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ガトーショコラに魔女の過去

 甘い香りに包まれるはずのその朝は、窓を叩く冷たい雨で始まった。

 響くその音で起こされた燕は、うっすらと目を開く。目の前にはいつもの天井、いつもの窓、いつものベッド。

 いつも。というが、それもたった数ヶ月前からはじまった「いつも」だ。この風景を眺めるようになって、まだ半年……いや、もう半年というべきか。

 ただ今日の朝はいつもとは違う。重い寝起きの頭をかき乱し、燕はベッドから起き上がった。

 雨の音以外、何も聞こえない。ただ静寂だ。窓の外はただグレーの塊が広がるばかり。

 明るく燕を呼ぶ声も、筆を滑らす音も何も聞こえない。

 ただ代わりにそこにあったのは、新しい色である。

 燕の部屋に描かれた巨大な柏の木、その最も太い枝に巣のようなものが描き足されていた。それは数日前まで、落書きのように書き殴られていた物である。

 鉛筆で書き殴られていた黒い固まりは、細い枝が複雑に絡み合う鳥の巣に姿を変えていた。おそらく燕が眠る間に律子が仕上げたのだろう。

 焦げた茶色に緑がかった茶色。複数の茶の色が何重にも折り重なって、まるでそこに実物があるようだ。

 しかし触れてみても、それはざらりとした壁の感触。

(……ここに俺を描くと、あの人は言ったはずなのに)

 この壁に燕を描くのだと、律子が言ったのは夏の終わり。

 確かに燕の絵は着実に増えている。しかしそれは彼女が持つスケッチブックの中のみ。

 素描のように描かれた燕はすでに100枚を超えた。しかし、いつまでも色を持たない。

 料理をする燕、眠る燕に本を読む燕、立つ燕に座る燕。白黒で描かれた燕は今にも動き出しそうなほど見事だが、モノクロのままスケッチブックの中に閉じ込められている。

 今日もまた、壁に燕は描かれていない。

 そのかわり、床にはまだ絵の具や筆が散乱したまま。それを踏まないように床に降りたち、台所へ向かう。

 そこは静かで冷たい。そして、人の気配はない。

「律子さん」

 つい癖で呼びかけて、燕は口を押さえた。

 癖とは恐ろしいものだ。声をかければ台所の隅から、もしくはアトリエの奥から律子がひょっこりと顔を出しそうな気がする。

 床の片隅でだらしなく眠りこけている気がして隅々まで探すが、もちろんそこに人影もない。

「……またこんなに、散らかして」 

 燕は机の上に散乱したチョコレートの包み紙を片付ける。それは律子がさんざん散らかしたのだろう。中途半端に減ったものもあれば、開けただけで満足したらしいものもある。

 その下でチョコレートの欠片にまみれている本は、偶然か必然か、ちょうどチョコレートケーキのページだった。

 どっしりとした風貌の、ガトーショコラ。しっかり焼けた黒の体には艶もない。

 ただ上に振りかけられた白い砂糖と、ぱくりとひび割れた皮膚から見えるどろりとした黒が蠱惑的にも見えた。

「……」

 燕の目は無意識に、壁にかけられたカレンダーを見る。

 それは土曜、2月14日。

 この家が焦げたチョコレートの香りに包まれたあの日から、ちょうど一週間。

「これくらいなら僕でも作れそうですね、律子さん」

 チョコレートの山から本を救い出し、燕はつぶやく。その本に、薄く朝日が差し込む。

 雨は、昼前には止むに違い無い。


 

 甘いものを作った経験のない燕だったが、いざ作り始めると料理よりもすんなり進んだ。

 料理よりもケーキのほうがより実験的だ。本に書かれているとおり素直に量をはかり、混ぜる。

 チョコレートを刻むときに舞い上がる甘い香りには辟易としたが、混ぜるうちにそれも慣れた。

 大きなボウルに刻んだチョコレートとバター入れて底を湯に当て混ぜる。ごろごろとした重い感触から滑らかな感触になるのは、意外にすぐのことである。

 混ぜれば混ぜるほどに、艶が出る。黒にも色があるのだ、と律子は言った。その通り、チョコレートの黒とバターの白が混じり合うと不思議な色になる。

 抵抗は一瞬のこと。絵の具であれば黒と白を混ぜれば濁った色になるだろう、しかし今、燕の目の前にあるのは光を内包したように、輝く黒である。

 それに小麦粉と卵黄を割り入れ、また混ぜる。色がついたのは一瞬でまた深みのある黒となる。

 指についたそれを舐めると、喉の奥に甘みが絡んだ。バターの塩気とチョコレートの甘み、濃厚な濁流となって喉を焼く。

(焼くのがもったいないな)

