雨のソナタの飴色クッキー
今日は人生の中で一番最悪の日だ。
カルテットキッチンに作られた、小さなステージの上。少しだけ高くなったその場所で、桜は膝を抱えて座り込む。
キッチンカウンターの足元、おもちゃのピアノが転がっているのが見えた。胸が苦しくなり、桜は目をそらす。
(本当……最悪……)
ずっとずっと大事にしてきたおもちゃのピアノ。
毎日触ってきた。そんな大事なピアノなのに、カウンターに駆け込んだ勢いで床に落としてしまった。
普段なら、慌てて救い出したはずだ。しかし、今はそれをじっと見つめるだけ。
(……最悪……最悪)
桜はピアノから目をそらす。悲鳴のように響いた高音は今も耳に残っている。
蒸し暑いくせに妙に冷える日だった。むき出しになった足が、どんどん冷やされていく。
湿度が高いせいか、窓まで歪んで見える。
……いや。
(最悪……)
桜の目に浮かんだ涙が風景を歪ませているのだ。
『いつもそうだよね』
桜の頭の中、デジタルの冷たい文字が蘇る。
薄暗い部屋の中、湿気ったベッドの上に腰を下ろしたまま、無我夢中に打ったメールの文字。
それは桜自身の声で再現される。
『いいよ、だってお母さん、お仕事が忙しいんでしょ』
メールの送り先は母親である。
『もともと、期待もしてなかったし』
発表会前日、学校帰り。
鞄を自室に投げ込んだ瞬間を狙ったように、桜のスマートフォンが震え、母親からのメールが届いたのだ。
『ごめん、電話、してもいい?』
遠慮がちに句読点が増えるのは、何かやましいことがある証拠。
桜の中に100個くらいの嫌なことが思い浮かび、そのうちの一つ、一番当たってほしくない「嫌なこと」がアラートのように頭の中で警告音を鳴らす。
こんな時、嫌な予感はよく当たるのである。
今電車の中だから、あとにして。と、嘘を打ち込んだのは、母の声を聞きたくなかったからだ。
そんな桜の些細な抵抗はすぐに破られることとなる。
『明日、仕事で、緊急事態。発表会見に行けなくなって』
その揺れるような文字を見た瞬間、桜はスマートフォンを握りしめたまま怒涛のように文字を打ち込んでいた。
声に出すより、文字にするほうがもう少し辛辣に響く。わざとその辛辣さを見せつけるように、桜は文字を打ち続けた。
いつものことだよ、慣れてる。どうせ仕事でしょ。それなら最初から行くなんて言わなきゃいいのに。
『……もう二度と来なくていいよ。どうせ私のピアノなんて興味なんてないんでしょ。お父さんがいたらよかったな』
(お父さんならきっと無理してでも、来てくれたのに)
最後に思わず打ち込んだ一言。そのあまりの冷たさに桜は震えた。
放ってしまった文字は取り返しがつかない。
返信が来るより先に、桜はスマートフォンを枕の下に押し隠す。
そして何も持たないまま、外の雨に飛び出して、カルテットキッチンにたどり着いたのは10分前、カウンターに突っ伏した勢いでピアノが落ちたのは3分前。
それらの行動は、今になって桜の胸を刺し続ける。
小学生の子供のような……馬鹿らしい、子供っぽい、ただの爆発。
(燕さんは今日……バイトじゃないし、夏生は……居たら気まずいけど……)
キッチンに明かり一つ灯しただけの、薄暗い喫茶店を見渡して桜は思う。
(みゆきさんにも店長にも今は頼れない……)
みゆきに陣痛が来たのは昨夜の遅くのこと。
心配する桜に「ここからが長いの」とみゆきが苦しそうにウインクをした。
夏生の時も3日3晩かかったという。だからこそ不安な桜だが、大丈夫、大丈夫。とみゆきは笑った。
二人は病院に行き、まだ連絡はない。
(誰にも……頼れない)
冷蔵庫の表面に、夏生のメモが乱暴に張られている。今日はおふくろの病院。それだけの短いメモだ。
一ヶ月前、燕の前で起こした小さな喧嘩は悲しいくらい尾を引きずっていて、昔の関係に戻れないまま。
それでも夏生は律儀に、出かけるときは冷蔵庫にメモを残していくのだ。燕が見ても桜が見てもわかるように。メモを残すのは、みゆきから受け継いだ癖なのだろう。
