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過去に虹かけカラフルミックスサンドイッチ

 7月に入るとみゆきは店にほとんど顔を出さなくなり、カルテットキッチンはいよいよ燕の独壇場になっていた。



 金曜日。時刻は14時を少し回ったところ。

 食後のコーヒーと、歓談を楽しむ客だけが店内に残る。そんな時間帯。

 一人の客がカウンター席に座って片手を挙げる。

「温かい紅茶をお願いします」

「いらっしゃ……」

「真面目に仕事をして結構なことだ」

 客の声を耳にした燕はとっさに顔を伏せた。「いらっしゃいませ」の言葉を喉の奥に飲み込んでしまう。

「ミルクも温めてください……あ、そうそう。砂糖は角砂糖ではなく……茶色の……棚にある料理用のものでも結構です。そちらでお願いします」

 ……燕の目の前に柏木の顔がある。 

 ため息を押し殺し、燕は机の上に袋ごと、茶色の砂糖と紅茶を置く。レンジで軽く温めただけのミルクも、無言のまま彼の前に押し出す。

「愛想のない店員だ」

 柏木は紅茶にたっぷりのミルクと大量の砂糖を振り入れると、一口飲んで満足そうに笑った。

「随分、流行ってますね。最初は君目的で女の子が随分増えたと聞きましたが……君が働いてる姿、隠し撮りをされてSNSで人気が出たとか」

 燕の手から思わずカップが転がり落ち、慌てて受け止める。それを見て、柏木が意地悪そうに笑った。

「弁護士の知り合いを紹介しましょうか?」

「……結構です。どうせ流れていきますし」

「相変わらず、動じない子だ」

 柏木は甘い紅茶の中にさらに砂糖を追加した。どろりとした琥珀色のそれを綺麗に飲み干すと、新たに一杯注文し……ふと、ピアノを見て目を細める。

「……ピアノを弾けない女の子が……いるのだとか」

 店の中央、誰も座らないピアノは寂しそうな黒の光沢。ただ静かにそこに鎮座している。

 柏木がこの店の内情に詳しいのは、池内のせいだろう。あの女性は、存外口が軽い。

「最近は、弾けてます……少しだけ」

 それでも最近、桜は少しだけ音を出せるようになっていた。

 きっかけは先日、律子がこの店に訪れたことだ。一音、二音、三音。焦りながらでも前に進もうとしている。

 夏生との距離感はまだ微妙だが、ピアノに関しては少しだけ前進をした。

 発表会まであと2週間。一番焦っているのは彼女自身だろう。

「少しでも弾けるようになったのは、先生のおかげでしょうね。先日、先生がここに来たとか……あの人は何でも救いますからね……君とか」 

 ちらりと、柏木が燕を見た。

 ……燕は数年前、律子の手で救われた。

 彼女には人を引き上げる不思議な力がある。

「……あなたも、律子さんに救われたんですか?」 

「大島君」

 意趣返しのつもりで放った言葉は、柏木の冷笑であっさり流された。

「いい男になるための秘訣を教えてあげましょうか」

 追加注文の紅茶はミルクを入れず山盛りの砂糖のみ。それを口に含んで柏木は澄まして笑う。

「黙して語らず」

「忙しいんでしょう。それ飲んだら帰ってください」

「先生に対する優しさの、かけらでも私に向けてもらえれば、と思いますよ」

 カウンターに肘について、柏木は笑う。

 彼と出会って数年経つが、いまだに燕は彼の性格を掴めない。

 嫌味ったらしく金持ち、私生活も過去も一切見せない。

 3年前、初めて出会った時、二人は犬猿の仲だった。どちらも律子に執着している、それが理由だ。

 律子が夫と色を失った20年前。それより以前から柏木は律子と懇意である。

 それが燕にとって羨ましく、妬ましい。結局、燕の態度は軟化しないまま、彼との付き合いも3年を迎えた。

「……まさか君がバイトをはじめるとはね」 

