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夏の残り香、炎のケーキ

「ただいま、燕くん!」

 跳ねるような律子の声は、いつもと変わらない明るさで家の中を染める。それは燕の耳に奇跡のように響いた。

「ああ、燕くん。居ないと思ったら、上にいたのね」

 律子はすぐさま燕の居場所を見つけだした。振り返れば笑顔の律子が手を広げている。

「もう、外が寒いったら。また雨が降りそうよ」

 律子のコートの隙間からは、冬の冷たい空気が漏れていた。

元々体温の低い律子の身体は2月終わりの風に晒されて、ますます体温と色を無くしていくようだった。

「そんな薄い恰好で出歩くからです」

「あら。でも春らしいでしょう?」

 律子は楽しげにそう言って、その場でくるりと回ってみせる。

「……さあ、僕にはそういうことは、分かりませんので」

 これまで、彼女の装いはいつも自由なものだった。厚手のストールにワンピース。またはセーターにスカート。毛玉が付いていても気にしない。

 そこにあるものを無造作に身につけて、布の中に沈み込む。暖かければ、それでいい。そんな、合理的なところが律子にはある。

 しかし今日の彼女は、さわやかな緑色のセーターに、同じ色合いのスカート。柔らかいベージュのコートを羽織り、頭にはコートと同じ色の帽子。

 今日が彼女にとって特別な日であるのだと、あざ笑うような声が耳の奥に響いた。

 しかし律子は燕の些細な表情の変化に、気付くはずもない。

「燕くんが3階にいるなんて、珍しい」

「……掃除でも、しようかと……」

 扉にかかったままの手をぎこちなく離しながら、燕は苦々しく呟いた。

 掃除道具ひとつ持たない燕の言い訳など、瞬時に嘘だと分かるはずだ。それにこの半年、燕はこのエリアに興味さえ示さなかった。

 しかし、気付いているのかいないのか。律子は気にせずに手を打ち鳴らす。

「それもいいけど、今日は寒いから、暖かいお茶でお茶会をしましょう。そうね。それがいいわ。お茶にしましょう、甘い物とお茶」

 いかにも良い事を思いついた。と言わんばかり、彼女は踊るように台所へ駆け下りていく。

「ああ、お茶請けなら、ガトーショコラが」

「作ってくれたの?」

「あんなに分かりやすく置いていれば、誰にでも分かります」

 階下に戻り、オーブンの中を覗けばケーキはちょうど、熱も落ち着いた頃だった。

 そのケーキは、ただ黒いだけで面白みのない黒い塊である。

皿に載せて手に乗せれば、ずっしりと沈み込む。その重さは弟子達から律子に寄せられる、畏怖と尊敬と贖罪の重さそのものだ。

「すごい、本のままの、ケーキ! 早く、早く」

 それでも律子は子供のような素直さで喜色を浮かべる。そしてコートを脱ぐ間も惜しみ、燕を急かすのである。

 気がつけば彼女の手には暖かいティーポットとカップが二つ握られていた。

 ポットの中で揺れるティーパックの周囲が、どろりと重い赤色に染まる。それは、滲むような血の色だ。

 しかし彼女が一度軽く揺らせば、あっという間に暖かい紅茶の色に染まる。

「お茶にしましょう、そうね……暖かい部屋で……むしろ暑い部屋で」

「暑い?」

「こっち」

 律子が燕を誘ったのは、またも3階。

 燕の足が震えたのは、件の弟子の言葉が脳内に響くせいだ。

 ふくよかでゆったり響くあの語り口調が、燕の脳内に幾度も繰り返される。

 3階は、律子の苦しみの部屋でもある。

「……燕くん、そういえばこの部屋ははじめてね」

 律子は躊躇無く3階に進むと、奥から二番目の扉に手をかけた。一瞬だけ彼女は小さく息を吐き、そして吸い込む。

 それはため込んだ空気を吐き出し、今の空気を吸い込む仕草に見えた。

「どうぞ」

 戸がゆっくりと開く。

 その瞬間、熱と水気を含んだ夏の熱風が、燕の頬を撫でた。

「……夏だ」