(……駄目だ。やっぱり、謝らなきゃ)
桜はのろのろと、立ち上がる。体を拭くのも忘れていた。じっとりと湿った制服が重い。
(ああ。スマホ……家においてきちゃったな……家に帰って、もう一回お母さんに、メールして……)
膝に張り付くスカートを剥がしながら、桜は肩を落とす。
その時、肩に淡い光が差し込んだ。
「お店、いいかしら」
低い音をたててカルテットキッチンの扉が開く。隙間から差し込んだ光は、雷の光だ。びくりと肩を震わせて、桜は恐る恐る振り返る。
「すみません、お店……今日、おやすみで……」
表にクローズの看板を出し忘れていたことを、桜は思い出す。情けない姿の気まずさに、桜の声は小さくなる。
「誰も……いなくて……」
……が、そこに見慣れた顔を見て、思わず目を見開いた。
「律子……さん?」
そこにいたのは、紛れもなく律子だ。今日は紫色のレインコートに目にも鮮やかな花柄の傘を持っている。
まるで花を花瓶にさすように、律子は傘立てに傘を置いた。
「燕くんがクッキーを焼いてくれたから、おすそ分けにきたの。一緒にどうかしら。夏生君はご不在? 残念。とても美味しいクッキーなのよ」
湿気った空気に、絵の具が香る。彼女は、まるで美術館のような香りがする。
「どうしたの? 大丈夫?」
律子は桜を気遣うように覗き込むが、カウンターの向こうに転がったピアノに気づいたのだろう。彼女はそれをそっと持ち上げる。
「あら。ピアノが」
その手は、優しい。そっと持ち上げて、抱きしめる。まるで自分のむき出しの心を抱きしめられているようで、桜は唇を噛み締めた。
「落ちちゃったのね。でも大丈夫。少し色が剥げ落ちちゃったけど。なおせるわ、形があるものなら、なんだって直せるもの」
彼女の指が、ぽん。と鍵盤を弾いた。健気にも音が鳴る。それを聞いて、桜の中に安堵と罪悪感が広がった。
「……桜さん、大丈夫?」
「いえ、ごめんなさい。大丈夫です。お店、今日おやすみで……燕さんもいないし、お料理は無理だけど……あ。そうだ、コーヒーとか……」
慌てて立ち上がりキッチンに駆け込む。キッチンには海外製のコーヒーグッズがずらりと揃っていた。
透明な瓶には、キラキラ輝くコーヒー豆。それを一巡見た後、桜は床下の扉を開いて夏生用のココアパウダーを取り出す。
「すみません……ココアでもいいですか?」
「まあ、大好きよ」
「私、これだけは得意なんです」
律子の笑顔を見て、桜も思わず笑みが浮かぶ。昔から、ココアは得意だ。
ココアが好きな夏生のために美味しい入れ方を勉強したのだ。
(……いきなり粉を牛乳に混ぜるのは駄目)
小さなミルクパンを弱火にかける。真っ黒なココアパウダーを軽く炒って、ちょっとずつ水を加えてこねていく。
「あ。音楽……何か流しますね」
部屋は静かで、窓を叩く雨の音しか聞こえない。
キッチンの上に置かれたラジオをつけると、激しいピアノの音が鳴り響いた。
びくりと、驚くほどに激しい音だ。怒り狂うようなその音は、やがてなめらかなリズムを刻み始めた。フレーズを耳に閉じ込め、桜は無意識のうちに指を動かしていた。
「……悲愴です。ピアノソナタ」
「名前、聞いたことあるわ。こんな曲だったかしら。音楽に詳しくなくて……悲しい、切ないって意味なのに、とても激しい曲なのね」
それはベートーヴェンの悲愴だ。激しい音から始まる第一楽章より、二楽章の方がよく知られている。
一楽章は力強くリズムを刻む。その音を聞きながら、桜はココアに向かい合った。
「二楽章が有名で……そっちはもっと静かで切なくて綺麗なメロディなんです。耳が聞こえなくなった頃のベートーヴェンが作ったって言われてる曲で」
ミルクパンに出来上がったのは、重いココアの塊。そこにミルクを少しずつ加え……そして、最後は砂糖をたっぷりと……。
「あ。砂糖が少ない……どうしよう」
