう?」
なぜ皆、こんなに雨に濡れるのが好きなのか。燕からすれば理解に苦しむ。
びしょ濡れの桜と律子を家に引きずり、風呂に押し込み、何があったのか聞いたのが1時間ほど前。
桜の口下手と、律子の主観的な意見が行き交ったおかげで、燕が全容を理解したのは30分前。
すぐに外に飛び出しそうな桜を律子と二人して宥め、桜に気づかれないよう陽毬の病院に電話をかけたのが10分前。
もっと怪しまれるかと思ったが、すでに燕の名前は桜から聞かされていたのだろう。
陽毬は案外素直に燕の言葉を受け入れた。娘を頼みます。と、動揺を冷静で押し隠して彼女は電話越しに言う。その声は大人びていて、燕のほうが戸惑った。
冷静に考えれば、陽毬はもう大人だ。あの絵のように、時が止まったままではない。
停電はいまだなおらず。律子が喜んで懐中電灯をあちこちに配置したせいで、光の筋が壁を染めている。
……こうして、ようやく落ち着いたと思ったら、今度は夏生だ。
「夏生!?」
声を聞きつけた桜が、玄関に顔を出す。色鮮やかな律子のワンピースを借りた桜はいつものグリーンの制服より、少し顔色が明るく見える。
目を丸くした夏生は、錆びたロボットのような不自然さで顔を背ける。
首筋まで赤く染まっているのをみて、燕はため息をつく。これで気づかない桜は、鈍感にすぎる。
「……さ……さく……桜の母ちゃん」
夏生は地面を睨んだまま、ぼそぼそと呟く。
「夕方くらいに親父んとこに連絡きて……発表会無理って」
「……うん」
暖かな湯気にくるまれたまま、桜が力なく頷く。夏生に気遣うような、そんな声だ。
「いいよ、夏生。だってお仕事って……」
「だから俺、そのまま、おばちゃんの病院いって話聞いてきた」
投げやりなようで、夏生の声は真摯だ。
「おばちゃんとこの病院、おふくろの病院から近いからさ」
その声を聞いて、桜の目が丸く見開かれた。
「夏生、だって電車、夕方から止まったって」
「帰りは走った」
「病院から!?」
桜が珍しいくらいの大声を出す。夏生の申告の通り、彼の足はドロにまみれている。
体格に恵まれているとはいえない夏生は運動も苦手なのだろう。寒くもないのに足ががくがくと震えてる。
「別に。マラソン大会と同じくらいだし」
「まあ、夏生君までびしょ濡れで」
騒ぎを聞きつけ、律子がひょっこり顔を出す。
「ほらほら、風邪を引いちゃうから早く中に」
そんな律子を押さえ、燕は静かにするように人差し指で口を押さえる。
夏生は大きな荷物を抱えたまま。彼は久しぶりに桜をまっすぐに見つめていた。
「病院で、話聞いてるときに……桜からメールきて」
その言葉を聞いて、桜の顔が赤くなる。
桜が恥じ入るように語ったメールの内容は、たしかにひどいものだった。しかし燕は、素直に母親にその言葉をぶつけられる桜に、安堵したのだ。
少なくとも、燕は親にそんなことは言えない。
「メール……は、私……」
何か言い訳をするように彼女の唇が震えるが、それは言葉にはならなかった。
「……わがままを……」
恥じるように震えた桜の肩を、夏生の拳が軽く小突いた。
「メール消したから」
「え?」
「見たのは最初のメールだけ。次のメール、おばちゃんからスマホ取って、消した。絶対、桜、普通の状態じゃねえし。だから」
緊張するように夏生は拳を握りしめている。
「……俺も見てない。代わりに、俺がおばちゃんのこと、怒っといた」
「夏生……」
「でもさ、おばちゃん、医者だし」
口下手な夏生と陽毬が、どんな会話をしたのか、燕は想像もつかない。
しかし、夏生の目つきは真摯だ。
「がけ崩れもあったし、今回は病院に待機しなきゃいけねえって」
「そうなの、お母さんは……お医者さんだから」
桜がへらり、と笑いかける。
「我慢しなきゃ」
「そのニヤけ面やめろ」
