9章 迎え
*ありえないって思っていた。
――――――あなたが来てくれるなんて。
*誰か、いる。
カエデは目をぱちりとあけた。
暗すぎて部屋の中はあまり見えないが、確かに人の気配を感じる。
カエデはゆっくりと身を起こした。
今、ヒタギはこの部屋にはいない。
彼は、ヒレンに任務の報告をしてくると言って、つい先程、部屋を出たばかりだ。
こんなに早く帰ってくるはずがない。
かといって、レイヤやトクマらの気配ではない。
カエデの全身に緊張が走ったとき、不意に口を大きな何かで覆われた。
「んんっ!!」
とっさに、枕元においてあった愛刀に伸ばそうとした手もつかまれた。
ならば体術だ、と背後の相手に肘を見舞おうとしたが、阻止された。
「おいおい。
そんなに暴れんなって。
おれだよ、おれ」
カエデは耳元のささやきに動きを止めた。
…まさか。
「よし、いいこだ。
手、離すけど、でっけえ声出すなよ」
こくこくとうなずくと、ゆっくり手が離れた。
振り返って、カエデは震える声で、彼の名を呼んだ。
「…ホムラ…兄様…」
「おう。
おれの名前、ちゃんと覚えてるな。
よかったよかった」
それを聞いてカエデは思わず笑みをこぼしてしまった。
忘れるなんてこと、絶対にないのに。
わずかにこぼれる月光に照らされたのは、懐かしいホムラの顔だった。
「…よし。
じゃあ、ここを出るぞ」
「え?
…ひゃっ!?」
いきなりホムラはカエデを抱き上げると、
ふすまを開け、足早に部屋を出て、庭に降りた。
「ま、待って!ホムラ兄様!
おろして!!」
「どうした?
急がないとちっとまずいことになるぞ?」
そう言いながらもホムラはカエデを地面におろしてくれる。
足裏にひやりとした夜の土の感触。
それがこれは夢ではないと伝えてくれる。
月光に照らされたホムラの顔を見て、言葉にならない思いがこみ上げた。
「どうして、来てくれたの?」
きょとんとした顔でホムラは答えた。
「え、だって、おれ、おまえに約束したろ?
ぜってえ迎えに行くってよ。
…まさか、おまえ、忘れちまったの?」
「忘れてなんか…ない…」
そういってくれたのは、カエデを慰めるための言葉だけだと思っていた。
本当に来てくれるなんて思っていなかった。
だから、うれしい。
「来てくれて、ありがとう」
「なんだよ、急に。
まあ、これはハルナのためでもあるしな」
カエデの笑顔が瞬時に凍った。
まただ。
また、ハルナ。
「あね…うえ…の…?」
「ハルナのやつ、お前が行っちまってから、むちゃくちゃ暗くなってよ…。
鬼みたいに修行ばかりしやがる。
おまえを身代りにしてしまったのは自分の修練が足りなかったからだってな。
……おれ、そういうの、そばで見てて、つれえんだよな…」
ホムラは本当に苦しそうにうつむいた。
「カエデが身代りになったのは自分のせいだって、すっげえ自分を責めてる。
毎日、ずっとだ」
びくりとカエデは震えた。
そんなこと知らなかった。
離れて苦しいのは自分だけだと思っていた。
けれど、そんなことなかった。
誰よりも苦しかったのはカエデじゃない。
―――――――――ハルナだ。
「ホムラ兄様は…姉上のためだけに、来てくれたの…?」
「はあ!?
そんなわけあるか!
これは俺のためでもあるっての」
「本当に?
本当にそうだって言える?」
「…カエデ。
怒るぞ」
カエデは笑みを浮かべた。
純粋に喜びがこみあげてきたのだ。
「迎えに来るのが遅くなったのは謝る。
こいつの仕込みに手間取ってたんだ」
そういうと、ホムラは懐から何かを取り出した。
白い、人型を模した、一枚の紙切れ。
「これは?」
「おまえそっくりに化けられる式神。
作るの大変だったんだぜー」
人間そっくりに化けることができ、
話すことも動くこともできる高等式術の式神の存在は聞いたことがある。
「でも、それって、対象となる人の髪が必要でしょう?
