赤に溺れた天津チャーハン
「ごちそうさまでした」
女子大生の集団がようやく席を立ったのは閉店時刻も迫る、18時直前のこと。
燕を見つめては何事か囁いて、騒ぐ。最近はそんな客が増えている。
おかげで燕も少しは愛想笑いが上手になった。普段は使わない表情筋が、筋肉痛を起こすほどに。
「……大島君、今日のランチ、ちょっとチャーハン失敗でしたね」
最後の客が去った後。カウンター席に腰掛けたみゆきが言う。
みゆきの前に置かれた皿は空っぽ。満足そうに口を拭うみゆきだが、指摘は厳しい。
「味付けはすっごくよかったんですが、水分が少し……残ってたのかな? ちょっとだけ、柔らかかったです」
燕はちらりと、フライパンを見る。そこにはランチ用のチャーハンが残っていた。みゆきが言う通り、米が少し柔らかく見える。
「……チャーハンは気分が乗らないと……うまく作れなくて」
「でも大島君にも苦手な料理があるって分かって安心しました……あ、そうそう。玉ねぎ切ってる時、目、痛がってたでしょう? そんなときは歌をうたってみてください。歌うと、目が痛くならないんです」
にこりと、みゆきが笑って言う。
「これ、祖母から習ったんですけど、なんでも信心からです。試してみてください」
「機会があれば」
この店は昼から閉店まで通しでランチを提供する。
今日のメニューはチャーハンと唐揚げに中華スープと温野菜のサラダ。
チャーハンは焦がしネギ、唐揚げの鶏肉は、塩麹漬け。茶色に染まる皿に、温野菜の彩りが綺麗だった。
「あ、そういえば桜ちゃんが、大島君のスコーンが美味しかったって喜んでました」
みゆきは食後のコーヒーをすすりながら、洗い物をする燕を見つめる。
「……ああ、それはよかった」
「作り方聞きたいって。でも桜ちゃん、恥ずかしがり屋だから」
燕はキッチンの中を軽く片付け、冷凍庫をそっと開ける。
そこには冷凍パックに詰まった赤と白の塊が眠っている。
手にすれば、ずしりと重い。それは、赤いイチゴだ。よく洗い、昨晩から冷凍庫に眠らせておいた。
5月最後のイチゴは少し小ぶりで、過ぎる旬を惜しむような色が美しい。
「……スコーン、今度作りましょうか? 簡単ですし」
燕は先日作ったスコーンを思い浮かべて、いう。
突然甘いものを食べたがる律子のために、冷凍庫には常にお菓子のストックがある。クッキー、マフィン、ホットケーキ、そしてスコーン。
料理本を見ながら作った柔らかなスコーンは、特に律子のお気に入りだ。切らさないように常に冷凍庫に眠らせている。
真っ白なスコーンに赤のいちごジャム、もしくは黄金色のりんごジャム。目の覚めるような黄色のマーマレード。そんなものを山盛り付けて食べるのを律子は好む。
おかげで、燕はジャム作りが上手になった。
「大島君、苺、使ってくれるんですね。ありがとうございます。親戚に農園の方がいて……沢山もらうんですけど、夏生も桜ちゃんも、あんまり食べてくれなくて」
「ジャムにします」
「冷凍のまま?」
みゆきがカウンター越しにキッチンを覗き込む。その目線の先にあるのは小さな鍋。燕はそこに、凍ったままの苺を投げ込む。たっぷりの砂糖をくわえ、レモン汁を少々。火を付けてそっとかき混ぜると、ぐずぐずと、水分が苺から染み出した。
鍋の中が、ルビーのような赤で沸き立つ。
「なるほど、こっちのほうが……」
「水分がすぐ出るので、失敗が少ない気がします」
くつ、くつ、くつ。とジャムを煮る音が聞こえる。
いちごジャムの灰汁は、とろりとした薄桃色。それをすくいながら煮詰めていくと、やがて一面に甘い香りが漂う。
