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オーディエンスの卵焼きサンドイッチ

 音楽は好きだった。

 リズムに乗れば体が宙に浮く。白い鍵盤に指を置くと、それだけで体が音に満たされていく。

 指が音を生み、音が空中で重なって、踊るように旋律が生まれる。

 桜にとって、音楽は一番の薬だ。

 ……一番の薬だった、はずだ。


(……いち、に、さん)


 桜は心の中でつぶやき、目の前の真っ白な鍵盤に集中する。指を置く、音を頭に思い浮かべる。

 昔から暗譜は得意だ。リズムも音符も全部、頭の中にある。

「……桜」

 後ろから少し低い声が聞こえた。振り返れば、桜の後ろに背の低い男子が一人。

 桜と同じ、緑色の制服に身を包んだ彼は、ぴかぴかのヴァイオリンを肩に置きなおした。

「……夏生」

 雨が近づくと、彼のくせ毛はくるんと丸く跳ねる。それを嫌って、前髪を目にかかるほど長くしていることを、桜は知っている。

 彼はその邪魔な髪を乱暴にかきあげると、桜をみた。

 そして彼は右手で拳を作り、拳の先で桜の手をちょん、と突く。

「いけそうか」

「うん」

「……ならいいけどさ」

 吐き捨てるように彼は言い、静かに弦を構えた。


 彼の……夏生の持つヴァイオリンから、はらりと、音がこぼれた。

 はじけた。

 ……広がった。

 心地よく広がっていく管弦の音を吸い込んで、桜もピアノに向かい合う。

(いち、にい、さん)

 頭の中には音が溢れているのに、桜の指は動かない。目の前にある白い鍵盤がぐにゃりと歪んで見えて、桜は慌てて頭を振る。

(夏生の……ヴァイオリンに、付いていかなきゃ……早く)

 そう焦れば焦るほどに、音に置いていかれる。

(……早く)

 音が、音楽が……桜を置いて遠ざかっていく。頭の中が白くなり指先が震えた。


「桜ちゃん! 頑張れ!」

「あんた、邪魔しないの」


 椅子に腰掛けたおじいさんが声を上げると、隣の女性が困ったように肘でおじいさんをつつく。

 恐る恐る振り返れば、そこに見えたのは、喫茶店の風景だ。

 広めの店内に丸いテーブル席が四つ、L字のカウンターテーブルの向こうにはキッチン。

 壁は、無機質な木の模様。

 扉は厚くしっかりと閉ざされていた。

 そんな店内には年輩の方々が複数人。まるで孫でも見るような顔で、二人を見つめている。心地よさそうに左右に揺れる人もいる。

 いずれもこの喫茶店……カルテットキッチンの常連客である。


 桜が音楽高校に入学したのはこの春のこと。

 ずっと憧れていた緑の制服に袖を通したとき、不覚にも泣いてしまった。

 入学してまだ一ヶ月と少し。憧れの音楽高校とピアノ教室という、音楽まみれの生活。

 ちらりと横を見れば、ヴァイオリンを悠々と弾く夏生の横顔が目に入った。

 細い顎に汗が一滴、流れていた。無表情のくせに、頬は明るい。楽しくて仕方がない、といった空気が指先から細い目の先から、全てから溢れている。

(……羨ましい)

