8章 束の間
*優しくしないで
あなたの大切な人は
私じゃなくて『あの人』だと
嫌というほどわかっているのに
――――――期待してしまうから
*カエデは滝の音で目が覚めた。
寝れた服がぴたりと肌にはり付いて冷たい。
それでようやく生きているのだと実感できた。
あの高さから落ちてどうしているのだろうと思ったとき、
ふと脳裏に黒髪の青年の横顔がよぎった。
「――ッ」
勢いよく身を起こせば滝つぼから少し離れた川岸にいるのがわかる。
求めた青年の姿は意外にも自分のすぐ横に横たわっていた。
うすぼんやりと見える彼の端正な横顔はぴくりとも動かなかった。
胸に冷たいものが落ちる。
嘘だ。
嘘だ嘘だ嘘だ。
どうか。
どうか間違いであってほしい。
「…ひ、たぎ…」
かすれる声で呼んだが、応える声がない。
震える手で彼の衣の橋を握ってひっぱった。
「ねえ…ヒタギってば…」
肌に直接触れなかったのは、その温度を知るのが怖かったからだ。
もし温もりが感じられなかったら、と思うと怖い。
でも、確かめなければならない。
「…起きてよ、ヒタギ…目、開けてよ…」
恐る恐るその投げ出された大きな手に触れるために手を伸ばした。
たまらなく怖い。
指先がどうしようもなく震えた。
「ひた――――ひゃっ」
触れようとした手に逆につかまれてカエデは小さく悲鳴をあげた。
強く引っ張られ、ぐらついた細い体は青年の腕にすっぽりおさまった。
「…遅い」
とてつもなく不機嫌そうな声が直に耳に届いた。
「なっ、何が!?」
「……目覚めるのが遅すぎる。
おれが…おれがどれだけ心配したか」
ヒタギがさらに腕に力をこめた。
息苦しくなってカエデは小さく身じろぎした。
そこで、カエデはヒタギの腕がわずかに震えていることに気づいた。
「おまえを…失ってしまいうのかと思うと…怖くて仕方がなかった」
声と、揺れる吐息が額にかかった。
体を押し付けているのでヒタギの表情がよく見えない。
カエデはされるがままになっていたが、やがて体の力を抜いて、ゆっくりと目を閉じた。
確かに感じる温もり。
水のような声。
鮮やかなそのすべてが幻ではないと何よりもはっきりと示している。
ヒタギの存在を体の全部で感じる。
「だから、気を失ったふりをした。
おれがどのような気持ちになったかを知ってもらうために」
「…うん。
うん」
頬を勝手に雫が伝った。
ヒタギの子供のような言動すら愛しかった。
「…ヒタギ」
「なんだ」
「…ありがとう」
ヒタギは黙って抱きしめる力を強くした。
普段なら、恥ずかしすぎてヒタギを全力で突き飛ばすところだったが、
カエデはヒタギの胸に頬をすりよせるようにして、彼に寄り添った。
今は、ただ、こうしていたかった。
―――たとえ、この腕が本当は姉のもので、自分のものでなくても。
「任務の帰りだった」
ヒタギとカエデは岩と岩の隙間にできた洞のようなところに、
身を寄せ合って座り込んでいた。
たき火などしては、煙で相手に居場所が知れてしまう。
しかし、濡れた恰好のままだと風邪をひいてしまう、と言って、
ヒタギはあぐらをかいた足の上にカエデを座らせ、彼女をしっかりと抱きしめていた。
まるで、二人が初めて出会ったあの夜のように。
おかげでずいぶんと温かい。
思わず眠気を覚えるほどに。
「まっすぐ四鬼ノ宮に帰るつもりだったが、
途中で会った何人かの村人たちに祭りがある、と聞いた。
だから、おまえに何か珍しいものでも祭りで買ってこようかと思って
つり橋の方に向かった。
…それで、おまえが賊に襲われているのを見た」
ゆらめく意識の中、耳に心地よい声が優しく流れ込む。
形を確かめるように長い指があごから頬にかけて何度もなでるのがくすぐったくて、
カエデは少しだけ身をよじった。
「…ヒタギは、うつけよ」
カエデはぼんやりと呟いた。
「…助けに行くのが遅くなったのは謝る」
「違う。
そうじゃなくて…私を助けたこと」
「どういうことだ」
声がいぶかしげな調子に変わった後、一気に低くなった。
「……おれでなく、トクマやレイヤに助けに来てほしかったということか」
「なんでそうなるの!?
