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闇色の黒ごまポタージュ

 『音楽』を描くとするなら、一体どんな色が似合うのだろう。


 音楽は耳で聞くものだ。それを絵になど、できるはずもない。

 燕がそんなことを考えたのは、目前の建物から音楽が漏れ聞こえてきたせいだ。

 それは、叩きつけるように激しいピアノの音。

 高音が跳ね、その音に次々とメロディが重なっていく。

(……色を重ねるみたいだ)

 燕は色を重ねるイメージを思い浮かべ、そう考えた。

 目の前にあるのは木の扉。横にかけられた細長い看板には『カルテットキッチン』の文字が刻まれた銀のプレート。

 さらにその下には『音楽喫茶』のレトロな文字が古びて鼠色に光っていた。

 看板と扉の隙間から、音楽は今も漏れ続けている。

 燕は普段、あまり音楽を聴かない。コンサートに行ったこともない。だからタイトルなど、分かるはずもない。

 そんな燕が聞いてもわかるほど、今聞こえてくるピアノは上手だった。

 激しく音の重なるその曲は、夜の黒さを感じさせる旋律だ。

 この音を拾い上げて一枚の絵にすることのできる人間を、燕は世界で一人だけ知っている。


(この音に……色を付けるなら……)


 扉を肩で押して、燕は目を閉じる。

 

(この音は……上品な……黒色かな)


 扉をくぐると、ピアノの音がますます大きく聞こえた。

 店のちょうど中央に作られた、小さなステージ。

 そこに置かれたピアノから音が溢れてくる。

 しかし、燕が店に足を踏み入れた瞬間、ピアノの前に座っていた桜が小さな悲鳴を噛み殺して指を止めた。

 先程まで響いていた音は、あっという間に離散する。

「あっ……燕さん。お……おつかれさまです!」

 ピアノの前に座っていたのは、長い髪を一つ結びにした少女……ここ、カルテットキッチンのバイトでもある、桜だ。

 彼女はこの近くにある音楽高校、その制服を身につけている。

 白いブラウスに緑と赤のタータンチェックのスカート。

 冬になればこれに翡翠色のジャケットが加わる。なぜ燕がこれほど高校生の制服に詳しいかといえば、同居人がこの制服の色を気に入り、話題にしたことがあったからだ。

「邪魔した?」

「とんでもないです! ち、ちょうど……きゅう……休憩しよう……って思ってて……」

 桜は起き上がりこぼしのように激しく頭を下げ、挙動不審になりながら席を立つ。

「気にしないでください!」

 動揺したのか、指先が鍵盤に触れて名残のような音をたてた。

 ち、ち、ち、とメトロノームの音だけが虚しく響いている。それを色に例えるとするなら、青だ。

(海の音に……似てるな)

