夏の名残のラタトゥイユ
雨音続く、夏の終りだった。
窓に大粒の雨が当たって弾けている。外は雨で白煙だ。通勤中のサラリーマンが、鞄で頭を押さえながら駆けていく。
夏とは思えない、ひやりと冷たい空気である、この夏は雨が多い。そして、雨が地上の熱を奪っていく。
通勤も通学も関係のない燕は、窓から外の風景を眺めながら目を細めた。
律子の家は古いビルだが、台所に大きな窓があるところがよかった。自然光は食べ物を美しくさせる。
そして、窓から人々の営みが見える。普通に生きる人々を見て、どんどんと乾いていく自分の心を感じることができる。かわいそうに。と燕は自分自身に対してそう思った。
燕の目の前、ぴかぴかに磨かれた洗い場の中には水を張った大きなボウル。その中にぷかりと浮かぶのは巨大な秋茄子だ。
青紫に鈍く輝くそれを二度ほどつついて、
「さて」
と、燕は包丁を取り出した。
「律子さん」
まだ雨の続く午前9時。燕は小さな皿を片手に、アトリエの扉をたたいた。
律子のアトリエは、ビルの1階。帆布のキャンバスが、足の踏み場もないほど散らばっている。それだけに飽き足らず、彼女は 床にも壁にも天井にも、白の隙間さえあればどこにでも絵を描いた。
今もまた、彼女は部屋の真ん中の小さなキャンバスに向かって、黙々とかきこんでいるのである。
「律子さん」
もういちど名を呼ぶ。時には100回呼んでも気づかない時もある。が、今日は幸いにも、彼女は二度目の呼びかけで顔を上げた。目が充血している。目の下には、茶色のくまが浮かんでいる。
しかし、笑顔だ。
「燕くん? え、もう晩ご飯?」
「そんなもの、とっくに越えて今は朝です」
「あら。私の中ではまだ1時間もたってないのよ」
昨日、昼飯を食べ終わるなり彼女はアトリエにこもった。それからまる一日近く彼女は巣ごもりのまま。
この部屋にこそ、大きな窓が必要なのではないかと燕は思う。時計を置いたところで、彼女はそれを見ないし、下手をすれば時計の表面を極彩色に彩って、文字盤など見えなくしてしまう。
散らかった絵筆や絵の具を片づけながら、彼女の隣にサイドテーブルを引き出す。そして、その上に皿をおいた。
「そろそろお腹、空いてるんじゃないですか」
「あら」
「……朝食です」
「まあ……まあ、まあ」
彼女はそれをみるなり、筆を投げ捨て机を見つめる。燕はその瞬間が好きだった。
この天才から、絵の時間を忘れさせることができるのだ。それは、燕の料理によって。
「おいしい!」
律子が子供のような勢いでかぶりついたのは、バケットだ。周囲がかりっと立ち上がるほどよく焼いて、その上にフィリングを乗せている。
「これ、なぁに? この青色のフィリング、すごくおいしい」
バケットの上にたっぷりと塗られた青紫のフィリング。それは茄子だ。燕も一つ、つまむ。かりりとしたパンに、とろりとした茄子のフィリング。
パンの表面を覆うさくさくの香ばしさ、歯を通る柔らかさ、そして茄子のぷち、とした触感。一口で、様々に楽しめる。
「茄子です。茄子のキャビア、貧乏人のキャビアとも言われてるらしいですけど。触感がキャビアみたいだとか……まあ僕はキャビアなんて食べたことありませんけど」
茄子を焦げ目が付くほどしっかり焼いたあと、皮をむいて細かく刻む。あとはオリーブオイル、アンチョビ、ニンニクとともに、ねっとりとするまで炒めるだけだ。
ここにバルサミコ酢を振ればもっとすてきな味になる。
と、燕に教えたのは昔の女。女の家にバルサミコ酢は無かったが、幸いにも律子の家には大量の調味料がある。
すべて元・弟子がもってきたものである。しかし、料理のレパートリーが「ぎんなんのレンジ蒸し」のみ、という律子に使いこなせるはずもない。調味料は棚の中、未開封のまま並んでいた。
燕がこの家に住み始めてはじめたのは、そんな料理道具の整理整頓だ。おかげで、今の台所は随分使いやすいものになっていた。
