過去と秘密と塩ラーメン
「燕くん。やだ。もうお節、飽きた」
律子が、いよいよ我慢の限界だ。という風に降参の声をあげたのは、三が日が終わろうとする頃だった。
「食べても食べても無くならないのね。色は綺麗ですごくすごく素敵なんだけど、ひとつひとつ、味が濃いし……」
机の上に並べられた漆塗りの重箱の数々を見つめ、律子が溜息を漏らす。
そして、彼女は台所を恨めしく見つめた。
「……お餅も好きだけど……飽きたわ」
台所の机には蜜柑のように、山積みにされた白い餅。ざっと、20個か30個。これだけではない、まだ下の箱には未開封の餅もある。
「それはまあ、僕も同感ですが……」
いい加減食べ飽きた黒豆に箸を伸ばしながら、燕も溜息を吐いた。
重箱はこれだけではない。まだ、机の下には未開封の重箱もある。
「もう。みんな、毎年こんなに送ってくることなんて、なかったのに」
律子が溜息を吐くのにも理由がある。年が明けてすぐ、全国各地から続々と宅配便が届いたのである。
開けてみれば、お節、餅に蜜柑の大攻勢。特に、お節は重箱のひどく立派なものが続々と届いた。
全て、律子の弟子からである。
(……律子さんの交友関係を、舐めていたか)
ねっとりと甘い黒豆を飲み込みながら燕は眉を寄せる。
交友関係というよりも、弟子のパワーをなめていた。
ハロウインにかぼちゃを描いた師匠をいつまでも慕い、かぼちゃを送り続けてくるような弟子たちである。新年の挨拶に、送って寄越さないわけがない。
「美味しいんだけど、美味しいんだけど。だってお節って、冷たいんですもの。お餅は美味しいけど、すぐにお腹がいっぱいになってしまって、楽しくないんだもの」
律子は申し訳の無い顔をして、そっと箸を皿の上に揃える。
最初こそ、楽しげに食べていた律子だが、3日も同じ物を朝昼晩と食べ続ければ飽きてしまうらしい。当然だ。燕もそろそろ飽きて来た。
「まあ、日持ちもしますしね。そろそろ、別の物を食べますか」
外は強風。がたがたと窓が揺れている。今年の正月は、風が強い。雪も降った。しんしんと冷え込む寒さは、床から足へ、足から指へと冷やしていく。
外の天候が荒れたおかげで二人はこのビルに閉じこもったまま、正月の三日目を迎えようとしている。
お節の食べ物のひとつひとつにもその寒さが染みこんだようで、食べるたびに身体が冷えていく。
(……仕方ない)
立ち上がり、袖をまくる。台所に立とうとした燕を、引き戻したのは律子である。
「あ。待って。せっかくだし、気分を変えましょう」
彼女はいかにも楽しい事を思いついた。という顔で、台所の隅に重ねてあった紙の袋を引っ張りだす。
「なんですか、その紙の袋」
「たとう紙、っていうのよ。ほら、男物の……」
床に広げ、紐を解く。その中から引き出されたのは、深みを帯びた紺色の着物である。良く見れば別の紺色の線が重ねられていた。深みのある紺色である。
燕に染めの善し悪しは分からないが、その色は人の目を引きつける。
冬の冷たさによく似た人を拒否するような冷たい色合いである。
「着物!?」
それは男物の着物のようだ。自分の身体より大きなそれを律子は悠々と広げ、燕の肩にかけた。
「あら。ちょうどよさそう。着物の燕くんが描きたいから、これを着て台所に立ってみて」
「今から食事を作るのに、汚れたらどうします」
「あら。昔の人は、料理も何もかも着物でしていたのだから、汚れたら洗えばいいのよ」
止めても律子は聞かない。服の上から、意外なほど器用な手つきで燕に着物を纏わせる。締められた帯の力強さにたたらを踏む。鏡に映った自分は、冷たい紺色に、包まれている。
「綺麗な紺ね。夜の色みたい」
「ところで、これは、だれから?」