 昔見た、海の色を思い出しながら燕は思う。

 寄せては返す海の音が、メトロノームの単調な音と重なる。

 ……これは、海の青だ。

 引き寄せられるようにピアノの横に立つ。ピアノは、古いが立派なもので、光沢のある黒色が美しい。

「俺は楽器なんて演奏できないから」

 白い鍵盤をそっと撫でて、燕は桜を見る。女子高生、という存在は燕にとって異質すぎて、何を喋ればいいのか見当もつかない。

 間を持て余し、燕は鍵盤をそっと押す。思ったより、軽い音が響いた。

「弾けるの、すごいな」

 二人の間にメトロノームの青い響きだけが広がる。それを打ち破ったのは、桜の裏返るような声である。

「あ、の……えっと、ちょっと、二階……いきますね」

 燕の脇をすり抜けて、桜は階段を駆け上がっていく。その背中を見つめて、燕はため息をついた。

 バイトに入って2週間目、桜と顔を合わせたのはもう10回以上。

 いまだ、彼女の緊張は解けない。


「……なあ、今日、店、休みだけど」


 桜が店の奥にある階段を駆け上がってすぐ、入れ替わりで声をかけてきたのは夏生である。

 桜と同じ緑と赤のタータンチェックのズボンを履いた彼は、ここカルテットキッチンのオーナー夫婦の一人息子。桜とは幼なじみ。

 そして、燕を嫌っている。

 燕の知っている情報は、それだけである。

「母さんは定期検診で、父さんは付き添いで店は休み。連絡いってない?」

 燕と目があった瞬間、少しだけ夏生の顔がゆがむのだ。

 それは燕のことが嫌いだからだろう。バイトの面接を受けた日から、燕はこの夏生に嫌われていた。

 しかし同性から嫌われることに慣れている燕にとって、夏生の態度はさほど珍しいものではない。

「ああ、スマホ、家に忘れてきたから」

 燕はカウンターに置かれた小さなメモに目を走らせた。

 ……レッスン前の二人のおやつ、お願いします。 

 と、みゆきの大きな文字がそこにある。

 まもなく臨月という彼女は、妊婦と思えないほどに元気がいい。

 燕がこのカルテットキッチンの採用電話を受けたのは、面接を受けて1時間後のことだった。

 それからは週に3日程度キッチンに立ち、そろそろ広いキッチンには慣れてきたころ。

 ここ、カルテットキッチンはコーヒーを入れるのが得意な店長と、元気のいいみゆき。そんな夫婦の人柄が人気のようで、なかなかに客が多い。

 さらにオーナー夫婦が音楽好きということで、店のBGMにもこだわりがある。まるでアンティークのようなレコードに、古いCD、合わせれば何百枚にもなるだろう。

 壁の棚には「音がいい」という理由だけでアナログなラジオが置かれ、店内中央にはステージとピアノを設置。

 定期的にアーティストを招いてのミニコンサートなども開かれているようで、音楽愛好家の客も多い。

 燕が入って客が減るかと思いきや、特に大きな騒ぎにはなっていない。

 却って若い女の子のお客さんが増えた……とみゆきが喜んで言うが、その前からこの店には常連客が多いのである。

「そういや、子供、いつ生まれるんだっけ?」

「しらねえ」

 つん。と夏生は顔を逸らし、乱雑に椅子に腰を落とすとピアノを弾きはじめた。彼の音は、はっきりと分かるほど燕への「拒絶」だ。

 人とのコミュニケーションが苦手な燕にとっては、面倒なことこの上ない。

 諦めてキッチンに入ろうとした燕は、壁に貼られた一枚の写真の前で足を止めた。

 少し黄色がかったその写真には、4人の高校生が写っている。

 写真は演奏後の写真だろう。それぞれカメラに向かって笑いかけているが、一人の男だけ楽譜で顔を隠した横顔で、その表情はよく分からない。

(高校生……か)

 何日か働くうちに燕にもおぼろげにこの店における人間関係が見えてきた。

 写真に映るこの4人が出会ったのは高校の吹奏楽部。部と反りが合わなかった4人は揃って退部し、彼らは学校非公認の吹奏楽同好会を立ち上げた。

 ……それが、みゆき夫婦に桜の母、そして桜の父である。

 彼らの活動は、音楽室に忍び込んでの演奏会。そして文化祭でのゲリラ公演。

 公認の吹奏楽部よりずっとずっと上手だった、とみゆきは自慢げに語っていた。

 彼らは音大、医大とそれぞれの道に進んだが「音楽」という共通の趣味だけは手放さなかった。

 やがてみゆきと店長、桜の両親が結ばれ、数ヶ月違いで子供が誕生。

 ……しかし数年後に桜の父が逝去し、このカルテットは永遠に終結してしまう。

(若いのにな……)