 静かに横たわる鍵盤を見つめて、桜は唇を噛み締めた。

 ……入学してまだ一ヶ月。

 桜は人前でピアノを弾けなくなっていた。


「……」


 桜は静まり返った鍵盤を、そっと撫でる。

 同時に夏生のヴァイオリンも最後の一音を弾き終える。音がまだ、そのあたりに飛んでいるようだ。

 桜はピアノから目をそらし、ゆっくり立ち上がる。

 そして、今や観客席となった喫茶店のテーブルに向けて頭を下げた。

「ごめんなさい、やっぱり緊張して……」

 へらりと笑って、桜はおバカなふりをする。

 笑ってごまかすのが得意になったのは、いつからだろう。

 ピアノにお尻を向けて、桜は笑顔を振りまく。

 そんな笑顔を浮かべても喉の奥が焼けるように痛い。鼻の奥がつん、と音をたてる。泣きそうだ、と桜は爪で手のひらを強く押し続けた。

「まだ弾けなかった……か……ら」


「すみません」


 桜の声を塞ぐように、喫茶店の入り口が開いたのは、その時だった。


「今いいですか?」

 扉の隙間から、一人の男性が店内を覗き込む。

 まるで、心地よい風が吹いた……そんな気がする。

 気まぐれに扉をくぐったような、そんな顔をして現れたその人の周りに、きれいな光が満ちている。

「あっ い、らっしゃいませ……!」

 桜はぴん、と背筋を伸ばすと、放り出していたエプロンを掴む。それを腰に巻き付けて、小さな舞台を飛び降りた。

 店の中央、壁沿い。そこはほんの少しだけ高く作られていて、ピアノと譜面台が置かれている。つまり小さなステージとなっているのである。

「桜っ! 転けてもしらねえぞ!」

 夏生の鋭い声を無視して、桜は大急ぎで客の前に飛び出す。

 そこにいたのは……まだ若い、背の高い、色の白い男の人。

(……はじめての……お客様かな)

 桜は緊張を押し隠し、唇を噛みしめる。

 桜は人見知りだ。初めての……それも男性相手だと緊張を隠せない。それを直すために、喫茶店のアルバイトに志願した。

 おかげで最近はお年寄り相手なら、堂々と話ができる。

 しかし、今回は別だ。

 ……音の余韻が残る室内に滑り込むように現れたその人は、ちょっと驚くほど、綺麗な顔をしていた。

「い、いらっしゃいませ……あのおひとり様……ですか。せ……お席はお好きな場所に……おタバコは……あ、すみません、半年前からここ、完全禁煙で……えっと」

 桜の前に立つその人は、背が高い。すらりと細く、足も冗談みたいに長い。まるでモデルのようだ。

 気がつけば、他のお客も皆が興味津々に来客を見つめていた。

 もともとお年寄りばかりで、面白いことに飢えている。だから皆、視線に遠慮がない。

 おばあさんなど、少し照れるように口を押さえて見つめるのである。


「桜ちゃん、ボーイフレンドかい」

「ちが……ちがいます!」


 調子のいい常連の声に、桜の顔が熱くなった。

 ……ボーイフレンドという古臭い響きが桜の中でこだまする。そんなはずがない、そんなわけがない。

 こんなきれいな人、知り合いでもなんでもない。

(うわあ……かっこ……いいな……)

 桜はぱちくりと、目を丸めてその男を見上げた。学校で人気のチェロ専攻の男子だって、こんなに整った顔をしていない。

 しかし、それを例えるとするならば『無音』の美しさだ。表情筋は死んでしまったように凝り固まっていて、黒い目だけが冷え冷えと桜を見つめている。

 白いシャツと黒いズボンというシンプルな服装なので、見た目だけでは彼の正体はわからない。

 ただ、大きな板のような黒い鞄を一つ持っているだけだ。

 見た目より軽そうなそれを店の隅におくと、彼はもう一度桜の前に立つ。

 無機質のように見えたその顔に、明らかに作り物めいた微笑みが浮かんだ。

 そして彼は、ポケットから一枚の白い封筒を取り出す。

「……大島 燕です。バイトの面接に」

 その次の瞬間、桜の喉から「てんちょお」という綺麗なソプラノが溢れた。

 


