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雨のソナタの飴色クッキー

 今日は人生の中で一番最悪の日だ。



 カルテットキッチンに作られた、小さなステージの上。少しだけ高くなったその場所で、桜は膝を抱えて座り込む。

 キッチンカウンターの足元、おもちゃのピアノが転がっているのが見えた。胸が苦しくなり、桜は目をそらす。

(本当……最悪……)

 ずっとずっと大事にしてきたおもちゃのピアノ。

 毎日触ってきた。そんな大事なピアノなのに、カウンターに駆け込んだ勢いで床に落としてしまった。

 普段なら、慌てて救い出したはずだ。しかし、今はそれをじっと見つめるだけ。

(……最悪……最悪)

 桜はピアノから目をそらす。悲鳴のように響いた高音は今も耳に残っている。

 蒸し暑いくせに妙に冷える日だった。むき出しになった足が、どんどん冷やされていく。

 湿度が高いせいか、窓まで歪んで見える。

 ……いや。

(最悪……)

 桜の目に浮かんだ涙が風景を歪ませているのだ。

 

『いつもそうだよね』


 桜の頭の中、デジタルの冷たい文字が蘇る。

 薄暗い部屋の中、湿気ったベッドの上に腰を下ろしたまま、無我夢中に打ったメールの文字。

 それは桜自身の声で再現される。


『いいよ、だってお母さん、お仕事が忙しいんでしょ』


 メールの送り先は母親である。


『もともと、期待もしてなかったし』


 発表会前日、学校帰り。

 鞄を自室に投げ込んだ瞬間を狙ったように、桜のスマートフォンが震え、母親からのメールが届いたのだ。

『ごめん、電話、してもいい?』

 遠慮がちに句読点が増えるのは、何かやましいことがある証拠。

 桜の中に100個くらいの嫌なことが思い浮かび、そのうちの一つ、一番当たってほしくない「嫌なこと」がアラートのように頭の中で警告音を鳴らす。

 こんな時、嫌な予感はよく当たるのである。

 今電車の中だから、あとにして。と、嘘を打ち込んだのは、母の声を聞きたくなかったからだ。

 そんな桜の些細な抵抗はすぐに破られることとなる。

 

『明日、仕事で、緊急事態。発表会見に行けなくなって』


 その揺れるような文字を見た瞬間、桜はスマートフォンを握りしめたまま怒涛のように文字を打ち込んでいた。

 声に出すより、文字にするほうがもう少し辛辣に響く。わざとその辛辣さを見せつけるように、桜は文字を打ち続けた。

 いつものことだよ、慣れてる。どうせ仕事でしょ。それなら最初から行くなんて言わなきゃいいのに。

『……もう二度と来なくていいよ。どうせ私のピアノなんて興味なんてないんでしょ。お父さんがいたらよかったな』


(お父さんならきっと無理してでも、来てくれたのに)


 最後に思わず打ち込んだ一言。そのあまりの冷たさに桜は震えた。

 放ってしまった文字は取り返しがつかない。

 返信が来るより先に、桜はスマートフォンを枕の下に押し隠す。

 そして何も持たないまま、外の雨に飛び出して、カルテットキッチンにたどり着いたのは10分前、カウンターに突っ伏した勢いでピアノが落ちたのは3分前。

 それらの行動は、今になって桜の胸を刺し続ける。

 小学生の子供のような……馬鹿らしい、子供っぽい、ただの爆発。

(燕さんは今日……バイトじゃないし、夏生は……居たら気まずいけど……)

 キッチンに明かり一つ灯しただけの、薄暗い喫茶店を見渡して桜は思う。

(みゆきさんにも店長にも今は頼れない……)

 みゆきに陣痛が来たのは昨夜の遅くのこと。

 心配する桜に「ここからが長いの」とみゆきが苦しそうにウインクをした。

 夏生の時も3日3晩かかったという。だからこそ不安な桜だが、大丈夫、大丈夫。とみゆきは笑った。

 二人は病院に行き、まだ連絡はない。

(誰にも……頼れない)

 冷蔵庫の表面に、夏生のメモが乱暴に張られている。今日はおふくろの病院。それだけの短いメモだ。

 一ヶ月前、燕の前で起こした小さな喧嘩は悲しいくらい尾を引きずっていて、昔の関係に戻れないまま。

 それでも夏生は律儀に、出かけるときは冷蔵庫にメモを残していくのだ。燕が見ても桜が見てもわかるように。メモを残すのは、みゆきから受け継いだ癖なのだろう。

(……駄目だ。やっぱり、謝らなきゃ)