 燕は写真の男をじっと見つめた。色が白い。腕も病的に細かった。

 病気がちだったという彼は……桜の父は、高校を中退し何度も入退院を繰り返していたという。

 もともと体の強い男ではなかったのだ。

「これ、おもちゃのピアノ?」

 4人の姿を映した写真の下には、小さなピアノが鎮座していた。

 それは木でできた小さなピアノのおもちゃだ。鍵盤に触れると、こん、と軽い音がする。

 古いおもちゃだが、塗られているのは鮮やかな色彩だ。まるでパレードのような様々な色彩がピアノ全体を包み込んでいる。

 大きな筆で塗りたくったようなその色を、燕はどこかで見たことがある気がした。

「……さわんな」

 しかしその音を聞きつけた夏生がピアノと燕の間に割って入った。

「それ、桜のだから」

 夏生の背は燕からすれば頭一個分以上低く、肩も華奢すぎる。しかし、その指は驚くほど大きいのだ。

それは楽器を奏でる指である。細いくせに力強い。

 彼はその手でピアノを抱きかかえ、カウンターの上に置く。 

「……あと……あ……あんまり、桜に……なれなれしくするな」

「夏生、お店の看板、クローズにしておくね。あと、お母さんから連絡があって、今日家に帰ってくるみたいだから、私もう帰るけど……」

 蚊の泣くような小さな声と、階段を下ってくる音が同時に響く。

 夏生は反射的に唇を手で押さえ、目を白黒させる。やはり、幼い。と、燕は心の中で笑った。

 他人の感情に疎い燕でもわかる。高校生の、淡く甘酸っぱい感情だ。

 燕はあまり深入りしすぎないように、少し離れたところから二人をみることにしていた。

 ……このような高校時代を送ったことのない燕にとって、緑の制服をまとう二人の高校生は、遠い世界の住人のようだった。

「夏生?」

 しかも桜は何一つ気が付いていない。彼女は続いて燕を見上げてまぶしそうに目を細める。

「あ、の……燕さん、さっきはすみませんでした……驚いちゃって失礼な態度を……」

 桜は遠慮がちに、燕を見上げて言う。頬が少し上気していた。名前の通り、綺麗な桜色だ。

 桜は色の白いおとなしい女子高生だった。話をするときも、どこか自信なさげに口を開く。


 ……そして彼女は今、ピアノが弾けない。


 正確には「人の前では弾けない」だ。彼女が弾けるのは、夏生の前か一人きりの時だけ。そうみゆきから打ち明けられたのはバイト初日のことだった。

 彼女は常連客の前でピアノを披露しようとしては弾けずに終わる、その繰り返し。そのつど彼女の顔色は悪くなり、自信が失われていく。

 良くない兆候だ。と燕は思う。

 なぜわかるのか……それは過去、燕も似た経験をしたからだ。

 燕も、昔、一時期だけ絵を描くことができなくなった。

 今でこそ絵を取り戻したものの、それでも恐怖は今でも身に染み着いているし、夜中にうなされることもある。

 桜の抱いている恐怖はきっと、燕のそれによく似ている。

 だというのに、桜はその傷を愛想笑いで隠している……そんな気がする。

「なんだ。ピアノここに移動したの、夏生」

 燕の視線の先、おもちゃのピアノを見つけて桜は苦笑した。

 その小さな指がおもちゃの鍵盤を叩けばなめらかな音が響く。

 お気に入り、といっていた夏生の言葉は本当なのだろう。

「ずっと小さな時から家にあったんです。お父さんの宝物で……」

 少しだけ切ない顔をして、桜がつぶやいた。

「でも私が我儘言って、もらったんです。クリスマスプレゼントに……」

「桜、俺のピアノの練習付き合うって言ったろ」

 夏生が苛立つようにピアノをかき鳴らす。桜が文句を言いながらエプロンを夏生に投げつける。こんな風にじゃれているときは、普通の女子高生に見えた。

「じゃあ、その間に軽い食事を作っておくから」

「別に、ラーメンでもなんでも食べるから放っておいてよ」

「みゆきさんからの命令」

 みゆきの残したメモ帳を見せびらかして、燕は言う。みゆきの名を出せば、夏生は悔しそうに口を閉じる。そのあたりは、やはりまだまだ子供なのだ。

(夕食までの数時間、もたせるだけの軽い食事か……)