「はいはーい」

 どたばたと、激しい音をたてて壁が揺れる。

 奥には二階につながる階段があり、そこを店長が駆け下りてきたのである。

 体の大きな店長が階段を下るとそんな音がする。背は低くお腹がぽこりと前に出て、髭を蓄えたその顔は熊そっくりだ。

 でも、大きな眼鏡をかけた目元はおどけていて、憎めない。

 カルテットキッチンの二階と三階は居住空間。

 そこから駆け下りてきた店長は、寝間着のようなだらしない服のまま、ひょいっと店を覗き込む。

「桜ちゃん、呼んだ?」

「店長、バイト、バイト。バイトの面接! 店長、服、服、お客さんいるから、あの……っ」

 桜がぱくぱくと口を動かせば、店長はぽかんと、男を……燕と名乗ったその彼を見上げた。

 そしてあっけらかんと、手を打ち鳴らして笑うのだ。

「あ、そうだった。キッチンのバイトで電話をくれた………って、君が大島……燕君?」

「はい」

「えっと……美大の?」

「そうです」

 燕の返事は必要最低限だ。抑揚がなく、ひんやりと落ち着いた声だった。

「……電話で聞いてたらごめんね、何年生だったっけ」

 店長は階段の脇に投げ捨ててあったエプロンをいそいそと身につける。

 濃い茶色のエプロンを着けて頭を整え自慢のひげをなでつけると、ちゃんと喫茶店のオーナーに見えるのが不思議だった。

「4年です」

「就活とか……卒論……えっと美大なら卒業制作もあるんだっけ、そっちは大丈夫?」

「まあ……」

 燕の声には抑揚もなければ、緊張の響きもない。淡々と低く……微動だにしない。

「大丈夫です」

「ふむ……」

 気がつけば常連客も夏生も皆が燕を見つめている。

しかし見られることに慣れているのか、それとも気にしていないのか。燕はまっすぐに立ったまま。

「バイトの経験は?」

「はじめてです。外に貼り出していたバイトの募集を見て、電話して……」

「そうそう。それで今日来てもらったんだった。まあ椅子に座って座って」

 燕は目を細めて周囲を見渡す。それは周囲を慎重に探っている、そんな目だった。

 背の高いカウンターチェアに腰を下ろしても、燕なら余裕で足が床に届く。そのまっすぐな脚を桜はぽかんと見つめていた。

「大島くん、料理の経験は?」

「家では料理担当なので、それなりに……あの……バイト、難しいでしょうか」

「いや、そんなことはないんだ。そうじゃなくって……えーっと」

 穴が空くほど燕を見つめていた店長だが、やがて意を決するように燕の手を力強く握りしめた。

「君、ホールでバイトする気ない?」

「いや……キッチンを希望してますが……?」

 燕が訝しげに首をかしげ、自然な動作で店長の手を振りほどく。

「ホールのバイトも募集中ですか?」

「いや、かっこいいからさあ、君」

「ちょっと、日向君、失礼よ」

 横から店長をつついたのは、お腹の大きな女性だ。階段から顔を覗かせると、小走りに店長の横にするりと収まった。

「ごめんなさいね。キッチン担当の私がいまこんなお腹だから、しばらくキッチンを頼める人を募集してて……でもこんな小さなお店だからなかなか人が来てくれなくて。珍しく面接に来てもらえたからちょっと……びっくり……しちゃったんですけど……」

 彼女は大きなお腹をなでながら、燕を見上げる。そして……驚くように目を丸める。

「ねえ日向君、この人、ホールに入ってもらいましょうよ」

「みゆきさん!」

 桜は思わず声をあげていた。

 みゆきは店長の妻でもあり夏生の母。ここカルテットキッチンで腕を振るう料理人。

 7ヶ月という彼女のお腹は丸く大きく膨らんでいた。

「冗談、冗談、ね。桜ちゃん」

 彼女は冗談とは思えない顔で桜にウインクし、お腹を抱えたまま燕に向かい合う。

「ホールもできるならお願いしたいくらいですけど、実は急ぎでほしいのがキッチンのバイトの方。このお店、喫茶店なんですけどお料理が自慢なんです」

 みゆきは店内をぐるりと見渡す。中央にあるピアノが一番目立つが、奥にあるキッチンもなかなかのものだった。

「メニューも多いし、常連さんから希望があればオリジナルでどんどん新しい料理を作ることもあるし。だからキッチン周りにこだわりがあるんですけど……」

 大きな冷蔵庫に、機能的なコンロ、レンジ、オーブン、氷だって余裕で砕く海外産の大きなミキサー。

 ここには何だってあるのだ。

 コーヒーと紅茶は店長の仕事だが、モーニングからお菓子まで、食べるものに関してはみゆきが作る。みゆきの料理の腕はピカイチで、それはお腹が大きくなった今も変わらない。

