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過去とカノンと味噌ラーメン

「雨……が降りそう。窓、閉めたほうが……いいかも」


 桜は店の窓を見つめて呟く。動かないように、ぴくりとも動かないように。

 息をくっと押さえて、指はスカートの上に置いたまま。

 聞こえてくるのは跳ねるようなピアノの音と、鉛筆が紙の上を滑る音。

 しゅ、しゅ、しゅ。と定期的に響く音が耳に心地いい。

 それは梅雨の始まる直前、生ぬるい午後のことだった。



 鉛筆の滑る音の向こうに、かすかに唸るような音が聞こえる……雨が降る直前、必ず聞こえる「嫌な」音だ。

「あ……の、燕さん」

 少し顔を上げると、桜の目の前に燕がいた。

 まっすぐ目があって、桜は慌てて顔をそらす。細い目が驚くほど真剣に桜を見ていたのだ。

 燕の顔は、いつ見ても端正だ。

 まつげが顔に少しだけ影を落としている。色が白いので、少し影が落ちると少しさみしげに見えた。

目は少し切れ長で、不思議と目の端が赤く光って見える。

 ……そんな燕に、桜はデッサンを取られている。


「ちょっとだけ、ちょっとだけ……デッサン、止めてもらって、いいですか?」

 わざと声をあげ、桜は膝と腕を動かす。それでようやく燕の手が止まった。

 あと一ヶ月後、音楽教室の演奏会が開催される。いくつかの教室が合同で行う大きな発表会だ。

 そのポスター制作を、燕が請け負ってくれた。

 ポスターには生徒の顔が描かれる。しかし桜と夏生だけは目で見て描きたいという燕の希望で、桜と夏生は暇を見つけてはモデルになっている。

 燕がふっと息を吐きだして鉛筆を机の上に転がした。

「疲れた?」

「あの、雨が降りそうだから、窓をしめたくって」

 燕の前に置かれた紙の上、その真ん中に桜が描かれている。

 斜め下を見つめる目、緊張するように噛み締められた唇。生々しく映し出された自分の顔を見て、桜は恥ずかしさに顔を覆いたくなった。

 燕は疲れたのか手を振りながら窓の外を見る。

「さっき、晴れてたけど」

「雨が降りそうなときって、空の音が、ちょっと違うんです。それで」

 エアコンをつけるには早い時期。開けておいた窓を締めながら桜は耳を澄ます。

 濁ったような雲の色がだんだんと濃くなっている。雨の降る予感に肌が粟立つ。


「こいつ、雨が怖いんだよ」


 ピアノを乱雑に弾きながら夏生がせせら笑う。

「だせえの」

「うるさいよ、夏生! もういいから、練習してて!」

 言い返すと夏生が口をとがらせてまたピアノを叩き始める。乱雑だが旋律は丁寧だ。何度も何度も同じ旋律を繰り返した。

「ちょっと荒っぽいけど、これカノンです」

 桜は店の窓を一つ一つ閉めながら、耳を閉じる。

 穏やかで柔らかいはずのカノンも、夏生が弾くと力強い。

 荒っぽい。という言葉に反応したのか、夏生はふてくされたような顔でピアノを離れてヴァイオリンを握った。

 そこから溢れてきた音は、同じ曲でももう少し柔らかく聞こえる。

 桜の指もそれにつられて窓を指で弾く。

 ……音は体の中に満ちているのに、まだ外に出てこない。

 音楽教室の先生は、桜のことを「稀にあること」と言った。それがいつ終わるのかまでは、先生は教えてくれなかった。


「夏生はいいな……」


 高く響くヴァイオリンの音を聞きながら、桜は思う。

 流れてくるのは、繰り返される静かな旋律。カノンに関してはピアノよりもヴァイオリンのほうが好きだった。

 なめらかな音が途切れずに続いていくのだ。それは音が渦を巻いているようであり、音が囁きあっているようにも聞こえる。

 輪唱という言葉にこれほど似合う曲を桜は知らない。