 冷蔵庫を開ければ、そこにはいくつかの食材が用意されている。メニューが豊富だとみゆきが自慢したとおり、この店のメニューは多く、食材も多い。

 そのせいで、常に料理をし続けなければならない。今もまた、数個の瓶に『開封済み。早く使うこと』『優先!』などと書かれた付箋が揺れている。

(この家も食材が豊富だな……)

 と、燕はあきれたように瓶を手にとって眺めた。

「あ……の、なにか手伝いましょうか?」

「桜、練習! 弾くから時間、みてて!」

 燕の手元をのぞき込む桜を、夏生がせかす。苛立つように旋律が流れ始めた。

 それを聞いて、桜は困ったように燕を見て少しだけ笑った。

「ごめんなさい、やっぱり行かなきゃ……」

 桜は音に耳を傾けて、目を閉じる。

 それは、さきほど桜が弾いていた音と同じだ。高音がはね、音が終わる前にメロディが追いかける。

 しかし同じ曲でも、夏生が弾くのでは雰囲気が異なる。

 夏生の方が、ピアノの弾き方はやや荒削りだ。

「ラ・カンパネルラ、っていうんです」

 そして桜は頭を下げて、夏生の元へ駆けていく。その音はやはり夜の闇がよく似合う、そんな音である。



「できたから、手が空いたほうから食べて」

 燕がカウンターにスープカップをおいたのは、それからしばらく後のこと。

 夏生は何回か曲を奏で、桜はストップウォッチを持ち、夏生に指示を出していた。穏やかな風景で、まるで一枚の絵のようにも見える。

「……あったかいうちに」

 窓の外は、ゆっくりと夕日の色が広がりつつあった。窓の隙間から、春に似合わない冷たい風が滑り込む。

 最近は、日が長くなった。春も本格的に終わろうとしている。

 しかし、それでも夕刻からは少し冷えることもある。春特有の、寂しい寒さである。

「ありがとうございます!」

 桜が飛び跳ねるように、キッチンに駆け込んでくる。

 夏生はポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりステージを降りた。

「……わ。すごい、真っ黒!」

「黒ごまのポタージュだけど、ゴマは平気だった?」

 スープカップをのぞき込んだ桜がぱっと顔を輝かせる。

 燕が彼女らの前に出したのは、黒ごまペーストを使ったポタージュスープだ。

 できるだけ細かく刻んだタマネギをバターで炒め、『早く使うこと』付箋のはられていた黒ごまペーストをたっぷりとその中へ。

 さらに賞味期限の迫っていた豆乳でのばし、みゆき特製のコンソメスープで味を調えれば完成だ。

 少しだけ味見をした、その時のねっとりとした甘さがまだ口の中に残っているようだった。とろりとしたごまの風味と、豆乳の甘さ。強めのコンソメが、よく似合う。

 どろりと黒くて重いそこに、金ゴマを少々。そしてよく焼いたトーストを添えた。

 まるで、春の夜空だ。先ほど夏生が弾いていた曲の意味は分からないが、この色にぴったりだ、と燕は思う。

 夏生の弾くその曲は、桜の時よりもう少し賑やかな夜のイメージ。漆黒ではなく、青の混じったグレー……街の灯りが映り込んだ、空の色。

 燕は無意識に、そんなことを考える。

「あ……燕さん、美味しいです! 夏生も、ほら!」

 一口すすって、桜が幸せそうに目を細める。

 ふてくされ、顔を背けていた夏生はせっつかれて渋々といった体でスープをすする。

 夏生が二口目三口目を無言で食べ始めたのは、美味しい。の証拠である。

 どろりとしたスープに、カリカリのトースト。トーストは、ポタージュの熱気にも負けないほどしっかり焼いたので、音が心地よく響く。

 食欲旺盛な二人を見て、燕はもう一人の食欲旺盛な人を思い出す。