 燕はふと、そんなことを思った。この色を律子に見せれば、なんと答えるだろうか。そんな淡い妄想に首を振る。

 そんな妄執を払うように燕はそれを型に流し込み、さっさとオーブンに収めてしまう。

 赤い熱がチョコレートに注ぎはじめると、途端に部屋中に甘い香りが漂った。それは以前、律子が放った凶悪な香りではない。

 どこか懐かしい、優しい甘さだ。

 チョコレートの香りだけではない。その奥で、バターが香っているのだ。バターが熱を持つとこんなにも優しい香りがする。

(……何か、足りない)

 しかし、燕の心は満たされない。何か足りない、とどこかで叫ぶ声がする。

 それは色彩だ。窓の外は灰色、ケーキは黒。他に色がどこにもない。

 律子がそこにあれば、彼女が何かしら色を生み出す。放っておいても、彼女のそばには色があった。

「……色、か」

 机の隅に放り出したままとなっている絵の具と筆に、ふと目がとまる。恐る恐るそれを手に取り、筆先を水と赤色をにじませた。

 さんざん迷ったあげく、燕は床に落ちていた紙にそっと筆を置く。

 ……それだけだ。

 色は紙に滲んだ。それは赤い染み。いつか燕が画用紙に付けた赤い染みよりも赤い。

 震える筆を無理矢理動かし、そこに生まれたのは震える線。

「……」

 白い紙の上、赤い線が何本も生まれる。それは燕の気持ちを映したようにどこまでも不安定であった。

 筆を持つことをあれほどまでに拒んでいた燕だというのに、あっさりと筆を取った現実に気づかずにいる。

(……帰ってこないかもしれない)

 一本目は震える線だった。二本目もまだ駄目だ。しかし三本、四本、五本、数が増えるごとにその線はどんどん力強くなっていく。

 燕が考えていたのは、筆のことも絵のことでもない。この静かすぎる家についてである。

(そのまま、帰って来ないのかもしれない)

 律子は燕に何も言わず、家を出た。おそらく早朝であろう。 

 がらんとしたこの家は、燕一人には広すぎる。去年のクリスマス、燕もこの家を飛び出した。そのとき、律子も同じ気分を味わったのだろうか。

(何を考えている、俺は)

 目の前に増えて行く赤い線を握りつぶし、ゴミ箱の奥にねじ込む。指に、赤の色が滲んでいた。

(俺はただの、ただの居候で)

 食事を作り、モデルとなる。ただそれだけの居候である。

 しかし数ヶ月前、律子の口から飛び出した彼女の夫という存在が、燕の中に澱のように沈み続けている。

 最初は気づかなかった。むしろ律子にそんな存在があったことが意外ですらあった。

 しかし時間が経つごとに、その澱はどろどろと重くなる。

 もう存在もない、見た事もないその男は、確かにこの家に気配を残しているのだ。

 不気味に思えるのは、明瞭としないからだ。恐ろしく感じるのも、同じ理由だ。

 はっきりと律子に聞けばいい。彼女は無邪気に答えるだろう。

 しかし、燕は問いただせるような立場にいない。

(分をわきまえろ)