「夏生が羨ましい?」

 燕はちびた鉛筆を大切そうに片付けながら、尋ねる。その声を聞いて、先程の独白が口から漏れていたことに桜は気づく。恥ずかしさに思わず頬をおさえた。

「……夏生、将来、教室を開くって夢があるんです。でも私は……自分の夢がよくわからないから」

 ヴァイオリンを弾く時の夏生は無我夢中だ。周囲の音をすっかり遮断して一人の世界に入る。表情は真剣で、口がきゅっと固く閉じられる。それはみゆきの演奏スタイルと同じだった。

 夏生と桜は、親の奏でる音を聞いて、音楽を好きになった。

 音楽は桜を支えてくれた。なのに今になって、音が桜から離れようとしている。

「夏生は……」

 いいな。と、桜はまた呟く。同じ時期に音楽を志したというのに、夏生は桜を置いてどんどんと先に行ってしまう。


「そういえば、ここの面接の時。俺のサンドイッチ食べて料理のこと気にしてたけど、作れるようになった?」


 とん、と軽い音をたてて窓が閉まる。はっと顔を上げれば、燕が窓を閉めたところだ。

 彼の目線の先には、みゆきのメモがあった。最近、みゆきはお腹が張ることが多いらしく、3日に一度は病院通いだ。

 二人に晩ごはんの用意を、と走り書くようなメモが残っている。最近は燕も手慣れたもので、夏生が嫌がっても食事をつくる。

 燕の料理の前では、まるでひな鳥のようなもので、食事が出ると反射的に大人しくなるのがおかしかった。

「作ってあげたい相手は……夏生?」

「まさか」

 燕の遠慮がちな言葉に桜は思わず吹き出す。

「私達、どっちも料理下手だから、夏生に勝ちたいなって思うことはあるけど……私が作ってあげたいのは……えっと……お母さんです……」

 言いながらあまりの子供っぽさに顔が熱くなる。

「お母さんが夜勤から帰ってくる日は、私、シェフって呼ばれてて」

 シェフ、ご飯を作って。が母の口癖だった。塩っぽいおにぎりも、薄い味噌汁も文句を言わず完食してくれた。料理は苦手だが、母に食事を作るのは好きだった。

 しかし、最近は疲れ果てている母の顔しか思い出せない。だから料理も作れていない。この春からどれだけ話をしただろう、と指折り数えて虚しくなり止めた。

「最近は帰ってきても寝てばかりで……」

 桜は目を細めて燕を見上げる。

 燕は料理をする人に見えないが、作らせると抜群にうまい。喫茶店の常連客も、燕の料理を褒める。

 最初は燕目的だった女性客も、そのうち料理を求めて来店するようになった。

 ただ美味しいだけではないのだ。彼は相手のことを気遣った料理ができる。

 夏生がピアノを弾き過ぎた時には、スプーンで食べられる丼を。 

 桜が声楽の練習で疲れている時は、すりおろしのりんごジュースを。

 さりげない気遣いが、燕はできる。

「……私も、燕さんみたいな料理が作れたらいいのに」

「作ればいいのに」

 燕は相変わらず表情筋が薄い。感情が出ないたちなのか、微笑むこともあまり無い。それでも人を不快にさせないのはすごいな、と桜は素直にそう思う。

「インスタントのラーメンでもなんでも、作れるところから」

 燕の声が淡々と降り落ちてくる。

「……まだ仲がいいなら、食事を作ること、話をすること、できるうちにやっておくほうがいいとおもう」

 驚いて顔をあげるが、燕はもう顔をそらした後だった。

「うちは、家族と仲悪いからそういうのは諦めてるけど」

 彼の過去を、桜は知らない。聞いても教えてはくれないだろう、そんな空気がある。

 言いたくないことなど誰にでもある、皆、色々な過去がある……ふと、そんな言葉を思い出して桜は動きを止める。

 どこかで聞いたことのある言葉だ。しかし思い出そうとすると、それは記憶の奥深くにぼんやりと溶けてしまった。

(誰……だっけ)