 きれいな音楽と美味しい食事、こだわりのコーヒー。

 それがここ、カルテットキッチンの人気の秘密でもあった。

 ……ただし、みゆきの負担を考えて、「産休」制度を店長が考え出した。週に何日か、代わりのキッチンバイトを雇う……もちろん、腕の良い人を。 

「えーっと、大島君……でしたっけ。ここで料理ってできそうですか?」

 みゆきは大きな目で、燕をじっと見つめる。楽しいこと、面白いこと、新しいことが大好きなみゆきは人見知りをしない。

「多分」

 しかし燕は相変わらず、淡々とした表情でキッチンを見つめて目を細める。

「……特殊な道具でなければ、ある程度は」

「じゃあ、こうしよう」

 店長がぽん。と手を打つ。常連客の目が輝く。店長は燕の肩を軽く叩いた。

「今から君、キッチンでなにか作って。あるものを好きに使ってくれていいから……そして、ここにいる皆さんに食べてもらって判定してもらう。美味しければキッチン担当、失敗したらホール担当!」

「日向君、そう言って、お腹が減ってるだけなんでしょう」

 わっと店内が湧き、みゆきは呆れ顔。それを見た桜は思わず苦笑した。

 皆、面白いことと美味しいものに飢えている。

「じゃあ……音がないと寂しいですよね……夏生」

 みゆきが手を打ち鳴らしてステージを振り返った。

 ヴァイオリンを手にした夏生は、黙ってふてくされている。

 背は小さく体も細く、制服だってぶかぶかだ。

 しかし顔立ちは幼い頃に比べて多少……男らしくなったように桜は思う。その分、無愛想にはなったが。

「何か弾いてちょうだい。あんた苦手だからって、ピアノの練習全然しないんだから」

 みゆきは微笑んで……しかし有無を言わせぬ勢いで、夏生に命じる。

 長い前髪を邪魔そうにかき乱しながら、夏生はみゆきをにらんだ。

「母さん俺ら、もうレッスン」

「まだあと1時間半あるじゃない。出し惜しみしないの。桜ちゃんは……そうだ、今日は声楽の練習をしましょ」

 大きなお腹のままみゆきは素早く動いてステージ前に陣取る。常連客も楽しそうにみゆきの周りを固めた。

「プッチーニの、私のお父さん……だったっけ、教室で習ってるの。確か今度の発表会、ピアノの課題曲よね。母さん、それが聞きたいなあ」

 わざとらしい間延びした声に、桜は思わず苦笑いをした。夏生が苛立つようにピアノを乱雑に弾き始める。

 夏生のピアノは荒々しいくせに、音が澄んでいる。

 煽るような伴奏に押されて、桜は再びステージの上に。

 先程感じていた屈辱や悲しさは、この騒ぎの中で少しだけ薄れていた。

「夏の発表会まではあと3ヶ月、さ。練習練習」

 不承不承な夏生のピアノの音と、桜のソプラノ、そして燕がコンロを付けた音が同時に重なった。



「できました」

 燕が淡々と声をかけてきたのは、それから30分ほど後のこと。

 オペラから最近の曲まで、リクエストされるまま、苦手な歌を頑張った桜は、体の中に音が暴れているようでぐったりと壁に肩を押し付ける。

 夏生がそんな桜を覗き込む。

「おい桜、平気か」

「だ……大丈夫……喉ひりひりするけど」

 燕の一声に救われた、そんな感じだ。

 夏生も苦手なピアノを散々弾かされたせいで、どこか疲れた顔をしていた。

 燕の声がなければ、もっともっと歌わされたに違いない。


「おお」


 店長の明るい声に、桜ははっと顔を上げる。

 気がつけば、店長もみゆきも常連客も、カウンターから身を乗り出すようにキッチンを覗き込んでいるのだ。

 そこには燕が立っていて、両手には大きな皿。湯気がふわりと上がる、美味しそうな……。