 スプーンの上にまた砂糖を山盛り乗せて、それを彼は静かに紅茶に沈める。茶色の砂糖に琥珀の紅茶が染み込んでぐずぐずと崩れていった。

 柏木はこうみえて、甘党だ。

 律子の前ではすまし顔でブラックコーヒーを飲むくせに、だ。

「あなたに散々、働けと言われてましたので」

 一人の常連客がカウンターにコーヒーチケットを置いて燕に手で合図を送る。ミックスサンドもね。という声に燕は頷いて冷蔵庫を開けた。

 最近は桜が不在でも、簡単な客対応ができるようになっていた。数年前の自分であれば考えられないことだ。

 昔は人と向き合うことができなかった。

 無気力に身を任せ、拾ってくれた女のもとをブラブラと渡り歩くだけの日々だった。

 ある夏の終り。律子に腕を掴まれ、世界は律子だけとなった。

 しかしこの春から、ようやく外の世界に気を配れるようになった……これが成長であるというのなら、随分遅い成長ではあるが。

 燕は冷蔵庫から食材を出し、パンを切る。上にバターをたっぷり塗って、トースターに放り込む。

 気だるく流れるクラシックのレコードを適当に差し替えて、少しだけ音量を上げる……昼をすぎると空気が寂しくなるので、できるだけ音量を上げる。それは、みゆきの信念でもある。

「これは……この店のオーナー夫婦と……女の子のご両親ですか?」

 荘厳な音楽が流れる頃、ふと柏木が壁を見つめて言った。

 壁に刺さっているのは、古い写真だ……4人の、最も楽しかった時代。

「……ええ、一人……桜の父親は亡くなってますが」

 燕は音楽のボリュームをいじりながら答える。

 それは、なにかが起きそうな……そんな音楽だった。ゆったりと、広く、深く音が広がっていく。

 派手な出だしのあと、やがて女性の透き通るような歌声が響き始めた。

「……それがなにか?」

 壁の写真、まだ若いみゆきの目は、夏生の目によく似ている。 

 店長の柔らかい髪質は、夏生にそのまま引き継がれた。

 桜の母も、顔立ちは今の桜にそっくりだ。血というものは恐ろしい。色がにじむように、親から子へ血が受け継がれていく。

 燕のこの冷めた心も、間違いなく親から受け継がれたものだった。

「横顔の……顎のライン、懐かしいですね」

 誰が。とはいわない。しかしその写真の中で横を向いているのは桜の父だけだ。

 燕は柏木から目をそらし、エアコンで冷えた腕をさする。

 わけもなく、落ち着かない。それを振り払うように、燕は冷蔵庫から材料を取り出しキッチンに並べた。

 やはり柏木がいると、ペースが狂う。ペースを取り戻すように、燕は軽口を叩く。

「その人と、知り合いですか?」

「ええ」

 冗談で放ったその言葉に、予想外の言葉が返ってきて燕は動きを止めた。

「なにを」

「境川咲也、当時は……18歳だったはず。20年前、先生のアトリエに在籍していました。私にヴァイオリンを教えてくれた……」

 柏木は、ゆっくりと甘い紅茶をすする。指先が、店に流れる曲に合わせてリズムを取るように揺れている。

「……私の友人です」

 柏木の言葉を聞いた燕の手から、危うく包丁が落ちそうになり、慌てて動きを止める。

 しかし柏木は燕の反応を見ても、笑いもしなければ馬鹿にすることもない。ただ、何かを思い出すように目を細めた。

「私に若い友人がいておかしいですか?」

「そうではなく」

 前のめりになった燕をあざ笑うように眺めて、柏木はわかってますよ。とつぶやいた。

「……昔、あのアトリエは父や先生の工房であり、同時に絵の教室でした。咲也は一年だけ……正確には11ヶ月だけ、いました。風景描写が得意だった」

 燕の頭に浮かんできたのは、先日修復した田園風景の絵だ。荒々しく若い、筆の跡。律子が仕上げた、絵。サインには……。

(S・S……境川咲也……)

