モノクロ世界とフレンチトースト
本編の「極彩色の食卓」の、おまけエピソードとなります。
律子の目に映るのは、まるでモノクロの世界である。
彼女の目前に広がるのは春の桜である。夏の新緑である。秋の紅葉である。しかし、すべてがグレーに包まれて、輪郭がぼんやりと浮かび上がるにすぎない。
舞い散る桜に手を伸ばそうとして、律子はふと自分の顔に手をあてた。
「あらやだ、私ったら、こんなものをかけてるから……」
律子の顔にかけられているのは、大きなドロップ型のサングラス。顔を半分も覆うようなそれを取ると、目の前に絵が溢れた。
目前にあるものは、白い壁一面に描かれた桜の木である。舞い散る花びらと、湿気た春の土の柔らかさ。その向こうに描かれている、小さな男女の並ぶ絵。
その輪郭に触れて、律子は苦笑した。
ただの、絵だ。
そこは小さな部屋である。家具ひとつも置かれていない、ただの四角いだけの部屋の壁一面に絵がある。それは律子の描いた絵であった。
律子は力なく桜の部屋を出ると、続いて隣の部屋を覗く。そこは夏、新緑の葉の縁はぴんととがって瑞々しい。隣の部屋は秋、銀杏の葉は風を纏って降り注ぐ。
最後、奥の部屋に手をかけて覗くが、そこにはなにもない。いや、白の色だけがある。様々な白で描いたそれは、一面の雪景色である。
「だめね」
律子はつぶやく。誰もいない部屋に、家に、絵だけが描かれた壁に、その声はむなしく反響した。
「色も、人も無い」
目の前にある絵は極彩色であるはずだ。花も空気も、彼女の色に染まってるはずだ。しかしそれでも、
「……モノクロだわ」
と、彼女は思う。
温度のない、色のない、音のない世界である。
彼女はそんな世界の中で20年生きてきた。
律子は絵が好きである。
幼い頃から暇さえあれば絵を描いていた。道具は何でもよかった。ペンでも筆でも、その気になれば指に絵の具をつけてでも絵を描いた。
このまま絵描きにでもなるのだろうと、ぼんやりそう思っていた。
有名な絵描きに弟子入りしたのは、30年以上前の話。律子の師となった人は口数少なく、繊細な絵を描く男であった。
すっと伸びた背で、黙々と描く姿が美しかった。数十年染み着いた絵の具の色が、指の先から香るような男であった。気がつけば、男の絵に焦がれ男の色に恋をして、結ばれたのは20年前。
極彩色に覆われるはずの婚姻生活は、男の自分勝手な死によりたった半年でモノクロとなる。
男は、描く絵に似た精細な気質を持っていた。つまり、それが男の死の原因である。
夫の死は律子を悲しませたが、それでも彼女は絵を描くことを止められなかった。ただ、不思議と人の絵だけは20年経った今でも描くことができない。
(……お買い物に行かなきゃ)
色彩の部屋を出て、律子は自室のソファーに沈み込む。そんな自分の姿が鏡に映り、律子は苦笑した。
真っ黒なワンピースに、わざとらしいほど黒い手袋。そしてサングラス。
夫が亡くなった後も、律子は絵を止められなかった。色鮮やかな絵を止められない自分への戒めのように、律子は黒の服とサングラスを愛用するようになる。
(確か冷蔵庫の中はほとんど空っぽだから、朝ご飯の買い物、とお散歩、と)
家を抜け出して外に出ると、日差しが律子を包んだ。皮膚を焼く日差しの強さに、彼女は今が夏であることを思い出す。
薄暗い家の中にいると、季節感も時間の感覚も全て失われてしまう。
(あと、スケッチ。と)
律子の手には小さなスケッチブックとちびた鉛筆が握られている。出かけるときに道具を持ち歩くのは癖のようなものだ。
(なにを描こうかしら?)