私の、いつとったの?」
ホムラはふてくされたように横を向いた。
「おまえの頭から直接引っこ抜いたわけじゃねえよ。
おまえが来ていた着物からとった。
なかなか見つからないから焦った焦った…。
しかも、はたから見たら、女物の着物をあさる、
ただの変態にしか見えなかっただろうしな、おれ…」
カエデは目をぱちくりさせた。
知らない間にそんなことがあったとは。
「よし、あとはこいつに術をかけたらここを出るぞ。
ほら、手」
ホムラが笑顔で手を差し伸べてくる。
夜風が髪を揺らす。
ちりん、という涼やかな音が耳元で聞こえる。
銀細工の髪飾り。
ヒタギの顔が脳裏をよぎる。
カエデは目を見開いた。
手が、動かない。
「おい、どうした?」
ホムラが怪訝そうな声で言うのをどこか遠くで感じた。
ざりっと音がした。
自分の足が一歩後退したのだ。
その事実に愕然とする。
嘘だ。
あんなに会いたいと乞い願ったはずのホムラじゃないか。
…はず?
カエデは呆然とホムラの顔を見上げた。
そして、悟ってしまった。
――――――自分が、一切ホムラに恋愛感情を抱いていないと。
自分がここに残りたいと思っていることを。
「あ、あ…」
意味もなく、かすれた声が出た。
最後まで気づきたくなかった。
でも気づいてしまった。
―――己が本当に愛しいと思う者を。
この手を取れば、確実に影水月に帰れるとわかっている。
大切な姉、ハルナに会えるとわかっている。
だけど、体が、心が、いうことをきかない。
「カエデ?」
「ホムラ兄様。
私…行けない」
「…は?」
「ここに、いる」
声が震える。
言ってしまった。
誰に脅迫されているわけでもなく操られているわけでもなく、自分の意志で。
「おまえ、何言って―――」
「行けない」
ホムラの言葉をさえぎって、強く強く再度言い放つ。
みるみるうちにホムラの表情が険しくなった。
「身代りなら、もういい。
たとえ、四鬼ノ宮が攻めてきたとしても、おれがなんとかする。
もう、おまえが犠牲になる必要はねえんだ」
カエデは目を閉じた。
この言葉を影水月を出る前に 聞いていたら、すべてが変わっていただろう。
ホムラのことが好きだと勘違いしたままだっただろう。
ヒタギと共に過ごすこともなかっただろう。
でも、気づいてしまった。
ヒタギに出会ってしまった。
すべてが変わってしまった。
「私はここにいる。
ホムラ兄様と一緒に、行かない」
行けない、ではなく、行かないといいきったカエデにホムラは一瞬目を見開いた。
だがすぐにその表情は、怒りのような焦りのようなものにとってかわった。
「………置いて、いかねえ…」
いつものホムラからは想像もできないような低く押し殺した声。
彼はカエデの手首を強く掴んだ。
「いっ、ほ、ホムラ兄様!!」
「…もう……もうおれは、何も失わないと誓った。
そのためにもっと強くなると、心に誓った。
おれの大事なものは全部おれが守る。
………誰にも…傷つけさせねえ…」
ホムラの瞳の色を見てカエデは震えた。
ハルナだけじゃなかった。
―――この人も、カエデのために、カエデ以上に深く傷ついていたのだ。
だけど。
それでも。
「ホムラ兄様…!
私、私は―――」
「もういい。
おまえが何言っても、連れて帰る。
……ここには、残さねえ」
絶対に意志を曲げない響き。
どこか狂気をも感じる。
握られた手首にさらに力をこめられ、痛みにカエデは顔をゆがめた。
ホムラはカエデを無理やり抱き上げると、もう片方の手で式神をかまえた。
だめだ。
カエデの言葉がホムラに届いていない。
(どうすればいいの…!?)