「卵のサンドイッチ……と、これはトマトの……」

「スープですね」

 燕が手にする大きな皿には、大量のサンドイッチが盛り上がり、コンロにかけられた鍋には赤いスープが揺れていた。

 真っ白で柔らかい食パンは綺麗に耳を落としてある。それに、分厚い卵焼きを挟んでいるのだ。 

 赤と黄色で、キッチンははっとするほど明るく染まる。まるで目が覚めるような、そんな色だった。

「へえ……厚焼き卵のサンドイッチですかぁ……味は? 塩?」

 間延びするようなみゆきの声は、真剣になってる証拠だ。

 卵はちょっと驚くくらいに分厚い。

 きれいに巻かれた断面が、きらきらと光っている。パンが薄いので、卵の存在感が皿の中で光っていた。

「コンソメと、胡椒……それに少しだけ醤油ですね」

「どうしてこのメニューにしようと思ったんです? フランスパンだってご飯だって、パスタだって……他にはいっぱいあったのに」

 みゆきが興味深そうに尋ねれば、燕は少し考えるように目を細くする。それが癖なのか、顎をとん、と指先で叩いた。

「……曲が」

 そしてその細い目が、桜をみる。目があって、桜は慌てて顔を俯けた。

 演奏中はちらりともこちらを見なかった燕だが、しっかりと歌は聞いていたのだ。

「音楽はあんまり詳しくないんですが、明るい感じがしたので、そのイメージで」

 燕の言葉をきいて、みゆきは満面の笑みを浮かべた。

「大正解。さっきこの子達が披露した曲、上品な曲に聞こえるけど、実は喜劇の曲なんですよ」

 先程まで歌っていた曲を、桜は口の中で繰り返す……プッチーニ、『私のお父さん』。

 しっとりとした曲に似合わず、それは娘から父親に向けた無邪気な歌だ。はじめて和訳を読んだ時、桜は純粋に羨ましく思った。 

 桜には、甘えられる父がもういない。

 桜は医者である母だけに、育てられた。

「そうですか……」

 みゆきに誉められても燕は相変わらずの無表情だったが、彼が作った料理は彼の言葉以上の色鮮やかさ。

 美大と言っていた、と桜は思い出す。

 桜も、言葉より音楽の方が人に気持ちを伝えることができた。

 彼も料理や絵の方が、気軽に気持ちを表現できるのかもしれない。

「まあ、まあゴタクはいいからさ、まずは食べてみようよ」

 食べやすいように小さめにカットされたサンドイッチを、店長が配って歩く。桜も一つ、手にとった。

 柔らかいパンに挟まれた、ふわふわの厚い卵焼き。赤いケチャップ。そして隠し味のマスタード。そして、とろりと甘いトマトのスープ。

「さすが美大生。色の組み合わせが綺麗ですね」

 みゆきは感心したように呟くが、皆の興味はその味に注がれている。

 おそるおそる受け取ったサンドイッチは暖かい。一口食べて、桜は目を丸くした。

「美味しい……です!」

 焼きたての暖かい厚焼き玉子は、崩れるか崩れないかのギリギリの柔らかさだった。

 とろけるような食パンに、一体となる卵の柔らかさ。

 口の中に暖かい卵がとろとろと流れ込んでくる。ひりっと掠れた喉に優しい甘さだ。

 溢れないように気をつけてサンドイッチを食べた後には、少しだけぬるめのトマトのスープ。上にはパンの耳をカリカリに炒めたものが乗っている。

 とろとろのスープはポタージュのよう。クルトン代わりのパンの耳がサクサクと心地いい。

 トマト嫌いの夏生も気がつけば大人しく座って食べている。常連客も、店長も、みゆきもだ。

 先ほどまで歌っていた音楽が、料理になって振り落ちてきた。そんな気がする。

「大島君、美味しいですねこのスープ。パンの耳、バターで炒めてます? ボリュームが出て……これいいですね」