 桜はのろのろと、立ち上がる。体を拭くのも忘れていた。じっとりと湿った制服が重い。

(ああ。スマホ……家においてきちゃったな……家に帰って、もう一回お母さんに、メールして……)

 膝に張り付くスカートを剥がしながら、桜は肩を落とす。

 その時、肩に淡い光が差し込んだ。


「お店、いいかしら」


 低い音をたててカルテットキッチンの扉が開く。隙間から差し込んだ光は、雷の光だ。びくりと肩を震わせて、桜は恐る恐る振り返る。


「すみません、お店……今日、おやすみで……」

 表にクローズの看板を出し忘れていたことを、桜は思い出す。情けない姿の気まずさに、桜の声は小さくなる。

「誰も……いなくて……」

 ……が、そこに見慣れた顔を見て、思わず目を見開いた。

「律子……さん?」

 そこにいたのは、紛れもなく律子だ。今日は紫色のレインコートに目にも鮮やかな花柄の傘を持っている。

 まるで花を花瓶にさすように、律子は傘立てに傘を置いた。

「燕くんがクッキーを焼いてくれたから、おすそ分けにきたの。一緒にどうかしら。夏生君はご不在? 残念。とても美味しいクッキーなのよ」

 湿気った空気に、絵の具が香る。彼女は、まるで美術館のような香りがする。

「どうしたの? 大丈夫?」

 律子は桜を気遣うように覗き込むが、カウンターの向こうに転がったピアノに気づいたのだろう。彼女はそれをそっと持ち上げる。

「あら。ピアノが」

 その手は、優しい。そっと持ち上げて、抱きしめる。まるで自分のむき出しの心を抱きしめられているようで、桜は唇を噛み締めた。

「落ちちゃったのね。でも大丈夫。少し色が剥げ落ちちゃったけど。なおせるわ、形があるものなら、なんだって直せるもの」

 彼女の指が、ぽん。と鍵盤を弾いた。健気にも音が鳴る。それを聞いて、桜の中に安堵と罪悪感が広がった。

「……桜さん、大丈夫?」

「いえ、ごめんなさい。大丈夫です。お店、今日おやすみで……燕さんもいないし、お料理は無理だけど……あ。そうだ、コーヒーとか……」

 慌てて立ち上がりキッチンに駆け込む。キッチンには海外製のコーヒーグッズがずらりと揃っていた。

 透明な瓶には、キラキラ輝くコーヒー豆。それを一巡見た後、桜は床下の扉を開いて夏生用のココアパウダーを取り出す。

「すみません……ココアでもいいですか?」

「まあ、大好きよ」

「私、これだけは得意なんです」

 律子の笑顔を見て、桜も思わず笑みが浮かぶ。昔から、ココアは得意だ。

 ココアが好きな夏生のために美味しい入れ方を勉強したのだ。

(……いきなり粉を牛乳に混ぜるのは駄目)