 と、自分の中で声が響く。自分の立場を、考えろ。

 絵が描けなくなった自分の人生など、なんの彩りもない。死ななかったのは死ぬのが恐ろしいからだ。

 しかし、生きたいと思い始めたのは、律子の絵に触れてからだ。

 その時から、燕の目の前に極彩色が溢れた。

「……ん」

 柔らかい音色が台所に響く。顔を上げればちょうどオーブンが動きを止めるところ。 

 ふたを開ければ、甘い湯気が燕の顔を包み込む。

 焼き上がったそれは、取り出せばずっしりと重い。できあがったものは焼く前とは違い、殺風景な黒茶の塊である。

 しかしそれがガトーショコラの特性なのか、燕の思いが伝播したのか、まるで迷い線のようにショコラの表面が不安定にひび割れていた。



 緩やかにチャイムが鳴ったのは、昼少し前のことである。

「律子さん?」

 湿った部屋に響くチャイムは重い。急ぎ足で扉を開けた燕は、自分でも分かるほど苦い顔をした。 

「……珍しいですね。あなたくらいだと、今日律子さんがいないことを分かっていると思いましたが」

「ええ。今日は師匠はいない、分かってますよ」

 それは例の、弟子である。いつものように顔には穏やかな笑みを浮かべているくせに、目の奥は笑っていない。

 彼は部屋の奥に鋭い視線を走らせたが、すぐさま鷹揚に燕を手招いた。

「どうせ暇でしょう。少し外に出ませんか。雨も止んで、暖かくなりました」

 彼が燕を誘いだしたのは、近所の公園である。雨はすっかりあがり、白い雲の隙間には青い空が見える。地面はしっとりと濡れているが、屋根に守られたベンチは奇跡的に乾いていた。

「甘い匂いがしましたが、あんなものも作るとはすごい人だ」

「作りたくて作ったわけでは」

「君に任せておけば師匠の栄養管理は、問題なさそうですね」

 はは。と軽い調子で男は笑う。いつもより、妙に快活だ。贈り物を持ってきていないところをみると、律子がいないことは織り込み済みなのだろう。

 律子は果たして何年前からバレンタインの墓参りを実施しているのだろう。と、燕は苦く思った。

「そんな話をするために僕を? そもそも、律子さんに会いたいのなら今日は会えないことはわかっていたはずですが」

 ベンチに座るよう促され、燕は彼から少し距離を置いて腰を下ろす。そんな燕を見て、男は子供を見るような目を向ける。

「今日は、君に会いに来ました。そういえば君には私の名前さえ、あかしていなかったと思いましてね。私は柏木といいます」

「……はあ」

「みてください、もう梅の花が咲いている」

 ベンチの隣には梅の木がある。花の可憐さに反して、梅の枝は凶悪だ。

 薄い緑色をした太い枝が、太陽光を求めるように貪欲に天に向かって手を伸ばしている。

 まるで棘のように伸びる枝には、紅梅の赤い影が滲んでいた。

 その花に顔を近づけ、柏木はうっとりとその香を楽しんでいる。

「今日は、私にとって二度辛い思いをする日です」

「二度?」

「一つは、師匠がいつまでもこの日に墓参りにいくこと、そしてもう一つは」

 雨上がりの公園には人が少ない。燕は急に冷えてきた風に、手をすりあわせる。

 柏木は挑むように燕をみた。

「父はやはり死んだのだと実感すること」

 柏木の腕が枝に触れ、花が数枚散る。

「師匠の夫は、柏木螢一は……私の父ですよ」

 赤い花びらが彼の黒いスーツの上に舞い落ちた。 



「私の母、つまり柏木の……父の最初の妻は早々に亡くなりました。その後、出会ったのが師匠です。私はまだ学生で、師匠は25……いや、4だったかな……ちょうど美大を出たところで、まあ古い話です」

 柏木は話すきっかけを掴んだように、止めどなくしゃべり続けた。

 まっすぐに燕を見つめたまま、彼の言葉はとどまることがない。

 燕もまた、呆然と彼の口の動きを見つめていた。

「師匠も最初は父の弟子として、アトリエに入りました」

 柏木は語る。

 まだ若い律子は、花で言えばまだ蕾のようなところ。しかし、柏木の絵に触れ教えに触れ、一気に才能が開花した。

 それは、律子の住むあの古いビルである。あそこが、全てのはじまりだった。

 最初の妻を早々に亡くした柏木は、若い才能を目覚めさせるという楽しみを見いだした。妻を亡くし落ち込んでいた彼だが、周囲から驚かれるほど精神を回復させた。

 二人の仲は公認のものであった。と柏木はつぶやき、燕をちらりとみる。

 その視線が腹立たしく、燕は目をそらす。

「……ただし、二人の結婚は遅かった」

 結婚といっても事実婚だと柏木はいう。

「師匠が40歳の頃、父はもう60をとうに越していました。私を含め、弟子たちをみる師は父ではなく、師匠に移っていました……そして忘れもしないまだ早春の頃に、ささやかな結婚式を」