律子は手癖のようにスケッチブックの隅に触れながら、ぼんやりと宙を睨む。
(花、木、鳥、なら公園だし、建物なら工事現場もおもしろそう)
かつて夢想していたように、彼女は絵描きになった。とはいえ、経営などの詳しいことは弟子に投げたままだ。良い弟子に恵まれたというべきか、弟子に甘やかされているというべきか。彼女は今も昔もただ絵を描くだけである。
とはいえ、最近は売るような絵もあまり描いていない。
残された人生を、塗りつぶすように生きている。
(それとも……動物、車、昆虫)
顔を上げれば空気が白い。夏の朝特有の真っ白な日差しが照りつけて、律子は眉を寄せた。まもなく晩夏とはいえ、暑くなる予感を含んだ空気である。
(あつい……)
早朝の日差しは、すべての可能性を含んだ白の色だ。しかしやがてこれも暮れていく。夕暮れのどろりとした憂鬱な赤はすべての可能性を遮断する色だ。
夕暮れの色は、綺麗である。しかし、律子の一番嫌いな色である。
だからその前に家に帰ろう。そう決意した夏の終わり。
しかし彼女はもっとも苦手な色の中で、美しい色を見つけた。
それは偶然通りかかった、暮れかけた公園の片隅。
(人が居る)
律子は最初、そう思った。公園の隅のベンチに男が一人腰を下ろしているのである。
日差しを遮るもののない公園なので、夏に訪れる人は少ない。特に夕暮れはひどく暑い。
赤い色に染まるそこに男が一人で座っているので、ずいぶんと目立った。
まだ若い男である。20歳になったかどうか、というところか。
落ち込んでいるのか、それとも何か考え事をしているのか、ベンチに腰を下ろして俯いたまま、彼はぴくりとも動かない。
横顔は色を無くしたように白いのに、目と髪だけが妙に黒い。夕日の赤さがにじんだ頬の色、伸びた首の白さと目の黒さ。組んだ爪先に見える薄い桃色が、彼が人間であることを示している。
なんと極彩色の人だろう。と律子はため息をもらす。
(ああ、綺麗な顔もしているのね)
改めて顔を見れば、男は美形でもあった。座っていてもわかるほどに手足がすらりと長く、細い面立ちは端正だ。
律子は炎に吸い寄せられる虫のように、男へ近づいた。男は律子の足音にも気づかない。目の前に立って覗き込んでも男は身じろぎひとつしない。気付いてもいないのだろう。
「ねえ、あなた。ちょっと立ってくださらない?」
だから律子は、思いきって声をかけた。
見知らぬ男に声をかけるなど、生まれてはじめてのことである。しかし、ここで声をかけなければ後悔すると、なぜかそう思った。
彼の目の奥に、絶望の色がかすかに見えた。
同じ目の色を律子は20年前に見たことがある。それは、亡き夫の目である。
「ちょっとだけ、立ってくださらない?」
「……?」
笑顔を向ければ彼は不審気に眉を寄せる。当然だ。しかし必死に食いつけば、彼は存外素直に立ち上がる。
その姿を見て、律子は言葉を忘れ右手がふるえた。
ああ。なんと綺麗な男なのだろう。
「意外に背が高いわ。あなた綺麗ね。真っ白な肌に、顎がすっとしてて、手も足も長いし、そうね、手の甲がとても素敵。目も切れ長で、黒い。だけど、縁は赤く見えるのね。黒い色が白と反発しあって、赤に見えるんだわ。肩のラインも、流れるみたいですごく綺麗」
気がつけば鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出している。意識もないうちに、右手が動く。
りいりいと蝉の鳴く声がどんどん遠くなる。耳に届くのは、スケッチブックの上を滑る鉛筆の音だけだ。す、す、すと音が軽快に滑る。一度も途絶えないまま、はたと気がつけば、白いスケッチブックの中に、男の素描が、生まれている。
(……人物絵)
それは20年ぶりにみた、自分の人物絵である。
「……大丈夫ですか」
気がつけば立ちくらみを起こしていた。膝から崩れかける律子の体を男は自然に支えた。
肩を支える手は、見た目よりも大きな。その指に小さな隆起が見えた。それは筆を握った時に生まれる隆起に似ている。文字を書く男には見えない。もしかすると絵を描く男ではないか、と律子はふとそう思う。
しかし、絵を描く男にしては体から絵の具が香らない。
「ええ、ええ。ごめんなさい、立ちくらみ」
男に支えられたまま、律子は頬を押さえる。自分の大胆さに今更驚かされる。
同時に、律子の腹がぎゅうと鳴った。
「あら、いやだ。今はもう何時頃?」
「18時です」
男の冷静な声に律子は照れた。自分の子供ほどの男の手に支えられたまま、顔を俯け早口で言い訳を繰り出す。