ぱん、と夏生が桜の顔を両手で包んで一度軽く弾く。驚いたように、桜が顔を上げる。
「……会場には来られないけど、病院で見ればいいんだよ。緊急手術とかなければ、スマホのさ、ビデオ通話で、見られるって」
ぱっと、桜の目が明るく輝く。それをみて、夏生が慌てて顔を背けた。
「救急の手術がなければ、だぞ。手術だったら、録画しておく。で、あとで絶対に見るって。絶対、見せるから」
「夏生」
「うちの親も明日は来られねえし、俺の方は燕にビデオ通話、まわしてもらうから」
「……夏生」
「皆さ、やることがあるんだし、だから俺らは、弾くしかないだろ」
夏生は話しにくそうに、手のひらを握っては閉じる。
「ずっと、弾いてきただろ。二人で。だから……弾くんだよ、また」
そこから緊張が漏れているようだった。
「だから、あの、桜、俺」
「夏生」
その手を桜がつかんだ。その勢いのまま夏生を引き寄せ、濡れた頭を桜は抱きしめる。
「ありがとう!」
ぎゃ、とも、ひゃ。ともつかない悲鳴が桜の腕の中で響く。ぴんと伸ばした夏生の手が、じたばたと揺れて雨水が玄関に散らばる。
先程そこを掃除したばかりの燕は眉を寄せて、二人を引き離した。
子供らしい高い体温だ。燕にはもう、無い温度だ。
「おい、そのまま入ってくるな。桜も抱きつくな、せっかく風呂に入ったのに」
燕と律子、二人がいることにはじめて気づいたような顔で桜と夏生が同時に赤くなる。
「燕、俺別に」
「桜は部屋、夏生、お前はまず風呂だ」
そんな若い二人は、同時に頷いた。
「燕くん。お腹が空いたわ」
律子がそんなことを言い出したのは、日差しがすっかり落ちた頃。
雨は小ぶりになったが、停電はまだ断続的に続いている。どこかの変電所に雷が落ちたのだと、ラジオからニュースが流れる。
燕がカルテットキッチンから拝借してきた防災用ラジオだ。この家にはテレビもない、ラジオもない。
普段、音のない家に音があるのは不思議なことだった。
復旧まであと数時間はかかる。しかし夕飯はまだだ。
仕方なく、燕はすっかり暗くなった冷蔵庫を覗き見る。
「そうですね……」
「お米が食べたいの。ねえ、夏生君だってお米が良いわよね」
律子は誰かを巻き込もうとするように夏生に声をかける。突然のことにびくりと肩を震わせた夏生は、慌てるように頷いた。
「っていうか桜、ここに泊まるの? 俺も?」
「一人さらったんだから、二人さらっても一緒だもの」
「律子さん、人聞きの悪い事を言わないでください」
いつもは二人の食卓が、今日は四人。それも食べざかりが三人だ。
(暗い中で料理するのは……避けたほうがいいか)
燕は頭の中で色々と算段しながら、考える。
冷蔵庫には食材がたっぷりある。
とはいえ、この薄暗さでは凝った料理は作れない。
(保存食を探すか……レトルトの、なにか)
しかし燕の思考など一切構わず、律子は続ける。
「夜は暗くて真っ黒で、お米は真っ白。きっと綺麗だもの」
燕は眉を寄せ、律子を見上げた。
「……善処しますが、電気がないとどうにも」
「鍋は?」
ぱっと、横から夏生の声が響く。
すっかりふてぶてしさを取り戻した彼は、スマートフォンに文字を打ち込むと燕に見せる。
「俺、学校で習った、これ作り方」
薄暗い室内だと、スマートフォンの明かりでも眩しいほどだ。そこに書かれているのは、鍋で炊く米の方法。
「素敵。そういえば黒い土鍋があったじゃない。冬にお鍋を作った……それで作ったら、黒と白でとても綺麗」
律子が飛び上がって、キッチンの棚を漁る。まもなく引きずり出してきたのは、土鍋だ。ずっしりと重く表面は闇を塗りつけたように黒い。
「あと、棚の中にこれがあったわ」
胸を張って自慢げに律子が引っ張り出してきたのは、大量のレトルトカレーだ。