シュッ
鋭い音が聞こえた瞬間、ぐいっと体が浮き、景色が一気に流れた。
さっきまでホムラがいた場所には、月光にきらめく
カエデの手のひらよりも長い針が三本、地に刺さっていた。
それが飛んできた方向には月を背にして立つ一人の忍びの姿があった。
二つの青い瞳は闇の中さえざえとした光を放っている。
「……おれの巫女姫をどこに連れて行くつもりだ」
ホムラは舌打ちをするとカエデを降ろし、背にかばうようにして立った。
ヒタギはカエデを見ていない。
ただ恐ろしいほど冷たい光を宿してホムラを見ている。
いっそ、怒りを露わにしてくれたらこんなにも恐ろしいとは思わなかっただろう。
その端正な横顔には、何の感情も表情も浮かんでいなかった。
「連れて行くじゃねえ。
……連れて帰るんだよ」
ホムラの言葉に、罪悪感に等しい感情が胸の中で渦巻く。
ホムラはいったいどんな表情でそう言ってくれたのだろうか。
「それに、こいつはおまえのもんじゃねえよ。
……俺の大切な…大切な奴だ」
それを聞いてヒタギの眉がわずかに動いた。
すうっ、と青い目が細められる。
ギャンッ
甲高い音がした後、乾いた音をたてて数本の針が地面に落ちた。
見れば、ヒタギと自分たちの間にぼんやりと光る壁があった。
ホムラの結界だ。
それが針を弾いたのだ。
ホムラはいつの間に結界を張っていたのだろうか。
だが、カエデが驚いたのはヒタギのことだ。
彼が目では追えないほど、すさまじい速さで千本を投げたのだ。
ヒタギから発せられる氷よりも冷たい殺気が肌を刺す。
顔から血の気が引いていくのが分かった。
「結界か…。
…小賢しいものを」
そう言うと、ヒタギはこちらに向かって歩き出した。
壊、される。
はっきりと確信した。
ヒタギにとって結界の一つや二つなど、どうにでもなるのだ。
このままでは―――
(いやだ。
見たくない!)
大切な人が傷つけあうなんて見たくない。
だから、カエデはホムラの前に回り込んで、正面からヒタギと向かい合った。
「……さがっていろ、巫女姫」
「おい!」
二人から同時に声がかかったがカエデは動こうとしなかった。
「…いや」
「さがれ、と言っている」
「いや、です」
ヒタギが焦れたように一歩近づくが、カエデはそこを離れない。
意地でも動かないつもりだった。
「私は、いやなの。
ヒタギが誰かを傷つけているのを見たくない……!!」
ヒタギの動きが止まる。
その瞳がわずかに揺れている。
カエデはそれに背を向けると、小さくつぶやいた。
『静止』
「ぐっ…」
ホムラが顔を歪めて動かなくなった。
すっと顔を上げて、ホムラを見る。
その瞳は鮮烈な青に輝いていた。
彼女の滑らかな左頬には青き紋様が浮かび上がっている。
言霊を使ったのだ。
だがこれは、自分のために使っているのではない。
ハルナのためだ。
ホムラがいなくなったら、ハルナはどこかが確実に壊れる。
だから、いま、本家の巫女の心を守るために力ある言ノ葉を使うのだ。
ドンッと後ろから鈍い音が聞こえ、反射的に後ろを見そうになるのをこらえた。
でも見なくても分かる。
ヒタギが結界を殴るか蹴るかをして、壊そうとしているのだ。
振り返ってはいけない。
証が頬に浮かび上がっているから、自分が分家の巫女だとばれてしまう。
後ろを振り返る代わりにホムラの目を見た。
それはゆらゆらと灯のように揺れていた。
言霊を解こうと必死なのがありありとわかる。
だから、カエデは別れの挨拶の代わりに力ある言霊を口にする。
迷いは、なかった。
『転送』
カエデの小さなつぶやきにホムラは目を見開いた。
深く深く息を吸い込む。
口にするのは影水月の古き名。
『水面に映りし月の影あるところへ』
青い光があふれ出る。
もう二度と、会うことはないだろう。
あと、数刻ののち、カエデの言霊によって、ホムラは影水月に強制転送される。
ホムラは、父様によって見張りを付けられ、
影水月から出ることを許されないだろう。
でも、それでいい。
こんなことで命を落とすより、ずっといい。
彼の瞳がハルナの時のように揺れているのが最後に見えた。
カエデは目を閉じ、息を一つ吸うと再び開いた。
光はおさまっていた。
当然のごとく、そこにホムラの姿はない。
だが、白い紙切れが落ちていた。
カエデの身代わりとなるはずだった式神の形代だ。
カエデが歩み寄ってそれを拾い上げるのと、
結界が破壊されたのはほぼ同時だった。
硬い音を立てて、薄紅の結界の欠片が闇の中に散る。
カエデは強い力で手首を掴まれた。
「っつ、あっ!!」
長い指が、カエデの手から乱暴に式神を抜き取り細かくひきさいた。
小さな白い欠片は闇に散っていった。
「何するの!!
