夜を忘れて激辛チリコンカン
甘いものはそれほど好きではない。
喉に絡むような濃厚なチョコレートも、口の中でどろりと広がる洋酒風味のカスタードクリームも、口の中の水分を奪っていくパウンドケーキも、そこにちりばめられたねっとりしたドライフルーツも。
どれも、燕はあまり好まない。
だからその日、目覚めと同時に彼は少し頭痛を覚えた。
「……ひどいな」
潜り込んだ布団から、見上げた時計の針が指すのは朝5時前。
冷え切った窓の外はまだ暗く、鳥の声も聞こえない。音もない。ただ、匂いだけが充満している。
「ひどいな」
また燕は呟いて、頭を押さえ起きあがる。匂いの元凶をたどるうちに、燕は軽いめまいを覚えた。
匂いは部屋の外。部屋を出て階段を上った先の台所から漂っている。
まるで甘い道が続いているようだ。導かれ階段を上るにつれて匂いはどんどん強くなり、扉を開けると香りの奔流が燕を襲った。
「……甘い」
口を押さえ、思わず一歩退く。できるだけ息をこらえ、台所の奥に見える影に声をかけた。
「律子さん」
「あ。燕くん、起こしちゃった? 音は立ててないつもりだったんだけど」
「音より、匂いが」
「あら」
まるで踊るように、律子は台所から顔をだす。
彼女は相変わらず朝から元気がいい。早く起きたというより、寝ていないのだろう。
普段は見むきもしないエプロンなどを身につけて、普段は触りもしない鍋に向かいあっている。
匂いの元は、彼女が手にするごくごく小さな片手鍋からである。
そういえば筆と箸以外のものを持つ彼女を久しぶりに見た、と燕は思う。
「そんなに甘い? ずっと台所にいたから気づかなかったわ」
「信じられません、あなたのその鼻が」
「あら、そうかしら?」
律子はその鍋を燕の顔に向けた。どろりと重い黒の液体が、マグマのように沸き立っている。
濃縮された甘い香りは、暴力のように湯気とともに燕の顔にまとわりつく。燕は無言で、顔をそむけた。
「やめてください。甘さもここまでくると暴力です」
「チョコレートのね、お菓子をね。作ろうと思って」
「……律子さん、何かを作るときにはまず、そこにある本の束から料理の方法を調べるか、それか僕に聞いてください」
あら。と、律子は口を押さえる。机に放り出してある料理本は、めくられた形跡もない。
律子の目線が鍋から離れた隙をねらい、燕はそれに蓋をする。が、空気に染みこんだ匂いはその程度では消えるはずもない。
「ちなみに聞きますが、どんな風に作りました」
「チョコレートを刻んで、鍋に入れたの。溶けたら型に入れて固めるんでしょう?」
料理本の代わりに、机の上に散乱しているのは高級チョコレートの包み紙。2月に入ると日本全国、各地の弟子から届けられたものだった。
燕でさえ名前を知っている高級チョコレートのタブレット。イタリア、スイス、いかにも上品な包み紙の中身は無惨にも鍋の中で茹だっている。
「チョコレートは普通、直接ではなく湯煎で溶かすものではないんですか」
「さすがね」
「作ったことはありませんが、一応は常識として」
湯煎にかけてゆっくり溶かせば、ここまで匂いが拡散するはずもない。火にかけて、沸騰させれば匂いも立つはずである。
おそるおそる蓋を取ってのぞき込むと、そこに揺れるのは艶もない黒の固まりだ。
そっと指の先につけてなめれば、強烈に甘い香りが鼻を突き抜け、続いて苦みが喉の奥に絡む。
燕は思わず眉を寄せ、それを律子に突き返す。
「甘い、苦い」
「お砂糖を足してみたのだけど」
「足す必要はありませんし、そもそも焦がしてます」
律子もまた一口舐めて顔をしかめた。香りは甘いというのに、舐めてみれば舌がしびれるほど強烈に苦い。
「ああ……見た目はきれいにできたと思ったのに」
ため息のような、落ち込むような声をあげて律子は諦めきれないように鍋をじっと見つめる。
「これ、失敗かしら」