冷凍した苺をジャムに使うと、不思議とすぐに煮詰まる。そして生の苺よりも、きれいな赤になる……そんな気がする。
煮詰まっていく、この瞬間が一番美しい。
「スコーンとジャムで、メニューになりますし……これに、バターを溶かしていちごバタージャムにしても」
「大島君と甘いもの、意外な組み合わせですね」
みゆきは体調のいいとき、こうして燕と話をしたがった。最初こそたどたどしかった会話も、最近では慣れたものになっている。
みゆきは昔、カルテットを率いていたというだけあって人当たりがいい。
軽い口調につられて、燕もついつい口が軽くなる。
「俺は甘いものは苦手です。一緒に住んでいる人が、甘党なので、最近は作るのが得意になりましたが」
「じゃあ、その人は幸せ者ですね」
みゆきが朗らかに笑い、燕もつられて少し笑った。
「そうですね」
みゆきは燕を見上げたまま、手持ち無沙汰に机を指で弾いていた。
昔は彼女も音楽を演奏していたのだ。指は音楽を刻むように心地よく動く。
「お店、ちょっと薄汚れてきましたねえ」
みゆきは店をくるりと見渡して少しだけ不満そうに呟いた。
創立10数年というこの店は、少しだけ古びた感がある。扉の建て付けや、窓の隙間風、その他諸々だ。それはアンティークともいえるし、汚れとも見えた。
「ここね、もともとは知り合いがやってたお店なんです。私……音大卒業して楽団に入ったんですけど、すぐに辞めて……廃業が決まったここを継ぐことに決めたんです」
みゆきが腕を広げて、店をくるりと見渡し、燕を見た。
「音大まで行って……なんで喫茶店って不思議でしょう? 私自身、不思議なんです。周囲からも散々失敗するぞって怒られて、なだめられて」
みゆきはカウンターの上で指を組み、少し微笑む。
「……でも日向君と決めたんです」
みゆきは、夫のことを未だに名字で呼ぶ。しかしそこに冷たい響きはなく、むしろ二人の関係の深さがにじみ出る。
「4人でやった音楽が楽しすぎて。その時の音を閉じ込めたかったのかもしれません」
みゆきは聞こえるかどうかの声で、言った。
燕はジャムをゆっくり煮詰めながら、壁に刺さった写真を横目で見る。この頃より、みゆきは少しだけ顔が丸くなり、店長の顔には貫禄が出た。
しかし、どこかまだ面影は残っている。
「……閉店の看板、出しておきます」
日差しが傾き、店から客が消える。この瞬間が燕は好きだった。
昨年までは、バイトなど自分にできるわけがない……と思っていた。
この店にバイトを決めたのは、偶然だ。
律子と一緒に前を通りがかった時、音楽が聞こえた。少し開いた扉の向こう、暖かな湯気と幸せそうな客の顔が見えた。
少し傷の入った木の床に、カラフルな椅子、大きな窓から光が差し込み黄金に輝く店内……。
その風景が、ひどく美しいものに見えたのだ。
素敵。と律子がうっとりとつぶやいた。
中からは、甘いコーヒーや、食べ物の香りが漂ってきていた。
喫茶店のご飯って素敵。
そうつぶやいた律子の言葉が、燕を動かすきっかけとなった。
偶然貼ってあったバイト募集の電話番号を急いで控え、翌日には電話をかけていた。
「あの……大島君」
ふとみゆきが顔を上げた。
彼女は言いにくそうにカップをさすり、やがて意を決するようにカウンターの端を掴む。
「変なこと聞きますけど……桜ちゃんのこと、どう思いますか?」
「どう、とは?」
「あの子のピアノ……燕さんの前でも、やっぱり」
「ああ……そうですね」
燕は桜の顔を思い浮かべた。
5月が終わりを迎える今もまだ、彼女は人前でピアノを弾けない。
「まだ、難しそうですね」