―――っ痛!!」
「―――来い」
氷よりも冷たい声音にカエデはびくりと震えた。
そして、今までにないほど強い力で手首を引っ張られ、
そのまま乱暴に抱き上げられた。
かすれた悲鳴が口からもれたが、それにかまわずヒタギは一瞬で部屋まで駆けた。
荒っぽい足取りで廊下に上がり、部屋の中に入ると彼はカエデを布団の上に降ろし、
いきなりその華奢な肩を強く押した。
抵抗できない程の力に、カエデは布団の上に背から倒れるしかなかった。
押し倒されたのだと遅れて気づく。
カエデの動きを封じるように、ヒタギの手が、
彼女の手首を強く布団に押し付けて握り、
彼は覆いかぶさるようにして彼女の瞳を覗き込んだ。
「…いつから、あの男と…つながっていた」
恐怖と緊張で声が出ない。
どうしても体の震えが止まらない。
彼が恐ろしい。
その瞳が冷たくて、熱くて、怖い。
こんなヒタギは知らない。
「…おれには、言いたくないか」
爆発しそうなのを必死に抑え、こらえているから
低く硬く冷たい声になっているのだと、ようやくカエデは気づいた。
ホムラとは、影水月を離れた頃から全然会っていない。
だから四鬼ノ宮の情報は流してない。
そもそも、そんな気はとっくの昔に無くしていた。
ヒタギは何に怒っているのだろう。
『巫女さんは、ご自分の意志で、若頭さんのもと離れる』
銀髪の青年の言葉がよみがえる。
もしかして、あの占い師の青年の言葉を気にしているのだろうか。
そんなことはない。
あなたの傍を離れることはない。
絶対にない。
そう言おうとして、カエデはわずかに唇を開いた。
「…あれが、おまえがその瞳の奥に隠す者か」
思いもよらぬ言葉に、カエデはヒタギの瞳を真正面から見てしまった。
奥では見たことがないほど、熱い火が揺れている。
その色を見て、すっ、と涙が目尻から滑り落ちた。
なぜ、この男は、自分の何もかもを悟ってしまうのだろう。
でも、この瞳の炎も、怒りも、言葉の全ても、
『カエデ』に向けられたものではない。
それが、痛い。
痛くて、痛くて、涙が出る。
「何故、泣く。
それほどまでに、おれがいとわしいか。
おれから逃れたいか」
違う。
違う。
違うのに。
だけど、この痛みを、涙の理由を、決して伝えてはならない。
言えないことが、こんなにも苦しい。
ただ、涙が静かに頬を伝って滑り落ちる。
この痛みを、苦しみを、気づいてほしい。
気づかせてはいけない。
――――――ねえ。私を見て。
「おれを見ろ!!」
長い指に顎をとられて、顔をそらすことが許されなくなる。
ヒタギの吐息が唇にかかった。
ヒタギが怖い。
カエデの知らないヒタギの部分が露わになっている。
「…おれの何が足りない。
どこが不満だ。
何故、おれを見ない。
何故、おれから逃げようとする。
…何が、どこが、あの男よりも劣っている……!?」
涙で視界がぼやけていく。
青しか見えない。
すべてを飲み込む、深い青。
狂おしい想いが伝わってくる色。
痛い。
悲しい。
苦しい。
こんなにも想っているのに、誰よりも想っているのに、
届かない。
「…そうか」
ヒタギの声の調子がわずかに変わった。
手首を掴む彼の手に痛いほど力がこもる。
「おまえは…どうあっても、おれのものにはならぬのか」
「い、たっ、…ひ…たぎ…」
一筋の色気と、痛みと、狂気を含んだまなざし。
それを見て、体に震えが走る。
「どうすれば、おれを見る?