 燕の目の前に広がっていたのは、青の一色である。いや、一色ではない。水色、濃い青、夕日の端にかかる、オレンジの滲む青の色。そして炎の青。様々な、青。

 壁は、様々な青に塗られている。しかし、その色はトータルでみれば切ない青だ。

 夏の終わりの色である。

 描かれた木々はリアルだが、それもまた夏の終りを予感させる色に塗り込まれていた。

 遠くの空は夕暮れにかかっている。もっと向こうには、小さな花火が開いている。その下を流れる川には、花火の色が溶かし込まれている。

 そこから感じる風は、やはり湿り気を帯びた夏の温度である。どこかで蝉が鳴いている、そんな気がする。

 先ほどまで感じていた春の気配は一気に吹き飛んだ。今の感じるのは、ただ夏の熱気と終わる夏の切ない音だ。

 燕と律子が出会ったのも、こんな季節だった。

「夏だ」

 掠れる声で、呟く。

 と、律子が嬉しそうに声を上げて笑った。

「燕くんは素直に驚いてくれるから好きよ。そう、夏のお部屋なの」

 律子は笑って、机を引き出す。それでも燕は絵から目が離せない。

 一カ所、部屋の隅に小さな男女の絵がみえる。それは人物絵としてはあまりに稚拙だ。背しか描かれていない。老年らしき男と、若い女。男は、女に絵でも教えているのか、絵筆とスケッチブックが描かれている。

 それに触れようとした瞬間、律子が燕の腕を引いた。

「そうそう、燕くん、バレンタインのチョコレート。ケーキの前に少し食べてみて」

 律子が楽しそうに小さな箱を差し出す。それは掌に載るほどの小さな箱である。

 ふたを開けると、規則正しく四角い生チョコレートが並んでいる。上から振りかけられたココアパウダーは、光によって不思議な色に輝く。

 律子はピックで一粒貫いて、それを燕の顔に近づけた。

「大丈夫。手作りじゃないから。百貨店で買ってみたの」

「安心しました」

「はいどうぞ」

 甘い香りの奥に、燻された香りが鼻をつき燕は動きを止める。

 それは煙草の匂いだ。それは律子の手から香る。

 柏木は煙草を吸った……と、いつか律子はそう語った。だとすれば、これは追想の煙の残り香だろう。

 墓参りの日、冷たい墓石の前で彼女は煙草に火を付ける。浮かれた世間の中でただ一人、冷たく乾いた冬の空に上がって行く煙はどれくらい空しいものか。

「……いただきます」

 燕はその想像を払った。

 乱暴に律子の手を掴んで引き、チョコレートを口に運ぶ。甘味と苦みが口いっぱいに広がった。

 ざらりとしたココアの苦みと、ねっとりと口の中で蕩けていく甘いチョコレート。力を入れなくても、口の中ですぐに溶けて消えて行く。

 残るのは、喉の奥が焼け付くような甘さだけだ。

「甘いですね」

「美味しいでしょ? それより、ガトーショコラが美味しそう。朝に見つけて、食べてみたくてずっと眺めていたの」

「だと思いました」

「……でも、色がさみしい」

 二人の間、机の上に置かれたものはただの黒い固まりである。

 それを切り分けようとすると、律子が突然立ち上がった。

「あ、ちょっと待ってて、良い事思いついた」

 音を立ててどこかへ消えたかと思えば、数分後に戻って来た彼女の手には様々なものが握られている。

 数々のドライフルーツ、ナッツ、マシュマロ。白や黄色の様々な色のチョコペンシル。

「律子さん?」

「ほら、これで賑やか。夏の部屋にもぴったり」

 ドライフルーツとアーモンド、マシュマロの袋を全開にすると彼女は躊躇なく、白い皿にひっくり返す。あっという間に、そこは彼女のキャンパスとなった。

 白に黄色に緑に青。色とりどりに飾られた黒いガトーショコラは一気に楽しげに見える。

 いかにも夏の鮮やかさである。

 燕が座り込んでいる合間に、全ての用意が調った。

「そして、これね」

 悪戯を思いついた顔で彼女が差し出したのは、重苦しい茶色の瓶。それは棚の奥でただの飾りと成り果てていた、高級なラム酒である。使い処もなく、眠るだけだったそれが開けられる。