「そうですか」

 美味しそうに食べる人々を、燕が見つめて淡々とつぶやいた。しかし、その口元には、ほんの少し、分かるか分からないか程度の笑みが浮かんでいる。

 それを見て、桜は純粋に驚いた。

 ……彼は、人を喜ばすために料理を作っている。

「ねえ大島君。なんでキッチンのバイトをしようと思ったんです?」

「……家で作る料理の幅を広げてみようかと」

 みゆきが尋ねれば、燕は素直に答える。

「素直でいい子じゃない。ね、日向君」

 それを聞いたみゆきは、満足そうに「じゃあ合否は追って連絡します」と、彼の履歴書をぽん、と撫でた。



 燕はみゆきの言葉を聞くとあっさりと席を立った。

 常連客の残念そうな声にも一切耳をかさない。クールというよりも、他人に触れ合うことを拒否するような冷たさがある。

 そんな彼に、携帯番号を教え忘れた。と店長が言い出したのは、燕が店を飛び出して数分後。

 それを聞いた桜は、店長の名刺を持って店の外に飛び出していた。この店は他より少しくぼんだ場所にあり、大きな道に出るためには桜並木の続く一本道しかないのだ。

 今日は風の強い日だ。桜は走りながらまっすぐ前を見る。

 昔から目がいいことが桜の自慢だ。

 薄桃色の桜が揺れる向こう側、そこに先程の彼の影が見える。

 春の空気はどこか濁って灰色で……でも春の花の色だけがにぎやかだ。

 春の風がたてる音も、どの季節よりも明るく、春はとりわけ音の沸き立つ季節である。

 その賑やかさの中で、燕の背だけが物静かだった。

「あ……あの、すみません!」

 飛ぶように道を駆けると、すらりとした燕の背中に追いついた。

「あ……あの」

 桜が声をかけると、彼は素直に振り返った。彼の持つ大きな画板が、風に煽られて大きくはためいた……春の風の、穏やかな音が聞こえる。

 ……春は始まったばかりなので、空気はまだ少しだけ冷たい。しかし冬とは違う、しっとりとした湿度がある。

 そんな春の風の中で、桜は燕と向かい合う。

「て……店長の名刺……です。渡し忘れたって……」

「ああ……ありがとう」

 追いついて、名刺を差し出すと彼はまじまじと桜を見つめる。きれいな形の眉が、訝しげに寄る。

「えっと……バイトの子……だったっけ?」

「バイトというか……えっと、幼馴染の家なんです。時々お手伝いしたり、あそこでレッスンさせてもらったり……」

 燕に真正面から見つめられ、桜は耳まで赤くなる。そもそも、桜は奥手だ。男の子とはうまく話もできない……幼馴染の夏生以外は。

 自分から追いかけたくせに、桜は急に恥ずかしくなって後ずさる。

 桜の中に先ほどの味がじんわりと浮かび上がってくるのだ。彼の料理は美味しいというより、不思議と思い出に残る味だった。 

 燕は見た目からすれば、料理ができる男には見えない。

 そんな彼から音もなく生まれる料理はまるで奇跡だ。

「あ……の……料理、すごく美味しくて……すごいなって。どこで習ったんですか?」

 そう尋ねると彼は一瞬だけ目を曇らせたが、さり気なくそれを押し隠した。

「別に。本とか……食事係だから、必要に迫られて」

「私、全然料理できなくて」

 桜の料理はひどい、と夏生に言われたことがある。

 忙しい母に代わってずっと料理担当だったはずなのに、どうにもうまく作れない。

 そんな桜から見てみると、料理をさらりと作ってしまう燕は、まるで魔法でも使っているようにみえた。

「目玉焼きも焦がすし、ご飯もべちゃべちゃになるし、それに味付けも……」

 桜の頭の中、無残な姿になった食べ物たちが浮かんでは消える。