 冷たくなる手を、燕はぎゅっと握り込む。まるで自分とは関係のなかった黄ばんだ写真が、急に現実味を帯びて目の前に立ちふさがった。

「その人は……」

「病気が悪化して、辞めてしまいましたが」

 平然と言い放った柏木は、燕の手元を覗き込んだ。

「美味しそうなサンドイッチですね。私にも一つ作って包んでください。どうせ今日はこのまま事務所にこもって夜まで仕事ですので」

 彼の顔からは過去を探ることはできない。当時の風景も匂いも音も、聞こえてこない。

「どうしました?」

「柏木……さん」

 燕ははじめて、彼の名前を呼ぶ。その声に、彼は驚くように燕を見た。

「律子さんは、それを?」

「言ったでしょう? 悪巧みをしている。と……早く手を動かしたほうがいいですよ。お客さんが待っている。それに私の注文も」

 柏木が腕時計をとん、と叩いて急かす。同時にクラシックの音が激しく鳴って、燕の気持ちを揺さぶった。

「俺に隠してたんですか? また? 最初から、桜が……あの子が亡くなった教え子の娘とわかって?」

「咲也の娘さんの居場所を調べてきたのは池内女史です。でも私を責められても困ります。私は絵を探すため海外にいましたので……色々と知らされたのは最近のことですよ」

「どこまでが悪巧みなんですか。いつから、始まってたんです」

「さあ。それは先生に聞いてください。すべて先生が始めたことだ……3年前に」

「3年前?」

 それは燕と律子が出会った頃だ。因果関係がわからず、眉を寄せる。しかし、柏木はそんな燕の表情など見てもいない。

「ほらほら、焼けてますよ。早く手を動かす」

柏木は明るく言って、トースターを指差した。

 その瞬間、まるで時が突然動き始めたようだ。燕の中に音が、匂いが広がる。同時に、店内のざわめきも。

 慌ててトースターの蓋を開けると黄金色に輝いたトーストが4枚、鎮座している。

 赤い熱を吸い込んだパンの表面に、追加でバターを塗り込む。粉を払い、丁寧に、そしてたっぷりと。

 鼓動がうるさいほど響いていても、料理だけは平然とこなせる。料理を作る間に、気持ちが落ち着いていく。

 燕が作っているのは、みゆきの得意料理であり店の人気メニューでもあるカラフルミックスサンド。

 その名前の通り、きゅうりと薄焼き卵とチーズ、それにカニカマを挟む、鮮やかなサンドイッチだ。味付けはマヨネーズと、辛子、胡椒。

 パンの内側ではなく、表面にバターをたっぷり塗り込むのがポイントだ。

 黄金に輝くパンと、赤と黄色と緑に白の具材。甘いカニカマが、刺激の強い辛子とよく合った。

 一つは白い皿に乗せて常連客まで運び、急いで作ったもう一つはアルミホイルにくるむ。

 そして、はたと気がついた。

「……俺がここにバイトを決めたのも、律子さんの悪巧み、ですか」

 この店にバイトを決めたのは、律子の散策に付き合ったときのこと。

 いつもは気ままに歩く律子だというのに、あの時は真っ直ぐにこの店まで来た。そして、まるで誘うように言ったのだ。「なんて素敵なお店」と。

 実はバイトは、数ヶ月前から探していた。

 そのことは律子も知っている。いいバイトがあればいいわね……などと素知らぬ顔で言っていた。

 律子が見つけたこの店、偶然貼ってあったバイト募集の張り紙……偶然だ、ただのきっかけだと、そう思っていた。

「さあ……私もそこまでは。でも良かったじゃないですか。君が自ら動いたということは、なにか欲しい物でもあるんでしょう。ただ勉強や就活をおろそかにしないように」

 柏木は相変わらず燕の痛いところを突いてくる。

 店にはクラシックが静かに響き、二人の会話はカウンターの外には漏れない。

 音を立てるのは古めかしいレコードだ。アンティークなレコードを、いまだにみゆき夫妻は愛用している。

 今、流れている曲は、なんといったか。

 燕は渋々とサンドイッチを袋に詰めながら考える。そうだ。これは最初、この店にバイトに来た時に流れていた曲だ。

 夏生の奏でるヴァイオリンの曲が明るく、桜の歌声も楽しそうに聞こえた。だから黄色のサンドイッチを作ったのだ。

 たしかタイトルは『私のお父さん』。

 どんな歌詞なのか、音楽に詳しくない燕にはわからない。

 ただ、かすれて聞こえるこの曲は、明るいくせに少し悲しく聞こえた。

 それは、桜の声が、顔が、頭に浮かぶからだ。

 彼女の記憶の中にある「父」は、いつも横を向いている。

「なんで……俺に……このことを、言おうと思ったんです」

 冷たい指でサンドイッチを詰めて、燕は言う。柏木ならば、この事実をいくらでも隠しておけるはずだった。普段の彼ならば、そうしただろう。

「腹がたったから」

 しかし、柏木は子供のような言葉を口にして、足を組みなおす。

「は?」

「君は今、就活からも作品の制作からも逃げて呑気にバイトなんかをしている。結局前と同じ、嫌なことから逃げている」

「……説教は結構です」

「君の家が不全なことは、知ってます」

 ……不全、という言葉が燕の深く柔らかいところに刺さった。

 もともと絵に恐怖を覚える羽目になったのは、親の圧迫にほかならない。

 絵によってつながった燕の家族は、絵を取り除くと非常に脆いものだった。

 そして、燕は逃げたのだ。あの、不全な家から、律子の家に。

「あのアトリエを、先生を、逃げ場所にしていることに単純に腹が立つ。先生が黙って受け入れているのも歯がゆい」

「逃げ場所なんて思って……」

「もう一つ、ミックスサンドを」

 柏木はカウンターを指先で弾いた。

「……もう一つですか?」

「いいから手を動かす」

 仕方なく燕はサンドイッチをもう一つ作る。しかし今度は少し辛子を多めに。意趣返しのように、染まった黄色を見て、燕は少しだけ満足する。

「それは君のです。それを持って、家に一度帰ってみなさい。理由なんてなんでもいい。就活の相談でも」

 柏木が紙幣をカウンターに置いて飄々と笑った。燕のやり口などお見通し、という顔で。

 燕は慌ててカウンターを掴むが、すでに柏木は立ち上がったところだ。カウンター越しに彼は自分のサンドイッチの入った袋を軽々ととる。

「いや、親は」

「君のトラウマを乗り越えない限り、いつまでたっても同じですよ。先生が君を少々過保護にしすぎているようだ」

 アルミホイルの上で冷やされているサンドイッチは、ずしりと重い。その上を流れる曲に相まって、それは少し切ない色に見えた。

「君には先生の色が作れるかもしれない。と言ったでしょう。それに、今後も先生の絵の修復を頼みたい、と。今回のことを君に話したのは、心が不安定なままでは先生の色が作れないからです」