「茄子なので、色は悪いですけど」
「ううん。綺麗。淡い青色ね。それに、キャビアよりおいしいわ……にんにくの味が合うのね。これ、食べたらもう少し絵が描けそう」
「無理はしないでくださいよ、年なんだから」
年のことをいうと、律子が頬を膨らませる。
「燕くん、淑女に対する礼儀がないわ。それに私は魔女だから平気なの」
「わかってます」
「そんなことより、お部屋気に入ってくれた?」
2枚目のバケットに手を伸ばしながら律子が楽しげにいう。
「真っ白でしょ?」
燕がこの家に来て二日目のことだっただろうか。
燕をいつまでも応接間のソファーで眠らせるのは、いけない。それは客人にたいする礼儀だ。この家に住むのなら、部屋を与えるのが家族としての礼儀だ。
と、いう律子の持論によって、燕に部屋が与えられた。
いつまでここに住むものか、いつ出て行くかもわからない身としてはむしろ応接間の方が有り難いくらいであった。しかし、決めたらてこでも考えを変えない律子によって、一つの部屋を与えられる。
それは、アトリエの横にある小さな部屋だ。余ったベッドなどないので、これまで使っていたソファーを運び込んだ。それと小さなタンスが一つ。それだけだ。それ以外は、ただ、白い。
壁も床も天井もどこもかしこも白い。部屋全体がキャンバスなのである。
ここに燕くんを描かせてね。と律子は笑っていった。ただ、目がくらむほど無色の世界で。
まずは最初に。と、言って彼女は部屋の隅に木の幹を描く。飽きたのか、考えがあるのか、ただ一本の木だけを描いただけで止まっている。
燕は目が覚めるたび、エンピツで描かれた木と向かい合うこととなる。鬱蒼と、葉を茂らせた木。大きな鋸歯を持つ葉である。それは柏の木だと律子は言った。
「私、柏の木が一番好きよ。綺麗で気高い木。なぜか分かる? 柏の木は、葉が落ちないの。新芽が出るまで、けして葉を落とさないの」
律子はバケットを持ったままうっとりと呟く。
「桜のようにすぐに散る花も美しいけど、けして散らない木は美しいわ。柏の木を、あの部屋いっぱいに描きたいの。気に入って貰えるかしら」
「気に入るも気に入らないも、僕が決めることじゃないですから」
「あら。あなたも何か描いていいのよ」
「……僕が?」
律子はくるん。と目を輝かせる。
「僕がなにを?」
「あら。描かないの? 描いてみればいいのに、せっかく白いのだから」
描くのが当たり前だというような口振りで、邪気のないその言葉が燕に刺さる。しかし律子は自分が言った言葉もすっかり忘れ、目をこすりあくびを一つ。
「眠くなっちゃった」
「それは、徹夜したせいでしょう。夕飯までには起こしますから、どうぞ寝てください」
「燕くんはお昼寝していかないの?」
「まだ朝です。それにさっき、大量の届け物がきましたので、その整理を」
「まあ、生真面目」
鈴が転がるように、彼女は笑う。
「私なんて、ずっと燕くんだけ描いてたのに、その時間の間に燕くんは色々してくれるのね」
律子の前にあるキャンバスには、素描の燕が描かれている。何枚も何枚も。それはソファーを運ぶ燕であったり、食事をする燕であったり、様々だ。生き生きと、絵の中の燕は生きている。
絵の中に映し出された燕は、燕にそっくりだ。しかしそれは焦燥感も厭世観も纏っていない燕だ。燕は、それがうらやましくさえ感じるのである。
「……さて」
昼を回っても雨はまだ降り続いている。目の前にどん、と置かれた段ボールを覗き込んで燕は小さく息を吐く。
中には、夏野菜がみっちりと詰まっていた。
巨大なきゅうり、ヘタがぴんと立った茄子、つやつやとしたズッキーニ、よく熟れたトマト。採りたてなのか、まだ水を弾くように艶やかだ。
宛先は律子。差出人は有名な画廊の社長だ。律子の元弟子であるという、この男の名を燕は何度もみた。送り伝票をつけたまま放置してある段ボールに、この名はよく書かれている。
丁寧な長い手紙もまた。
