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一人ぼっちのメヌエット アフタヌーンティー

 桜の目前にそびえ立つのは、古いビルのような建物だ。

 カルテットキッチンを出て、駅を過ぎ住宅街を通り抜けたその先。

 ……家と家の合間に、唐突に灰色のビルが現れたのだ。

 壁にはツタが這っていて、薄気味悪い。窓は固く閉ざされていて、夕日が照り返している。まるで童話に出てくる魔女の家のようだった。

 どこか近くの公園から、掠れた音楽が鳴る。それは、18時を知らせる音だ。

 桜は目の前の建物を指し、夏生を見ると彼は小さく頷いた。

 ここは、燕が履歴書に書いてあった住所である。



「ここ……で、いいのかな? マンションなのかな? 他に部屋があるとか……」

 桜は古ぼけた階段を上がり、恐る恐る壁を探る……そこにあるのは古ぼけたインターホンが一つだけ。どこにも表札は出ていない。

 階段は暗くて狭くて、そして足音だけが響く。ひやりとした空気が恐ろしかった。

 そんな桜の背を、夏生の腕が小突く。

「だって住所ここだろ。いいからそれ、押せって」

「な……夏生が押せばいいじゃない!」

「桜が行くっていったんだろ」

「私、言ってない。夏生が言った!」

「いいから」

 夏生にせっつかれ、桜は赤いインターホンを思い切って押す。 

 すると、間の抜けた音が鳴り響き……やがて扉が低音を響かせて開いた。

「……燕さん!」

 薄暗い扉の向こう、燕の白い顔が浮いて見える。表情の薄い彼には珍しく、目を丸めて驚いた表情をしていた。

「何で家が?」

「すみません……止めたんですけど……り……履歴書……を……みて……夏生が」

 桜の背後で、にやにや笑いの夏生が白い紙を振っている。それを見た燕がむ、と口を尖らせた。

「個人情報だ」

「ばーか。お前が忘れ物してたの、届けに来たんだよ。桜がうるせえから。大事な物だったらどうしようって」

「あ。すみません。その、大事そうな書類だったから……来週までシフト入ってないし」

 桜は慌ててカバンから白い封筒を取り出す。それには美大の刻印が刻まれていた。

 これが机の上に残っていることに気づいたのは、燕が帰ってしばらく後のこと。

 どうしよう、と、迷う桜の横で夏生が書類棚を漁り燕の履歴書を見つけ出した。

 電話をかけようと提案する桜を無視し、夏生はさっさと地図アプリにその住所を打ち込んだのだ。

 どんな家に住んでんのか気になるだろ、が夏生の言い分だ。好奇心に負けて桜もここまで来てしまった。

 一時期の好奇心も、燕を見ると後悔に変わる。

「これ……すみません……」

「ありがとう」


「燕くん?」


 淡々と封筒を受け取りさっさと扉を閉めようとする燕だが、その前に、彼の背後から細い腕が伸びて扉を掴む。

「あら。お友達? あがっていらして」

「律子さん」

 燕の背後からひょっこりと顔をのぞかせたのは、一人の女性である。

 彼女が顔を出した途端、暗い廊下がぱっと明るくなったようだ。

 年齢はよくわからないが、少なくとも桜の母よりはずっと年上に見えた。しかし、表情が明るい。綺麗なグレーの髪がよく似合っている。

 作業着のようなものを身につけ、手には筆。服にはべっとりと黄色や緑の色が光り、近づくと絵の具の香りがした。

「バイト先の子? まあ、きれいな制服。音楽高校の制服ね」

「いや、律子さん……」

 珍しく燕が困惑するような顔を見せる。

 母親なのか。それにしては距離感がおかしい。二人の関係が見えず、桜と夏生は思わず顔を見合わせる。

「いいじゃない。お茶でも一緒に飲みましょう。そうよ、アフタヌーンティーは沢山居たほうが楽しいし」