カルテットキッチンから美しい音色が聞こえることがある。
そんな時、燕は扉の前でしばらく待つ癖がついた。
夏生の二人きりの時か、一人きりの時。桜は驚くほど生き生きと弾く。しかし人がいると駄目だ。音を出すこともできない。
そんな彼女を見ると燕は苦い記憶を思い出すのだ。
それは、絵を描けなかった時代の記憶だ。
あの頃は苦しかった。あの苦しみを彼女も味わっている、そう思うと切ない。
……まだ彼女は音を恐れていない。それだけが救いだった。
「あの子、春先の発表会で、失敗して」
言うか言うまいか。迷うように、みゆきは手のひらを何度も握りしめて、開く。そして意を決したように、顔を上げた。
「あの子、雨が苦手なんです。雨の日にばかり、嫌なことがあって……偶然って言い切れないくらい、嫌なことが、いっぱい」
降ってもいない雨の音が、聞こえた気がして燕は窓を見る……そこにあるのは、やはり夕日の赤だった。
「発表会、私達が見に行っていればフォローできたのに、行けなかったから……責任を感じてるんです。桜ちゃん、笑ってるけど……それが痛々しくって」
桜は弾けない時に自分をごまかすように笑う癖がついていた。
それは危うい癖である。
「……そうですね」
「夏生は不器用でしょう。心配してるくせに言い方がきついし。陽毬……桜ちゃんの母親ですけど、あの子、忙しくて桜ちゃんの今の状態にも気づいてないし……桜ちゃんしっかりして見えるから私もついつい、大丈夫って勘違いしちゃうんですけど」
きゅっと、みゆきの唇が固く閉じる。
「……あの子、この間まで中学生だったんですよ」
心配そうに眉が寄る。その顔は親の顔をしている。自分の親はこんな顔をしてくれるだろうか、と考えて燕のどこかが少し痛くなった。
「そういえば、大島君のご両親も、絵を描かれるんですか?」
「……昔は……描いていたみたいです。今は、描いてませんが」
みゆきの質問に、燕は曖昧に答えた。
ジャムはそろそろ、水分が抜けきった。くつくつと、輝くように煮詰まっている。
……しかし親のことを思い出すと、この幸せそうな色もモノクロに見える。
みゆきは燕の変化に気づかず、店の真ん中にあるピアノを見つめた。
「子どもを音楽教室に入れたの、私達の希望だったんです。私達、ずっと音楽をしていたから……咲也君……桜ちゃんのお父さんも」
「……小さい時、亡くなったと聞きました」
写真からでは、真正面の顔を想像できない。しかし柔和そうな雰囲気は感じる。
「私達、音楽で救われることを知っていたから。子どもたちにも与えてあげたいって思っちゃったんです。でも、今から思うと私達の夢を押し付けたんじゃないかって……子どもたちには可能性の芽があるのに、一本の道しか与えなかった。だから桜ちゃんは苦しむことになったし、それは」
栓のゆるい水道から水の滴る音が聞こえる。ラジオもレコードも止めた店内は静かすぎる。
「……私達のエゴじゃないのかなって……そう、後悔してるんです」
みゆきの言葉は懺悔の声だ。息子にも、夫にも言えないその黒い感情は、出会って間もない燕相手だからこそ吐き出せるのだ。
しかし燕はその声を、どこか遠い世界の出来事のように聞く。
燕は両親と不仲だ。4年前に家を出て、一度だけ家に戻った。
滞在時間はたった10分ほどで、その間に両親は、燕の目を見ることさえしなかった。
それからは折々に電話で話をする程度。一度も顔を見ていない。そろそろ顔を忘れそうだ、と燕は思う。
……しかし、絵を教えてくれたのもまた両親である。