 常連客のざわめきと、店内に流れるクラシックのせいで柏木の声は不思議と遠くから聞こえるようだった。

「それに私はね、早く君があの家に堂々と住めるようになって欲しいんです。そろそろ、腹を立てることにも飽きたので」

「それは……」

 柏木が足を止め、戸惑う燕を見る。その目が少しだけ寂しそうに揺れた。

「……でも、急に成長するのはやめてください。先生がまた……寂しがる」

「また、とは」

「さあ?」

 先生、と呼ぶ時だけ柏木の声は優しい。

「ああそうだ……光、ですよ」

 ふと、柏木が足を止めて振り返った。

「前に名乗っていませんでしたか?」

「は?」

「私の名前です」

 革靴で地面を軽やかに蹴り、柏木が去る。その背を眺めて、燕は唇を噛み締めた。

 重苦しい空気の中で、かすれたような高音が響く。私のお父さん、というその軽快なリズムは、パンの切れ目から見える綺麗な色相によく似合っていた。



 外はまた、薄く雨が降り出していた。

 最近は日が長くなったが、それでも18時半を回ると薄暗い。重苦しく降り続く雨がその暗さに拍車をかけている。

 7月に入っても梅雨はまだあけない。

 燕は傘もささず、道の途中で足を止めた。

 目の前に、灰色の家があった。高い外壁に、灰色の壁。黒に近い青の屋根は、薄闇に溶けて黒にも見える。

 そんな重苦しい色に見えるのは自分の心のせいなのだろう。

 大島。と書かれた銀のネームプレートを見て、燕の腕が止まる。インターホンを押そうとした手が宙をさまよう。

 この家に……実家に足を運んだのは数年ぶりのことである。

 親は驚くだろうか……それとも喜ぶだろうか。燕は冷たい家の風貌を眺めながら考える。

 思えば、燕は両親と家族らしい会話をしたことがない。 

 両親は燕のことを、自分の代わりに絵を描く道具としか見ていなかった。それに気づいた燕が彼らから逃げ出せば、途端に両親は燕への興味を失った。

 外から見える窓は明るく、何やらにぎやかな声が聞こえる。物静かな両親にしては珍しいことだった。

 しばらく悩み、燕は少し薄暗い壁の隅に背を押し当てる。そしてポケットの奥に放り込んだままになっているスマートフォンの表面を二度、叩く。

 実家、と書かれた文字が表面で揺れて、やがてそれは数コールで通話画面に変わった。


「父さん、今いい?」


「……燕か?」 

 窓の向こう、人影が動いたようだ。

 それを見た瞬間、燕はここに来たことを激しく後悔した。

 柏木からの突然の告白に動揺した。その動揺のまま、素直に彼の言うことを聞いてしまった。

 自分のトラウマを超えなければ、いつまでも律子の過去に並び立つことができない……そんな焦りが燕を動かしたのだ。

「どうかしたか」

「いや別に……元気かなと……思って」

「すまない、今ちょっと来客があって……」

 父親の声の向こうに、珍しく母親の笑い声が響いていた。

 父の声は時々、途切れる。部屋の中に興味を惹かれるものがあるのだろう。

 燕の心臓が、うねるように跳ねる。後悔と懐かしさと、少しの期待と。

 父の声は恐ろしく、機嫌がいい。

 ……だから燕は、少し油断したのだ。

「なに、楽しそうな……」

「燕は覚えているかな、群馬の叔父さんの息子の」

 父親の声は珍しいくらいに弾んでいる。

 耳をすませれば、若い……少年のような声も電話の向こうに聞こえる。

「あの子が、絵を描くようになって……まだ高校生なんだが」

 窓の影が、少し揺れた。

 父親の影だろう。カーテンの向こう、三人の影が見える。どんどんと更けていく夜の空気の中、窓だけが白色に染まっていた。

 それは、まるで額縁のようだ。

 その中に揺れる三人の影にタイトルをつけるなら、それは、

(……家族、か)

 燕はスマートフォンを耳に押し当てたまま固まった。

 その構図は、その色は、燕が描こうとして描けなかった絵によく似ている。

「美大を目指しているんだ。父さんの憧れていた画家を覚えてるだろう、あのタッチを教えたら、ぐんぐん伸びて……」

 燕の中に、冷たい風が流れた。

 それは、数年前の記憶だ。数年前、燕がこの家を訪れたときの記憶。

 確か、年末だった。忙しい人々の間に、色のない風が吹いていた。

 ……カルテットキッチンで育んできた暖かい空気だとか、皆の明るい声だとか、そんなものが一瞬で吹き飛んでいく。

「父さんたちに、絵を見てくれと、今、家に来てるんだが、燕。お前も今から家に戻れないか……お前はこのタッチが苦手だったからな、きっとこの子の絵を見れば描けるようになるだろう」

 父の声は浮き立っていた。

 燕の温度だけがどんどんと下がっていく。

「この子は、きっと良い絵を描くだろう、才能がある」

 ……この人達はまた一人。生贄を見つけたのだ。

 燕というおもちゃを無くしても、彼らは反省さえしなかった。 

 だから今、またこうして一人の人生を潰そうとしている。


「なあ燕。お前は、今、どんな絵を描いてる?」

 

 父の声はまだ弾んでいた。就活のことも、生活のことも、彼は何も尋ねない。

 柏木は燕のことを世間知らずといい、田中は浮世離れしてると称した。

 しかしそれは、彼らから受け継いだ、血だ。

 父も母も、世間知らずで浮世離れをしている。

 これが、燕の家族だ。


「絵……は」


 燕は勘違いをしていたのだ。

 あたたかい『普通』の家に触れたせいで、まるで自分がそちら側の人間であるように勘違いをしていた。

 温かい家庭があると、勘違いをしていた。

 冷えた手でスマートフォンを握りしめたまま燕は明るい窓を見上げる。

「俺は」

 浮かんできたのは、律子の絵。ひまわりの……田園の……傷ついた絵。

「修復師に……なろうと思って」

「修復?」

「壊れた絵を」

「やめなさい」

 燕の言葉を、父の鋭い声が封じる。その声に驚いたように部屋の中がしん、と静まり返った。

「お前は……せっかく絵を教えてやったのに」

 燕の隣を、自転車が通り過ぎていく。

 鳴らされたベルの音は、すぐ近くで聞こえたはずだ。

 しかし、父親はそんなことにも気づかない。

「まともに絵一つ描けないくせに、人の絵を直す? できるはずがないだろう」

 燕の足元に、夜の闇がじわじわ広がっている。それは、夕日の色を飲み込んだ紺の色、黒の色、グレーがかった緑の色だ。

「……まったく、何度失望させるんだ」

 その声は、足元の闇を一層深くした。


 