 年上の女性が苦手な夏生は、まるで硬直したみたいに背筋を伸ばしたまま。

 だから桜は夏生の前に出て、彼女の顔をそっと見上げた。

「……あの燕さんのバイト先で一緒の、境川桜……です。こっちは、日向夏生」

 薄暗い中、大きな目が輝いている。近づくと、ますます絵の具が香る。

 そんな香りに包まれた彼女は笑顔のきれいな人だった。燕は諦めたように女性を前に押し出してため息をつく。

「この人は……律子さん……」

 そして燕がふと、いたずらっぽく微笑んだ。

「俺の妻だ」

 それを聞いて夏生の目がまんまるになり、桜も息を呑む。しかし当の女性といえば、何でもない顔で燕の肩を叩くのだ。

「燕くんったら冗談ばっかり。私ね、燕くんの絵の先生なの」

 女性は燕の言葉に動じもせず、玄関から一歩出てくる。


「あ、それって、もしかしてヴァイオリン?」


 彼女はぐいっと夏生に近づくと、彼が背負っている細長いケースを指差した。

「は……はい」

「見せて、見せて」

「律子さん、ちょっと」

 燕が止めようとするが、彼女はお構いなしだ。夏生は気圧されたように、ヴァイオリンをケースから取り出す。

 夏生は幼い頃からピアノが苦手だ。その代わり、ヴァイオリンのうまさは群を抜いている。

 これまでコンクールでも何度も賞をとっている。都心の音楽高校への推薦もあったらしい、と噂に聞いた。

「ねえ、弾いてみて弾いてみて、今すぐに」

 律子、と呼ばれた彼女は夏生にせがむ。

 最近すっかり反抗期の夏生だが、勢いに飲まれたのかコクコク頷くと、素直にヴァイオリンを肩に置く。

 息を吸い込み、夏生の目が桜をちらりと見る。桜はヴァイオン弓を握った彼の手に、軽く拳をぶつけてやる……それが演奏を始める前の、二人の合図だった。

「……」

 息を一回吸い込んで、ゆっくり弾き始めると、夏生の表情はすっかり変わる。目が遠くを見つめ、姿勢がまっすぐになり、小さな体から音が溢れはじめる。

 彼が弾いたのはほんの一小節。狭い階段に音が響いて天井にぶつかり、緩やかに降り落ちてくる。

「すごく可愛いわ」

 律子は夏生を見つめたまま腕を動かしている。気がつけば、彼女はノートに夏生の姿を模写しているのだ。

「ヴァイオリンも曲線だから、あなたの柔らかい髪とよく似合ってる」

 ノートに描かれた夏生があまりにリアルすぎて、桜は思わず息を飲み込んだ。

 一瞬で描いたとは思えない。ただの線と線の重なりなのに、不思議なほど立体に見える、そしてその表情は、夏生にそっくりだった。

「律子さん、やめてください」

 燕が不機嫌そうに律子からペンを取り上げる。

「いきなり描くのは失礼でしょう」

「あ……別に……俺は別に……」

 夏生は耳まで赤くしたまま、慌ててケースにヴァイオリンを片付ける。そして不安そうに桜をちらりと見上げた。

「桜、もう……帰る……」

「私も昔、少しだけ触ったことがあるのよ。ヴァイオリンもフルートも……ピアノもね。でも、とてもへたくそだったの」

 しかし、律子はそんな夏生にはお構いなしだ。じっと見つめたまま、少しだけ寂しそうな顔をする。

 ……そんな顔をすると、どこかで見たことがある……そんな気がした。

「も……もういいだろ。忘れ物届けたし……お前の母ちゃん、病院から帰ってきてんだろ」

「ねえ。あなたも、楽器ができるの?」

 夏生の言葉を無視し、律子は桜を見つめた。

 大きな目だ。きらきらと輝いてる。その色に気圧されるように、桜は小さく頷く。

「ピア……ノを」

「白と黒! あんなに綺麗な色の楽器は他にはないわ。ねえ、やっぱり、あがっていらして。お話をもっと聞きたいし」

 律子は桜の手をにぎる。暖かく……熱いほどの手だ。手には絵の具がついている。

 手を握られても、ちっとも嫌な気持ちにならない。触れているだけで心が穏やかになる。