「俺は……俺も……親とは色々ありましたけど絵の道に進んでよかったと、そう思ってます。絵を……教えてくれたのは、両親だから」
燕は動揺を隠すように、熱湯消毒した瓶にジャムを落とす。ぽとり、ぽとりと赤い色がガラスの底に広がった。
燕の言葉に、みゆきが安堵するように微笑む。そして彼女は話を打ち切るように小さく手を叩いた。
「回りくどい言い方でごめんなさいね。これからも年上の大島君が時々、桜ちゃんに目を配ってあげてほしいなって……言いたかったんです」
「……できる限りは」
血のつながらない親子のほうがまだ情愛が深い。
家族とは、何なのか……と、燕は手についた赤い雫を拭いながらそう考えた。
燕が家にたどり着いたのは、夜は少し更けた頃。
いつもは閉まっている玄関が少しだけあいている。不安な気持ちに襲われ、慌てて扉を開けると玄関先に律子が立っていた。
「律子さん?」
「あ、燕くんいいところに。ねえ見て! ピアノが届いたのよ」
ぴょん、と律子が嬉しそうに跳ねる。彼女が指差すのは、ダイニングの片隅。アンティークなソファーの真横、ぴかぴかのピアノが一台置かれていた。
大きなピアノではなく、小ぶりなものだ。しかし、その黒の輝きは周囲を圧倒するように鎮座している。
「ピアノ?」
燕はぽかん、とそれを見た。絵の具や筆などで荒れた部屋の中、そこからは新しい香りがする。
「あの子達がきたら練習できるじゃない」
「そのために? ピアノを? 買ったんですか?」
「税金対策ですよ。グランドピアノにするというのを説得して、アップライトピアノで落ち着きました。さすがにグランドピアノは大きすぎる」
静かな声が燕の背をぞっと震わせる。渋々振り返れば、やはりそこには想像通りの男がいた。
「……いたんですか」
「いけませんか? ここは私のかつての古巣でもありますので」
そこに居たのは、高そうなスーツに身を包んだ男である。背は高く、燕を見下ろすように立っていた。
古びたヴァイオリンを片手に軽く持つ。そんな洒落た雰囲気も、不思議と似合っていて余計に癪に障る。
優しげな顔立ちに見えるが、この男は燕を嫌い、燕も彼を嫌っている。
「喧嘩はしちゃだめよ、二人とも」
律子が目を尖らせて二人を見た後、にこりと笑う。
「仲良くね……あとはね、椅子も届くから、ちょっと見てくるわ」
そして無責任にも外へと飛び出していく。ぬるい部屋に残されたのは、燕と男。律子という光がなくなった今、二人の間には、一気に冷たい風が吹く。
「……あなた、人が居ないときばかり狙って来ますよね」
燕は刺々しく言い返した。
彼は律子の教え子であり、律子の亡夫……柏木螢一の実子。つまり律子にとっては、義理の息子ともいえる存在。
柏木は画廊を経営している男で、事あるごとにこの家に食材の贈り物を届けにくる。
肉、野菜、ワイン、なんでもありだ。つまり律子に執着している。
燕がこの家に落ち着くまでの間、この男とはさんざんに喧嘩をした。律子いわく「ふたりとも似ている」とのことだが、とんでもない話だ。
「そんな意地の悪い考えをするのは、君だけですよ。今日は玄関先でお邪魔しようと思ったのですが、部屋にピアノが運ばれていましたので、お手伝いをしただけです」
柏木は机に置かれた真っ黒なコーヒーを無表情のまま、すする。律子が淹れたと思われるそれは、相当に濃い色をしていた。
「しばらく来なかったので、もう二度と来ないものと思ってました」
わざとらしく嫌味を言ってみても、柏木には何のダメージにもならないようだ。嫌味っぽく口の端を上げて、笑う。
「ここ一年ほど、海外を飛び回っていました。先生の絵がドイツとイタリアの田舎、両方で見つかったもので」