 気づけば夕刻。燕の同居人はさぞかし、腹を空かせているに違いない。

「……じゃあ、俺はもう帰るから。店長によろしく」

 まるで見えない手にせっつかれるように、燕は急いで店をあとにした。



 散りかけている桜の香りが、燕の鼻をくすぐった。

 顔を上げれば、側道に桜の木が植えられている。4月の終わりとなれば、花ももうほとんど散っている。色を失った桜の花がはらりと舞って曇り空に流れていく。

 今年は、妙に曇り空や雨の多い、灰色の春だ。

 残る花に見向きもせず、燕はまっすぐ公園を横切ってその先にある建物を見上げる。

 カルテットキッチンから徒歩10分と少々。

 閑静な住宅街の道沿い、そこに三階建ての小さなビルがある。一階はシャッターがおろされ、家の横にある階段を上がれば二階に赤錆の出た玄関が立ちふさがる。

 壁にはツタが絡まり、階段の電気はもう何年も点いていない。

 コンクリートの壁は灰色で、春の重苦しい空気の中で静かに鎮座しているように見える。

 しかし玄関を開けると極彩色の風景が広がっている……そのことを、燕だけは知っている。


「ただいま戻りました」


 慣れた風に階段を駆け上がり、燕は玄関の扉に手をかける。むっと湿気った空気の中に絵の具独特の香りが広がった。

「燕くん!」

 燕の声に、部屋から派手な音が聞こえる。

 大きなイーゼルを倒したような、そんな音。

 派手な音をたてた主は、散らかった床を器用に飛び越えて玄関に駆けてくる。

 ……玄関の向こうに広がるのは、ダイニング、そしてキッチン。

 そこは足の踏み場もないほどに絵の具や筆が転がっている。その中で燕を待ち受けていたのは、一人の女性。

 彼女の指先は、絵の具で極彩色に彩られている。

「おかえりなさい、燕くん」

「はい。戻りました、律子さん」

 その人は、竹林律子。40年も前、日本の画壇を騒がせた女性画家である。

 今は半分引退したような形で、この巣のような家にこもっている……いや、絵を描いている。

 この女性と燕が出会ったのは、3年ほど前のことだ。

 燕は3年前の夏の終わり、絶望の淵にいた。

 生きがいだった絵に絶望し、絵を恐れ、絵を捨てたのである。

 彼はただ流されるまま、見知らぬ女達の家を渡り歩き、ホームレスとヒモの間のような生活をしていた。

 そんな時、燕は夕暮れの公園で偶然、律子に拾われた。そして、彼女の手で燕は現実に引きずり出された。

 彼女の手によって、燕は息の仕方を思い出し、絵を……そして色を、取り戻した。

 そして、救われた燕はそのままずるずると、彼女の家に居候を続けている。

「お腹空いたわ……さっきまでは平気だったのに、燕くんの顔をみたら急にお腹が空いたの」

 律子は大きな音をたてる腹を押さえて情けなくつぶやく。

 天才と騒がれた彼女は、絵にすべての能力を持って行かれたような人である。

 食事が作れない、掃除ができない、買い物一つ、まともにできない。生活能力が著しく欠如している。

 40歳近く年上の、この女性の生活を面倒見ることを引き替えに、燕はこの家に暮らしている。

 彼女が燕のことをどう考えているのかは今もわからない。ただ二人は淡々と色彩の中で暮らしている。 

 だから燕が作る料理も自然と、色彩が賑やかなこととなる。 

 そうでなければ彼女は食事に口も付けない。

「夕食までにつまめるもの、すぐ用意します」

 燕はエプロンをつけるとすぐにキッチンに向かった。外の夕日の色は先ほどより濃くなっている。

「そういえば燕くん、今日はバイトじゃなかったの?」