「年末にね、弟子の一人が持って来たのよ、この色をつくる手伝いをしたとかで」
律子は着物姿の燕を、少し下がって見つめる。その目は、素材を見る画家の目である。
「……とはいっても、玄関においてあった手紙に、そう書いてあったのだけど。燕くんも知ってるかしら、いつもワインを送ってくる人」
「ああ……」
ふ、と燕の頭に浮かんだのは、クリスマスに出会ったあの男である。
なるほど、彼に似合う色である。
「……じゃあ、汚してしまってもいいですね」
「ああ、やっぱり似合うわね、燕くん」
燕の呟きは、律子には聞こえなかったらしい。
肌触りのいい袖をめくりあげ、律子が器用にたすき掛けとした。着物も、着てみれば意外に動きやすい。
「なるほど、これは動きやすい」
でしょう。と、律子が笑う。楽しみを見つけた子供の顔だ。その顔には、先ほどまでの不満気な気配は無い。
つまり、律子は退屈だったのである。
(じゃあ……)
と、燕は台所に真っ直ぐに向かう。冷えた台所から見えた外は、そろそろ三日目の夜が訪れようとしている頃である。
冷え切った台所も、火をともせばじんわりと暖かくなる。
燕の目の前では、小さな鍋にくつくつと透明な汁が煮えている。それは、黄金に似た白の色。
中の物を丁寧に混ぜて、燕はそれを慎重に丼鉢へと移す。
(……完成)
そして、隣のフライパンの上でじゅうじゅうと音を立てる小麦色の固まりを、汁の上にそっと乗せた。
じゅ。と、響く小さな音。ふわりと立ち上る、甘い香り。
真後ろから、わあ。と感嘆の声があがった。
「塩ラーメン。それに、お餅!」
燕の肩越しに、律子が覗き込んでいる。
さきほどまで、着物姿の燕を描いていたのだろう。スケッチブックに描きかけの燕が立っている。しかし料理に惹かれたせいで、その絵は中途半端。今や律子の目はきらきらと輝いて、燕の手元に注がれている。
燕が今、作り上げたもの。それは、インスタントの塩ラーメン。トッピングはバターで焦がした切り餅だ。
ねっとりと透明に輝くスープには、バターの甘味がよく似合う。まるでアラレのようにカリッと揚げた餅は、スープを吸い込んでぐずぐずと崩れていく。
「ついでに、これも消費しましょう」
テーブルに乗ったままの重箱からエビを一匹。甘く煮含められたそれをラーメンの上に乗せると、赤の色が綺麗に映えた。
同時に、甘味がスープに溶け込んでいく。
「いただきます」
律子は席に座るなりもどかしく丼鉢を掴み、すする。彼女の顔が湯気に濡れた。
「おいしい……塩っぽいものをたくさん食べたはずなのに、塩ラーメンの塩の味って、なんだか特別よね」
塩ラーメンの塩味は、甘味のある塩だ。尖るような鋭さがない。
「麺もくたくたになって、おいしい」
表示されている時間よりもじっくり煮込んだ麺は柔らかく、胃にするっと収まる。
崩れた餅が、麺に絡みついてねっとりと蕩けていくのが何ともいえず、うまい。
塩味のスープには胡椒も少々。甘味のある塩味の奥にぴりりと響く胡椒の味が、冷えた体を温める。
暴飲暴食などしていないはずだというのに、それでも妙にほっと落ち着く。
ふうふうとラーメンに息を吹きかけ食べる律子の顔が笑顔に染まった。
「着物で食べてる燕くんが、ちょっと面白いわね」
「律子さんが着させた癖に」
「なんだか不思議ね、お節ってすぐにお腹いっぱいになるの。でも、実際はそれほど食べてないでしょう。お腹は空いているのに、空いてない。でもいま、ラーメンを食べて分かったの」
まだ暖かい丼鉢を両手に包み込み律子がしみじみと言う。
「やっぱりお腹が空いてたんだなあって」
ああ。お腹いっぱい。と言う律子の幸せそうな声を合図にしたかのように、窓が大きくきしんだ。