「律子さんの絵が海外に?」
「先生の絵は世界的に有名と、言ったでしょう。ようやく目的のものを見つけたのですが、先方と折り合いがつかず……かと思えば先生のサインが必要だったりと、なかなか日本に戻れず苦労しました」
柏木はヴァイオリンの弓をもったまま、歌うように続ける。
「とはいえヨーロッパをゆっくり巡れたのも楽しかったですね。綺麗でしたよ、風景も色も……温度が違うせいか、ワインの色さえ美しい。君もいつか訪れてみるといい」
と、彼はまた嫌味そうに笑った。
燕のひがみのせいか、「行けるものなら」という柏木の言外の言葉を読み取ってしまうのだ。
彼は相変わらず、燕を苛立たせる天才である。
「向こうでも散々クラシックを聞いてきましたが、日本に帰ったら先生まで音楽に目覚めているとはね。懐かしかったので、久々に調律でもしてみようかと」
アンティークな椅子にどっしりと腰を下ろして、柏木はゆったりとヴァイオリンをいじる。鳴る音は不協和音だが、格好だけはさまになっていた。
「……弾けるんですか?」
何でもできるんですね。と、思い切り嫌味を込めて言うが、柏木は肩をすくめただけだ。
「昔、私の友人に習いました……おや、変な顔をしましたね。私に友達がいて、おかしいですか?」
ポーカーフェイスの燕の表情の奥を読んだように、柏木が笑う。そしてまたヴァイオリンを軽快に弾いてみせた。
「……先生、これはしっかり調律しないとだめですね、一旦持ち帰ります……ああ、そうそう。それに今日は遊びに来たわけじゃないんです。君に修復を頼んでいた先生の絵を回収に来たんですよ」
彼の手の中には、先日から燕が直していた律子の絵がある。
それを鑑定士のような顔で眺めて、柏木は顎をなで目を細めた。
「なるほど、よく出来てる」
美しい田園の風景。欠けた場所に、色彩を重ねた。欠けていた空の青が塗り直され、薄暗い室内の中で輝いている。
「……が、色を似せただけだ。この絵の当時の気持ちや雰囲気が見えてこない。マネだけなら、私にだってできる。君にしかできないと思ったから、仕事を頼んだんですよ……いい線までいっているが……この色には、感情がない」
「文句があるなら」
「君には一つ大作をおまかせしたいと考えてましてね。それまでに、この仕事に慣れてもらわないと……それに私に文句を言われてもう少し、塗りたくなったでしょう? また三日後、取りに来ますからもう少し考えて塗ってみなさい」
まるで先生のような口調の柏木は、意地の悪い顔で燕を見る。
柏木は妙に燕に張り合うくせに、時折大人の顔を見せる。それに乗せられて腹を立ててしまうのも、気分が悪い。
「そういえば君がカフェでバイトしていると聞きましたが、相変わらず悠々自適ですね。羨ましい」
ヴァイオリンをケースに片付けながら、柏木は燕を見る。
「君の大学……卒業制作……の前、秋に絵画展があるでしょう?」
「なんで知ってるんですか」
「展示会に私の事務所も絡んでますので。たしかそのテーマは、家族……でしたか」
にっこりと、彼は微笑む。
「まあ、また喧嘩してるのね」
いつの間に部屋に戻ってきたのか、律子は早速ピアノの前に立ったまま、むちゃくちゃに弾き鳴らしていた。
音楽ともいえないその音は今の燕の気持ちにぴったりだ。
むしゃくしゃして、腹が立つ。
「家族など、君にとって難しいテーマでしょうね。ああ、だからバイトで逃げてるのか……いっそ、一度家に帰って、ご家族と水入らずで過ごしてみては?」
「相変わらず仲がいいね、君たち」
柏木の静かな声に、重なるようにまたもう一つの声が響く。玄関の閉まる音もだ。