 ぼうっと記憶が飛びそうになるのは、雨が近いせいだろう。桜は頭を振って窓から離れる。

「やっぱり雨が近いみたい」

 ガラスの向こうの空には厚い雲が流れてきていた。やはり雨雲は確実に近づいてきている。

 いつもそうだった。桜は不思議と昔から、雨の音がよく分かる。

 祖母が死んだ日、友達に待ち合わせをすっぽかされた日、怪我をした日……父の死んだ日。

 全部全部、嫌なことは雨の日に起きている。

 だから、桜は雨が苦手だ。

「あ……雨……雷も」

 同時に、ぱん、と弾ける音と同時に窓に大きな水滴が広がった。桜は思わず、一歩退く。

「雨、降ってきました」

「すごいな」

 燕の声と同時に、遠くの空が光った。

「……雨が入っちゃうから、上の窓も」

「やろうか」

 びくりと体を震わせた桜に気づいたのか、燕が立ち上がる。

「大丈夫です」

 しかし桜は椅子を引きながら、へらへらと笑ってみせた。

「慣れてるんで……」

 まだ後ろでは夏生の緩やかなヴァイオリンが続いている。

 室内に反して、外の音は不穏だ。ゴロゴロと渦巻く雷の音は低音のコントラバスに似ている。

 これは雨の音ではない。雨という名前の、雷という名前の音楽だ……そう思い込んで桜は椅子に登る。自分の頭よりまだ上にある小さな窓に手を伸ばしかけた、その時。


「……わっ」


 すぐ目の前で白い雷が光った。激しい音とゆらぎに驚いて椅子から足を滑らせる。真後ろに転がる、と固く目を閉じたが受け止めたのは意外にも力強い腕だった。

「……平気?」

 低くて心地の良い声がすぐ耳元で聞こえる。顔をあげて、桜は悲鳴を噛み殺した。 

「燕さん! す、すみません!」

 転びかけた桜を支えていたのは燕の手だった。思ったより大きな手が、桜の背中を支えていた。

「怪我が」

 ふと、燕の目線が桜の右腕を見る。右手の肘の内側、そこに赤い筋のような跡がある。桜は慌ててそれを左手で隠した。

「大丈夫です、これ古い傷で」

「馬鹿っ……お前、手に怪我したらどうすんだよ!」

 気がつけばヴァイオリンの音が止まっている。夏生はステージから飛び降りて桜の前で目を尖らせていた。

「ただでさえ弾けねえくせに、怪我して……」

 雨が強くなり、閉めそこねた小窓から雨が降り込み桜の顔を濡らす。

「怪我して、これ以上弾けなくなったら、お前、どうするつもりだよ!」

「夏生」

 震えるような夏生の声を止めたのは燕だ。

「言い過ぎだ」

 燕が静かに言うと、夏生は前髪をかき乱してぷいっと背をむける。

 そして勢いよく階段を駆け上がっていく音が響いた。同時に雷の音が響き、桜は恐怖をぐっと飲み込む。

「燕さん、いいんです……あの」

 立ち上がろうとした桜だが、足のちくりとした痛みに思わず動きを止める。

「足が」

 背中の向こう、まだ不穏になり続ける雷の音。その光にさらされて、桜は困惑したように燕を見上げた。

「足、くじいたみたいで」

 背後でまた一つ、大きな雷が鳴った。



「すみません。燕さん……それに夏生のこともすみません」

 想像したよりも大きな背に乗せられて、桜は固まったままそう言った。 

「お……重くないですか? あの、私、降りたほうが」

「別に」

 桜は今、燕に背負われていた。どうしてこうなったのか、燕の肩を掴んで桜は震える。

 雨が小ぶりとなり、雷も去った。

 そのせいで、照れた顔を隠す傘も用意できない。

「すみません……こんなことさせて」

 あのあと、母から「母帰宅」のメールを受けて家に帰ろうとする桜を燕が引き止め、押し問答の結果、彼に背負われることとなったのだ。

 燕の肩は見た目より、筋肉がついている。かすかに雨に湿気った肩を軽く掴んだまま、桜はじっと耐える。

 ゆらゆらと揺れ動く、この感覚ははじめてのことだ。

 父は身体が弱く、抱きしめてくれるだけで精一杯だった。その細い腕を、弱い力を今でも覚えている。そんな父に、おんぶなどお願いできるわけもない。

 小さな時、父親におんぶされる友人達が羨ましくて仕方がなかった。

(おんぶって、視界が高くなって……いろんな音が……よく聞こえるんだ)