驚き振り返ると、窓の外が真っ白に染まっている。
雪だ。風に煽られて、右に左に、細かな粉雪が、翻弄されるように舞い踊っている。
「すごい。突然の吹雪ね」
「荒れると言ってましたから。絵を描きに外には行かないでくださいよ」
律子は半分凍ったような窓を開ける。と、部屋に雪風が滑りこむ。普段ならば身体を冷やしただろうそれも、胃の中から暖かい今の二人にとっては却って心地がいいほどだった。
「……燕くん、せっかくだから決めごとをしましょうか」
「決めごと?」
冷たい雪を顔に受けながら律子がふと、そんな事を言った。
目の前は白と黒、ただ二色だ。今朝降った雪がまだ溶けきっていない、その上に雪はまた積もる。外を歩く人もいない。音はただ、ごうごううるさい。
年末に見た透明感のある夜ではない。雪のせいか、まるでこの世界にただ二人きりでいるような、そんな錯覚を覚える夜である。
「年に一回、お正月には相手に聞きたい事を聞いても良いの」
「……?」
眉を寄せた燕に構わず、律子は続ける。
「そして、聞かれたら答えなくちゃ、いけない」
「なんで、突然」
「だって私、よく考えたら燕くんのこと何も知らないんですもの」
雪に煽られて真っ直ぐに立つ律子は、燕からけして目を離さない。燕はその目に射抜かれたように動けない。
「知らなくても」
良いじゃ無いですか。という言葉を燕は飲み込んだ。そんな風にはね除けるには、もうすでに二人は近付きすぎた。
「じゃあ、燕くんからどうぞ」
「……僕は」
「何でもいいの。聞きたい事、私に関することじゃなくても、この家に関することでも、絵のことでもなんでも」
「……」
燕の目が泳ぐ。
部屋のあちこちに散らばるキャンパスに描かれた絵。どうすればこんな風に絵が描けるのか。
部屋に積まれた食材の数々。これから予測される、弟子の数。弟子と律子の日々のこと。
燕がいま纏う着物を送った弟子と律子の関係。
3階に広がる四季の部屋。なぜ、あんな絵があそこにあるのか。なぜあの部屋がそれほどまでに特別なのか。
……そして、律子の姿に時折重なり見える、一人の男の存在。
「律子さん」
ぐるぐると思考が渦巻いて、気がつけば燕は強く拳を握りこんでいた。それをゆるゆると解けば、爪が掌に食い込んで跡になっている。
「……やっぱり、先に律子さんからどうぞ」
息を吐き出し、言えたのはそれだけだ。
「あら。いいの?」
じゃあ来年は、燕くんからね。と、律子は無邪気に笑う。そして少しだけ息を吸い込んだ。
「燕くんは、絵が嫌い?」
意外な一言に、燕は思わず息を飲んだ。順番を避けて体制を整えるつもりが、逆に掴まれた。顔を背けようとすると、律子が燕の右手を掴む。
女にしてはしっかりとした手だ。細い癖に、指はごつごつと節が目立つ。
彼女はその手で、燕の手を包み込んだ。
「絵を描いていた手をしてる。絵を描いていた目をしてる。絵を知ってる癖に、避けるのね」
「僕は……」
興味本位の声ではない。責める声でもない。しかし、優しい声でもない。
真綿でじんわりと締め付ける声だ。それは、クリスマスの日、燕を締め付けた声だ。
律子はどこか深いところで、怒っているのだ。絵を知っている癖に、絵から離れようとしている燕のことを。
「僕は……昔……昔」
まるで喉を締め付けられているようで、声が途切れる。口が震え、言葉が出ない。
「僕は、昔」
絵が描けなくなった。絵が恐ろしくなった。それはすべて、燕のくだらない自尊心のせいだ。
律子が知れば軽蔑してしまうだろう、そのような燕の過去。
律子の手を振り払い、また出て行くことはできる。しかし、燕の身体は動かない。
「ねえ燕くん、絵が描けない理由に興味はないの」