 駅から律子の家までは、徒歩で15分ほど。

 少し坂道を上がり、公園を抜ける。

 空気は重く、夏の虫の声が薄暗い茂みから響いている。

 その音も色も蹴り上げて真っ直ぐに向かったのは、律子のビル。

 そこは、いつもと同じように、ただ静かに鎮座している。


「律子さん」

「燕くん」

 暗くなった階段を二段飛ばしで上がって、燕はすぐに重い扉を開ける。

 ……極彩色に輝く室内に律子が一人、立っていた。

「どうしたの、顔が真っ青」

 無言で部屋に滑り込むと、燕は律子の腕を引く、その小さく細い体は燕の腕の中にすっぽりと収まった。

 ……それだけで空気が喉を通る。酸素が身体に満ちていく。

「燕くん?」

 律子は、頭の先から爪の先まで絵の具の香りがする。

 まるで、絵のようだ。絵を、抱いているようだ。

「……昔もあったわね、こういうことが」

 動揺もせず、律子は燕の背をリズミカルに叩く。

「すっかり冷えてる。夏なのに」

 とん、とん、とん。それはメトロノームの刻む音に似ている。

「前も、燕くんの体が冷えていたわ。覚えてる?」

「……覚えてません」

 律子は続いて、燕の背を撫でる。

 覚えていないと燕は言ったが、それは嘘だ。覚えている。数年前、実家から逃げ帰ってきた暮れの頃、あのときも燕は律子を抱きしめた。息ができない時、藁を掴むようなそんな動きで。

「まるで、小さな子供みたい」 

 律子は歌うように言って、燕の手を引く。薄暗い室内、燕は一筋の光を見つけて、はっと顔を上げた。

「ひまわりの……絵」

「綺麗に直っていたから、飾ってみたの」

 燕がしばらく前から修復を手掛けていたひまわりの絵が、ピアノの前のイーゼルにかけられている。

 華やぐ黄色に、掠れた空の青。ここだけ時が止まったような、幸せの色彩。

 壊れた場所を労るように、燕は色を重ねた。一筆一筆、絵が蘇っていった。

 修復まであと一息、しかし満足の行く色が作れず筆がとまっていた。自室に隠しておいたというのに、律子が見つけてきたのだろう。

 薄暗い室内で見ても、その絵は美しかった。満面の笑みの女子高生と、幸せそうな男子高生……。 

(誰かに……似てる……)

 燕は、不意に浮かんだざわめきを、飲み込む。それは最初に絵を見た時にも抱いた印象だった。

 しかしその小さな違和感は、絵を見つめているうちに消えていく。

「……黄色で思い出しました。バイト先で作ったサンドイッチ食べますか。ちょっと、辛子が効きすぎてますけど」

 ようやく息がつけた燕は、律子の体温を引き離す。律子は少し微笑んで、燕の持つビニール袋を覗き込んだ。

「素敵ね。蒸し暑い夜には、辛い味のほうが似合うのよ」

 取り出したサンドイッチは、律子好みのカラフルな色合い。それを真っ白な皿に並べて向かい合う。

 外はどんどんと暗くなり、時折通る車のライトだけが、部屋の天井を照らしていく。

 天井には、律子の描いた雲の絵が二人を見下ろしている。真っ青な空を貫く、一本の飛行機雲。この絵があるおかげで部屋はいつでも明るい気がするのだ。

「なんてきれいなサンドイッチ!」

 少し時間が経ってぱさついたサンドイッチを律子が掴む。

「表面に、バターを塗ってるの? 香ばしくていいかおり」

 内側はまだ柔らかい。一口かじると、薄焼き卵の柔らかさや、カニカマの不思議な甘さ、刻んで時間の経ったきゅうりの柔らかさが一緒くたになる。その次にやってくるのは、辛子の刺激だ。