 小さなミルクパンを弱火にかける。真っ黒なココアパウダーを軽く炒って、ちょっとずつ水を加えてこねていく。

「あ。音楽……何か流しますね」

 部屋は静かで、窓を叩く雨の音しか聞こえない。

 キッチンの上に置かれたラジオをつけると、激しいピアノの音が鳴り響いた。

 びくりと、驚くほどに激しい音だ。怒り狂うようなその音は、やがてなめらかなリズムを刻み始めた。フレーズを耳に閉じ込め、桜は無意識のうちに指を動かしていた。

「……悲愴です。ピアノソナタ」

「名前、聞いたことあるわ。こんな曲だったかしら。音楽に詳しくなくて……悲しい、切ないって意味なのに、とても激しい曲なのね」

 それはベートーヴェンの悲愴だ。激しい音から始まる第一楽章より、二楽章の方がよく知られている。

 一楽章は力強くリズムを刻む。その音を聞きながら、桜はココアに向かい合った。

「二楽章が有名で……そっちはもっと静かで切なくて綺麗なメロディなんです。耳が聞こえなくなった頃のベートーヴェンが作ったって言われてる曲で」

 ミルクパンに出来上がったのは、重いココアの塊。そこにミルクを少しずつ加え……そして、最後は砂糖をたっぷりと……。

「あ。砂糖が少ない……どうしよう」

 茶色の砂糖は、もう残りが心もとない。すべて入れても、少し物足りない。戸惑う桜に、律子が優しく声をかけた。

「冷蔵庫に……何か無いかしら?」

「待ってください……あ」

「何かあった?」

 冷蔵庫を開くと、中ににきれいな赤い瓶が見えた。

「……いちごジャムが」

「燕くんが作ったのね。ねえ、それを入れてみない?」

 律子が身を乗り出すように、そう言い切った。彼女は色しか見ていない。色を見るだけで、燕が作ったと断言したのだ。

 その言葉に押されるように、桜は戸惑いながらいちごジャムを、ココアに落とす。

「ココアに……ジャム?」

「ガトーショコラにジャムって合うでしょう? それと同じ」

「どうぞ」

「ありがとう……あったかい」

 ココアを差し出すと、律子は幸せそうにそれを両手で包み込んで、口に含む。そして目を閉じて音に耳を傾けていた。

 桜も、つられてココアを一口。

 とろりと甘いココアの奥から、ふわりと甘酸っぱい香りが漂ってくる……それは、ケーキみたいなココアだった。

「悲愴、怒っているような曲だったけど、だんだん曲調が変わるのね」

 律子はうっとりと、ピアノの音に耳を傾ける。桜もラジオをじっと見つめた。

「……一楽章はちょっと怒ってる風に聞こえて、次は焦って、二楽章で緩やかな音色になるんです」

 やがて大きな音を立てて一楽章が終わると、打って変わって優しい音色に移り変わる。

 ……それが、二楽章だ。

「ちょっと違うけど、死の受容過程っていうのがあるの」

 律子は難しい言葉をすらりと言う。

「否定して怒って、あがいて落ち込んで、そしてやがて受け入れていく」

 ……受け入れるのは死だろう。

 しかしベートーヴェンは命ではなく聴力を失った。それは、死と同じ感覚だ。規模は違っても、桜も今、その恐怖を味わっている。

 じわじわと、音に裏切られていく感覚だ。指から音が消えていく。そんな感覚だ。

(お父さんも)

 桜はココアの黒い表面を眺める。その向こうに、父の顔が浮かぶ。もう覚えてもいない、横顔だけの父親。

(……そうだったのかな)

「どうかした?」

「あ、いえ。なんでもないです」

「燕くんもね、あなたと同じなの」

 ココアを丁寧に飲みながら、律子がまっすぐ桜を見つめる。

「何かあっても、絶対に言ってくれないの」

 目の大きな女性だ。やはり、どこかで見たことがある……桜の中に様々な記憶が蘇っては消えていく。

 黒いワンピースのピアノ講師、厳しかった小学校の音楽教師に、九州で出会ったおおらかな人たち。そのどこにも、律子のような女性はいない。

 律子は壁に刺してある四人の写真を見て、少しだけ悲しい顔をする。

「それは寂しいことだわ」

「……お」

 桜の唇が、震えた。震えを止めるためにココアを一口、含む。

 いちごココアの甘さは、桜の口から言葉を引きずりだした。

「……お母さんが来るから……発表会に」

 言葉がくるくると頭を回り、思いついた先から声に出る。祖母が生きていれば「きちんと喋りなさい」と叱られただろう。

 しかし、目の前にいるのは、律子だ。

「でも……私、この春から、人の前で……ピアノが……弾けなくて……だから、発表会を棄権しようって思って……でも……お母さんが来てくれるから、だから、恥ずかしくないように、ちゃんと、弾けるようにって」

