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思い出トースト、極彩色の食卓

 2月の終わりは、晴れやかな青空が顔を見せた。

 直前まで吹き付けていた雨のせいで地面はぬかるんでいるが、そのぬかるみの端から小さな緑が顔を出す。

 吹き付ける風はまだまだ冷たいが、春なのだ。と、燕は確信した。

 冷たく硬直したままの携帯の電源を落とし、燕は宙に向かって息を吐く。息を吐いても、白い煙はもう出てこない。

 ……やはり、春なのだ。

「燕!」

 ポケットに携帯ごと手を押し込んで、歩き始めた燕を止めた声がある。

 振り返れば、そこには眩しいくらいの笑顔を浮かべる男がいた。

「田中?」

 彼はどこから走ってきたのだろう。鼻の頭を真っ赤に染めて、忙しげに駆け寄ってくる。思えば、彼のイメージは走る姿ばかりだ。

「待てよ、燕!」

 彼は大きな画板を肩から提げて、それを羽根のように揺らしながら駆けて来る。そして、肩を上下して燕の前に滑りこんだ。

「追いついた!」

 彼の向こうに、巨大な建物がそびえ立つ。それはつい先ほどまで燕が居た大学である。

「復学したって? 噂になってた! さっきまで事務室に居たって聞いたのに、もう居ないからさ、あちこち探して走っちまったよ」

 まるで子供のように、無邪気な顔で田中は笑う。その顔を見て、燕も思わず苦笑する。

 燕が手に持つ書類は数枚だけ。復学は想像よりもずっと簡単だった。責められることも期待されることも褒められることも貶されることも、何一つない。

 大学は恐ろしい場所でもなんでもない。あくまでも事務的に、書類を出すだけである。時間にして、たった数十分。

 何を怯えていたのだろう。と、書類をみて燕は自分自身に問いかけた。こんなにも、簡単なことではないか。

「そういうことは、前会ったときに言っておけよ」

「急に思いついたんだ」

「言ってくれたら、みんなで復学祝いしたのに」

「いいよ、まあ、また今度で」

 復学する本人よりも嬉しそうな田中の顔を見て、燕は思わず吹きだした。

「といっても、お前たちよりは一年、遅れるけど」

「良かった……笑ったな、お前」

 田中の言葉がすとんと燕の中に落ちる。

 先ほどまで燕は、冷たい声を聞いていた。

 両親の、母の声である。復学を告げても、母の声に明るさは戻らない。感情の無い声で、学費は振り込んでおくとそう言っただけである。

 燕が休学を告げた時と変わらない口調だった。それはモノクロの世界である。たった数十秒で終わった電話は、復学の手続きよりも短いが、ずっと重かった。

 母の、父の夢は画家であったことを、燕はようやく思い出す。なぜ筆を折ることになったのか、燕は知らない。ただその苦しみは理解できる。今になってようやく、両親の背負った苦しみが燕と共鳴した。

 共鳴はしたが、両親と同化はできない。燕は、ようやく自分の色を見つけたのである。それは両親との離別を意味するようで、それだけが妙に心苦しかった。

「そういやお前、どこに住んでんの?」

 燕の一瞬濁った表情に、田中は気付くこともない。

「この間、会った近く?」

「なんで?」

「今度遊ぼうと思って」

 燕はふと、律子の家を思い出した。古びて壁には蔦の絡む雑居ビル。外から見れば、誰が住んでいるのかも分からない。まさかここに、著名な画家が住んでいるなど誰も思わないだろう。