「でも辛いわ……すっごく……辛子がきいて」

「文句はあの男に言ってください」

「誰?」

「柏木光」

「あの子が?」

「全部聞きました」

 さらりと、燕はいう。しかし律子は動揺もしない。

「桜のこと、最初から分かっていたんですね。彼女がここに荷物を届けにきた、あの日から? それとも、その前から?」

「ひどいわ。きっと驚くから、ネタばらしはいつにしようか、色々考えていたのに」

 律子は子供のように頬を膨らませ、ふてくされる。

「あなたは僕に何も言わないんですね」

 燕は悔しく、つぶやく。

 いつもそうだ。いつも彼女が、燕の一歩先を行く。相談も何もなく。

「そんなに頼りなく見えますか?」

「燕くんの目で」

 ふと、律子が燕の顔に指を当てる。

「燕くんの耳で」

 続いて耳に。

「燕くんの指で」

 そして指に。

 温かい彼女の手が、燕に触れてそして微笑む。

「前知識なく、あの子を見てほしかったの。私のかわいい教え子が、この世に残した女の子よ。前知識なんてあると、正しいものが見えてこないもの」

「前知識?」

「そうよ。そうね……例えば……あの絵を見て、燕くんはどう思う?」

 律子はふと、ひまわりの絵を指差す。

 やはりその絵は、こんな薄暗い中でも奇跡のように輝いて見える。

 燕はじっと、その絵を見た。燕が手を加えた青の色、茶色。そして、律子が生んだ黄色の真ん中で微笑む二人……。

「綺麗な……幸せそうな……」

 少しの緊張と、寂しさを内包した色だ。

 男子高生の線は細い。綺麗な顎のラインが目を引く。女子高生の頬は丸く、健康的。

 二人をじっと見つめ、燕は雷にでも打たれたように固まった。

「……写真の」

 なぜ、気が付かなかったのか。

 カルテットキッチンに貼られた笑顔と同じ顔が、ここにある。

「カルテットキッチンの」

 それは、陽毬と咲也である。



「この子が陽毬さん、そしてこちらが咲也君」

 律子はイーゼルを覗き込んで目を細めた。

 まるで彼がそこに、存在するように。

「彼が高校をやめてうちのアトリエに入って11ヶ月。どうしても体調がもたなくて、辞めることになったのだけど……そのときに描いたの。入院の直前、同級生たちが学校に大勢集まってね、咲也君のお見送り会をしたの。そのときにね」