 ふわりと、甘い香りが漂った。

「これを、こうして」

 ガトーショコラの上に、律子はさっとラム酒を振りかける。そしてどこから取り出したのかロングライターに火を付けて、自慢げに見せつけた。

「これ、以前にテレビで見たのだけど」

「……貸してください。家が火事になる」

 彼女の意図を読み取った燕は、その手からライターを奪うと、すぐに炎をケーキに近づけた。

「ああ」

 ……黒いはずのガトーショコラの表面に、一瞬だけ青い炎が燃え上がる。それは海のように波立って、すぐに消えた。

 残ったのは、甘い香りだけである。

「青い炎、一瞬だけだったけど。綺麗」

 律子はうっとりと呟く。先ほどまではただ寂しいだけに見えたケーキは、今やこれ以上ない賑やかさで燕の前にある。

 律子は切り分けたそれを一口食べると、いかにも幸せそうな顔で頬に手を当てるのである。

「さくさくで、でもしっとりしててすごく美味しい。燕くんはお菓子作りも上手ね。ホワイトデーに、なにかお返ししなきゃ」

「では……」

 ケーキを切り分けようとした手を止めて、燕は律子を見つめる。

「今、ください」

「今? 今は何も用意なんて」

 不思議そうに首を傾げる律子に構わず、燕は彼女の手を取った。突然の燕の動きに、彼女はフォークを床に落とす。土の描かれた床に落ちたフォークは、からからと音を立てて転がる。

 これは、絵だ。燕はその軌跡を目で追って確信した。ここにあるのは、全て絵だ。

「燕くん?」

「質問に答えてください」

 律子の手は、身体に似合わない無骨さがある。指に筆の跡がしっかり残り、まるでその指は筆を握るためだけに存在するようだ。

 関節も指も固い。だというのに、筆を握らせればしなやかに動く。

 燕は彼女の手を自分の頬に押し当てた。冷たく見える癖に、その手は温かである。

「律子さん、もう長い間、人の絵が描けなかったというのは本当ですか」

「……あの子が来たのね」

 律子の声に陰影が生まれた。その重い口ぶりに、彼女の過去が滲み出る。

 燕は律子の手を額に押しつけ、俯く。そして唸るように呟いた。

「……僕は、1年、絵が描けない」

 絶望を覚えた春から、足掻いた夏。諦めた秋に、焦りを覚えた冬を越えてまた春が来る。

 この1年、燕を絶望させたのも焦らせたのも全て絵だった。

「あら、1年なら、大丈夫」

 律子はころころと笑う。

「20年でも、描けるようになったもの。燕くんのおかげで」

 いかにも自由に見える律子だが、この季節の部屋で彼女もまた、絵に20年も囚われている。

「燕くん。手を貸して、右手よ」

 燕はまるで懺悔でもするような姿勢のままで、顔も上げられない。その手を、律子が左手でなでた。

「ほら、大丈夫」

 律子は燕から手を離す。

 自分の手の代わりに握らせたのは、赤いチョコペンシルだった。弟子達から届く荷物の中に、いつの間にか入り込んでいたものである。

 律子は音もなく立ち上がり、燕の真後ろに立つ。そしてチョコペンを掴んだ燕の手を、律子の手が包み込んだ。

 まるで幼稚園の子供に筆の持ち方を教えるかのように。

「律子さん?」

「しっかり握って……でも力は込めない」

 律子の手が燕の背を撫でる。それだけで力がするりと抜けた。

「肩の力を抜いて」

 律子が誘うままに、その手が動く。彼女は迷うことなく、ガトーショコラの上に燕の手を誘う。

「何がいい? そうね、好きな物を」

 ナッツやドライフルーツを払い落とせば、現れたのはごつごつとしたガトーショコラの黒の表面。

 あまりにも重苦しく思われたそれは、今や黒の画板である。律子の手に支えられ、燕は恐る恐る、チョコペンシルを押す。とろりと溢れた色は外から見える色よりも、淡い薄桃色である。それをみて燕の手が自然に動いた。