「そうですね。少なくとも、人が食べるものではないかと思います」
鍋の中で揺れるチョコレートは、ただただ黒い。この黒さを燕はどこかで見たことがある。そうだ、これはプラネタリウムで見上げるドームの黒さだ。
夜の黒さとは異なる、人工的な空の色だ。
「ところで、なぜチョコレートなんです」
燕はスプーンでその黒い液体をそっとかき回す。混ぜると甘い香りの奥に苦い香りが混じった。
底が焦げている。
「燕くん若いのに、いろいろ鈍感ね」
律子ははじけるように笑った。彼女は時折、そんな顔を見せることがある。年に似ない、少女のようなあどけない笑い声は部屋の寒さを払った。
「もうすぐバレンタインでしょ」
「あ……」
「手作りチョコレートの、練習よ」
律子の言葉に燕は思わず口ごもる。
2月に入ってからというもの、毎日のように届くチョコレートの山。その宅配物を眺めて、燕はなぜ今チョコレートなのかと首ばかり傾げていた。
律子が甘い物を好むのだろうなどと考えて、そこで思考を停止していた。
壁にかけられたカレンダーを見れば、なるほどバレンタインまであと一週間である。
「すみません、甘いものが好きではないもので」
「燕くんくらいだと、毎年いっぱい貰うでしょう。貰う人ほど忘れやすいって本当ね」
「それなりに」
二月の冷え込むような刺さるような寒さの中、思い返してみればそんなイベントもあった。ただし燕にとってバレンタインは興味の範囲外である。
昨年までの燕にとって、生きることは描くことである。
燕の生活パターンを乱し、かつ苦手なチョコレートをわざわざ持ってくる女たちの顔など覚えてもいなかった。
「まあ、捨ててましたけど」
「ひどいわねえ」
律子は燕の冷めた声に気づくこともなく、朗らかに笑った。
その彼女の手の中で揺らめく黒いチョコレート。それを見て、燕は嘆息する。こればかりはどれほど手を加えても食べられるものになりそうもない。
それでもこの笑顔で渡されたならば、食べるしかないのだろう。と、あきらめの心境ともなる。
数度かき混ぜ、食べられる箇所がないか懸命に探り出す。しかしこの鍋の中、安全地帯はどこにもない。
「……今年は努力してみてもいいですけど、せめてもう少し……食べられるものにしてください」
「がんばるわ。成功したら、燕くんにもわけてあげるから、楽しみにしてて」
「……僕に……も、ですか」
律子の言葉はいつも、どこかに隙がある。何気なく放たれたその言葉に燕は引っかかった。
窓が不穏に揺れる。今日も、冷たい風が朝ぼらけの町を揺らしているのだ。
動きを止めた燕を気にすることもなく、律子は棚の中にあるタブレットチョコレートを選ぶことに余念がない。
金の紙に包まれたチョコレート、上品な白い紙にくるまれたチョコレート、どれもずっしりと重そうだ。
「毎年バレンタインにはお墓参りにいくことにしてるの。毎年、チョコレートは買っていたのだけど、燕くんが台所に立つのを見てるとお料理っていいなあ、なんて思ってね」
なるほど。と、つぶやいた燕の喉の奥に苦みが走る。それは先ほど舐めたチョコレートよりもまだ苦い。
「……どちらが鈍感なのやら」
「なに?」
「いえ……それにしても、黒いですね。こんな色、律子さんはお好みでしたか」
「あら。黒が全部塗りつぶす色だって、燕くんはそう思ってるの?」
鍋をのぞき、吐き捨てる燕に律子は首を傾げてみせる。
「黒は良い色よ。チョコレートの黒、深海の黒、髪の色の黒、夜の黒。夜の黒も一つじゃないのよ」
律子は結露した窓に、指を乗せる。彼女の指が動くと、窓に三日月の模様が浮かぶ。続いて半月。続いて満月。
「月の大きさや形によって、その周囲の夜の黒は色をかえるの。淡い黒、漆黒、照りのある黒。もちろん、夜の黒だけじゃなくって、どんな黒でも光の当たり方で色をかえるの」