 桜は戸惑うように、律子を見上げた。

「すみません、母が……待ってるから、急いで帰らないと」

「そうなの……残念。また遊びにいらして。あ、そうだ、ちょっとまって」

 彼女はいいことを思いついた、と言わんばかりに飛び上がると部屋へと引っ込む……と思えば数分後に駆け戻ってきた。いそがしい人である。

「燕くん、温まってたスコーン差し上げてもいいかしら」

「どうぞ」 

 燕と律子の関係といえば、師弟関係というよりも兄妹か親子のようだ。子供のような律子を、燕が苦笑するように見つめている。

「お近づきの印に。また家に帰って開いてみて」

 彼女が桜に押し付けてきたのは、丸めた画用紙。

 がさりとした感触が、桜の奥にある記憶を揺さぶる……が、それは様々な記憶に巻き込まれ結局思い出されることはなかった。

「それとスコーンね。お腹が空くと寂しいもの。これには紅茶よ、絶対に。忘れないでね」

 もう一つは、アルミホイルに不格好に包まれた温かい塊だ。夏生と桜それぞれに渡して満足そうに律子は笑う。

「この家は防音がしっかりしているから、いつでも練習をしにいらっしゃいね」

 立ち去る桜と夏生に手をふる律子と、呆れ顔の燕。不思議な二人に背を向けて桜は階段を降りる。

「変わっ……面白い人だったね、夏生」

「絵描きって変わってるやつ多いんだよ、燕のやつだって、変だろ」

 すっかりいつもの調子を取り戻した夏生が、口を尖らせる。

 薄暗い階段を降りると、その先はきれいな夕日に染まっていた。



 桜は母子家庭である。

 正確には、父とは死別だ。

 かつて両親は、祖父母の反対を押しのけて結婚した。 

 記憶にある限り、祖母は母にも桜にも冷たかった。それは父が若い頃から病気がちだったせいもある。体がどんどんと動かなくなる病気。だから高校も中退した。

 指が動く間は、音楽教室に通って腕を磨いていたようだ。絵の教室にも通うなど芸術全般が得意だった人である。

 父との思い出は、いつも病院の香りと共に浮かんでくる。

 病院のレクリエーションルームに置かれたピアノを一緒に弾いた記憶、病院を抜け出して楽器店でピアノを弾いた記憶。

 どんどんと細くなる腕がピアノを力強く弾くのが不思議だった。……そして彼はとうとう桜が5歳のときに逝った。

 父の死後、一人で桜を育てると決意した母は、救急病院の医者で朝から晩まで忙しい。

 一晩、二晩居ないことは当たり前。小さな頃、桜は夏生の家で育ったようなものだ。みゆきと店長はもうひとりの両親とも言える存在である。

 小学生も半ばが過ぎた頃、桜は母の転勤によって遠い九州に引っ越すことになった。

 知り合いも誰もいないその土地で、桜は母と久しぶりに二人で過ごした。東京のマンションよりは広く、薄暗い一軒家。

 母の転勤先は休みの取りやすい病院だったため、これまでの孤独を取り返すように二人は寄り添って生活をした。

 夏には蝉、秋にはコオロギ、冬には雪の音が響くその家で桜はピアノを弾いて3年を過ごした。

 東京より緑や花の色が濃く、雨の音は東京よりもしんみりと聞こえた。だからピアノの音も、少し優しく響いて聞こえた。

 電話越しに夏生と音を合わせ、疲れて眠る母に聞かせるため夜通し弾いたこともある。

(あのときは……少しは楽しく弾けてたのにな)

 桜はぼんやりと考えながら家路へ急ぐ。

 夏生と競い合うように弾いていた小学生時代。

 田舎の音とセッションした中学生時代。

 東京に戻り、憧れの音楽高校に入学したこの春。

 今は多くの音に溢れた毎日を過ごしている。

 歌は平気だ、ヴァイオリンだって大丈夫……しかしピアノだけが駄目なのだ。

 弾けなくなった理由は桜自身、わかっている。


(あの、発表会)