 柏木の顔に浮かぶのは、憧憬と悔恨の色である。しかし彼は器用にそれを隠した。

「そしてその年の夏、父は事故にあって手に怪我を負い、同じ秋に自分勝手に死んだ。結婚生活は春から秋まで、たったこれだけです」

 燕は律子の言葉を思い出す。夫と過ごせたのは春から秋までと言っていた。結婚をしてからの蜜月はあまりに短い。

「それもこれも、もう20年も前の話です」

 20年前。その言葉をきいて、燕のどこかで何かが音を立てる。

 目の奥にオレンジ色の夕陽が浮かんだ。それは、律子がメディアに露出した唯一の映画。あの、夕暮れの映画である。

 あれもちょうど、20年ほど前の頃である。

 時系列として柏木の生前かどうかは不明だ。しかしもし、死後直後であったとしたならば、律子はどのような気持ちであの夕陽に染まる女主人を演じたのか。

 燕は自身の動揺を隠すように、柏木に問いかけた。

「それでも、籍は入れていなかった。なぜです」

「父が臆病だっただけです。年齢の差をいつも気にして……出会った時から、師匠に惚れていたくせに、10数年も待たせて、他の男が……例えば私が近づくことさえ許さず執着した男の醜さだ」

 柏木は皮肉に笑ったがそれは自分に対する自嘲でもあったのだろう。やがてまじめな顔をして、燕をみた。

「君は師匠のことが好きですか」

 昔から燕はポーカーフェイスが得意だった。表情一つ見せずに振る舞うことで、自分を絵の世界に閉じこめることができた。

 しかし今、自分の顔はさぞ情けないことになっているに違いない。と、燕自身そう思う。

 苦々しく唇をかみしめて、

「……わかりません」

 と、それだけをつぶやいた。

 好きか嫌いかでいえば、嫌いではないのだろう。しかし好きと言い切るには、燕にその感情が欠落している。

 その気持ちは恋情か、慕情か。恋というには遠すぎて、慕情というには執着心が勝る。つまりは、子が母を求める感情に似ている。

 そんな燕の顔を見て満足したのか、柏木が皮肉に口の端を持ち上げた。

「君もどこかでセーブしているくせに、執着している。私と同じように、男はいくつでもそんな醜さがある」

「律子さんは……あなたの父親のことを、好きだったんですか」

「それはもう。ただ、これは私の勝手な希望であり想定ですが、師匠が愛していたのは父の作る色であり絵であり、父はおそらくそれに気づいていた……まあきっかけは何であれ、結局師匠は父のことを愛していたんでしょうね。父の死後、20年にもわたって人物の絵が描けなくなるほどに」

「人の……絵?」

 燕の動きが止まる。律子の描く人の絵などこの半年でいくらでもみた。それは燕の絵である。

 調子がよければ1日でスケッチブックを一冊消費するほどに描いていた。止めても、筆が止まることなどなかった。

「ああ。そういえばあの部屋は、まだあるのでしょうか」

 しかし、柏木は気にせず続ける。

「3階にある、いくつかの……季節の絵が描かれた」

「……」

「あるんですね。あれは、師匠が私の父への供養のために描いた……いや、違うな。師匠が心の整理をつけるために描いた二人の絵です」

 これまで燕はその部屋で春をみた。秋をみた。どちらにも、小さな男女の絵があった。律子の筆には珍しく、小さな人物絵であり、完全に風景に埋没していた。

「あれをみて、あそこにこもったまま何日も出てこない師匠を見て、私は師匠への懸想を諦めましたよ。やはり、あの人は魔女だ」

 柏木は自嘲めいた息を吐く。

 彼だけではない。これをきっかけに、多くの弟子が去ったのだろうと、燕は想像する。去ったのは律子を見限ったのではない。救えなかった己を恥じて去ったのだ。その贖罪はいまだに律子への贈り物として残された。

 ハロウインのカボチャ、ボジョレーとクリスマスのワイン、食べきれないほどに届くおせちにバレンタインのチョコレート。これからも果物、野菜、肉、季節ごとに大きな段ボールが届くに違い無い。