「店長が病院で休みだったので、バイトの子達に食事を作って帰ってきただけです。律子さん、部屋を動き回るならメガネを取ったらどうです。転けたら大事になりますよ」

 後ろをついて回る律子をみて、燕は目を細める。

 彼女の顔には、まるで宝石を切り出したように美しいリーディンググラスがかけられていた。それは彼女が執筆などの仕事をする際にかけるもの。

 その嫌味な輝きから燕は目をそらす。

「ああこれね。ちょっと書類仕事で……そうそう。それより燕くん、バイトは慣れてきた?」

 冷蔵庫には、牛乳、牛肉、卵。この家も大概、飽食だ。食材はあきれるほどにある。

「お店にかわいい女の子でもいた?」

「興味ないです」

「無愛想ねえ。ニコニコしてたら、もてそうなのに……」

「僕も、好きな人には愛想良くしてますよ」

「そうかしら?」

 もったいない。と言って律子は笑う。燕の不用意な一言にも、彼女は気づかない。気づかない振りをしているのか、それとも本当に気づかないのか。

(……もう慣れた)

 と、燕は律子の笑顔をさらりと流す。

 律子の言動にいちいち反応していると、体がいくつあっても足りないのだ。

 ……燕は……自分でも信じられないことだが……この年上の天才を、密かに想っている。

 それが愛なのか、恋なのか、思慕なのか、ただ懐いているだけなのか。いまだに分からないが。

 ただ、愛でないとしてもこの気持ちは執着だ。妄執ともいえる。ただ、律子に食べさせるものを考えている間だけ、燕は心穏やかでいられるのだ。

(簡単な食事……夕飯の邪魔にならない……)

 冷凍庫を開ければ、数日前に冷凍しておいたスコーンが見えた。

 店では黒を、家では白を……というわけでもないが、燕はそれをオーブンに放り込む。そして紅茶、クリーム、色とりどりのジャム。

「まあ。アフタヌーンティーね。知ってる? イギリスのアフタヌーンティーは、今くらいの時間に食べるの」 

 律子が嬉しそうに飛び上がる。

「紅茶を淹れるティーセットは特別なものを用意しましょうね。黒アゲハの模様が入った、黒いポットはどうかしら。若葉色のティーポットでもいいわね。ねえ燕くん、どれが良いと思う?」

 台所の棚の下、大量に詰まった食器の箱が溢れている。

「律子さん、むやみに手を突っ込むと怪我をしますよ」

 キッチンが使えないので、燕はコンロの火にヤカンをかけて椅子に腰を下ろす。

 律子が食器選びに夢中になると、時間がかかるのだ。

「食器も、整理しないといけないですね」

 椅子に座ったまま、燕はぼんやりと部屋を見渡す……二人で暮らすには、広すぎる家だった。

 かつてここは……律子のビルは……大勢の教え子に囲まれたアトリエであった。しかしそれももう20年以上前のことだ。

律子はこの家で、教え子に絵を教え、そして恩師でもある男と結婚をした。しかし、男はその後、自ら命を絶って律子だけをこの世に残して消え去った。

 そのショックから律子は画壇を去り、教え子は離散。

 その後、何十年も、律子はたった一人、このビルで喪に服してきた。

 かつて『律子の黄色』と呼ばれ絶賛された色を彼女自身で封印し、孤独な世界で律子は何十年も生きてきた。

(死別か……)

 燕はぼんやりと、ある男の面影を思い浮かべる。黄ばんだ写真に残された横顔の男。若くして、惜しまれて死んだ俊才。

 カルテットキッチンの話は折りに触れ律子に聞かせたが、桜の父のことだけは、律子に伝えられない。死という言葉が律子を刺激するのではないか、そのことが燕は恐ろしいのだ。

(……ばからしい)

 燕が重苦しい気持ちを振り払ったその時、急に机の上が軽く震えた。


『燕、元気してる?』

 

