新し緑の夏銀杏
この家は、絵の具が香りすぎる。
「燕くん、燕くん。起きて、起きて」
日差しがちり、と顔を焼く。暑い日差しと呑気な声に起こされて、燕は頭を押さえる。
薄目を開けて見上げた天井は、極彩色だ。黄色と、赤と、オレンジと。それを貫く緑の一直線。一体。どうやって描いたというのか。無茶苦茶に筆で叩きつけたような絵だ。しかし、何故か目が惹かれる。子供の落書きのようなのに、目が離せない。
その貫く緑が、痛々しい。
どの女の家だっただろうか。ぐるぐる考えてやがて燕は目を覚ます。
……どの女、ではない。ここは、竹林律子の家である。
「燕くん、朝よ」
噂の彼女は、朝から楽しげに燕を覗き込む。
昨夜、ソファーでそのまま眠ってしまったのだ。余程疲れていたのか、それとも緊張していたのか。目が覚めて極彩色の天井を眺め、竹林律子の顔を見て、全ては現実であったのだ。と燕は思う。
寝場所に困った燕は、彼女のアトリエの隅っこで眠ったのである。鼻につく絵の具の香りと、画板の香り。纏わり付くような香りのせいで、昨夜は絵の具に追いかけられる夢を見た。
「お目覚め? おはよう、寝ていてもあなたは綺麗ね」
ソファーから片足を落とし、だらしなく燕は寝転けていた。ソファーの向こう側から、律子が顔を覗かせ笑っている。彼女の背にある窓は、もうすでに晴天だ。
「……おはようございます……律子さん」
昨夜のことである。彼女をどう呼んでいいか戸惑う燕に、彼女は平然と「律子と呼べばいい」などと言い放った。
自分の母親より年上の、それも世界的な作家を呼び捨てにはできまい。だからといって、苗字で呼ぶのは「よそよそしい」と彼女はいう。
折衷案として、「律子さん」で落ち着いた。はじめてその名を呼んだとき、なるほどこの女性によく似合う名だ。と燕は思った。
「よく寝ていたから起こすのが可哀想だったのだけど、とてもいいものが手に入ったから、一緒にどうかと思って」
彼女は忙しなく燕を台所のある階に誘った。
真ん中の丸テーブルには、すでに皿が置かれている。まるで空のような色の、大きな平皿だ。皿の縁には、塩が丁寧に盛られていた。
真ん中はすっかり空いている。ここに、何をいれるというのか。
「昨日ご飯をつくってくれた御礼に、私が朝御飯をご馳走するわね」
大事そうに彼女が取り出したのは、大きな茶封筒。
それを降ると、ちゃかちゃかと、楽しげな音がするのである。
「燕くん、手を出して」
言われるがままに手を広げると、音を立てて封筒の中身が現れる。
……銀杏だ。殻に包まれた、それは大きな。
「今朝ね、人が持って来てくれたの」
「時期、早くありませんか?」
そろそろ晩夏とはいえ、昼はまだ十二分に暑い。蝉もまだ煩い。銀杏など、秋の気配はまだまだ遠い。
そう言うと、律子は子供のように笑った。
「珍しいのよ。夏の銀杏。それに、私ができる料理はこれくらいなの」
見てて。と彼女は封筒に銀杏を詰めなおす。そして、封筒ごと、電子レンジに。
「律子さん? 料理?」
代わりに返ってきた返答は、何かが弾ける音だ。レンジの熱に当てられて、封筒の中で銀杏が弾けている。
ぱん、ぱん、と驚くほどの音だ。しかし、律子は怯える様子もなく、嬉しげにレンジを覗き、やがてスイッチを止めた。
「さあ、できた」
ふわりと甘い香りが、レンジから漂う。しなしなになった封筒を裂くと、彼女はその中身を皿に盛り上げる。
「燕くん、みて」
宝物を見せるような顔で、彼女は皿を燕に近づける。む、と銀杏が香った。いや、秋の銀杏よりも香りが甘い。瑞々しい。臭みのない、爽やかな。
そして、青い。
「すごく深い、エメラルドグリーン。綺麗ね」
うっとりと律子が言うとおり、その青は圧倒的だった。エメラルドグリーンだ。深い青緑。それが、水色の皿にこんもりと盛られている様は美しかった。
「さあ、冷める前に召し上がれ」
「朝から……銀杏ですか」
文句を言う前に食べてみて。と彼女が口を尖らせるので、燕は一つつまみ上げる。半分へばりついている殻を剥くと、中はまだ熱い。そして柔らかい。
口にいれて、驚いた。
「……甘い」
口の中で、ぷちりとはじける。実が張っているせいだ。驚くほど、爽やかだ。まるで果物のように瑞々しい。甘い。銀杏の、甘い味だ。
瑞々しいのに、ほくっと口の中でほどける。夢中で二つ、三つと口に放り込む。
塩を少しつけると、甘味がさらに際だった。そのくせ、飲み込んだ後にかすかな苦みを感じるのだ。それは銀杏らしい味だった。
「ね。美味しいでしょ。美味しいのよ」
必死に貪る燕を見て、律子が満足そうに笑った。
「私には100人以上の弟子がいたんだけど、みんな良い子でね、こんな風に折り折り食材を届けてくれるの」
律子は銀杏の皮を剥きながら言う。
なるほど、この生活力のなさそうな女性が倒れることなく生きて行けるのは、彼女の元弟子たちのたゆみない努力の結果であるらしい。
「……結構なお弟子さんですね。皆さん、まだ絵を?」
燕はもうひとつ、ふたつ。銀杏を口に放り込む。
食べれば食べるほど、甘味が立つのが不思議だった。ぷちりと弾ける音も楽しい。
「ううん。あれだけ居た弟子は、誰も絵描きにならなかったの。きっと、私に教えるセンスがないのね」
律子はふと、声を落とした。出会ってはじめて見せる彼女の寂しさだ。ちらりと、そんな色が見えた。
(弟子は、居着かないだろうな)
燕は彼女の指を見つめながら、そう思った。人が人を教える時、天才は不利だ。凡人でなければ教えることなんてできない。天才は、無意識に凡人の生き様を奪っていく。
律子を見ていて燕のどこかが痛むのは、自分が凡人であると気付かされるからである。そのくせ、目が離せないのは、やはり彼女が天才だからだ。
「……」
椅子もないので立ったまま。テーブルの上には銀杏が盛られた皿がひとつ。朝の爽やかな日差しが差し込む中で、向かいあって銀杏の皮を剥く。
それが妙におかしく、燕は苦笑する。つられて律子も笑った。
「私ね、秋の銀杏にはあんまり興味が無いの。すっかり色が落ちてるでしょう? でも新銀杏はこんなに青いの。不思議ね」
つまみあげた銀杏は、朝日に照らされてやはりどこまでも青かった。
「お皿が空みたいでしょ。塩は雲。この緑は葉っぱ。夏の終わりのね」
「それにしても、塩が多過ぎやしませんか」
「いいのよ、雲だから」
青い皿に転がる銀杏の実を楽しそうに見つめて、律子は笑う。先ほど見せた一瞬の寂しさは、朝日の中に溶けて消えた。
その代わり、次の楽しみを見つけた子供のような顔をして、
「そうそう。今日は、あなたの部屋を用意しなきゃね。どのお部屋にするか、実はもう決めてるのよ」
と、歌うように言うのである。
燕は黙って青い実を噛みしめる。
ほのか遠くに香る苦みは、秋を待たずに散っていく銀杏の悲しみの声なのかもしれないと、そう思った。