茶色の砂糖は、もう残りが心もとない。すべて入れても、少し物足りない。戸惑う桜に、律子が優しく声をかけた。
「冷蔵庫に……何か無いかしら?」
「待ってください……あ」
「何かあった?」
冷蔵庫を開くと、中ににきれいな赤い瓶が見えた。
「……いちごジャムが」
「燕くんが作ったのね。ねえ、それを入れてみない?」
律子が身を乗り出すように、そう言い切った。彼女は色しか見ていない。色を見るだけで、燕が作ったと断言したのだ。
その言葉に押されるように、桜は戸惑いながらいちごジャムを、ココアに落とす。
「ココアに……ジャム?」
「ガトーショコラにジャムって合うでしょう? それと同じ」
「どうぞ」
「ありがとう……あったかい」
ココアを差し出すと、律子は幸せそうにそれを両手で包み込んで、口に含む。そして目を閉じて音に耳を傾けていた。
桜も、つられてココアを一口。
とろりと甘いココアの奥から、ふわりと甘酸っぱい香りが漂ってくる……それは、ケーキみたいなココアだった。
「悲愴、怒っているような曲だったけど、だんだん曲調が変わるのね」
律子はうっとりと、ピアノの音に耳を傾ける。桜もラジオをじっと見つめた。
「……一楽章はちょっと怒ってる風に聞こえて、次は焦って、二楽章で緩やかな音色になるんです」
やがて大きな音を立てて一楽章が終わると、打って変わって優しい音色に移り変わる。
……それが、二楽章だ。
「ちょっと違うけど、死の受容過程っていうのがあるの」
律子は難しい言葉をすらりと言う。
「否定して怒って、あがいて落ち込んで、そしてやがて受け入れていく」
……受け入れるのは死だろう。
しかしベートーヴェンは命ではなく聴力を失った。それは、死と同じ感覚だ。規模は違っても、桜も今、その恐怖を味わっている。
じわじわと、音に裏切られていく感覚だ。指から音が消えていく。そんな感覚だ。
(お父さんも)
桜はココアの黒い表面を眺める。その向こうに、父の顔が浮かぶ。もう覚えてもいない、横顔だけの父親。
(……そうだったのかな)
「どうかした?」
「あ、いえ。なんでもないです」
「燕くんもね、あなたと同じなの」
ココアを丁寧に飲みながら、律子がまっすぐ桜を見つめる。
「何かあっても、絶対に言ってくれないの」
目の大きな女性だ。やはり、どこかで見たことがある……桜の中に様々な記憶が蘇っては消えていく。
黒いワンピースのピアノ講師、厳しかった小学校の音楽教師に、九州で出会ったおおらかな人たち。そのどこにも、律子のような女性はいない。
律子は壁に刺してある四人の写真を見て、少しだけ悲しい顔をする。
「それは寂しいことだわ」
「……お」
桜の唇が、震えた。震えを止めるためにココアを一口、含む。
いちごココアの甘さは、桜の口から言葉を引きずりだした。
「……お母さんが来るから……発表会に」
言葉がくるくると頭を回り、思いついた先から声に出る。祖母が生きていれば「きちんと喋りなさい」と叱られただろう。
しかし、目の前にいるのは、律子だ。
「でも……私、この春から、人の前で……ピアノが……弾けなくて……だから、発表会を棄権しようって思って……でも……お母さんが来てくれるから、だから、恥ずかしくないように、ちゃんと、弾けるようにって」
ここ数日は必死にピアノを弾いた。人前でも弾けるように。
「いっぱい……練習して」
人前だと最初は三音しか出なかった音も、段々と弾けるようになっていた。
引きつりながら一曲を弾き終えたのは、今日の放課後、音楽室。一緒に付き合ってくれたクラスメートたちは、歓声を上げて喜んでくれた。
……母から、連絡を受けたのは、その矢先だ。
「なのに、お母さん、行けないって……仕事で……だから、もういいよ、来なくていいよ……って、言っちゃって」
律子の表情は静かだ。あまりに動かないので、まるで一枚の絵に向かって話しかけているような気持ちになる。
「……お……お父さんなら来て……くれたのにって、ひどいことを言って……しまって」