 桜は顎を上げて、風を頬に受ける。

 聞こえてくるのは風のそよぐ音、人の囁く声、子供の高い声、どこかで響くクラクションの音。

 初めての感覚に、桜の顔がどんどん熱くなる。

 体が熱を持つと、右腕に残った傷跡がかすかに赤味を帯び始める。

 空には冗談のように赤い夕日が広がって二人の影がどこまでも伸びていく。

「さっきのこの……腕の傷、小さい時に、夏生が飛ばした風船を私が取りに走ったんです。で、走って転けて、そこに車が」

 無言を持て余し、桜は思わずつるつると口を滑らせる。

 怪我をしたときのことを、桜はほとんど覚えていない。

 気がつけば病院で、皆が桜を囲んで大騒ぎしていた。夏生は真っ青な顔で彫刻みたいに固まっていた。 

「夏生、この傷のこと多分、気にしてて……だから言い方もきつくなったのかも。私はこんな傷跡、平気なんですけど」

 中学の3年間、会わなかっただけで夏生は桜に冷たくなってしまった。みゆきなどは「思春期のせいだ」などというが、桜はその距離が少しもどかしい。

「燕さんにも冷たい言い方ばっかりしてますけど、あの子そこまで悪い子じゃ」


「ピアノ、人前で弾けないのって、なんで?」 


 燕の声が、静かに桜の声を割り込んだ。それは唐突な質問過ぎて、桜の言葉が喉の奥で詰まる。

 言い訳や言い逃れは100個くらい思いついたが、どれもしっくりと来ない。結局、桜は諦めたように息を吐く。

「……え……と……みゆきさんから?」

「別に。俺が気になってるだけ」

 燕の声は淡々といつもどおりだ。特に責める口調でもなければ、怒っている声でもない。

 ちりん、と音を鳴らして二人の隣を自転車が通り過ぎていく。燕は歩調を緩めながら、自転車を先に行かせる。自転車が去ってしまえば、また二人だけだ。

「わから……なくて」

 ……桜の中からぽろぽろと、言葉があふれた。

「お母さんに心配かけちゃうから、ちゃんとしなきゃって思ってるんですけど」

 ピアノを弾けなくなったことを、母はまだ知らない。

 知ればきっと心配するだろう。幼い頃、怪我をしたときも母はひどく心配して大騒ぎした。それを桜は恐れていた。

 心配を一つかけるたびに、祖母の声が蘇る。

 桜は燕の背を強く、掴む。一瞬、体の底が震えたのだ。

 祖母の言葉は呪いの言葉のようだ。お母さんに迷惑をかけないように。その声は棘のように、桜の中から抜くこともできない。

 これまで桜は「いい子」だったはずだ。祖母にとって、母にとっても、ピアノ教室の生徒としても……みゆきたちにとっても。

 ピアノを弾けなくなった自分は、少しだけ「いい子」ではない。

「……焦れば焦るほど、弾けなくて」

「……わかる」

 燕は、桜にしか聞こえないような声で、呟く。それはあまりに静かすぎて、桜の中にすとんと言葉が吸い込まれた。

「燕さんも何か……経験があるんですか?」

「俺も描けなくなったこと、あるから」

 燕は少し考え……言った。

「ただ、弾けなくても、笑ってごまかす必要はない、と思う」

「私、笑ってますか?」

 桜の鼓動が跳ねた。燕の前でごまかしたことは、ほとんどないはずだ。それでも気づかれていたのかと、羞恥で顔が熱くなる。