 ……高校入学が決まってすぐ、通っている教室で行われた発表会。

(……そこで)

 桜の背に冷たいものが流れる。思い出したのは、その時の風景だ。

 広いステージ、注ぐライト。桜はたった一人で、そんな眩しいステージの上にいた。

(……弾けなくて)

 外は大雨だった。雷も鳴っていた。雷が鳴るたび、会場の電気がちかちかと光を放った。

 桜は雷が苦手だ。小さな頃から苦手だった。

 記憶も曖昧な小さなころ、雨のひどい夜に祖母が亡くなった。

 幼稚園の時、雷雨のクリスマスに父が逝った。

 よりにもよって、そんな雷雨が発表会に姿を見せた。

 桜はその中で一人きり、孤独な舞台の上にいた。雨は嫌いだ。雷も嫌いだ。

 それでも弾こうと一音を叩いたその瞬間、唐突に激しい音が響き渡った。

 会場の近くに雷が落ちたのだ。目前が白に染まった。誰かが悲鳴をあげた。電灯が音を立てて消え、会場は真っ暗になった。

 雨が会場の天井を叩きつけた後、不思議な静寂が一瞬だけ会場を包み込んだ。

 客席のざわめき、子供をかばう親の声。

 頭に浮かんだのは、祖母の葬式の冷たい空気。

 父の病室、二度と動かない白い腕。

 桜の震えた指が真っ白な鍵盤をたたき、それはまるで悲鳴のように会場に響き渡った。


 その時から、桜は人前でうまくピアノが弾けない。弾こうとすれば、頭の中に雷雨の音が蘇って、音の邪魔をする。


 ……そして桜はそれを笑って見過ごしてきた。

 笑うたびに背中がぞっと震えたが、笑って焦りに蓋をした。

 一日ごとに弾き方を忘れている、そんな気がする。

 最近では、音楽高校に入ったことさえ後悔しつつある。楽しそうに弾く夏生をみると、余計に情けなくなる。

(今更……仕方ないけど)

 夕日の断片が残る四つ辻。そこに足を止めていた桜は小さく息を吐き、顔をぐっと上げる。

 カーブミラーに、緑色の制服の自分が写っている。

 ずっとずっと憧れていた、緑の制服。音楽高校の……制服だ。

「帰ろ……」

 夕日はすっかりと濃くなって、夜が訪れようとしていた。しかし遠くの空に黒い雲がとぐろを巻いているのが見える。それは雨を呼ぶ厚くて黒い雲である。雨の香りが鼻先に届いた気がする。

 季節はちょうど、5月に入ったばかり。

 今年もまた雨の季節がくる。と、桜は小さく震えた。



「ただいま」


 桜の家は、カルテットキッチンから徒歩10分。

 狭いマンションだが、ピアノが置けるところが決め手となった。

 重い玄関を開けると部屋は薄暗い。

「……お母さん?」

 手元のスマートフォンを触りながら、桜は中に向かって声をかける。

 1時間ほど前、母から「母帰還、食事は適当によろしく」の短いメッセージが入っている。

「お母さん、いる?」

「さくらぁ」

 二度声をかけると、部屋の奥から情けない声が響く。

 覗き込めば、薄暗い部屋の中で白い腕だけがひょろひょろと揺れていた。

 桜は大急ぎでキッチンの隅にある小さな仏壇に手を合わせる……戒名と、小さな横顔の写真。それが桜の父だ。

 写真嫌いだった父は、まともな写真を一枚も残していない。桜の記憶にある父の顔も、光がまとったように、薄ぼんやりとしか浮かんでこない。

(お父さん、ただいま)

 口にすれば母がいつも悲しい顔をするので、桜は心のなかで挨拶を済ませる。黒い仏壇にホコリが積もっているのをみて、桜は眉を寄せる。

(今度ちゃんと掃除するからね、お父さん)