その声をきいて、燕はがっくりと肩を落とした。
「やー、少年。久しぶり。相変わらず腹が立つくらいハンサムだねー」
振り返って、燕は静かに奥歯を噛み締める。
背後には細身の女が一人、立っている。手には紅いビロードの張られた、美しい椅子を持っていた。
ベージュのスーツに、赤いハイヒール。年齢は律子より一回りは下に見える。短い髪は明るい茶色で、どこからどう見ても隙がない。
彼女はハイヒールを玄関先に履き捨てて堂々と部屋に侵入する。態度も大きければ足音も大きい。
彼女はごとん、と椅子をピアノの前に設置する。
「律ちゃん、ほら。ご待望の椅子だよ」
ぐっと眉が寄るのを、燕はぎりぎりのところで耐えた。
今日は厄日である。しかし女は燕の顔をちらりと見上げ軽く笑った。
「将来はハゲるか腹でも出なきゃ、不公平じゃないかい。そんなにイケメンだと」
「まあ、池ちゃん。燕くんはきっと、お腹が出ても頭がつるつるでも、きっと綺麗だと思うけど」
早速椅子に座ってむちゃくちゃにピアノを弾きながら、律子が楽しそうにいう。
一緒になって笑う訪問者は池内という女。
「相変わらず少年に甘いな、律ちゃんは」
彼女は会計事務所のオーナーであり、律子の財務関係をすべて請け負っている……ということを知ったのは、3年前のこと。
燕がこの家に暮らすと決めた頃、しばらくして突然、彼女が家に闖入してきたのである。
事情を知らなかった燕は彼女を泥棒だと思い、固まった。
しかし彼女は涼しい顔で名刺を投げつけて笑い、家の中から領収書の束を嵐のように奪って去っていったのである。
その間、たったの5分足らず。
その後、柏木から正式な引合せがあった。
彼女は律子の夫……柏木螢一時代からの会計士。
柏木家には不動産や絵画を含めた資産が多い。それを一括で管理しているのだという。ただの会計士にしては図々しい。ビジネスの付き合いと言う割に、馴れ馴れしい。
だから、燕は彼女が苦手である。
「律ちゃんはほんと、昔から赤い椅子がすきだね」
「だって綺麗だもの」
池内はうやうやしく、赤い椅子を撫でる。
ビロードはピアノの前に置かれると赤金色の輝きに見える。律子はまるで淑女のようなポーズで、その椅子に腰を下ろしている。
相変わらずピアノの音はむちゃくちゃだが、そんな白い鍵盤に彼女の長い指はよく似合う。それに柏木が軽くヴァイオリンの音を乗せる。音は歪んで不協和音だ。
しかし赤い椅子に腰を下ろした律子と、画材の散らばる床に座った柏木。二人が楽器を奏でる姿は不思議と様になる。
それを眺めて、池内がにやにやと笑う。
「律ちゃんは本当面食いだ。そこにいる息子も、昔は腹が立つくらいに顔が良くってね」
「昔は余計ですよ。池内女史」
「はいはい。今でも十分男前だよ」
池内も柏木も、この部屋に訪れると不思議としっくりと落ち着いて見えた。
(……まただ)
燕は拳を握り込む。
昔から繋がりがある三人が揃うと燕の中に疎外感が生まれる。一人だけ、違うピースのような、そんな気がするのだ。
結局、燕は積み重ねた年月に勝てない。
厄日だ。と、燕は二度思った。
「……話が進まないんで、いいですか? どうしてここに?」
「定期的な領収書の回収と、ピアノが来るって言うから見に来ただけ」
池内の声は大きく、圧倒されそうになる。仕事柄のせいか、人のことを見透かすような目つきも嫌だった。
「……本当に?」
懐疑的な目で、燕は三人を見る。
「本当に、それだけですか?」
尋ねる燕に柏木が嫌味な笑みを浮かべた。
「……実は少し悪巧みを考えてましてね」