 ここ数日は必死にピアノを弾いた。人前でも弾けるように。

「いっぱい……練習して」

 人前だと最初は三音しか出なかった音も、段々と弾けるようになっていた。

 引きつりながら一曲を弾き終えたのは、今日の放課後、音楽室。一緒に付き合ってくれたクラスメートたちは、歓声を上げて喜んでくれた。

 ……母から、連絡を受けたのは、その矢先だ。

「なのに、お母さん、行けないって……仕事で……だから、もういいよ、来なくていいよ……って、言っちゃって」

 律子の表情は静かだ。あまりに動かないので、まるで一枚の絵に向かって話しかけているような気持ちになる。

「……お……お父さんなら来て……くれたのにって、ひどいことを言って……しまって」

 ラジオではちょうど、悲愴が終わったところだ。わっと、華やかな拍手が聞こえる。

 桜もステージの上で何度かその拍手を聞いたことがある。地面が揺れるような心地よい拍手は最高のご褒美だった。

 その瞬間、桜ははっと現実に引き戻された。同時に、耳まで一気に赤くなる。額から汗が流れ、心臓がどくどくと音をたてた。

 まだ出会って数回の人に、話すような内容ではない。律子も困惑しているだろう、と思うと背中に汗がにじむ。

「すみません、ラジオ、変えますね」

 桜は会話を打ち切って、ラジオを適当にいじる。店長の趣味でもあるアンティークなラジオはボタンが多く、使い方がよくわからない。

「えっと、えっと……」

 何度もボタンを押せば雑音のあと、ニュースキャスターの声となった。

「……良かった。ニュースでいいですよね」

 律子の顔を見ることもせず、桜はさっさと空っぽのミルクパンを掴む。雨の日は気持ちが沈み込むのだ。そのせいで、律子に変なことを言ってしまった……それだけのことだ。

「片付けたらもうお店、クローズにします。もともと休みだったし」

 早く片付けて店を閉めて、誰も居ない家に帰る。そして、母親に謝る。そのほうがずっと建設的だ。そう思った。

「だから律子さんも……」

 言いかけた桜の言葉に重なるように、ラジオから「次のニュースです」と、声が静かに告げる。

 キャスターはできるだけ静かに声を出すように教育を受けている、と聞いたことがある。

 このとき、落ち着き払ったニュースキャスターは、今日の昼過ぎ、幹線道路で発生した、大きな土砂崩れのニュースを淡々と読み上げていた。



「これ……お母さんの、病院の近くの道路だ」

 地名を聞いた瞬間、桜の手からミルクパンが滑り落ち、床で激しい音をたてた。

 アナウンサーはなおも淡々と言葉を読み上げる。折からの激しい雨のせいで、幹線道路のがけ崩れ。怪我人複数。

 母からのメールの文面が頭の隅にぽかりと浮かんだ。

 緊急事態、そんなことが書いていた。

「お母さんにひどいこと、私」

 がくがくと、桜の手が震える。

 急いで打ったと思われる、メールの不安定な句読点を思い出して桜の体の奥がきゅっと冷えた。

「お母さん……お医者さんなのに……」

 これまで何度も、母親は『緊急事態』という言葉を口にした。春の発表会に来られなかった、その理由だって緊急事態だ。それに慣れすぎていたのだ。

 母は、医者である。

 厳しい祖母が口を酸っぱく言っていたはずだ。お母さんの邪魔をしちゃいけませんよ。と。

 そして父も、病床で桜の頭を撫でながら言っていた。

 お母さんを支えてあげて……と。

「桜さん、大丈夫?」

 律子の言葉にも答えず、桜は店の電話に駆け寄る。すっかり暗記した病院の電話番号。何度押しても受話器の向こうは無音だ。顔を上げれば、キッチンの明かりが消えていた。

「あ……停電……してる」

 外は雨の音。そして、雷の激しくなる音が断続的に響いている。

 このあたりは、雷雨となるとよく停電になる。停電には慣れっこでも、今はタイミングが悪すぎる。

「桜さん?」 

「行かなきゃ、すみません、律子さん。私……病院に行かなきゃ」

 カウンターを飛び出し、訝しがる律子に何度も頭を下げて桜は駆け出す。扉を押して外へ。

 目の前に見えたのは、滝のようにふりつける、雨。

 じっとりとした空気の中、躊躇したのは一瞬のこと。

 桜は水に飛び込むように外に飛び出す。道を行く人が驚くような顔で桜を見る。彼らの持つカラフルな傘を見て、桜ははじめて傘の存在を思い出した。

 しかし今、取りに戻る時間はない。

(……電車……そうだ、停電……まだ電車……走ってるかな)