 電気の付かない入口に、コンクリート階段をしらじら照らすオレンジ色の電球、重い扉。

 しかし、開ければそこに極彩色が広がっているなど、誰が想像するだろうか。

 半年、燕はそこで暮らした。

「……今はあの辺りだけど……でも引っ越しするかも」

「かも?」

「今、人の家に居候してるから」

 燕は何事でもないように言ってみるが、最後少しだけ声が震えた。しかし田中は気付かないのか、腕時計を見て口を押さえる。

「ふうん?……あ、やべ。時間だわ」

「時間?」

「今からバイト!」

 駆け寄ってきた時と同じ勢いで彼は背を向ける。そして大きく燕に手を振った。

「またさ、春になったら、遊ぼうぜ」

 彼の向こうに、並木道が見える。

 確かそれは桜の並木道であった。昨年、燕は桜色に染まる道を歩いたはずだ。それはたった一年前なのに遙か遠くに思われた。

「桜が咲いたら! な、燕!」

 春はまだ遠い。しかし細い枝には固い蕾が薄桃色と緑色に染まりつつある。

「ああ、春になったら」

 春になったらこの道は桜色に綻ぶのだ。

 ……さて、その頃自分はどこにいるのだろうかと、燕は去って行く田中の背を眩しく見つめた。



「ただいま帰りました、律子さん」

 律子のビルに辿り着いたのは、まだ昼も前のことである。

 きしむ玄関を開けると、静寂が燕を迎えた。

「律子さん?」

 また絵でも描きに出たのか、それとも眠っているのか。声をかけても返事はない。気配も無い。燕は俯いたまま部屋に戻り、ため息を漏らす。

 この家に住み着いたのはほんの小さな偶然だ。夏、女に捨てられなければ、あの公園に行き着かなければ、燕はここにはいない。

 燕にも打算はあったが、律子にも打算があったはずだ。

 描けなくなった人物絵を取り戻すために律子は燕を招き入れた。燕はただ、住む場所を欲していた。

 しかし、律子が絵を取り戻した今、燕がここに住む理由など一つもないのである。

(さて、どう出て行くか……)

 幸い、荷物はそれほど無い。まとめて、大学に寮でも案内して貰えればそれですむ。寮の案内も、大学から受け取ってきた。まだ、間に合う。

 来た時と同じように、自然に出て行けば良いだけだ。そう考えれば考えるほどに、苦みが口の中に広がる。

(こうしていても仕方が無い……)

 まずは律子を探すことである。重い頭を振るって立ちあがった、その時。

「……?」

 燕は思わず動きを止めた。目の前の壁に、見慣れないものがある。

 朝ここを出るまで、燕の部屋の壁にあったものは巨大な柏の木とそこにかかった巣だけ。空間は広く余り、痛々しい白さであった。

 しかし、今は違う。巣の下にいくつもの卵が割れている。もちろん、絵だ。いくつもの空の卵。顔を上げれば、ちょうど巣から黒い曲線が飛び出た所である。

「……鳥?」

 それは広い壁を悠々と飛ぶ。鳥である。一羽、二羽、三羽、それは絵の具をなでつけるように描かれている。というのに、燕は一瞬で理解する。

 黒に似た濃い藍色の身体。喉と額にだけまるで飾りのような赤が落とされている。細長い尾が、楽しげに揺れている。強い風をものともせず、真っ直ぐ飛んでいく。

「……ああ、ツバメか」

 それは、巣を飛び立ったツバメの雛である。

 その絵は、部屋の中だけではない。壁を越え、廊下の壁にも続く。今朝までは確実に無かったはずだ。つまり、この数時間の間に律子が描いたのである。

「部屋だけじゃないのか……」

 描かれているのは壁だけではない。ツバメの雛は、身体を大きく膨らませながら廊下の壁を飛び、扉のノブの上で一休み。アトリエの床に降りたち、棚に止まり、あちこちに姿を見せる。

 追って行けば、そのうちに玄関に辿りつく。部屋に入った時には気付かなかった。なぜなら、顔を俯けていたからである。

「一体、どこまで……」

 玄関を越えてもまだツバメの絵は続いている。それは階段の壁を遊ぶように、飛んで上がる。ツバメが目指しているのは3階だ。恐る恐る開ければ、まず、一羽が春の間に飛んでいく。