「駄目。それはまだ内緒でしょ」
「すみません、先生」
柏木は冗談を言うように軽く肩をすくめて、ヴァイオリンを低くかき鳴らす。巧いとはいえなかったが、ポーズだけは完璧だ。
「こうやってると昔を思い出すね。皆が楽器にハマった時期があったな……ヴィオラとチェロは売って……あのでかいピアノは?」
「幼稚園に寄贈したの。教え子の数だけ、楽器があったものだから」
「そうだった。運ぶのに苦労したな」
池内がほのぼのと、笑う。
「息子、でも君は下手だ。今もだが」
「まあ……そうですね」
柏木も池内と特別仲がいい、というわけでもないのだろう。
池内に声をかけられると、彼はやや気圧されたように愛想笑いを浮かべた。
「そろそろ帰ってもらえませんか……律子さんの食事を作らないと」
「そうだそうだ。次は息子の事務所に行かないと……ああ、まったく。忙しい忙しい」
呆れて燕が言えば、池内が手を打ち鳴らして立ち上がる。
柏木も引きずられるように立ち上がる……が、ふと燕の持つものに視線を送った。
「おや……それは?」
「ああ。バイトの知り合いが音楽の発表会に出るので、そのチラシです。チラシに使う絵を頼まれただけですよ」
燕が手にしていたのは、白い紙。そこには桜と夏生の素描が描かれている。
桜と夏生の通う教室が、7月に音楽の発表会を開催する。それに使うチラシの絵を、桜から頼まれたのは数日前のこと。
教室の生徒の顔を描いてほしい、といわれまずは夏生と桜をスケッチした。
じろじろ遠慮なく見つめてくる柏木の目線から、その紙を隠すようにひっくり返す。
「絵が描けるようになって何よりです。でもまずは就活と卒業制作を頑張りなさい」
まるで分別がある父親のような顔をして、柏木は手をふる。
やはり憎たらしい。と燕は思った。
柏木たちが賑やかに帰ると、部屋は一気に静かになった。
ようやく静かになった家の中で、燕はほっと息をつく。
律子もピアノに飽きたのか、もう一音も鳴らない。今、聞こえるのは燕の台所仕事の音だけだ。
燕は玉ねぎを刻みながらふと、歌を口ずさむ。それはみゆきがよく歌う、ジャズだった。
曲名はよく覚えていない。歌詞は聞き取れないが、リズムは覚えた。タイトルも知らない。ただ、宵に似合う、とろりと柔らかな曲だった。
「歌が聞こえると思ったら、燕くんだったわ。上手ね」
踊るように律子が顔を覗かせる。
「綺麗な歌声なんだから、もっと歌えばいいのに」
「僕は好きな人の前でしか歌いませんが」
「まあもったいない」
燕の不用意な言葉にも、律子は動じない。気づいていないのか、冷静を装っているのかはわからないが。
「律子さん、昔の絵をほとんど売り払ったって本当ですか?」
玉ねぎを乱雑に切りながら、燕は世間話のように言う。
律子の家には、かつて多くの絵があったという。
「……今、古い絵はほとんどこの家にはありませんよね」
燕はキッチンから見慣れた室内を見渡す。
部屋には、律子の絵が散乱していた。キャンバスだけではない。壁にも、天井にも彼女はどこにでも絵を描く。
今ではそこに重なるように、燕の絵も散乱していた。
しかし、今、この家に彼女の過去の絵は存在しない。
「あの子にきいたの?」
律子は呆れたようにため息をつき、そして壁の絵を撫でる。そこにあるのは彼女の落書きだ。
「そうよ。昔、ほとんどの絵を手放したの」
律子の古い絵は、今や古い美術雑誌などに載るばかり。多くの絵は国内外の好事家の所有物となっている。
彼女が絵を手放したのは、20年前、夫をなくしたときだろう。
「ちょっとずつ、絵が減って行った時、あのときは寂しかった」