 母はけして仏壇に向かおうとしない。酔ったときに、冗談のように仏壇に手をあげてみせるだけだ。

 10年たっても、まだ母はその事実を受け入れていない。

 思えば、父が亡くなってから、ますます母は医者の道にのめり込んだ。

 悲しみを共有させて貰えない桜は、いつも父と母の間の薄暗いところに立っている。

「お母さん、ちゃんと寝なよ」

「……ねーえ……雨が降りそうか……おしえて」

 母は崩れるような格好で、ダイニングのソファーに寝転がっている。白衣も脱がないまま。顔には疲れが浮かんでいる。最近は忙しいらしく、家に帰ってきたのは3日ぶりだ。

 桜は荷物をおいて呆れ顔で母の白い顔を見る。

 九州から東京に戻ってきて以来、ずっとこうだ。

 救急病院に移った母は、以前よりも忙しい。帰ってきてもほとんどゾンビのようなもの。

「桜ぁ……天気……」

「わかんないよ。天気予報みたら。寝るんだったら化粧落としてからね。ご飯は? 食べた?」

「ん……」

「もう」

 桜は仕方なく母親を引っ張り起こして、化粧落としシートで彼女の顔をこする。

「……あんた、雨が降る時、誰よりも早くにわかるじゃない」

 白い化粧が剥げて見えてきたのは、見慣れた母の顔。目の下にクマがある。

 それを見るたびに、桜は何も言えなくなってしまう。ピアノのこと、日常のこと。いつも喉の奥にきゅっと飲み込む羽目になる。

「空気の音が違うって……前よく、雨の予報……当ててたじゃない……」

 半分眠っているのか、母親の声のトーンは落ち気味だ。

「雨が……降ると……患者さん、増えるから……」

 桜の鼻の奥がつん、と冷えた。しかし桜はその感情を押し込める。

 亡くなった祖母はいつも言っていた。お母さんに、迷惑をかけないように。お母さんは人の命を救う、大事なお仕事をしているのだから……。

(わかってるよ、おばあちゃん)

 気を抜くと湧いて出る祖母の声を桜はぐっと抑え込む。

(だから、いい子でいるじゃない)

「早く寝ないと、睡眠時間……減って……」

「じゃあ早く寝なって」

「桜ぁ」

 母の細い腕が宙でもがいている。不眠不休で働く母は、いつもこうだ。

「ピアノ……弾い……て」

 その指が桜の部屋を指す。

「メヌエット……がいい……な」

「ピアノ……は」

「桜、メヌエット、得意だったじゃない……ダンスの……似合う……」

 桜の頭の中で緩やかに音が鳴り響く。それは三拍子のメヌエットだ。優雅なダンスがよく似合う……春にぴったりの曲。

 踊るように弾くと、目の前にダンスの風景が浮かぶ。桜の弾くメヌエットに合わせて、母が白衣をはためかせて踊ったこともある。

 しかしそれも、昨年までの話。

「お母さん、私ね……もう……ピアノは」

 すう。と寝息の音が返ってきたのはその直後。

 仕方なく、桜はタオルケットを母の体にかけ電気を落とした。

「……貰い物のスコーン、置いておくからあとで食べてね」

 アルミホイルに包まれたスコーンを一つ机に置いて、桜は自室の扉をしめる。

 部屋には大きなピアノが一台、桜を迎える。しかしそれに触れる元気もなく、桜はピアノに背を向けてスコーンをかじった。

「あ……美味しい」

 暗い中でもわかるほど、それは真っ白だ。円柱のスコーンではなく、三角で大きくどっしりとしたスコーン。

 割るとぽこり、と音をたててきれいな真っ二つとなる。

 食べるとほろほろポロポロと崩れていくが、噛みしめると、しみじみ甘い味が広がる。

 驚くほどに、素朴な味だ。

 しっとりとしていて、口当たりはふんわりとしている。どんなレシピで作っているんだろう。と桜は不思議に思う。

 昔、桜がチャレンジしたスコーンはボロボロでクッキーのように硬い仕上がりになった。

 何度作ってもうまくできないので、どうせお菓子作りなんてむいてないんだ。と、さっさと諦めてしまった。

(……燕さんは何でも作れるんだなあ)