 桜は大粒の雨の中、足を止めて周囲を見る。

 あたりはすでに日は暮れ始めている。雨のせいか、世界が薄暗い。先程まで店内に響いていた悲愴が、雨の音の向こうに聞こえた気がする。

 優しい音なのに、悲しいメロディ。胸が締め付けられるような、じっとりと湿った音。

「お嬢さん、傘は?」

「大丈夫です!」

 心配するように声をかけてきた女性に首を振り、桜は人々の目線から逃げるように走る。

 数10メートル走っただけで、雨は髪の毛の奥にまで入り込んだ。時折光る雷に足がすくんで動けなくなる。そんな足を叱咤して、桜はそれでも走ろうとする。

 思い出したのは春の発表会。雷の音に雨の音。そして人々の悲鳴と、外を真っ白に染めた落雷。

 自分を叱咤するように、桜は拳を握り込む。

(大丈夫、大丈夫)

 カルテットキッチンは少し低い場所に建てられているせいで、地面はすでに水浸しだ。駆け抜けると、靴の中にまで雨水が入り込み、ぐじゃぐじゃと嫌な音をたてる。まっすぐ進んで、公園の入り口で桜は一瞬戸惑った。

(それか……家に戻って自転車を取って……でもそれじゃ、遅くなるし……) 

 駅は水浸しの公園を抜ければすぐ。そこから電車に乗って20分のところに、母の勤める病院がある。

 母に迷惑をかけないように。祖母の厳格な声が聞こえた気がする。その声を振り払うように、桜は首を振る。

(迷惑とか迷惑じゃないとか……そういうのじゃなくって)

 一段と大きくなった雷鳴に、怯えて耳をふさぐがそれでも桜の体は止まらない。

(謝らないと、きっと、駄目だ)

 病院に行って会えるとは思ってもいない。それでも謝りたかった。一言だけでも、謝りたかったのだ。

 

「桜さん!」

 