「燕さんは……どうやって、描けるようになったんですか?」

 車が一台、横をすり抜けていく。自転車がベルを鳴らしてその後ろに続く。

 燕は赤い夕日を踏むように歩く。道の向こうに、グレーの大きなマンションが見えてくる。 

 その家の前に着く直前、燕が少しだけ顔を桜に向けて薄く微笑んだ。

「……救われた」

 誰に。とは彼は言わない。

 しかしその言葉の裏に、燕の家で嗅いだ絵の具が香った気がした。



「ただいま」

「おかえり」

 桜が扉を開けると、意外なことに母はまだ起きていた。嫌なことでもあったのか、少し不機嫌そうにソファーに腰を下ろしている。

 彼女は少しだけ顔を上げて、桜の足元を見る。まるで匂いを嗅ぎつけたように、鼻を動かす。

「足怪我した? 診ようか?」

「大丈夫。ちょっとくじいただけ」

 彼女が家にいるとき、電気をつけないのが暗黙のルールだ。一日中、眩しい病院にいる母は、これ以上白い光を見たくないという。

 仏壇に手を合わせ、桜は長いズボンを履く。そうすると、白い湿布は消えてしまった。

「お母さん、眠い?」

「……別に。ちょっと疲れてるだけ。ねえ桜、どこか食べにいかない?」

 不機嫌な時の母は眉に皺が寄ってわかりやすい。その顔を見て、桜はふとお店に来る客の顔を思い出す。

 店に入ってくるとき不機嫌な人も、店を出るときには機嫌がいい。

 ……つまり、不機嫌な人はお腹が空いているのだ。

「じゃ……あ」

 唐突に、桜の中に先程の燕の言葉が浮かんできた。


 作ってあげればいいのに、インスタントラーメンでもいいから。 


「……すぐ、御飯作るね」

「桜が?」

 力強く頷いて、桜は大慌てでエプロンを手にする。料理でエプロンを巻くのは久しぶりだ。

 最近、母親の帰宅は毎日遅いか、もしくは極端に早い。料理を作ってあげるのは、本当に久しぶりのことだった。

 頭に浮かんでいたのは、燕が料理をする姿。

(疲れてるときは……濃い味がいいのかな。お味噌とか、確かホッとするって……)

 台所の棚に眠っているのは、味噌ラーメンと醤油ラーメン。一瞬迷った後に味噌を手に取り、裏に書かれている通り、きっちりと水分を計る。

 二つの鍋をコンロに置いて火を付けると、桜はたどたどしくネギを切り、卵を出す……そのついでに、冷蔵庫の奥を覗いた。

(卵いれて……ネギいれて。あ、確か豆乳って体にいいって……前、燕さんが作ってくれた時……)

 以前、燕がゴマと豆乳のポタージュを作ってくれたことがある。豆乳は温めると、優しい味になる……そんなことを初めて知った。

 それを真似て、四角い豆乳のパックも取り出す。ちょうどコンロの上では湯が沸いた頃。カサカサの乾麺をそっと沈めて箸で突く……と、湯気が指を優しく包む。

「手伝おうか?」

「いいから」

 覗き込む母を腕で押しのけて、桜が野菜室から取り出したのは小さなトマト。

 陽毬の好物だから、とみゆきが以前、持たしてくれたのだ。しかし食べられることなく、冷蔵庫の隅で柔らかくなりつつある。

(たしか……トマトラーメンって聞いたことあるけど……)