ラジオではちょうど、悲愴が終わったところだ。わっと、華やかな拍手が聞こえる。
桜もステージの上で何度かその拍手を聞いたことがある。地面が揺れるような心地よい拍手は最高のご褒美だった。
その瞬間、桜ははっと現実に引き戻された。同時に、耳まで一気に赤くなる。額から汗が流れ、心臓がどくどくと音をたてた。
まだ出会って数回の人に、話すような内容ではない。律子も困惑しているだろう、と思うと背中に汗がにじむ。
「すみません、ラジオ、変えますね」
桜は会話を打ち切って、ラジオを適当にいじる。店長の趣味でもあるアンティークなラジオはボタンが多く、使い方がよくわからない。
「えっと、えっと……」
何度もボタンを押せば雑音のあと、ニュースキャスターの声となった。
「……良かった。ニュースでいいですよね」
律子の顔を見ることもせず、桜はさっさと空っぽのミルクパンを掴む。雨の日は気持ちが沈み込むのだ。そのせいで、律子に変なことを言ってしまった……それだけのことだ。
「片付けたらもうお店、クローズにします。もともと休みだったし」
早く片付けて店を閉めて、誰も居ない家に帰る。そして、母親に謝る。そのほうがずっと建設的だ。そう思った。
「だから律子さんも……」
言いかけた桜の言葉に重なるように、ラジオから「次のニュースです」と、声が静かに告げる。
キャスターはできるだけ静かに声を出すように教育を受けている、と聞いたことがある。
このとき、落ち着き払ったニュースキャスターは、今日の昼過ぎ、幹線道路で発生した、大きな土砂崩れのニュースを淡々と読み上げていた。
「これ……お母さんの、病院の近くの道路だ」
地名を聞いた瞬間、桜の手からミルクパンが滑り落ち、床で激しい音をたてた。
アナウンサーはなおも淡々と言葉を読み上げる。折からの激しい雨のせいで、幹線道路のがけ崩れ。怪我人複数。
母からのメールの文面が頭の隅にぽかりと浮かんだ。
緊急事態、そんなことが書いていた。
「お母さんにひどいこと、私」
がくがくと、桜の手が震える。
急いで打ったと思われる、メールの不安定な句読点を思い出して桜の体の奥がきゅっと冷えた。
「お母さん……お医者さんなのに……」
これまで何度も、母親は『緊急事態』という言葉を口にした。春の発表会に来られなかった、その理由だって緊急事態だ。それに慣れすぎていたのだ。
母は、医者である。
厳しい祖母が口を酸っぱく言っていたはずだ。お母さんの邪魔をしちゃいけませんよ。と。
そして父も、病床で桜の頭を撫でながら言っていた。
お母さんを支えてあげて……と。
「桜さん、大丈夫?」
律子の言葉にも答えず、桜は店の電話に駆け寄る。すっかり暗記した病院の電話番号。何度押しても受話器の向こうは無音だ。顔を上げれば、キッチンの明かりが消えていた。
「あ……停電……してる」
外は雨の音。そして、雷の激しくなる音が断続的に響いている。
このあたりは、雷雨となるとよく停電になる。停電には慣れっこでも、今はタイミングが悪すぎる。
「桜さん?」
「行かなきゃ、すみません、律子さん。私……病院に行かなきゃ」
カウンターを飛び出し、訝しがる律子に何度も頭を下げて桜は駆け出す。扉を押して外へ。
目の前に見えたのは、滝のようにふりつける、雨。
じっとりとした空気の中、躊躇したのは一瞬のこと。
桜は水に飛び込むように外に飛び出す。道を行く人が驚くような顔で桜を見る。彼らの持つカラフルな傘を見て、桜ははじめて傘の存在を思い出した。
しかし今、取りに戻る時間はない。
(……電車……そうだ、停電……まだ電車……走ってるかな)
桜は大粒の雨の中、足を止めて周囲を見る。
あたりはすでに日は暮れ始めている。雨のせいか、世界が薄暗い。先程まで店内に響いていた悲愴が、雨の音の向こうに聞こえた気がする。
優しい音なのに、悲しいメロディ。胸が締め付けられるような、じっとりと湿った音。
「お嬢さん、傘は?」
「大丈夫です!」