家にあった絵も、教え子たちも、一枚、二枚、一人、二人と減っていく。極彩色の家から色が失われていく。
それは、寂しい過去だった。
そしてそのことは、燕の知らない過去だった。
「でもね今になってね、いくつか取り戻したいって欲が出ちゃって。だから探して買い戻したり……皆が躍起になって、あちこちで大騒ぎ」
まるで他人事のように、律子は肩をすくめる。
そんな律子を見つめて、燕は目を細める。
「律子さん、悪だくみってなんですか?」
「それは秘密……今はね」
「じゃあ……律子さん、それ以外の秘密は、もうありませんか?」
燕がまるで子供のように尋ねると、律子はいつものように笑う。
「隠し事なんかしてないわよ。歳を取ると過去のことを忘れちゃうだけなの」
「過去を思い出したら、あなたから僕に教えて下さい」
燕は乱暴に玉ねぎを刻む。歌をやめた途端に目が痛くなったので、なるほどみゆきの言葉は正しかった。
「あの人は、律子さん以上に過去のことをよく覚えてるようで」
「燕くん。相変わらず、あの子とは喧嘩腰ねえ。あの子もよくないわ。小さな子みたいに、すぐに噛み付いて……根はいい子なのよ」
「僕が人と喋るのが苦手なだけですし、それに、あの人のほうが僕を嫌ってるので」
「そう?」
「嫉妬ですよ、多分」
吐き捨てるように言いながら、人参、しいたけ。細かく刻む。
続いてよく熱したフライパンに、具材を一気に流し込む。
激しい音と煙を上げて、具材が油をふわりとまとう。そこに白飯を加えて一気に炒めると、小さな具材が米に絡んでいく。
苛立ちも焦りもすべてフライパンにぶつけていく。最初はただ白いだけだったフライパンの中がきれいな茶色に染まっていく……。
「今日はチャーハン?」
「いえ、本当はオムライスにしようと思っていたんですが、ちょうどチャーハンを作れそうなテンションだったので」
水分なんて一つもない完璧なチャーハンを皿に盛り、フライパンを軽く洗う。続いてボウルに卵を割り入れ、ここに調味料と水溶き片栗粉。
冷蔵庫に眠っていた、賞味期限ぎりぎりのケチャップもたっぷり落とす。
混ぜると、淡い赤色の卵液ができあがった。
「卵に……片栗粉を入れるの?」
律子が不思議そうな顔で首をかしげるのを無視して燕はそれを混ぜ、再度熱したフライパンに、ざっと流し込んだ。
ふちがちりちり、と茶に染まる前に、大急ぎでかき混ぜる。そして半熟のところをチャーハンの上にとろりと流し入れた。
赤い濁流が、茶色のチャーハンを覆い隠す。
まるでそれは、日が完全に暮れる直前の空の色。もしくは……。
「まあ。赤いベロアの……ピアノの椅子にそっくり!」
律子は嬉しそうに言って、皿をじっくりと眺める。
とろとろの赤い餡の下、茶色のチャーハンが埋もれている。
「天津飯の、ご飯のところがチャーハンなのね」
「まだ食べないでください、運ぶので」
今にもスプーンを取り出しそうな律子を制して燕は重い皿を持つ……そして、足を止めた。窓から不思議な音が聞こえてきたのだ。
「……雨だ」
外は宵色。それを突き破るように雨が降る。
「雨の日に赤い食べ物って素敵ね」
律子は歌うように言うが、燕は不意に胸がざわめく。
(そういえば、今年は雨が多くなるって予報が……)
最近雨が多いが、ことさら今年は多くなる。とニュースで聞いたばかりである。
桜は雨が苦手だ、というみゆきの声がふと頭の中に蘇った。
「燕くん、早く、早く、ご飯、ご飯」
燕の胸中に何か嫌な予感がよぎったが、律子の急かす声がすべてをかき消す。
薄暗い室内で、ただ皿の中だけが鮮やかに光り輝いていた。