「……」

 鍵はかかっていない。

 そっと開けて覗き込めば、桜の乱舞がそこにある。

 そうだ、半年前にここで燕ははじめて律子の色彩を見た。鼻に、甘い香りが蘇る。それはここで食べたフレンチトーストの甘い香りだ。

 全てが桜の色に支配された部屋である。暖かい風と冷たい風の吹く中、ツバメは悠々と部屋を巡り、やがて外へ。

 釣られて飛び出せば、続いて夏の部屋。 

 そこは先週見た青の世界である。ここで食べたのは、甘すぎるガトーショコラ。青い炎が二人の間を駆け抜けた。

 皮膚を焼き付けるような夏の湿った夕暮れ。ツバメは木陰に休み部屋を一周すると、風を切りまた外へ飛び出していく。

「……」

 続いて、秋の部屋。

 ここを覗いたのは確か昨年の秋。

 大きな銀杏の葉が音を立てて頭に降り落ちてきそうな、圧倒的な黄色の部屋である。ここで食べたオムライスは、口の中で蕩けた。

 雛だったはずのツバメはすっかり、大人の姿になっている。ツバメは舞い散る銀杏の葉の間を飛ぶと、晴天の空に真っ直ぐ駆け上がる。

 そして、真っ直ぐに廊下へと抜けていった。

「……」

 最後、ツバメが吸い込まれたのは一番奥の扉であった。

 それは、燕の記憶の中にない扉。

 おそらくここを開ければ、冬の部屋があるのだろう。春夏秋冬。まだ見た事のない季節は、冬だけだ。

 しかし。

(越冬は、できない)