 朝、忘れていったスマートフォンだ。それが青く光り、小さく震えたのである。

 画面には、「田中」の文字とメールのマークが元気よく揺れている。


『俺の卒業祝いで一緒に飯食ってから、会ってなかったっけ? もう社会人ってさ時間の感覚ゼロ! 年取るってこういうことかーって実感してる!』


 スマートフォンが震えるたびに、文字がどんどんと積み重なっていく。燕が返事をしようがしまいがお構いなしだ。

 田中とは、この文字のように元気のいい男である。

 おかげで、重苦しい気持ちが少し、晴れていく。


『学生って良いよな、スーツ着なくていいし。それだけでも戻りたい感じ』


 返事をするかどうか、迷っている間にもメッセージは増え続ける。

 田中は、燕の数少ない友人の一人だ。友人というものをほとんど持ったことのない燕にとって、田中は別次元の人間である。

 まず、燕がどのような反応を示そうとくじけない。そのくせ、人に気を使うこともできる。

 なぜ自分にそこまで構ってくれるのか、燕は一度彼に聞いたことがある。彼は「周りにいないタイプだから、珍しくって面白い」と大笑いを返してきたものだ。

(相変わらず、元気そうだな)

 燕はデジタルの文字を眺めて、笑いをこらえる。文字だけで、彼の声が聞こえてくるようだった。

 彼は元々、同級生だ。しかし燕が3年前に休学、留年をしたことで彼との間は一年開き、田中は一足先に社会人になっている。

 希望していた美術誌の編集部に滑り込んだ田中は、社会人になっても持ち前の明るさで乗り切っているようだった。

 燕には到底真似のできないことだ。

 燕は人とふれあうことを極力避けて生きてきた。

 そんな燕がカルテットキッチンでバイトをはじめたことは奇跡といっていい。


『そういや、前もメールしたけど、やっぱ燕、絵画修復師って興味ない?』


 田中のメッセージがまた一通。


『たしかお前、絵画修復の授業取ってたよな? まあまあ面白いっていってただろ』


 燕は画面に現れた修復師。という三文字をじっと見つめる。

 昨年の暮れあたりにも、同じメールが届いた。その後、田中の卒業祝いで一緒に食事をしたとき、そのときにも同じことを言われた。

 田中の知り合いが運営する美術工房。そこでは古い絵画の修復を担っている。

 傷ついた絵を修復する仕事。と、田中は簡単に言った。ただ修復するだけではなく、過去の技法や当時の色彩、紙の素材にまで目を配って絵を復元させる仕事だ。

 偶然にも、燕は修復を学ぶ講義を取っていた。しかしそれは、修復師に興味があってのことではない。講義の時間が、ちょうどよかった。 

 そして、

(律子さんの手伝いをするために、取っただけ)