言葉を搾りだそうとすれば、律子がそれを留めた。
「ねえ、絵は、嫌い?」
「……嫌いでは、ありません」
「……良かった」
反射的に答えた言葉に、律子の顔に笑みがこぼれた。
外を吹く雪は激しさを増している。まるで吹雪のようだ。窓を開けたままにしているせいで、気がつけば二人の服にも雪が積もり、室内にも小さな白い固まりが転がっていた。
律子は先ほどまでの空気を忘れたように、さむいさむいと言いながら窓を閉める。
「はい。じゃあ、次は燕くん」
「……律子さんの」
扉を閉めるとまた静寂だ。燕は乾いた唇を噛みしめた。
「律子さんの、亡くなったご主人というのは……どんな」
唇が乾く。喉が震える。自分の声が、耳元で響くような感覚。
外の風ばかりがうるさく響く、そんな感覚。
「どんな人だったのですか」
言い切った燕の前で、律子が目を見開く。予想外の質問だったのだろう。一瞬、言いにくそうに唇を震わせたが、やがて諦めたように笑った。
「素敵な人よ」
「……」
「絵が大好きで、絵を描いて、でも事故に遭ってね。そして絵が描けなくなって」
律子は窓の表面を指でなぞった。結露した窓は、彼女の指に沿って跡が付く。
彼女の指から、まるで涙を流すかのように水が滴る。
「そのせいで、絵を嫌いになって」
誰かの輪郭を描いた彼女は、それを手の甲ですり潰した。
「……死んだの」
窓が、一段と強く揺れた。それは誰かの手が外から殴りつけたような激しさである。しかし律子は構わず続けた。
「夫はね。私に絵を教えてくれた……恩師よ」
そして燕は遠い記憶を不意に思い出す。それは美術雑誌の古本の中に書かれていた、とある画家の訃報だ。
といっても燕が直接知る画家ではない。その雑誌が刊行されたのは十数年前。燕がちょうど生まれるか、生まれていないか、という時期である。
そんな古い雑誌の片隅、それはひどく事務的に冷たく書かれていた……有名な日本人画家が自殺したという訃報である。
日が変わる頃、雪は雨に変わった。
窓を叩く雨の音に気付いて律子が顔を上げる。彼女の手にはしっかりと鉛筆が握られていた。
「あら、雨。積もると思ったのに残念」
律子が向かうのは、燕の部屋の壁。大きな柏の木が描かれたそこに、律子が絵を描き足しているのである。
といっても何を描き足しているのか、燕には分からない。ただ、柏の木の真ん中あたりに、巨大な固まりを乱雑に描き足しているようにも見える。
着物から普段着に着替えた燕はベッドに寝転んだまま。眠るでなく起きるでなくそんな風景をぼんやりと見つめていた。
乱暴に脱ぎ捨てた着物は、台所のソファーに引っかかったままだ。
なぜこんなに心が乱れるのか、なぜ着物を畳もうと思えなかったのか、なぜ絵を嫌いと言い切れなかったのか。
何度考え込んでも答えは見えてこなかった。悶々と、燕の中に渦巻いて溜息しか漏れてこない。
しかし、律子はいつもと変わらない目で、燕を見るのである。
「燕くん、明日のご飯はなにかしら」
雪で冷えた空気は、雨のせいで湿った冷たさとなった。それでも律子は気にもしないように、冷たい壁に絵を描き続けているのである。
「……律子さん、一月の間は、お節料理が続きますので覚悟してください」
「……」
「心配しなくても、アレンジして出しますよ」
窓を叩く雨の音に風の音、律子の鉛筆が壁にこすれて立てる、乾いた音。
「律子さん」
「なぁに?」
「……いえ。なんでも。おやすみなさい」
言いかけた言葉を飲み込んで、燕は律子に背を向ける。
しかし律子は構わず描き続けていた。
「おやすみ、燕くん」
律子の言葉を受けて燕は口を閉ざす。
しかし、燕は目も閉じられないまま。ただ、闇の中をじっと凝視していた。