何をすれば、おれのものとなる?」
なぜ、そんな愛を乞うような目をするのだろう。
この心はとっくにヒタギのもの。
これ以上何がほしいのか。
そう思いかけたカエデの心に、
墨のように一つの答えが落ちて、にじむように広がった。
ヒタギは『カエデ』がほしいのではない。
『ハルナ』がほしいのだ。
たとえ、外見は似ていても、その中身が違うから。
『ハルナ』のすべてを、ヒタギは手に入れたいのだ。
呼吸が一瞬止まる。
絶望的なほど、そのことを思い知らされる。
「…どうしようか。
おまえを、このまま無理やりおれのものとしてしまおうか」
全部、全部、全部、『ハルナ』のもの。
『ハルナ』への言葉。
ヒタギが手首に口づけてきた。
その柔らかな湿った感触に、体によくわからない震えが走る。
これも、『ハルナ』への行為。
全部、全部、全部、『ハルナ』へのもの。
「や、めて…。
やめてよ…ヒタギ…」
聞きたくない。
『ハルナ』への言葉なんか、聞きたくない。
「…それとも、屋敷の奥に閉じ込めて、おれにしか会えぬようにしようか。
ああ……一生俺なしでは生きられぬ身にするのもいい…」
その狂おしい想いに、カエデの瞳の光が砕け散った。
「…な、んでなの…」
震えてかすれた声がのどから絞り出された。
ヒタギの動きが一瞬止まった。
「なんで、あの人なの…?
どうして、私じゃないの…?」
「…何のことだ」
少し落ち着きを取り戻したらしいヒタギの声がやけに遠く感じられた。
かろうじて残っている理性がもうやめろと言っているのに、
心がいうことをきかない。
「私の…何がだめなの…?
…あの人に…何が負けているの…?」
「…だから、何の―――」
「氷滾!!!」
涙がさらにこぼれた。
頬が濡れて、視界がぼやける。
「私を見て!!
あの人じゃなくて、私だけを見て!!」
ヒタギが目を見開いた。
だけど、それすらもわきあがる涙で曇って見えなくなってしまう。
言葉と想いは同じなのに、向かう先は互いではない。
それがこんなにもつらい。
そばにいるのが苦しい。
誰よりも近くにいたいのに、求められているのが『カエデ』じゃない。
その事実を思い知って、己の醜い部分を見せてしまいそうで怖い。
ああ、
言ってしまった。
熱くなって上手く考えられない頭でそれだけ思った。
「……ごめんなさい。
今の、全部…忘れて…。
………お願いだから、今日はもう、帰って……」
もうこれ以上、自分のひどい顔を、ヒタギにだけは見られたくなかった。
一秒でも早く、ヒタギから離れたかった。
「…巫女姫」
「帰って…!!」
再度強く言うと、ヒタギは目元を歪ませた。
ヒタギの体に力が入り、殴られるのかと身を固くしたが、
彼の体は、すっ、と遠ざかった。
「……勝手にしろ…!!」
手首の拘束がなくなる。
カエデは、足音荒く部屋を出ていく青年の姿を一瞬見て、すぐに視線を逸らした。
姿を見るだけで、心がえぐれてしまいそうになる。
もう、後には引けなかった。