 しばらく悩んだ後、桜はトマトを刻み、大胆に鍋にいれた。袋の裏側に書いてあるとおり、火を止めてから付属の粉スープを全て溶かしきる。

 プロが作ったものなんだから、インスタントラーメンは何をしたって美味しい……そう言っていたのは、みゆきだったか。 

 その言葉を信じて粉をいれると、ただのお湯が一気にラーメンの香りに染まる。濃厚で、とろりとした味噌の香りだ。

 火を再度つけると、少しずつ鍋に豆乳を加え最後に卵を慎重に真ん中に……しかし卵はつるりとすべり、鍋肌にあたって白身が白に染まった。

 できるだけ卵を真ん中に寄せて息を吐く。

 黄色い卵に赤いトマト。それは燕が最初に作ってくれたあのメニューを思い出させた。

 燕の料理はいつも色が美しい。美大生だからかと聞いてみたことがある。

 料理は口だけじゃなく目でも食べるものだから……と、燕は言った。

(どうだろう、綺麗だと……思うけど。でも、目で食べるわけじゃないんだし、味は……)

 桜はじっと鍋を見つめ、一呼吸をおいてコンロの火を止める。

「すごいじゃない、桜!」

 そわそわとキッチンを行き来する母が、桜を押しのけて目を輝かせた。

 先程までの不機嫌そうな色はすっかり消えて、久しぶりの笑顔が浮かんでいる。

「すごく豪華じゃない。いいよいいよ、鍋のまま食べよう。器に移してたら卵が崩れちゃうし」

 光も音もない部屋で向かい合って鍋を置く。

 同時に鍋に口をつけてすすり、桜は思わず「薄い」とつぶやいた。

 豆乳をいれるのであれば、水分は少なめにするべきだ。

「ごめん少し……水気、多かったかも」

「美味しいよ、シェフ。トマトと味噌味も面白いじゃない。担々麺にもトマト入れたりするしさ」

 懐かしい名前でそう呼んで、母は笑う。その響きを聞くと桜は急に九州のことを思い出した。

 たった半年前のことだというのに、それは懐かしい記憶だ。雪の音、台風できしむ窓の音。

 山に近い家だったので、時々動物の声も聞こえた。ピアノの音がきれいに響く家だった。

 今は静かな時でも、都会特有の音が聞こえる。嫌いではなかったが、田舎で母と暮らしたときのことを、桜は時々懐かしく思い出すのだ。

「前、こうして食べさせてくれたっけ。九州の時は……最近忙しいからご無沙汰だけど」

 実際、母と並んで食事をするのは久しぶりのことだった。

「本当、みゆきにはお世話になりっぱなしだわ。お店でご飯食べさせてもらってたりする?」

「うん。最近はみゆきさんじゃなくて、新しく入った人がご飯を……あ、みて、この人。キッチンのバイトなの。さっき家まで送ってもらったんだよ」

 桜はスマートフォンから燕の写真を探し出し、机越しにそれを母に向けた。その画面を見て、彼女の顔にぱっと笑顔が浮かぶ。

「嘘。かっこいいじゃない。夏生、嫉妬してるんじゃない?」

「うん。お客さんが皆きゃあきゃあ言ってるから。勝てるわけないのにね」

 ぬるい麺をすすり、ちょっと薄めの汁を飲む。薄いと思っていたが、食べているうちにちょうどいい濃さになっていた。

 甘い味噌、甘い豆乳、とろりとしたトマトの味に、麺の柔らかさ。外も湿度が高いが、ここも柔らかい湿度にくるまれている。

 噛み締めていると、二人の間に、少しだけ沈黙が落ちた。

「ねえお母さん、私の……」

 トマトの酸味は味噌の甘さに不思議とよく合う。

「……お父さんってどんな人だったの?」

 ずっと母に聞きたかったことが、口からほろりと溢れる。耳のどこかに、燕の言葉が残っていたのだ。

 聞きたいことがあれば、聞けばいい。聞けるうちに……。