 線が震えたのは最初の一瞬。そのあとは、まるで滑るように燕の手が動く。抵抗はほんの一瞬のことで、気がつけばそこに、小さな梅の花が描かれていた。

「……可愛い。梅の花。さっき一瞬、甘い香りがしたのは梅の匂いね。さあ次はどの色にする?」

 次の色は黄色のチョコレート、生まれたものは銀杏の葉。その次は白、雪の結晶。黒いキャンバスに、色が増えて行く。

 それはこの半年の間に、燕の上を通り過ぎていった様々なものである。気がつけば、ガトーショコラの上は鮮やかに彩られている。

「ほらね、描くのはこんなに楽しいでしょう」

「……描けたのは律子さんのおかげだ」

 手からチョコペンシルが落ちる。気がつけばどの色も空っぽで、燕の手は甘い残り香に包まれている。 

 ガトーショコラに描かれたものは、いかにも稚拙な子供じみた……落書きともいえないものだ。

 半年前の燕なら一笑に付すか、顔を背けたに違い無い。父や母が見れば、どんな言葉で叱責するだろう。

 しかし、燕の屈折の殻を破るには充分な色である。

「あら。私、燕くんの手の上に、添えていただけよ」

 律子は楽しげに燕の手を軽く撫でた。たしかにその手は、燕に添えられていただけである。

「途中から、動かしてもないのよ」

「でも、律子さんのおかげで」

「私が魔女だからかしら?」

 律子は冗談のように笑い飛ばし、燕から離れようとする。

「……僕は最初から律子さんを魔女だなんて思っていませんよ」 

 その手を、燕は引き寄せた。

「努力をする人の手だ」

 その手は、20年間もがいてきた手だ。

 自分の手と、律子の手を並べる。燕の手は、律子に比べると生白く、細いばかり。

「……努力をしない僕の手とは違う」

「夫よ」

 律子が嘆息するように、自嘲するように呟く。

「最初に魔女と言い出したのはね」

「では、その人は律子さんのことを買いかぶりすぎだ」

「せっかくのガトーショコラ、乾いちゃう前に食べましょう……夏の暑さに溶けてしまう前に」

 律子が笑って軽く手を打ち鳴らす。

 と、途端に熱が戻ってきた。そこはやはり、夏の空気だった。

「色んなチョコレートの味、美味しい」

 さくさくとしたガトーショコラの表面には、柔らかいチョコペンシルの甘い味。中に進めばとろりとした柔らかみを帯びた食感に、バターの香りが鼻を抜ける。ナッツの食感、ドライフルーツのねっとりとした味わいも爽やかな甘さを加えていく。

 甘い口の中を濃く温い紅茶で流せば、あとに残るのは爽やかさだけだった。

「あ。そうだ。プレゼントといえば、燕くんまだ開けてないものがあるじゃない」

「プレゼント?」

「クリスマスプレゼント。箱を開けてみて」

 ああ。と、燕は思い出す。それは燕の部屋に描かれた小さな箱である。

 それはクリスマスの夜から、けして枯れない柏の木の下にそっと置かれたまま忘れられている。

 