「いやだ私。サングラスなんて慣れないもの着けてるから、ずっと一日が夜みたいで……家は、朝に出たのよ。そうそう、朝御飯を買いに行こうと思ってね。でも楽しくってあちこちうろうろしてたの。ずっと……そうね、今日は何も食べてなくて。立ちくらみもするわね、おなかが空いてるんですもの」
顔に手を当てれば、サングラスに指が触れる。また一日掛けたままであったのだ。
はずせば世界はもっと赤い。サングラスをつけたままだったというのに、男から色を感じたのは不思議な話である。
改めて男の顔を見上げれば、やはり驚くほどに美しい。
「ああ。薄暗い中でみるあなたも綺麗だったけど、こうして夕暮れの中でみるあなたも綺麗。茜色が肌に吸い込まれるみたいで」
自然に、律子は男の頬に手を触れた。夏だというのに、ひやりと冷たい頬だった。
男は律子の顔をまじまじと見つめた後、驚くように目を丸める。
「……あなたは」
「肌が白いせい? それとも、黒い服のせい? 不思議、なんでそんなに赤色が似合うの?」
「あなたは……竹林……」
男の唇がふるえて、律子の名を呼んだ。
「竹林、律子」
「あら。何で私の名前をご存じなの?」
どこかで虫の声がうるさく鳴く。夏の暮れていく音が聞こえる。その音の中で彼が律子の名を呼ぶ。
その声は、まるで子供のように幼い。
(絵が、描けるなんて)
律子は鳴る腹を押さえて、ぼんやりとスケッチブックを眺める。腹が減るのには慣れている。絵に夢中となり食事を忘れることなど毎日のことだからだ。
いまはそれよりも、自分の絵に驚いている。
(人の絵が、描けるなんて)
目の前にあるスケッチブックには、男の絵がある。先ほど公園で描いた絵だ。鉛筆で殴り描きしているので、ずいぶんと乱雑である。迷い線も多く、線自体もひどくふるえている。
しかし、人間を描いた。
20年ぶりに、人の骨格を描いた。それは律子にとっての革新である。
20年前、師であり夫である男が命を絶ってから、律子は人の絵が描けなくなっていた。人を救えなかった自分が人の絵を描くのか。と、どこかで声がするのだ。自重したわけではない。ただ描けなくなった。
(でも描けた)
律子自身が、誰よりも驚いている。
描こうと思ったのではない。描かなければと思ったわけでもない。ただ、息をするように描いていた。
無我夢中で男の手を取った。逃がしてはならないと、なぜかそう思った。
歩けないとうそをついて、無理矢理に家に誘い込んだのはつい先ほど。
これは誘拐ではないかと胸が苦しくなったが、同時に楽しくもある。男は抵抗も見せず律子の家にあがり、どこかへきえた。
何か食事を作っているのだ。と気がついたのは数十分後。
「できましたけど」
男は相変わらずの能面のまま、ソファに寝転がる律子に声をかけた。彼の手には、暖かい湯気を立てる皿がある。
「まあ」
白い皿をのぞき込み、律子は息をのんだ。
「まあ、まあ」
数十回も、つぶやいただろうか。しかし、それしか言葉が出てこない。
彼が手にしているのは、美しい黄色の固まりだ。縁が薄く茶色にかかって、鮮やかな黄色との対比が美しい。
それは、皿いっぱいに広がる黄色のフレンチトースト。
「そんな、驚くようなものじゃないです」
目を丸める律子に反して男の表情は硬い。自分を押し殺すように、ただ表情を殺している。
「だって、すごいわ。こんな料理をあの台所で作るなんて」
この一瞬で、男が作ったのだ。どんな風にうみだしたのか、律子には見当もつかない。ただ、わかるのはその色の美しさ。
黄色と白い皿を見て、律子は立ち上がり、男の背をおした。
「こんなところじゃだめ。いらして。特別室にいきましょう、3階よ」
「3階になにが……」
階段を上る。上る。まるで駆け出すように。
この階段を上るとき、律子はいつも気がおもかった。しかし、今は楽しくて仕方がない。
3階の扉を一つ、つかむ。それは、今朝もあけた扉である。
「さあ、どうぞ。ゆっくり入ってね。花弁が散ると、大変」
「どこで食べようと食事は食事だ。そんな場所まで変えて……」
扉を開けると、目の前に春の色が、広がった。
……つんと尖った薄桃つぼみ。まるで笑うように開く花。春の淡い日差しを受けて透ける花びらに、桃色の風。
壁一面に、描かれているのは桜の園。
「……あ……桜……」
男は目を見開いて、ぽかんとつぶやく。
壁に駆け寄り、彼は目を細めてそれを見る。油絵特有のひび割れた筋を見て、男は首を振る。
「……絵か」