心配するように声をかけてきた女性に首を振り、桜は人々の目線から逃げるように走る。
数10メートル走っただけで、雨は髪の毛の奥にまで入り込んだ。時折光る雷に足がすくんで動けなくなる。そんな足を叱咤して、桜はそれでも走ろうとする。
思い出したのは春の発表会。雷の音に雨の音。そして人々の悲鳴と、外を真っ白に染めた落雷。
自分を叱咤するように、桜は拳を握り込む。
(大丈夫、大丈夫)
カルテットキッチンは少し低い場所に建てられているせいで、地面はすでに水浸しだ。駆け抜けると、靴の中にまで雨水が入り込み、ぐじゃぐじゃと嫌な音をたてる。まっすぐ進んで、公園の入り口で桜は一瞬戸惑った。
(それか……家に戻って自転車を取って……でもそれじゃ、遅くなるし……)
駅は水浸しの公園を抜ければすぐ。そこから電車に乗って20分のところに、母の勤める病院がある。
母に迷惑をかけないように。祖母の厳格な声が聞こえた気がする。その声を振り払うように、桜は首を振る。
(迷惑とか迷惑じゃないとか……そういうのじゃなくって)
一段と大きくなった雷鳴に、怯えて耳をふさぐがそれでも桜の体は止まらない。
(謝らないと、きっと、駄目だ)
病院に行って会えるとは思ってもいない。それでも謝りたかった。一言だけでも、謝りたかったのだ。
「桜さん!」
公園に駆け出そうとした瞬間、桜は暖かい何かに掴まれてつんのめる。はっと振り返れば、そこには同じく水浸しになった律子が立っていた。
「律子さん! なんで」
「こんな格好で走ったら風邪を引いちゃうわ。傘を……あら、私も持ってくるのを忘れちゃった。だから一度戻って」
「謝らなきゃ、お母さんに、私……お母さんの病院まで……」
いつも疲れていた母に、ピアノを弾いてあげなくなったのは、いつからだろう。
母にシェフ、と呼ばれなくなったのは、いつからだろう。
母と距離を置こうと思いはじめたのは、いつからだろう。
がくがくと、震える足のまま桜は律子の暖かい腕を握りしめる。
その指先に綺麗な絵の具の色が滲んでいるのをみて、桜の声が震えた。
「私……謝らなくっちゃ……」
「大丈夫。大丈夫だから、まずは屋根のある所へ」
律子の暖かく大きな手が、桜の背を撫でる。
水の染み込んだその場所がぼんやりと暖かくなった。
「大丈夫よ。お母さんはきっと怒ってない」
律子は桜の手をひいて、公園の隅、滑り台の下に誘い込む。
小さな子供の遊具は、二人の人間をすっぽりと覆い隠してくれた。
雨の音が真上から注ぐ。たん、たん、たん。と水の音だ。頭上に響く雷の音は、屋根を通じて歪んで聞こえる。
その音は桜の気持ちを落ち着かなくさせる。同時にその音は妙に懐かしい。
雨の音、雷の光、薄暗い風景。そこに現れた一人の女性……。
それは古い記憶だ。はるか昔、ぼんやりとしか覚えていない古い記憶。
「大丈夫。迷子になればまた迎えに来てくれる、いつかみたいに」
震える桜の手を、律子がそっと握った。
「なんで分かるかって?」
……たんたんと弾けるように響く雨音の中。桜の記憶にある女性はなんと言ったか。
「私が魔女だからよ」
「あなた……は」
桜の中で記憶が鮮明につながっていく。それは10年近く前、一人きりのクリスマス。
母は仕事で遅くなり、桜は頑なに母を待ち続ける。大事なピアノを抱きしめて、雨の中で逃げ惑った。
そうだ、桜はあのときから雨が苦手である。
雨が怖いのではない。雨の中、一人で取り残されることが恐ろしかったのだ。
あのときも、「魔女」が声をかけてくれた。
「あの……ときの……」
「ようやく思い出してくれた」
律子は微笑む。その顔は、たしかに記憶にあるものに酷似していた。
「そうよね。私にとってはつい最近の出来事だけど、若い子の10年前なんて、ずっとずっと大昔のことだわ」
少し寂しそうで、優しい、その笑顔。
「あのクッキーの味も、夜の薄暗い感じも、あなたも覚えているでしょう? 共犯者だもの」