食べたかったの。と目を輝かす律子から、カレーと鍋を受け取って、燕はため息をつく。
今夜は賑やかな夜になりそうだった。
「はじめちょろちょろ、中ぱっぱ……だったっけ?」
「赤子がなんとかって言ってたろ」
「ないちゃダメなんだっけ?」
「しらべろよ」
「そっちこそ」
桜と夏生が並んで言い合いをしながら、真剣な顔でガスコンロを見つめている。
その上には、大きな土鍋。重い蓋の下で、ふつふつと白い泡が吹き出している。
米を洗って30分浸水、しっかりとザルにあげて水を切る。土鍋で炊く米は、思ったより手間がかかる。しかし鍋にかけてしまえば、あとは火任せだ。
沸騰すれば火力を弱めて15分。
ぐつぐつと不穏な音が聞こえても、けして蓋を開けてはならない。
赤子泣いても蓋取るな。という言葉をもう一度口ずさんだ桜が、ふと夏生の顔を覗き込む。
「……夏生、そういえば。みゆきさんは大丈夫なの?」
「ああ、平気」
「平気って……だって、すぐ生まれないって言ってたし、今頃、夏生がいなくて不安がってるんじゃ」
不安そうに桜が眉を寄せた。
陣痛がきた、と燕も昨夜メールを貰っていた。しかし夏生は平然と、コンロを覗き込んだまま言い放つ。
「だって、昼前に生まれたし」
がたん。と桜が立ち上がる。そわそわと、落ち着かないようにあたりを見渡すと、律子の手をきゅっと握った。
「うまれ……たって!」
「まあ、おめでとう!」
「そういうことは早く言え」
「だって! 言うタイミングなかっただろ。だから今言ったじゃねえか!」
一斉に声をかけられた夏生は、顔を真っ赤にして背ける。彼にとってひどくにぎやかな一日だ、と燕は苦笑した。
昔、アトリエだった時代も、これくらい賑やかだったのだろうか。と考えて、燕は少し切なくなった。
「あ。燕さん! パチパチって音してる!」
誰よりも耳のいい桜が子犬のような顔で燕を見上げる。
土鍋に耳を近づければ、たしかに米が弾けるような音が聞こえてくる。そこから日を止めて10分。祈るように蓋を開け、しゃもじで混ぜる。皆が、不安そうに鍋を覗き込んでいる。
真っ白な米がふわりと、混ざる。白い米の下には、茶色のきれいなおこげ。
それを見た瞬間に、律子と桜がきゃあと喜んだ。
「あとはレトルトカレーを温めたので、お好きにどうぞ」
持て余していた贈り物のレトルトカレー。普段はあまり食べないそれも、客が来ればうまく消費できる。
(たまには人が来るのもいいのかもな)
と、燕はぼんやりと思う。そんなことを思える自分に驚いた。
停電で薄暗い中、苦労して見つけた白い皿四枚に米を盛る、封を切ったカレーをかける。
床とソファーと机には懐中電灯が数え切れないほど、転がっている。数年前、大規模な停電があったときに律子が山のように買ってきた懐中電灯が今になってようやく役に立ったのだ。
「カレーの黒と、お米の白と、夜の黒と。まるでピアノみたい」
二人用の小さなテーブルに、今は4つの皿が狭く並ぶ。
「停電でもお湯が沸くのって本当に幸せなことよね」
美味しい。と律子が幸せそうに呟き、桜と夏生が目を丸くして顔を見合わせる。
土鍋で炊いた米は、不幸中の幸いというべき美味しさだった。米の粒がふわふわとして、そのくせベタベタしていない。
米は口の中でほろほろと崩れ、カレーがよく絡む。
「土鍋ご飯美味しいです!」
桜が感動したようにいい、夏生は無言のままおかわりを注ぎにいく。
さらさらとスパイシーなこのカレーは梅雨もあけないこの季節に、不思議と似合う味だった。
「明日はお前ら発表会だろう、早く寝ろ」
食べ終わり、余韻のような気だるさが室内に漂う頃、皿を片付けながら燕は夏生と桜を追い払う。
時刻はまだ21時を過ぎた頃だが、電気が無いせいでまるで深夜のような暗さだった。
「律子さんに付き合ってたら徹夜になるぞ」