絵はすぐさま、滴となって窓を伝い落ちた。彼女の指が筆先のように結露で冷たく濡れる。燕が布を手に取ると、律子は当然のような顔をして指を差し出した。
見た目よりもしっかりとした律子の指は、いつ触れても絵の具の暖かさを感じる。まるで、彼女の身体に流れているものは血ではなく絵の具のようだ。どろりと重く、暖かく、そして色鮮やかな。
「その中でも、チョコレートの黒は艶があって色気があって、私は好き……でも」
彼女の目線の先にあるのは、鍋に沈んだチョコレート。
「……やっぱり無理かしら、手作りは。後一週間で、できるようになる?」
律子は途端に自信を失ったのか、沈んだ声をあげた。
燕は律子の手からチョコレートの塊を取り上げる。それは重い。弟子から寄せられる想いの重圧だ。それを棚の中に放り投げる。
「そんなことより、律子さん寝てないでしょう」
奔放なこの女性は、相変わらず寝食を忘れやすい。燕の言葉に睡眠を誘発されたのか、律子は大きなあくびをかみ殺した。
「そういえば眠い」
「良いですよ、片づけてますから寝てください」
「悪いわそんな、燕くんだってあまり寝てないのに」
「どうせ甘すぎて眠れやしない」
相変わらず空気は甘く濁ったままだ。いっそ窓を全開にして、外に逃がさない限り香りはとれない。
律子を無理矢理追い出して、燕は全ての窓を開く。一気に冷たい風が滑り込み、燕の顔を、耳を、指を冷やしていく。
頭の片隅にあった不穏な熱も一気にさめていく。
「……さて」
腕をめくりあげ、燕は台所に向かう。
窓から見える明け方の空は、確かに深夜のものとは違って、どこか緑がかった不思議な黒で塗りつぶされていた。
律子がふらふらと台所に顔を見せたのは、それから6時間経過した頃である。
「おはよう、燕くん」
まだ眠いのか寝ぼけているのか、目をこすりながらストールを引きずるように歩く。
すっかり甘い匂いの消えた台所で、燕は機嫌よく彼女を出迎えた。
「ああ。律子さん、ちょうどよかった、昼ご飯ができたところです」
「あら。お昼ご飯? お腹がすいていたの」
ご飯、という響きに彼女はパッと微笑んだ。燕も珍しく笑みを返し、彼女の目の前に鍋を差し出した。
「……真っ赤!」
覗き込み、くん。と匂い、そして彼女は軽く咳き込む。
「からいっ」
大きな鍋の中で煮こまれていたのは、赤の濁流。大豆にトマト缶、ピーマン、玉ねぎ、ひき肉。じっくり煮込み、最後に遠慮無くたっぷりのチリスパイス。
ついでに、青唐辛子を数本。一緒に煮込んだスパイスは、クローブ、クミンにコリアンダー。
出来上がったものは、どろどろの赤いマグマに沈んだ豆と野菜の激辛チリコンカンである。
どろりと重い赤いスープに野菜が沈む。ぐつぐつと湧き上がる赤黒い泡は強烈だ。香りは辛く、甘い。
「不快なほどに台所が甘かったので」
咳き込む律子を無視して、燕はしれっと言い放つ。
「パンにつけて召し上がれ」
合わせるのは縁までパリっと焼いた薄めの食パンだ。手にすると、さくさくの小麦の味まで伝わるほどによく焼いた。
それを皿代わりに、チリコンカンをのせて口に運ぶと、サクリとした歯ごたえの次に柔らかくも熱いチリコンカンが流れこむ。
豆のほっくりとした柔らかさ、とろける玉ねぎ、つんと尖ったピーマンの固さ、そして時折現れる、トマトの意外な柔らかさ。
赤い見た目どおり、ぴりっと喉の奥に辛さを押し出し一口食べると身体がほてった。
まるで戦いを挑むように口に運んだ律子だが、しばらく辛さに耐えた後、
「……でもおいしい」
と呟いた。
チリコンカンが触れた先から、パンが柔らかくとろけていく。それはチョコレートよりもずっと美味しい図だった。
「僕はやっぱり、黒より赤いほうが好きですね」
二人あいだに置かれた鍋のなかには、いまだ熱を持つチリコンカンが音を立てて茹だっている。
その赤い液体をとろりとすくいあげると、台所に赤い湯気が広がった。