 夏の部屋を出た頃、外はすっかりと夜に染まっていた。

 昼の日差しに晒されていたのはただの錯覚で、ビルは冬の闇に包まれたままだ。

 部屋に戻ると、途端に冬の空気が燕を包む。早春といっても、まだ風は冷たい。夏の空気は、部屋を出た途端に一気に消えた。

 しんしんと冷えた部屋の壁の前で、燕は腕を組む。

 壁一面に描かれた柏の木。そして小さな箱。手で触れると、ざらりとした感触だけが伝わる。

「開けるといっても……どうやって……ああ」

 は。と燕は目を見開いた。柏の木も巣も全て着色されているというのに、箱だけはまだ鉛筆描きのままで放置されているのである。

「……なるほど」

 律子の好みそうな誘いかけだ。

 腰を下ろした燕は慎重に閉じたままの箱の蓋を消しゴムで消す。そして描き足したのは開いた箱の蓋。箱の外には、少し悩んだあと、スケッチブックを描き足す。それは律子の持つスケッチブックだ。

 描き終わった途端、後ろから噛み殺すような笑い声がきこえた。振り返れば、律子が扉に背を預けるように立っている。

「わかった。今度あげるわね。私のお気に入りのスケッチブック」

「……律子さん」

 よそ行きの服から着替え、だらしないほど長いストールを身に纏う律子は、いつもの彼女であった。

 燕の部屋は薄暗い。しかし律子の立つ廊下は、薄く光が灯されている。その光に一歩近づくように燕は立ち上がる。

「なあに?」

「大学を……復学しようと思います」

 燕の喉が、震えた。


 その先に繋がる言葉を、燕はあまり覚えてはいない。

 幼い頃の話をしたようである。

 小学生、中学生、そして高校から大学へと渡る話だ。それは幾度も前後し、感傷が挟み込まれた。夢も語られたし、恨みの言葉も吐いた。まるで雲を掴むような支離滅裂な話であった。

 ただ、律子はけして目をそらさなかった。真っ直ぐに見つめ、燕が言葉に詰まると時折先を促すのみである。

 父と母の話をした気もする。ただそれよりも、絵を語ったようである。喉の渇きを覚え、燕は頭を垂れる。

 気がつけば、二人とも冷たい床に座り込んだまま。

 燕は、まるで祈るように律子の膝に額を押しつけている。

「律子さん」

 俯いたままの燕の声は、くぐもって響く。しかし律子はまるで気にせず、燕の背をゆっくりと撫でる。

「なあに?」

「……僕は、絵を描くことが好きだ」

「そうね、私も好きよ」

 律子はストールで燕の手を包み込む。その温かさに、自分の身体が冷えていたのだと気付かされる。

「燕くんの手は、描くことを忘れてないし、私の手も描くことを忘れていなかった」

 律子の言葉はいつもより低い。それはあの映画の声に似ている。

 やはり、あの映画の声を収録した時期、柏木は死んでいたのだろうと燕は思う。

 律子は背を撫でる手を止めず、まるで歌うように呟く。

「燕くんの作るものを食べて、この子は絵を描く子だと思ったの。何故かは分からないけれど……でも、まだ絵のことを嫌いになっていないのなら、今度こそ、助けられると思った。思ったはずなのに、私が救われていた」

 律子の声は20年前を見ている。

「燕くんをみたとき、20年振りにね、描いてみたいと思ったの……多分、それは……」

 律子はそのあとを続けなかったが、燕には分かった。

 夏の終わりの夕暮れの頃、出会ったあのとき。燕と律子のなにかが、共鳴したのである。

「そうね、私もそろそろ」

 律子はまるで子供をあやすように燕の背を撫でる。そして、彼女の目が壁を見た。

 そこには巨大な柏の木と、木にかかった巨大な巣。そして、不自然に空けられたスペースが白い。

「色を塗らなくっちゃ」

 まるで覚悟を決めたような律子の声に、雨の音が重なった。

 一度は止んだはずの雨がまた降り始めたのである。それはまるで滝のように降り注ぎ、窓を綺麗に洗い流していく。

 窓から滲み出た雨の匂いは、冬の残り香である。

「だってもう、冬も終わるもの」

 律子の声はどこか、覚悟めいた響きで燕の中に響いた。

 それは確かに冬の終わり。春のはじまる直前のことである。

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