「あら、私も今日は疲れたから早く寝るのよ。そして明日は早くおきて、二人の発表会を見に行くんだもの」
「じゃあ早く寝てください」
心外だ、と言わんばかりに律子が口をとがらせて、桜の手を引いて自室に吸い込まれていく。
律子が消えれば、この家は途端に色彩を欠くようだった。
燕は、ぶつくさと文句をいう夏生を無理やりダイニングのソファーに押し込んだ。
「俺は下の自室で絵を描いてるから、何かあれば呼んでくれ」
不安そうに顔を上げる夏生の横顔が少しだけ明るい。窓を見れば、街灯がほのかに灯っている。
停電はようやく回復したようだった。
燕の自室は家の一階。車庫の横に作られた小さな物置部屋である。
ただの灰色の壁だったその部屋も、律子の手が入り、壁には鬱蒼とした森が描かれた。その空の色は夕日になり、夏の色になり、秋の色になり、今は綺麗な雨の風景となっている。
それは二人で過ごす季節が変わるたびに、律子が描き直す。季節のカレンダーのようなものだった。
その絵の前にイーゼルを置き、燕は一枚の絵を掛ける……顔のない家族の絵だ。
「……燕」
不意に声をかけられ、燕は現実に引き戻される。
振り返ると、入り口に遠慮がちな夏生の姿があった。彼にしては遠慮がちに部屋を覗き込んでいる。手には大きな紙袋を抱えており、彼が動くたびにそれがガサガサと音をたてる。
「邪魔した?」
「いや、いい」
部屋の壁一面に描かれた絵に、夏生は目を丸くしていた。そんな表情をするとやはり彼は幼く見える。
手招けば、夏生は恐る恐る部屋に足を踏み入れた。
「明日、本当に来てくれるのか?」
「ビデオ通話をするんだろう? 律子さんにそんな作業、できると思うか?」
「……ありがとう」
夏生は言いにくそうに呟く。
まるで人生で初めて放った言葉のように、それはたどたどしく響く。ふっと笑いかけた顔を、燕は引き締めた。
「気にするな」
夏生は気まずそうに、ベッドの端に腰を下ろす。
「……お前、家族の絵、まだうまくいかないのか?」
夏生が恐る恐る、言った。
絵は相変わらず、母らしきものと父らしきものと、燕らしきものが幽霊のように描かれていた。
「そうだな……時間もないから、適当にするさ」
顔を塗りつぶしたくなる衝動を抑え、燕はいう。しかし夏生は目を細め、絵を覗き込む。
「本当の家族じゃねえと、駄目なの?」
それは馬鹿にするような響きではない。純粋な声だ。
「本当の家族?」
顔を描かれることのない、三人の男女の絵。これは「本当の家族」だ。
「血が……繋がってるとか、そういうの。それが必要なのか?」
家族だと言われなければ分からない。そんな絵を、夏生がじっと見つめる。
三人は肩を寄せ合っているくせに、温かみがない。そこにはひやりとした空気しかない。
その冷たさに触れるように、恐る恐る顔を近づける。
「……今日の、ちょっと家族っぽかった」
夏生の言葉に停電の夜の風景が、不意に蘇る。
狭い食卓に4人の影。黒いカレーに白い米。
雨の音と……全員の中に蓄積した、少しの不安。
「べ……別に、俺はそうは思わねえけど、桜がっ、そう言ってたっ」
燕の目線に気づいて、夏生は慌てて口調を荒くする。ぶんぶんと振る手は、思ったより繊細で細い。そういえば彼はヴァイオリンを弾く少年だった。
性格も、実は繊細なのかもしれなかった。
「絵をさ、辞めようと思ったことはない?」
……不自然なまま止まった絵を、夏生がまた見つめる。
「親の言う通りに進路決めたんだろ。で、出てきたんだろ。一緒に絵を止めようと思わなかった?」
「……何度も思ったよ」
窓の外はすっかり静かである。雨はやみ、停電もおそらく終わった。
町はようやく少しだけ、静けさを取り戻した。
時刻はもう深夜。いつもは眠りの遅いこの家も、今日は静かだ。