 燕は震える手でノブに手を伸ばす。鳥のツバメは冬を越せない。暖かい場所を目指して、ツバメは海を越えるはずだ。

 冬の間に、ツバメは似合わない。

 だというのに、ツバメは真っ直ぐにその部屋を目指しているのである。

「……」

 覚悟と共に、ノブを捻る。と、扉はあっさりと開いた。

「……律子…さん?」

 そこは、白の世界である。ただ、目が眩むほどに白いのだ。足下も、空も、目の前も、ただただ白に塗りたくられて風景も何も無い。

 ツバメの絵も唐突に消えた。全ての部屋にあったはずの、小さく描かれた男女の絵もない。

 ただ、壁の真ん中に律子が居る。

 ……いや。

「律子さん?」

 それは絵である。ちょうど真ん中に、律子の絵が描かれている。

 彼女は真っ白な雪の中、ただ一人で楽しげに俯いているのだ。

 まるで何かを受け止めるように、胸の辺りで手を差し伸べていた。その手の中には小さな卵がいくつか、転がっている。

 彼女は雪の中で、小さな卵を守っている。

「あら、お帰りなさい。早かったのね」

「律子さん!?」

 その声を聞いたとき、燕は最初それがどちらの律子から放たれた声なのか理解できなかった。

 それほどに、目の前の絵はあまりにリアルであった。

「ここの部屋はこれまで何も描けなかったの……冬、夫となってからはあの人と過ごせなかったから。だから真っ白に塗って、それで放っておいた」

 律子は絵の具を取りに行っていたのだろう。新しい絵の具をパレットに捻り出すと器用にそれを混ぜる。青と紺と黒の混じり合う、光沢のある色がそこに生まれた。

「でも描いてみたわ。この一週間でね。自分の絵を、20年ぶりに」

「一週間で」

「びっくりしちゃった。いつの間に、こんなにお婆ちゃんになっていたのかしら」

 描かれた律子はまるで鏡で映したように、そのままである。

 口元に浮かぶ笑みも、目元の皺も、髪の毛に混じった白いものも、手のコブさえも。

 そっと撫でると、血の通いがあるように思われた。

「でも一人じゃ寂しいから、今朝燕くんが出かけてから、家中に、ツバメの絵を描いていたの」

 悪戯が見つかった子供のような笑顔で律子は笑う。

「燕くんを描くと言ったでしょう?」

「鳥じゃないですか」

「せっかくだから一杯描いてみたの……まだ描くわ。仕上げなの、付いて来て」

 絵の具をたっぷりと筆に含ませると、彼女は躊躇もなく、壁に押しつける。

 そして別の筆先には赤を滲ませ、藍色のそれにゆっくりと乗せていく。

 彼女の手の動きに無駄なものなど少しも無い。迷い無く動く彼女の筆先から、ツバメが生まれる。一羽、二羽、三羽。

 青の筆、赤の筆。パレットと壁を何度も行き来する。

「……雛が」

 まだ小さなツバメは、描かれた卵を割って飛び出した。生まれたてのツバメは、雪の壁を寒そうに飛び、やがて部屋の外へ。

 それでも律子の手は止まらない。幾度も筆を絵の具に滲ませて、素早い動きでツバメを描いて歩く。

 三階を抜け、階段を下り、やがて辿りくのは燕の部屋。

 既に描かれている雛たちの下にも何羽か描き足し、最後に彼女は大きく腕を伸ばした。

 それは柏の木にかかった大きな巣の中だ。

 そこに大人のツバメが二羽、幸福そうに寄り添って巣に収まった。

「……お帰り、燕くん。それに、おめでとう」

「律子さん」

 まっすぐにこちらを見つめてくるツバメは、あまりにも幸福な顔をしている。

 柏の木を飛び出して四季を巡ったツバメは再びここに戻って来た。

 それならば。と、まるで祈るように燕はその場に腰を落とした。

「……ここに居てもいいですか」

「あら」

 手を青い色に染めたまま律子は笑う。

「どこへ行くつもりだったの?」

 当然のような顔をして、律子は燕を立ち上がらせる。燕の手に移った青の色は、意外に薄い。それは春の空の色である。

「久々の弟子だから、教えるのがすごく楽しみ。燕くんは素質があるもの」

「……弟子ですか」

「違った?」

「まあ、良いんじゃ無いですか」

 冷えた燕の声に律子は気付くはずもない。その無邪気な顔を見て、燕は小さく息を吐く。

「……今は」

「そんなことより、燕くん、ずっと前に燕くんが買って来てくれたパン、美味しかったから見つけてみたの」

 律子は相変わらず楽しげに、燕の手を引く。彼女が指さす先にあるのは、いつか燕が持って帰った食パンである。

 袋の絵を覚えていたのだと律子は胸を張る。袋に描かれた特徴的な絵は、看板にも描かれている。それで見つけたのだ。と彼女は嬉しそうにそう言った。

 店名など覚えもしないくせに、絵を文字のように覚えるのが律子である。

 よほど嬉しかったのか、大量に積まれたそれを見て燕は苦笑する。

「また、こんなに沢山……」

 ビニールの中には薄く湯気が付いている。まだ新鮮だ。白くきめ細かい肌はいかにも、水分をよく吸い込みそうな柔らかさを持っている。

「律子さん、少し食事は我慢できますか」

「さっき食べたばかりだもの」

「ですね」

 燕は台所に戻るなり、手を洗い指先の絵の具を落とす。

 そして、燕は窓の外を見た。まだ、外は明るい。先ほどまで手に滲んでいた青色と、同じ色の空が広がっている。

「夕飯の用意をしてきます」

「もう? まだお昼にもなってないのに」

「ええ……まあ、それまでは絵でも描いてきて下さい。時間はたっぷりありますし」

 台所から彼女を追い出せば、目の前にあるのは巨大な食パンの固まりのみ。

 冷蔵庫から牛乳、砂糖、卵を取り出して、食パンを大きく切り分けた。

「……さて」

 大きなボウルに割り入れた卵は美しい黄色。白の牛乳、茶色がかった砂糖をしっかりと混ぜると、なんともいえない優しい黄色となる。

 それに、切り分けたパンを沈めると、想像通り、ぐずぐずと柔らかくパンが沈んだ。

(時間を、かけられる)

 それは半年前、燕がはじめてここで作った料理である。

 以前は、あまりに時間が無かった。しかし。

(……前はかけられなかった時間をかける)