 陽毬の名前はひまわりに通じる。ひまわり畑に包まれる二人を描きたい、と律子は言ったそうだ。

 しかし季節は冬。ひまわりは、どこもない。教え子の一人が街中を走り回り、小さなひまわりのドライフラワーを1本だけ見つけてきた。

 それを見ながら、律子は描いたのだ。

 永遠続く幸せを感じる、こんな絵を。

「燕くん、綺麗に直してくれてありがとう」

「僕は……自分の絵も……まともに描けないのに……こんな大事な……絵を」

 燕は絵を見つめたまま動けずにいる。

 律子にとってもこの家にとっても柏木にとっても、思い出の一枚だ。それを、燕は心を込めて直せたのだろうか。適当になってはいないか。

 電話越しに聞こえてきた親の罵声は、思ったよりも燕を傷つけていたらしい。

 思い出すと、また手の先が冷たくなる。

 この家にはまだ、20年前の空気が残っている。大事な教え子の思い出や歴史を、燕の筆で、傷つけてはいないか。

「修復師はね、お医者様よ。傷ついた絵と向かい合うの」

「傷ついた絵?」

 燕はひまわりの絵をみる。まだ傷跡は少しだけ残っている。

 最初、この傷を見た時、胸が痛くなった。完璧な絵に残された傷は、あまりにも悲しい。

「きっと、修復師は燕くんに似合うわ。だって、絵を直すだけなら最初から描く方がずっと早いもの」

 律子は机の上に転がる筆を指で転がしながら言う。

「絵が好きじゃないと修復なんて無理だわ……それに」

 律子は少しだけ寂しそうに燕を見上げる。

「……燕くんは絵で傷ついたことがあるから、だから直せるの」

「……律子さん、実はここのピアノの色が、まだなじまなくて」

 燕は律子の筆に手をのばす。電気をつけ、イーゼルに向かい、筆を握る。

 絵の中央下、そこに小さなおもちゃのピアノが描かれている。小さいが、美しい。

 それはカルテットキッチンに置かれていたピアノだろう。

 その一部の色が落ちている。複雑で、輝くようなその色は再現が難しい。

 なぜ、柏木が燕に真実を告げたのか、初めて理解した。

 真実を知る前と今では、見える色の深さが違う。

「どうしても、色があわなくて……」

「ここは少しだけ特別。グレーをいれるの。ちょっと青みのある……」

 燕の耳元に律子の低い声が、静かに馴染んだ。無我夢中に、パレットに色が広がる。筆がそれを吸い上げ、傷ついた絵がゆっくりと癒やされていく。

 一筆ごとに、絵が静かに蘇ろうとしていた。



「ああ楽しかった。そうだ、サンドイッチ、食べてる途中だったわね」

 律子がソファーに沈み込んだのは、1時間もあとのこと。

 浅い呼吸を繰り返していた燕は、筆をおいて深く息を吸い込む……花の匂いも土の匂いもしない。ただ絵の具の香りだけだ。

 しかし、花が香ってきそうなほど、目の前の絵は完璧なものとなっていた。

「でもねサンドイッチって、作業しながらでも食べられるように作られたそうだから、こんな夜にピッタリかも」

 また律子は大きく口を開いてサンドイッチを食べる。すっかり辛子のことを忘れていたのだろう。辛さに驚き、彼女は口を閉ざす。

 眉を寄せる律子をみて、燕は少し笑いそうになる。

「律子さん、ありがとうございます」

「私は何もしてないわ」

 胸の中に広がった虚しさや苦味は、この辛さに持っていかれたようだ。

「でも、お礼をしてもらうなら……あ、そうだ。ねえ燕くん、クッキーを焼いてほしいの」