静かすぎて、声がいつもより大きく聞こえる。
「でも、捨てなかった。捨てられなかった」
絵を捨てると、自分の体が空っぽになるようだった。結局、自分というものは絵で構築されていた。絵を捨てることは自分を捨てることだ。
再び筆を握った春のあの日以降、絵を捨てることは考えていない。
「……いいな」
夏生は座ったまま、不器用に言葉を紡ぐ。
「俺も」
夏生と向かい合うのは、5月以来だ。あれからも夏生は燕に対して一定の距離をとってきた。しかし今日ここに飛び込んできたのは燕を頼りにしてくれた、ということだろう。
昔、律子が燕のことを鳥に例えたことがある。
この家に燕が滑り込んだ時だ。傷ついた鳥が家の中に飛び込んできた、と律子は例えた。
夏生をみて、燕は今更、律子の気持ちを理解する。
「……俺、も」
夏生はたどたどしく言葉を続けた。
音楽をはじめたのは、親の影響。小さな頃はレッスンが嫌だった。
続けることができたのは桜の影響だ。
楽しそうに弾く桜を見て、はじめて一緒に発表会のステージに立って、拍手を受けて、真っ白な光に包まれて、音楽の楽しさを知った。人に聞かせることの喜びを知った。
「俺の親も桜の親も忙しくって……代わりに音楽があって、それは、桜も一緒で……音楽は楽しいから」
桜もそうだと思っていた。一緒に、音を紡いでいけると、そう思っていた。
「もし、明日、あいつ、弾けなかったら……俺」
最後は、低いつぶやきになる。それは不安の色だ。その声を聞いて、燕は不意に先日のことを思い出した。
それは、律子とともに絵を仕上げた、その思い出だ。
一人では不安なことも、二人ならば心強い。
「その時は、お前がステージに出て、一緒にヴァイオリンを弾けばいい」
「ばっ……おま」
叫びかけた夏生だが、やがて一瞬、本気で考えるように眉を寄せる。
「そ、それもいいかもな。先生怒らせるの、俺、得意だから」
口を滑らせてしまったことの後悔を隠すように夏生は紙袋を燕に押し付けた。
「あ。そうだ。これ、治せる? 色んとこ」
受け取ると、軽い。中を覗けば、それは桜のピアノだ。
「たぶん、桜が落としたんだと思う。床に転がってた。塗料、ちょっと剥げてて」
引きずり出せば、表面の青の塗料が少し剥げている。
ピアノの色を見つめて燕は目を細める。ごくごく一般的な塗料だ。こんなものでこれほど美しい色を作り出せるのは世界に一人だけ。
……律子の筆である。
ピアノの側面には、常人には作り出せないような複雑な色が塗られている。青の混じった、淡いグレー。
先日、絵のピアノは塗り直したばかり。ならばこれも、塗り直せるはずだ。
「色もそうだが……もともと壊れてないか、これ」
こん、と鍵盤を叩くと、中で何かが引っかかっている、そんな感触が指に伝わってくる。
「音の出ない場所があるんだよ。古いから」
「いや……中に……なにか」
椅子に腰を下ろし、慎重にピアノをくるりと回してみる。軽く振ると、かさかさと小さな音がする。
「中に……なにか音がする」
屋根に指をかけ、側板からそっと外せば、それは案外簡単に外れた。
「あ……」
そして燕と夏生は顔を見合わせることとなった。蓋を開けてみれば、中には小さく折りたたまれた白い紙が一枚、収まっていたのだ。
それは小さな、薄い、紙。
黄ばんだそれをそっと押し開くと、そこにはクリスマスの絵が描かれている。サンタクロース、もみの木、ケーキ。
(……律子さんの、隠し事だ)
それは律子の絵だ。色だ。線だ。
サインなどなくてもわかる。また一つ、律子の秘密が現れた。そのことに、燕は少しだけ、胸が高鳴る。
その高鳴りを押さえて、何事もなかったように燕は再び蓋をした。
「いまのは?」
「さあな」
「さあなって……」
燕が笑ってみせると夏生の顔がまた赤く染まる。感情が豊かなこの少年を燕は少し羨ましく思った。