 裏が真っ黒になった目玉焼き、糊のようになったお粥、薄すぎたお味噌汁。

 燕が誰かを思い浮かべるように、薄く微笑んだ。

「俺はもっと料理ができない人を知ってるから、それくらいなら」

「おい、桜」

 燕の声と重なるように、夏生の苛立つ声が響く。

 振り返ると、店から駆けてきたと思われる夏生が桜をにらみつけている。

「時間! レッスン!」

 腕時計を指さす夏生をみて、桜は予定を思い出す。今日はピアノのレッスンだ。

「……あー……うん」

 楽しかった桜の気持ちがしおれていく。

 ……きっと、今日も弾くことができないまま、レッスンが終わる。そんな予感がする。

「呼び止めちゃってごめんなさい。お……大島さん」

「燕で良いけど……君は……」

「境川です。境川桜。こっちは……日向夏生」

「おい、桜、もう行くぞ」

 夏生はポケットに手をつっこんだまま目もこちらに向けない。

 小学校の時はかわいかったのに、と桜はかつてを思い出して少し寂しくなった。

 小学校の時の彼は、泣きべそをかきながら桜の後を追ってくるくらい、泣き虫な男の子だった。

「幼馴染?」

「はい。店長とみゆきさん、それに私のお母さ……母が友達同士なんです。みゆきさんと店長、それに私の両親が昔、楽団を組んでて……」

「ああ。だから……店の名前がカルテット……」

 燕の言葉に、桜は小さく頷く。

「4人、高校で出会って……カルテットの楽団を作ったらしいんです。その時の記念に、お店の名前もカルテットキッチンで……」

 カルテット、四重奏。この名前を店に託したのはみゆきだと聞いたことがある。

 みゆきと店長、そして桜の両親。この四人が室内楽の楽団を組んだのは4人が高校生の頃。

 みゆきはヴァイオリン、店長はチェロ、桜の両親はどちらもピアノ。

 ピアノが2台なんて正式なカルテットではない。

 しかし、好きな楽器を絶対に譲らない二人のために変則的なカルテットが仕上がった。桜はその話を聞いた時、思わず笑ってしまった。

「じゃあ、あの店長も音楽を?」

 燕が、店長の顔を思いだしたのか不思議そうに首をかしげる。

 あわてんぼうで賑やかな店長だが、チェロを演奏し始めると一気に表情が変わる。有名な楽団にスカウトされたが店の経営を理由に断った、と聞いたことがある。

「時々ボランティアの楽団と一緒に公演に出たりしてます。上手なんです……店長もみゆきさんもすごく上手で」

 桜は空をぼんやりと眺めながら考える。

「……母は、医大に行ったけど、母もすごくピアノが上手で……」

 きっと彼らは桜の年の、ちょうど今くらいの季節に出会ったのだろう。

 そして、店長夫婦と桜の母。この三人の友情だけは、いまだに続いている。

「さくら……と、なつき」

 桜と夏生をゆっくりと順番に見て燕が真剣に言う。

「で、いい?」

「呼び捨てかよ」

 燕がつぶやいた瞬間、夏生の眉がぐっとあがる。しかしその声を聞いても、燕は涼しげな顔。

「俺、人の名前を呼ぶことに慣れてないから」

 彼は桜から受け取った名刺を左右に振りながら、あっさりと背を向ける。

「桜、夏生、バイト、受かったらよろしく」

「は、はい」

「あと……料理が作れる理由だけど」

 進みかけた燕が足を止め、振り返る。

「食べさせたい人がいるから、だとおもう」

 振り返ったその顔は、少しだけ笑っているようだった。

 軽く手を振り、燕が去っていく。

 その白い後ろ姿を、桜はいつまでも見つめていた。

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