「クッキー?」

 サンドイッチをゆっくりと味わいながら、律子が言う。

「頑張ってる子にあげなくっちゃ……燕くんにもね」

「色は?」

「何色でも」

 律子が食べ物を色で指定しないのは珍しい。山積みにされている料理の本を適当にめくり、燕はクッキーの項目を探す。 

 古めかしい「お菓子の本」にはずらりと甘いレシピが詰まっている。粉をふるう、混ぜる、整える、焼く。

 もともと燕は甘いものを好まない。しかしこうしてみると、甘いものは料理以上に丁寧で時間の流れが緩やかだ。

「材料は……ありそうですね。早速作りましょうか」

 バター、小麦粉、卵、砂糖。材料は驚くほどシンプルだった。

 電気もつけず、燕は本に書かれているまま、黙々とミルク色の生地をまとめる。

 オーブンのオレンジ色の光だけが、室内に柔らかく広がっている。

「燕くん、クッキーの生地の中にココアと紅茶の葉っぱも、あ。コーヒーなんてどうかしら……あとは、何か……そうだ。飴を砕いて入れるのは? きっと虹みたいになって綺麗だとおもうの」

 律子の希望も取り入れるうちに、生地を混ぜ込んだボウルは5つにもなった。

 ココア、コーヒー、紅茶。そしてカラフルな飴を砕いたもの。

ココアは茶色、コーヒーは黒、そして飴を細かく砕いたクッキーは赤に青に緑の人工の色。

 一度それを丸めて冷凍庫に投げ込んで、一度芯まで冷やしきる。

 よく冷えたのを見計らって、型で抜くのは律子に任せる。 

……そしてそれを、じっくりと焼く。赤い光の中で、生地がふつふつと柔らかくとろけていく。

 そうこうする間に、時刻はすっかり夜だ。開けた窓から、外を通る酔っ払いの歌声が聞こえる。

 それは苦しみも悲しみもないのんきな声で、ふと燕は桜と夏生を思い出す。

 彼らの発表会まであと数日。

 彼らはあれほど、呑気に歌えない。

 ……やがてオーブンから、音楽が聞こえる。

 振り返れば、部屋中にバターの香りが満ちていた。

 焼けたバターの甘く、香ばしい香り。律子は幸せそうに深呼吸するとオーブンを覗き込んで飛び跳ねた。

「みて、クッキー、美味しそう!」

 大きく型抜いたクッキーは、様々な色で焼き上がった。

 赤に黒に、緑に茶色。

 それは、幸せな風景に見えた。

 二人並んでオーブンを覗き込む。

「ここのオーブンは小さいのが難点ねえ。あのお店にあるような、大きなオーブンを今度買おうかしら。ミキサーもほしいし……ねえ燕くん、店長さんにどこで買ったのか聞いておいてね」

 自分よりも小さな律子を上から見つめ、燕は拳をきゅっと握りしめた。

「律子さん、では……他に僕に隠し事は?」

「そうねえ」

 オーブンの放つ光の名残に照らされながら、律子は首を傾げた。

「無いわ……きっと」

 きっとそれは嘘だろう。

 と、燕は思う。しかしそれがわかっても、以前ほどの悔しさや焦りはなかった。

「そうですか」

 バターの甘い香りに包まれて、燕も苦笑する。 

 甘いクッキーの香りが燕の中から父親の声を、影絵のような風景を、押し流していく。

「きっと、いつか、全部僕に教えて下さい」

 ……まだ先は長いのだから。と、甘い空気を飲み込んで、燕は言葉の後半を飲み込んだ。

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