手紙には必ず、恩義の感謝と弟子を辞めたことの後悔と謝罪、そして律子の生活を案ずる余計な一言まで添えてある。
しかし。
(この男はわかっていない)
と、燕は少しの優越感とともにそう思う。律子に恩着せがましく物を送ったところで、彼女は見向きもしない。律子は自分の興味のあるものしか見ようとしない。
「……ラタトゥイユだな」
段ボールをのぞき込み、燕は呟く。そろそろ夏が終わる頃に届いた、夏の名残の野菜。
すべて刻んで煮込む、ごちゃまぜのラタトゥイユ。
この料理も、昔の女が燕に教えた。切って煮込むだけだから、これは男の料理だ。と言うのである。料理好きの女だったが、ラタトゥイユだけは燕に作らせることを喜びとした。
大きな鍋に、たっぷりのオリーブオイル。熱したところにニンニクを一かけ、香りが出るほどまで炒めたら、あとはそこに切った野菜を落としていくだけだ。
包丁を手にとった途端、律子が顔を覗かせた。
「なあに、もうご飯の支度? 手伝う?」
「手でも切られたら困りますので、下がっていてください」
もう起きたか。と、燕は彼女を見る。まだ目は赤いがその目は燕の一挙手一投足、興味津々に見つめてくるのだ。
「私ね、お台所に立ったことがないの」
「……でしょうね」
大きな茄子を切る。トマトを、そっと潰さないように切る。ズッキーニの、柔らかい肌に刃を入れる。パプリカの、パリッと弾ける断面を優しく裂く。
そうして切りおわるたびに、鍋に移す。切ってすぐ入れるのが一番いい。切った瞬間、空気に触れた瞬間から、食べ物は熟成をはじめるのだ。
熱を持ったオリーブオイルが、野菜の断面に染みこんで黄金色に輝く。じゅ、と美味しい音が鳴る。
鍋の中が、青と緑と赤に彩られた。
「律子さん、よくそんな生活感のなさでこれまで生きて来れましたね」
「弟子たちがみんなやってくれたから……まあみんな、辞めてしまったのだけど」
律子は子供のような顔で、鍋を見つめる。
燕は構わず、野菜をざっくりと混ぜた。たまねぎ、茄子、パプリカ、ズッキーニ、トマト、塩こしょう、あまり物の調味料の中にあった、ハーブ。
指で掴んで、振りかける。
色んな色が、鍋の中で混ざる。青かった色が、トマトの赤に浸食される。まるで夕陽のような濁った赤は、夏の終わりの色だった。
律子は鍋を覗いてため息を付く。
「だから誰かがお料理をしているのが、すごく楽しいし面白いんだわ。どうしてこんな固いものから、味のないものから、あんな美味しいものが作れるの?」
「律子さん、邪魔です」
「じゃあ私、描いてる」
燕のすげない言葉にもめげず、律子は嬉しそうにスケッチブックを抱えるなり台所の隅に座り込む。
迷いの無い腕の動きで、真っ白なページが埋まっていく。
鍋を持つ燕の立ち姿だ。包丁を持つ姿だ。コンロの火を覗き込む真剣な目だ。何気ない立ち姿を彼女は一瞬で切り抜く。
なぜ真っ白な紙の上に、あんなに美しい絵を描くことができるのか……言いかけて、燕は口を結ぶ。
鍋の中、ラタトゥイユはくつくつと音を立てて柔らかい湯気を立ち上げていた。
湯気の向こうに見える窓は、暮れかけている。
「……律子さん、味見します?」
「え? いいの?」
蓋をそっと外すと、水滴がコンロに弾けて音を立てた。
覗けば野菜はほどよく煮詰まっている。夏の野菜からは驚くほど水分が出るのである。炒め煮するだけで、野菜は自分自身の持つ水分だけで柔らかく煮込まれる。
ふたつの小皿に柔らかくなった茄子とズッキーニを載せ、ひとつを律子へ。ゆらり、と立ち上るのはニンニクの甘い香りだ。野菜の中で煮込まれるとにんにくは甘く香る。
「ねえ、燕くん。味見って幸せよね」
美味しい、とも不味い。とも律子は言わない。ただ蕩けるような笑顔を浮かべる。
一口食べた燕も、もう難しいことを考えるのをやめた。
「特別な感じがするんだわ、出来たばかりのご飯の味」
茄子とズッキーニがトマトをまとって口の中でとろける。それは、夏を追憶する味である。