 それはずっと子供の時に一度だけ聞いて、はぐらかされた質問だった。

 桜は父の顔をあまり覚えていない。今、残っている父の顔は斜めに伏せた横顔の写真だけだ。

 仏壇を一瞬だけ見て、母が眉を寄せる。まるで子供のような顔でラーメンを啜る。

「まず顔がよかった。線が細くてね。初めて会った時、ああ、なんてきれいな子、って思ったわ。色とか真っ白でね。それとピアノも……私ほどじゃないけど上手だったし、音楽だけじゃなく絵も描いて、色々器用だった。駄目なところは、写真が嫌いで写真を残さなかったこと」

 母は仏壇を見ない。思い出をシャットアウトするように、顔を背ける。

「でも、一番駄目なことは、体が弱かったこと」

 父のことを話す時、必ず母はたまらない顔をする。

「……どうしようもないけど」

 母にもきっと過去には「色々」あったのだろう。その「色々」は母だけのもので、桜でも立ち入ることはできないのだ。

 そう思うと、少しだけ寂しかった。

「ねえ桜。寂しい思いさせてる?」

 まるで見抜いたように母が言い、桜は卵の黄身を思わず潰してしまった。少しだけ白い豆乳味噌スープに、どろりと溶ける黄身はまるで今の気持ちのようだった。

「そんなことない。夏生もいるし……みゆきさんたちも……燕さんもいるし」

 柔らかな麺をゆっくりと噛みしめて、桜は首を振る。

「大丈夫だよ」 

 大丈夫。何度この言葉をいったかわからない。多分、これからも言い続けるのだ。

 この言葉を言えば、母はいつも、戸惑うように笑って言葉の続きを諦める。

「……そういえばみゆきから聞いたけど、来月、発表会だって」

「あ……うん、そうだね」

 薄くて熱い豆乳の味噌スープを向かい合ってすする。二人の額には汗が浮かんでいた。

「見に行けると思う」

「えっ!?」

 母の言葉に桜は思わず立ち上がり、転がりそうになる。足の痛みはすっかり飛んだ。胸が激しく鼓動を打ってうるさいくらいだ。

 冷や汗が一筋、首の後ろを流れる。

 勢いよく立ち上がったせいで机が揺れる。動揺が指の先から机に広がった。

「お母さん、あの……いい……よ。無理は……しなくても」

「前行けなかったし、今度は行くよ。大丈夫」

 忙しいだろうし、無理しないで。その言葉は母の笑顔の前で飲み込むこととなる。

 代わりに桜を襲ったのはプレッシャーと、焦りだった。

 まだ、桜は人前で弾くことができない。

「私………実は」

「ん?」

「あ……じゃあ、そうだ。お母さんに……ピアノ弾いてほしいな。聞いて練習……したいから」

「それより桜の演奏を」

「いいの。お母さん、弾いて」

 食べ終わった鍋を二つ大急ぎで片付け、母の背中を押す。桜の部屋の片隅に置かれた小さなピアノ。 

 冷たい椅子に母を座らせると、彼女は少し戸惑ったように鍵盤に触れた。

「ピアノ、病院のレクリエーション室にもあって、暇な時は弾いたりしてたけど……最近は忙しくて弾けてないし、ちょっと久々かも」

 ぽん。と軽い音が響く。普段はメスを握っている母の手だが、白い鍵盤に触れると優しい音を出す。

 桜も端の鍵盤をそっと叩いた。しかし、母のような優しい音は出ない。

「何弾く?」

「じゃあ……」

 母が二つ、三つ、鍵盤を押して桜を急かす。桜は少し考えて呟いた。

「……カノンで」

 音が柔らかく、宙で交わった。ひとつ、ひとつ、音が重なるとそれはメロディになっていく。

 外はまた淡い雨が降りはじめる。

 カノンは、雨に似合う曲だった。

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