 今、時間はある。

「……さて、あと数時間」

 ゆっくりと沈んで行くパンは、黄色の液体を吸い込んで柔らかく蕩けていく。3時間、いやできれば5時間はかけたい。と、燕は思う。

 それを真横に寝かせたまま、燕は机の上に置かれたスケッチブックを開く。

 これは今朝、届けられたばかりの巨大なスケッチブックだ。手触りはざらりと、絵の具にも鉛筆にも馴染む紙質である。

 それはまだどのページも真っ白で、色さえも付いていない。

(何を描くかな)

 久しぶりに握った鉛筆の硬さはすぐに馴染んだ。白い紙の上、迷ったのは一瞬のこと。

 描きだしは震えたものの、やがて静かに柔らかな線となり、それは一人の女の横顔を描き出す。

 数分後、紙の上には春の花が咲き綻ぶような律子の笑顔が生まれていた。



 コンロに火を灯すと、そこだけがふわりと明るく染まる。それを見て、燕は部屋の暗さに気がついた。

 窓の外はもうオレンジを越えて濃紺となっている。

 巣に戻る本物の鳥の鳴き声、そしてクラクションの鳴る音も聞こえる。

 燕は急いでフライパンにバターを落とす。じゅくじゅくと香りが立つのを見極めて、浸したパンをそっと取り出した。

 それはもう、支える先から崩れそうなほどに柔らかいのである。

 崩さないように慎重に。そっとフライパンの中に落とせば、一気に甘い香りとバターの香りが部屋に充満した。

「燕くん、イチゴが届いたわ……あ、良い香り!」

 香りにつられるように、台所の扉が開く。両手に段ボールを抱えた律子が満面の笑みを浮かべている。

 遠くの弟子から、果物が届いたのだ。開けてみれば、新鮮そうなイチゴをはじめ様々なフルーツが詰め合わされている。

 放っておけば食事も忘れる律子のために、少しでも季節のものを、というのか。色彩の綺麗なものならば、律子も喜んで食べると思っているのか。

 イチゴは今薄暗い部屋に負けないほど、美しい赤。

 思えば、世話焼きな弟子ばかりである。

「ちょうどよかった。合わせるものが欲しかったところです。悪くなる前に今日食べてしまいましょうか……ああ、キウイとバナナと……メロンまである」

「まってまって、一番大きなお皿に盛り付けて」

 目に付いたものから切り分け白い皿の隅に盛り上げて行く。一つ乗せるたびに律子の目がきらきらと輝いた。

「……赤色、オレンジ色にいろんな緑色」

 わざと皿の真ん中を大きく開けた。そこに鎮座するものは、もう決まっている。

 両面をしっかり焼き付けた、フライパンの中身はちょうど良い頃だ。

「真ん中に」

 律子は子供のように笑う。その目の前で、燕はそっと柔らかいフレンチトーストを、皿に盛る。

 隅がかりりと茶色に焦げ、真ん中は限界まで柔らかいクリームイエロー。大きな固まりだが、中にまでしっかりと卵液は浸透している。

 さくりと、真ん中を切り分けて律子がご満悦の声を漏らす。

「中まで黄色のフレンチトースト!」

 それはまさに春にふさわしい極彩色の一皿である。

 席に座りながら、律子がはっと顔を上げた。ようやく、机の隅に置かれたスケッチブックに気がついたのである。

「あら。燕くん、さっそくスケッチブック使ったの?」

「ええ」

「見せて」

「駄目です」

 なんで。と頬を膨らます律子の前に、燕は静かにナイフとフォークを突き出した。

「まずは、食べてから」

 料理本が溢れんばかりに乗せられたテーブルで真向かいに座り、手を合わせる。

 そして同時に口を開いた。


「いただきます」


 外は穏やかな風に変わりつつある。少し温い空気が窓から滲んでいるということは、明日は雨になるのかもしれない。

 家中に飛び回るツバメ、スケッチブックに描かれた花の人、テーブルに乗るのは半年前よりずっと柔らかいフレンチトースト。

(……もう、春だな)

 甘い味を噛みしめながら、燕は空気の中に春の色を見た。

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