律子はショルダーバッグの中からビニール袋に詰められた小さなクッキーを取り出す。
それは、青や緑、黄色など様々な色が練り込まれているクッキーだ。
それは宙に透かすと、ガラスのようにきれいに輝く。
律子はそれをうっとりと宙に掲げて見せる。
「雨で少し湿気ちゃったけど。飴が入っているの。虹色で綺麗だと思わない?」
……まるでそれは、雨の中に広がる虹のようだ。
「美味しい……です」
一口、クッキーをかじると湿気った生地と、飴のカリリとした食感が口の中に広がる。
湿気った食感は10年前のあの日と同じ。
クッキーに屋根を叩く雨音に、律子に桜。まるで10年前と同じ風景。
ないのはピアノの音だけだ。そういえば、周囲の音もいつもより静かである。
……静かなはずだ。
周囲は一帯、停電している。
テレビの音も、夕刻のチャイムも、何も聞こえない。ただ、ただ雨の音だけだった。
「この雨だし、お母さんに会いに行くのは難しいと思うわ」
クッキーを食べながら、律子はいう。
「……そうねえ。お母さんに反抗してみましょうか」
クッキーを一枚ぺろりと食べて、律子は輝く目を桜に向ける。
「反抗?」
「今日、あなたを私の家にさらってもいいかしら」
「え?」
「だって私は魔女だから。いい子をさらうのは得意なの」
律子が腕を大げさに広げて、桜を抱きしめる。
その暖かさに包まれて、桜の目にも一粒の雨が降った。
雨の音は、いまだ収まらない。
その音をかき分けるように、激しい足音が響く。
はっと顔を上げれば、雨で煙る向こうに大きな傘をさした人影が一人。
「律子さん!」
声は、想像よりも大きく聞こえた。
「店にいると思ったのに……どこに行ったかと思えば」
公園の入り口から、一人の影が駆けてくる。雨に歪むその人影は、やがて燕の顔になった。
いつも表情の薄い燕にしては珍しく、顔色が悪い。また、珍しくスーツ姿だ。せっかくの黒いスーツは、雨に濡れてすっかり濡れてしまっている。
しかし彼はそんなこと気にすることもない。律子を見つけて安心するようにため息をつき、律子の手を力強く掴む。
そんな燕を見つめて、律子は花でも咲きそうな顔で笑った。
「まさか見つけてくれるとは思わなかった」
「探しました、あちこちを」
燕は桜のことなど目にも入らないように、律子のことばかり見つめている。珍しいくらい、感情が露出していている。
舌打ちでもするような燕の表情は珍しい。
(律子さん……)
そんな燕を楽しそう見上げる律子を見て、桜は心のどこかで安堵した。
(迎えに来てくれる人ができたんだ)
10年前、出会った律子はまるで幽霊のようだった。そのせいで、今の律子をみてもすぐに思い出せなかったのだ。あの時の律子は孤独にみえた。
今の律子は、迎えに来てくれる人がいる。
その事実は、桜の気持ちを明るくさせた。
「桜さん、実はね、ここの場所は特別なの」
そっと、律子が桜に耳打ちをする。燕は、はじめて桜がそこにいることに気づいたのか、慌ててポーカーフェイスを作り出した。
「まずはふたりとも、傘に入ってください。ここからだと……うちの家のほうが近いな」
「ここはね、燕くんとはじめて出会った場所」
律子が囁くように言う。その声に、燕の肩が震えた。
「本当にちょっとした偶然で、出会えたの……私は奇跡に支えられている」
「律子さん、もういいですから」
せっかく作ったポーカーフェイスが崩れてしまう。それにも気づかないように、燕は顔を背ける。髪の向こうに見える耳が少しだけ赤い。
「ちょっとしたすれ違いがあれば会えなかった、桜さん、あなたにもよ。人生って面白いわね」
「いいですから、家に帰りましょう」
燕が律子の手を掴んだまま、引き寄せる。傘を律子に渡して、二人を傘の下におさめてしまうと燕は一人だけ、雨の外に出る。
「……たとえ、もう一度人生をやり直すとしても、僕はこの公園であなたを待ちますよ」
小さすぎるその呟きは、空を轟く雷の白けた色に吸い込まれてしまった。