それでも執拗に疑うように、彼は壁を押す。触れてもそこに木の、幹はない。
舞う花をつかもうとして、男の指は宙をつかむ。
「ここは春の間と呼んでるの」
律子は男の顔を見て満足そうにわらった。
「ここならずっとお花見ができるのよ。あなたが黄色のフレンチトーストを作ったのをみて、ぴんときたの。黄色ならピンク。ここが一番似合うわ」
そして律子は机を引き出し、白いテーブルクロスを広げる。
「いただきましょう」
真っ白なクロスの上には白い皿。上に乗るのは美しい黄色のフレンチトースト。
焦げた色も完璧だ。柔らかそうな黄色に、かりりとした茶色。
喉の奥から笑い声が漏れる。ああ、何ということはない。やはりこの男は絵を描くのだ。
そもそも、絵に興味のない人間なら律子の名前など知らないだろう。律子の顔を見て、名前を知っていた。それは彼が絵に少なからず興味がある証拠である。
「……ん。おいしい」
フレンチトーストをかみしめれば、バケットの持つ甘さに、チーズの香ばしさとオリーブオイルの香りが広がる。
見た目に反して甘さはない。ただ、香ばしく塩気とオリーブオイルの濃厚な味が広がる。
「すごい。フレンチトーストってすごくすごく時間がかかるのに、なんでこんなにすぐに出来ちゃったの? 魔法みたい。あなた魔法が使えるの?」
「電子レンジです」
「レンジ?」
「熱を通せば、染みこむのが早くなる。それだけのことです」
「オリーブオイルも、美味しいわ。バターじゃなくって、オリーブオイルでもいいのね。甘くないフレンチトーストってはじめて」
そこまで喜んでいただけて結構なことです。と、男は子供らしくない顔で、吐き捨てる。ふてくされたようなそんな顔さえ、どこか綺麗だった。
「そういえば、あなたのことをなにも聞いてなかった。あなたのお名前は? お家はどちら?」
「名前は……大島燕。家は」
名前をつぶやいたあと、彼は言いよどむ。目が数度、泳いだ。事情があるのか、言いたくないのか。その両方か。
燕からは生活の香りもなにもしない。もしかすると生きることさえ、興味が無いのかもしれない。
ただ自分の作ったフレンチトーストを、義務感のようにかみしめている。
「……特にありません。あちこちを……」
「まあ、そうなの。なら、好きなだけここに泊まっていくといいわ。部屋は余ってるし」
誘いかけたのは、勢いだ。燕は律子の言葉に目を細め、口の端をきゅっとかみしめる。いぶかしがる目だ。それを見て、律子は苦笑を押し隠す。
もし律子が燕の立場でも同じ顔をしたはずだ。
しかし、誘いかけずにはいられないのである。
「私がこんなのでしょ。お家賃は結構だから、時々こうして食事を作ってくださらない?」
燕から香るのは絶望だ。その奥に、かすかな希望が見える。それは彼の作る料理にかいま見える。
絶望しきった人間は、こんなに美しい料理は作れない。
その味は、律子の心を軽くさせた。希望の色だ。希望の味だ。
20年ぶりに、律子は楽しい。
20年、なんと長い時間だったのだろう。どろりとした重苦しい沼の中からようやく顔をだせた。
「……あと、あなたの絵も描かせてほしいわ」
律子はスケッチブックの隅を指でこする。完成した燕の絵は、まだ一枚。
まだ描きたい。その横顔を、眠る顔を、怒った顔も笑った顔もすねた顔も。描くうちに律子の迷い線も消える。そんな気がする。
「黄色のフレンチトーストに、真っ白はお皿。薄桃のグラスに牛乳。あなたには色の才能があるわ」
「……」
そういえば、燕は眉に少しの怒りをにじませた。なにが彼を追いつめているのか、律子にはわからない。
「そうそう燕くん。あなたにだけに教えてあげる」
律子はかまわず、フレンチトーストの最後のかけらを飲み込んだ。
「私……魔女の末裔なの」
懐かしい呼び名を律子はつぶやいた。かつて20年前、亡夫が律子を称した言葉である。
(でも、魔女でもなんでもなかった)
律子は口を拭いながら、思う。
魔女であれば20年も絶望の淵に沈んだりしない。
(私は人だったのだから)
燕はいぶかしげに律子を見つめるばかりである。その端正な顔の筋も、腕についた青年らしい薄い筋肉も、流れるような骨の筋も、すべてが美しい。
絶望のもやのかかる目の縁だけが、もったいない。しかしそれもいつか、晴れるに違いない。
それが晴れた瞬間を見たい。と律子は思った。
(たぶん、また描ける)
振り返った壁には一面に描かれた桜の園。
朝まではその色がモノトーンに見えたというのに、不思議なことも今、律子は鮮やかな桃色の世界に包まれていた。