 その箱を見つめて、律子は20年生きてきた。

 足繁く通う家を訪れる弟子は、かつての夫の息子のみ。

 傷をえぐられ続けた律子は、どのような気持ちで過ごしていたのか。

「……君にようやく話せて、よかった」

 長い語りであったが、時間はさほど経っていない。柏木は高そうな腕時計にちらりと目を走らせる。まだ、30分も経っていない。

 そしてすっかり会話に飽きたように、燕を冷たく見る。

「何か質問はありますか?」

「なぜ僕にこんな話を?」

「師匠はどうせ過去の話などするはずがない。君も聞くはずがない。だから、教えてあげようと思っただけです……いや、違うな」

 言いかけて柏木は顎に手を当てる。

「……君は、これまでいた弟子の誰とも似ていない。20年間、人物画を描かなくなっていた師匠が君の絵を描いたことにたぶん、私は嫉妬と……希望を」

 柏木は冷静に振る舞ったが、その声の奥に隠しきれない嫉妬が見えた。

「いくつになっても私は子供だ。そして父も子供だったと、今この年になってようやくわかりました。そして君も、あと20年たてば、わかります」

 梅の花についた雨の滴が曲面を滑り落ちて燕の指に落ちる。

 それはかすかに甘い香りがする。

 律子と柏木の父は早春に結婚をしたのだという。それはこのような季節だったのだろう。 

 どのような二人だったのか、柏木に聞こうとして燕は口を閉ざす。

 代わりに、梅の花を見上げた。雨の滴まで花の色に染まるほど、凛とした紅である。

 ふいと顔をそらした燕を見て柏木が意地悪く吹き出す。

「気づいているのかいないのか……普段はなににも感情を動かさない君が、この話になるととたんに乱れるのはみていておもしろいね」

「その言葉、そのままお返ししますよ」

 憎々しく吐き捨てれば、今度こそ柏木は快活に笑った。

「ああ。すっかり体に梅の匂いがついてしまった」

 梅の花はまだ蕾が多い。しかし暖かな日差しを受ければ、まもなく満開の頃を迎えるだろう。

 そうなれば、もう春がくる。

「もう春ですね」

 去る冬を惜しむように、柏木が妙に落ち着いた声音でつぶやいた。



「……ただいま戻りました」

 家に戻ってもまだ人の気配はない。チョコレートの甘い香りが漂うばかりだ。

 それでも、つい癖のように声がでる。

 半年前にはなかった習慣である。ほかの女の家はどこか燕を拒絶していた。女の心がさめるごとに部屋も冷たくなっていった。

 それを合図に、燕は女の家を出てまた次の女の家に流れていった。

 しかし、この家はいつまでたっても燕を拒絶しない。

 そしてようやく気がついたのだ。家が、女が燕を拒絶していたわけではない。

 燕自身が拒絶していた。

「……俺がいる」

 部屋のなかに散乱しているスケッチブックを手に取る。

 中には、まだ半袖姿の燕がいた。

 夏の頃の絵である。フライパンを持つ燕の顔はどこかぎこちない。それと同じく、律子の線もぎこちない。

「迷い線」

 顔に身体に震える線が見える。朝、燕の描いた赤の線にも浮かんだ迷い線だ。今になれば分かる。初期の頃の律子の絵は、線が戸惑っている。

 出会ったとき、律子は燕の絵を描いていた。その絵は目を見張るほどに素晴らしいものだったが、最近の絵に比べればずっと落ちる。

 たしかに、半年前の律子は人の絵をかくことに恐怖を覚えていたのだ。

 燕はスケッチブックを抱きしめて階段を上る。3階に一人で向かうのは初めてのことである。

 そこは、律子の聖域であった。

 細い廊下に向かい合うようにいくつもの扉。そのうち二つはみた。あざやかな春と秋。

 まだ足を踏み入れていないのは、夏と冬。

 いつか律子は言った。「その時がくれば、見せてあげる」と。

 しかし、その時とはどんな時なのか。

 未知の扉に手をかける。冷たい金属の固さに燕の手がふるえた。


「ただいま、燕くん……なにこれ、すごい、チョコレートのいい匂い!」


 燕の手を止めたのは、律子の声だ。

 まるで奇跡のように階下から明るい声が聞こえた。

 それは燕が目覚めて数時間、グレーに包まれたこの家に色彩を送り込むような声である。

 燕は安堵したように、扉からそっと手を離した。

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