 と、燕は自分の粘着質さに呆れて小さくため息をつく。


『お前とくに、どこに行きたいとか、何したい、とかまだ決めてないんだろ? 相変わらず浮世離れしてるよなあ』


 田中の無邪気な言葉が、燕の心のどこかをえぐる。

今、この時期でさえ、燕は先の未来が見えていなかった。そして、今も。


『絵が描けるやついたら紹介してほしいって、せっつかれててさ。お前、何でも描けるし器用だしさ。まあ興味があったら連絡してよ』


 燕はぼんやりと、首を振る。燕は今、何者でもないのである。

 美大の4年生。だというのに、就活も……卒業制作にもなにも興味がもてない。動かなくてはならないのに、興味といえば食事を作ることだけ。

 しかし、そちらもプロになれるほどの腕前でもない。ただ、バイトなどをして目の前の現実から目をそらそうとしている。

 とんだモラトリアムだ。

「……」 

 燕は少し考え、スマートフォンに「ありがとう、もう少し考える」とだけ打ち込み、すぐに電源を切った。

「燕くん。ティーポットを出しておいたわ。悩んだけど、やっぱり黒いポットが素敵だと思うの」

 ふと、顔を上げれば部屋はすっかり薄暗くなっていた。

 オーブンからは、ゆるやかな湯気が上がっているのが見えた。

 焼けるバターの香りが春の温度に混じり合う。コンロに掛けた湯がシュンシュンと沸いて、キッチンは静かに熱を持ちつつある。

 火を止めて一呼吸。キッチンに向かう瞬間、燕はいつも心穏やかになるのだ。

 ……現実逃避であったとしても。


「あら。絵を直しているの?」


 ポットを選び終えた律子は、ふとダイニングの片隅を注視した。

「あ。律子さん、その絵は触らないでください」

 それに気づいた燕はヤカンを手にしたまま、慌てて止める。彼女はダイニングの奥に立て掛けた、一枚の絵を見つめているのである。

「それ、僕が塗り直しているところなんで」

 イーゼルに置かれているのは、美しい初夏の田園風景だ。

 風に揺れる緑の稲穂、地面の赤い焦げ茶に、空の青。かすかに遠くに雨雲がある。夏の音まで聞こえてきそうな絵。

 律子はかつて一世を風靡した女性絵師だ。過去には多くの作品を作り、その絵は愛好家たちが所持している。

 そんな作品の修復依頼が時折、舞い込む。

 この絵は随分大事にされていたのだろう。

 古い絵だが、汚れも劣化も少ない。律子の絵は希少だからこそ、大事にされる。宝物のように守られてきたこの絵を、燕は少し羨ましく思う。

「この絵も出てきたのね。懐かしいわ」

 律子はまるで我が子を見るような目で、見つめる。しかし、その下絵は律子よりずっと拙い。色も、どこか若々しい。

 正確にはこの絵は、律子だけの作品ではない。

「これ、誰かとの合作ですか?」

「教え子の絵なの。未完成だったのを、私が手を加えて……」

 キャンバスの裏にはS・Sという著名が残っている。しかし、それだけだ。描かれた時期はわからない。

 おそらく、描いた教え子というのは若かったのだろう。筆に勢いがあり、色彩も大胆だ。

 そこに律子が、手を加えた。そのせいで、若々しい色に洗練された色、両方が混じり合う不思議な絵となった。

 ただ、残念なことに絵の数カ所に色が落ちた場所がある。どこかにぶつかって擦れた、そんな傷。

 描いた本人が直すのが一番理想的だが、律子に任せると上に絵を重ねてどんどんと絵を変えてしまう。

 そこで燕に依頼がきたのだ……修復の。

「燕くんに任せておけば安心ね。だって、このアトリエ一番の弟子だもの」

 過去の絵にすっかり興味を失った顔で、律子は新しい紙に絵を描き始めた。

 その彼女のタッチを、色の作り方を、燕はじっと見つめる。

 律子の家に住み始めてもう3年が過ぎた。

 毎日律子の絵を見るおかげで、彼女の絵の修復は随分とうまくなった。色を似せることも得意になった。

(修復師か……)

 律子の絵を眺めながら燕は考える。それは考えたこともない道だった。

 美大に進んだのは、両親がそう望んだからだった。

(人の絵を……直す……)

 数年前の燕は親の勧めのまま、模写だけを続けてきた。ようやく自分の絵というものを取り戻したのは律子に出会ってからのこと。

 本格的に修復の道に進むと、また昔の自分に戻るのではないか、せっかく手に入れた自分の絵をまた失ってしまうのではないか……そう思うと、背筋がぞっとふるえた。


「燕くん、鳴ってる」

 

 その背に、熱いものが不意に触れた。

 それは、律子の手だ。彼女はいつでも体温が高い。

「ああ、スコーンが焼けたんですね。先に手を洗って来てください、今、用意を……」

 しかし律子は燕の背に手を当てたまま、耳を澄ますように首を傾けた。


「オーブンだけじゃないわ……燕くん、チャイムが」


 部屋の中、ゆっくりとチャイムが鳴り響く。

 それは間延びした、緩やかな音である。

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