 公園に駆け出そうとした瞬間、桜は暖かい何かに掴まれてつんのめる。はっと振り返れば、そこには同じく水浸しになった律子が立っていた。

「律子さん! なんで」

「こんな格好で走ったら風邪を引いちゃうわ。傘を……あら、私も持ってくるのを忘れちゃった。だから一度戻って」

「謝らなきゃ、お母さんに、私……お母さんの病院まで……」

 いつも疲れていた母に、ピアノを弾いてあげなくなったのは、いつからだろう。 

 母にシェフ、と呼ばれなくなったのは、いつからだろう。


 母と距離を置こうと思いはじめたのは、いつからだろう。


 がくがくと、震える足のまま桜は律子の暖かい腕を握りしめる。

 その指先に綺麗な絵の具の色が滲んでいるのをみて、桜の声が震えた。

「私……謝らなくっちゃ……」

「大丈夫。大丈夫だから、まずは屋根のある所へ」

 律子の暖かく大きな手が、桜の背を撫でる。

 水の染み込んだその場所がぼんやりと暖かくなった。

「大丈夫よ。お母さんはきっと怒ってない」

 律子は桜の手をひいて、公園の隅、滑り台の下に誘い込む。  

 小さな子供の遊具は、二人の人間をすっぽりと覆い隠してくれた。

 雨の音が真上から注ぐ。たん、たん、たん。と水の音だ。頭上に響く雷の音は、屋根を通じて歪んで聞こえる。

 その音は桜の気持ちを落ち着かなくさせる。同時にその音は妙に懐かしい。

 雨の音、雷の光、薄暗い風景。そこに現れた一人の女性……。 

 それは古い記憶だ。はるか昔、ぼんやりとしか覚えていない古い記憶。

「大丈夫。迷子になればまた迎えに来てくれる、いつかみたいに」

 震える桜の手を、律子がそっと握った。

「なんで分かるかって?」

 ……たんたんと弾けるように響く雨音の中。桜の記憶にある女性はなんと言ったか。


「私が魔女だからよ」


「あなた……は」

 桜の中で記憶が鮮明につながっていく。それは10年近く前、一人きりのクリスマス。

 母は仕事で遅くなり、桜は頑なに母を待ち続ける。大事なピアノを抱きしめて、雨の中で逃げ惑った。

 そうだ、桜はあのときから雨が苦手である。

 雨が怖いのではない。雨の中、一人で取り残されることが恐ろしかったのだ。

 あのときも、「魔女」が声をかけてくれた。

「あの……ときの……」

「ようやく思い出してくれた」

 律子は微笑む。その顔は、たしかに記憶にあるものに酷似していた。

「そうよね。私にとってはつい最近の出来事だけど、若い子の10年前なんて、ずっとずっと大昔のことだわ」

 少し寂しそうで、優しい、その笑顔。

「あのクッキーの味も、夜の薄暗い感じも、あなたも覚えているでしょう? 共犯者だもの」

 律子はショルダーバッグの中からビニール袋に詰められた小さなクッキーを取り出す。

 それは、青や緑、黄色など様々な色が練り込まれているクッキーだ。

 それは宙に透かすと、ガラスのようにきれいに輝く。

 律子はそれをうっとりと宙に掲げて見せる。

「雨で少し湿気ちゃったけど。飴が入っているの。虹色で綺麗だと思わない?」

 ……まるでそれは、雨の中に広がる虹のようだ。

「美味しい……です」

 一口、クッキーをかじると湿気った生地と、飴のカリリとした食感が口の中に広がる。

 湿気った食感は10年前のあの日と同じ。

 クッキーに屋根を叩く雨音に、律子に桜。まるで10年前と同じ風景。

 ないのはピアノの音だけだ。そういえば、周囲の音もいつもより静かである。

 ……静かなはずだ。

 周囲は一帯、停電している。

 テレビの音も、夕刻のチャイムも、何も聞こえない。ただ、ただ雨の音だけだった。

「この雨だし、お母さんに会いに行くのは難しいと思うわ」

 クッキーを食べながら、律子はいう。

「……そうねえ。お母さんに反抗してみましょうか」

 クッキーを一枚ぺろりと食べて、律子は輝く目を桜に向ける。

「反抗?」

「今日、あなたを私の家にさらってもいいかしら」

「え?」

「だって私は魔女だから。いい子をさらうのは得意なの」

 律子が腕を大げさに広げて、桜を抱きしめる。

 その暖かさに包まれて、桜の目にも一粒の雨が降った。



 雨の音は、いまだ収まらない。

 その音をかき分けるように、激しい足音が響く。

 はっと顔を上げれば、雨で煙る向こうに大きな傘をさした人影が一人。


「律子さん!」


 声は、想像よりも大きく聞こえた。

「店にいると思ったのに……どこに行ったかと思えば」

 公園の入り口から、一人の影が駆けてくる。雨に歪むその人影は、やがて燕の顔になった。

 いつも表情の薄い燕にしては珍しく、顔色が悪い。また、珍しくスーツ姿だ。せっかくの黒いスーツは、雨に濡れてすっかり濡れてしまっている。

 しかし彼はそんなこと気にすることもない。律子を見つけて安心するようにため息をつき、律子の手を力強く掴む。

 そんな燕を見つめて、律子は花でも咲きそうな顔で笑った。

「まさか見つけてくれるとは思わなかった」

「探しました、あちこちを」

 燕は桜のことなど目にも入らないように、律子のことばかり見つめている。珍しいくらい、感情が露出していている。

 舌打ちでもするような燕の表情は珍しい。

(律子さん……)

 そんな燕を楽しそう見上げる律子を見て、桜は心のどこかで安堵した。

(迎えに来てくれる人ができたんだ)

 10年前、出会った律子はまるで幽霊のようだった。そのせいで、今の律子をみてもすぐに思い出せなかったのだ。あの時の律子は孤独にみえた。

 今の律子は、迎えに来てくれる人がいる。

 その事実は、桜の気持ちを明るくさせた。

「桜さん、実はね、ここの場所は特別なの」

 そっと、律子が桜に耳打ちをする。燕は、はじめて桜がそこにいることに気づいたのか、慌ててポーカーフェイスを作り出した。

「まずはふたりとも、傘に入ってください。ここからだと……うちの家のほうが近いな」

「ここはね、燕くんとはじめて出会った場所」

 律子が囁くように言う。その声に、燕の肩が震えた。

「本当にちょっとした偶然で、出会えたの……私は奇跡に支えられている」

「律子さん、もういいですから」

 せっかく作ったポーカーフェイスが崩れてしまう。それにも気づかないように、燕は顔を背ける。髪の向こうに見える耳が少しだけ赤い。

「ちょっとしたすれ違いがあれば会えなかった、桜さん、あなたにもよ。人生って面白いわね」

「いいですから、家に帰りましょう」

 燕が律子の手を掴んだまま、引き寄せる。傘を律子に渡して、二人を傘の下におさめてしまうと燕は一人だけ、雨の外に出る。

「……たとえ、もう一度人生をやり直すとしても、僕はこの公園であなたを待ちますよ」

 小さすぎるその呟きは、空を轟く雷の白けた色に吸い込まれてしまった。

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