「暇か、夏生」
だから燕は家族の絵を奥に片付けて、伸びをする。
ガレージの横にあるこの部屋は、少し空気がよどみやすい。雨上がりの日は特に湿気がひどく、肌にぬるい空気が張り付くようだ。
こんな夜、律子はすぐに目を覚ます。夕食が早かった日は特に、だ。
「なんで?」
「今から夜食作るのを手伝え」
「夜食? なんで?」
「そのうち分かる」
夏生を無理やりキッチンに引っ張り込む。真っ暗なキッチンの隅に鎮座した冷蔵庫を開けると、低い音と淡い光が燕の顔を撫でた。
停電明けの庫内はまだ少しだけ生ぬるい。腕を差し込み、燕はしばし思案した。
「……餃子にするか」
「は?」
「早く使わないと、ひき肉とエビがだめになる」
冷蔵庫から出したのは、パックに詰まったピンク色のひき肉に、小さなむきえびのパック。冷蔵庫の真ん中の段には真っ白な餃子の皮が見えた。
(赤色に……餃子の白色、あと……もう一色欲しいな)
夏生を腕で押しのけて、燕は寡黙に準備を進めていく。
チューブの生姜、刻んだむきえび、ひき肉に、鮮やか緑の刻みネギ。
「明日は発表会だから、にんにくもニラもなし、代わりに生姜はたっぷり目で……キャベツも白菜もないから……ああ、これでいい。ほうれん草」
「は?」
「野菜、苦手か?」
お子様口め。とせせら笑うと、夏生は口を尖らせる。
「ほうれん草なんていれねえだろ、餃子に」
「色がつかないと、あの人は食べないんだ」
少し萎びたほうれん草を軽く茹で、刻み、具をすべて混ぜる。銀色のボウルの中で色鮮やかな具が練り込まれていく。
エビの淡い色、ひき肉の赤に、ほうれん草の鮮やかな緑。それは梅雨の鬱陶しさを払う色彩だ。
焼くよりも、茹でるほうがもっと色が映えるに違いない。そんなことを考えて、燕は大きな鍋に湯を沸かす。
「包むのを手伝え」
真っ白な皮をざっと並べ、夏生にスプーンを押し付ける。一枚、試しに作ってみせると夏生も必死にそれを真似る。しかし、それはあっけなく崩壊して情けない形になった。
「下手」
「なんで餃子なんだよ」
「材料があったからだ。験担ぎでとんかつでも作ってほしかったか?」
「そ、それは」
一個、二個、燕が作ると夏生も負けじと作り続ける。負けん気の強さは彼の美点だ。
「終わってからでいい、どうせ賞、取るし」
作るうちにどんどんと形が整っていく。10個作るうちに、形はほぼ完璧なものとなった。
白い皮に、透けて見える緑が美しい。
「まあまあだな」
「……お前、俺、こんなのしたことねえし」
「慣れておかないと、苦労するぞ。ふたりとも料理ができないのは困るだろう。桜は料理が苦手だし」
桜の名前を出すと、夏生がわかりやすいくらいに動揺する。潰れた水餃子を、燕は横から奪って平然と整形してみせた。
「なん……だよ」
「ああいうタイプは苦労するぞ」
「お前だって……お前だって……」
「もう慣れた」
燕はせせら笑ってみせる。
「……それに、苦労と思ったことがない」
ぽこりと、湯の沸く音が響く。鍋にたっぷりと入れた湯が底から大きな粒をあげて湧き上がる。
そこに投げ込むのは中華だし、醤油、塩。そして先程作った、緑の餃子。
ふわふわと浮いてきたのを見計らい、その上から溶いた卵をとろりと流し込む。ぷわ、と音をたてるように、スープの上に黄色い卵が広がる。
餃子の皮のおかげか、スープにほどよくとろみが交じる。
(……ひまわりみたいだ)
黄色い卵がくつくつと、柔らかく揺れる。時折覗く、緑の餃子の色が、美しかった。
(あの、絵みたいな……)
生ぬるい夜に、生ぬるい空気だ。
その時、湿度の高い空気がふっと振り払われた。扉が開く音、静かな足音。
振り返るまでもない。
「燕くん、お腹が空いたわ」
跳ねるような声が、後ろから聞こえた。