 燕の端正な顔を思い浮かべ、桜は考える。おしゃれなポタージュから、サンドイッチ。そしてスコーンまで、彼はまるで魔法みたいになんでも作る。

 無機質な態度なのに、食事を作らせると燕は抜群にうまいのだ。

 最初はそれが気になった。桜は料理が下手だ。どうしたってうまく作れない。疲れた母に何かを作ってあげようと……時々は思うのだ。

(燕さんに……教えて貰ったらうまくできるかな。だめかな、だって緊張するし)

 桜は母を起こさないよう気をつけて冷蔵庫に向かうと、冷えたペットボトルの紅茶を取り出す。蓋を開け……少し考えて、ちゃんとカップに注ぐ。

「紅茶、ちゃんと淹れたらもっと美味しいんだろうな」

 と、と、と……と、音をたててペットボトルから注がれる音に情緒はないが、甘い香りがちょっとだけ心を癒やす。

 桜は急いで部屋に戻ると、机に白いハンカチを置く、その上に白いお皿と白いカップ。

 夕日の穏やかな色が、紅茶の色を綺麗に伸ばした。ここだけが、まるでお姫様の食卓のようだった。

 桜はいつもより静かに、椅子へ腰をおろした。

 律子の言葉を思い出したのである。桜にアフタヌーンティーの経験はない。しかし律子には経験があるのだろうし、そういう場がよく似合う女性だろう。とも思う。

(……紅茶持ってきてよかった)

 紅茶で少しだけ湿った口の中、スコーンをかじると先程よりもっと柔らかい味わいに変わった。ただスコーンを齧るだけでは駄目で、やはりこれは紅茶と一緒に食べるべき物だ。

(美味しいな)

 しっとりとした生地は、ミルクとバターの味がする。それに、紅茶の香りが混じり合って優しい気持ちになれるのだ。少しだけやさぐれていた心が、夕日みたいな紅茶の色に溶けていく。

(……食べさせたい人がいるって、燕さん言ってたな)

 燕の言葉を、桜は不意に思い出した。

(あの……律子さんって人かな)

 ふわふわのスコーンと甘い紅茶を口にしながら、桜は考える。

 二人の関係は、考えてもやはりよくわからなかった。

(……うん、やっぱりかっこいいな) 

 桜はそっとスマートフォンの写真フォルダーをタップする。 

 ……画面に広がったのは、燕の横顔。キッチンに立つ姿を、気づかれないように撮った。

 母に見せて自慢しようと思ったのに、最近の母は連日この調子で長く話もできていない。

(友だちに見せたらきっとお店に押しかけてきちゃうから内緒)

 桜は明るい画面をじっと見つめる。

 何度見ても整った顔だった。愛想はよくないし、目つきも悪い。しかし不思議と柔らかい雰囲気を持っている。

 燕への気持ちは恋などではない。そもそも桜は恋愛がよくわからない。 

ただ、燕は顔が綺麗すぎるのだ。近くにいると不思議と気持ちが浮ついて、ちょっと幸せな気持ちになれる。

 アイドルを追いかけるクラスメートの気持ちと多分、同じだ。だからプライベートを見てしまったことに少しの罪悪感と……ショックがあった。

「あ。そうだ」

 律子から渡されたもう一つのプレゼントを思い出し、桜はそれをほどく。

「……ピアノ!」

 大きな画用紙に描かれたそれは、黒と白の真っ直ぐな線。クレヨンか色鉛筆か、てらてら光る色で、塗られている。

 シンプルな線なのに、それはピアノだ。と桜はすぐに分かる。奥に引っ込んだ一瞬で、彼女が描いたのだろう。絵のことは詳しくないが、まるで音が聞こえてきそうな、そんな絵だった。

「すごいなあ……」

 似ない師弟だが、あの二人は似ているところがある。

 ……人を喜ばせる、という点だ。

「これなら弾けるのに」

 桜はそっと、紙に描かれたピアノに指を置く。

 とん、とん、とん。とゆっくり響く指の音。聞こえないはずのメヌエットの旋律が桜の中にゆっくりと広がった。

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