…わ、私は…そ、その…」
カエデは一瞬ためらった。
だが、ヒタギが先を促すように黙っているので恐る恐る口にしてみた。
「…私、ヒタギが、私を助けるために崖から落ちてきて、私に手を伸ばしてくれた時、
すごくうれしいって、思っちゃったの…」
「……」
「…ひどい女でしょ。
本当なら、だめだ、とか、危ないからやめて、って思わなくちゃいけないのに…
すごくすごく…嬉しかったの」
ヒタギはしばらくの間何も言わなかった。
ただ、さらにきつく抱きしめてくれた。
カエデは泣きそうになった。
こんな風に優しく触れたり、抱きしめてほしくなどない。
これらがすべて、自分へのものだと錯覚してしまいそうになるから。
ヒタギが少しでも自分に好意を持っているのではないかと
勘違いしてしまいそうになるから。
この人のすべては、本当は姉のハルナへのものだと、
誰よりも自分がよくわかっているはずなのに。
「巫女姫」
「な…」
名前で呼んで。
カエデって、呼んでよ。
そういう言葉が出そうになって、あわてて口を閉じる。
今の自分は何かおかしい。
いったいどうしたんだろう。
「巫女姫」
深い想いを込めた響き。
目の端に涙がにじんだ。
それが涙だと気付くのに少し時間がかかった。
「な、なに?」
「おまえが、無事で…よかった」
一瞬息が止まる。
目の端ににじんだものが、ついに頬を滑った。
心からの安堵がこもった本来は姉に向けられていたはずの言葉を聞くことが
これほどまでにつらいと思わなかった。
「…わ、私も、ヒタギに何もなくてよかった。
ずっと、四鬼ノ宮で待っていたのに、なかなか帰ってこないから…」
「おれが、心配だったのか」
この人は敵だ。
影水月に仇なす者。
大切な姉を、ホムラと自分から奪おうとした人。
だから、だから―――
だけど、だけど――――――
「…心配したよ。
すごく」
夜も眠れないほど、不安で、怖かった。
その理由にはまだ気づいてはいけない気がする。
カエデは必死に自分の心にふたをした。
抱きしめてくれる手にそっと手を当てて、少しだけ指を絡めてみた。
すぐに温かくて長い指が深く絡み、握り返してきた。
ややあって、そうか、とだけヒタギは言った。
その声はどこまでも穏やかで、優しくて、カエデの頬に新しい涙が伝う。
ずっと、あの人の代わりをしていよう。
――――――いつか、私の心が壊れるまで
本当は
もっと前から理解できたはずだった。
あなたは、絶対に私のものにはならないと。
絶対に。
だけど
離れたくなくて。
―――――――――認めたくなくて。
*目が覚めたら一番に天井が見えた。
「…あれ?」
確か先ほどまで、洞にヒタギと共にいたはずなのだが。
起き上がってみると、今座っている布団の周りを、幾重にも布が囲み
蚊帳のような布の壁となってカエデから周囲の景色を隠していた。
「な…なにこれ?」
「おう!
起きたか!!」
布の外から声が聞こえた。
「トクマ?」
「なあ、そっちにいってもいいか?」
「う、うん」
衣擦れの音と共にカエデの足元側にある布が揺れ、
トクマが出てきた。
「ったく、レイヤの奴、やりすぎだろ…」
「これ、レイヤが……?」
そういうと、彼は何故か言葉を濁した。
「ああ。
ま…その…ヒタギ様避け…みたいな?」
「ヒタギ…避け?」
布の下からなんとか這い出してきたトクマは、カエデの姿を見ると
すいっと視線をそらした。
「…衣」
「衣?」
「こっ、小袖一枚とか薄すぎるんだよ!!」
透けて見えるだの目の毒だだの言いながら、彼は強引に布団を彼女にかぶせた。
それにくるまりながら、トクマはこういうところが優しい、と
カエデは嬉しくなって、唇に笑みを乗せた。
「いいか。
それにくるまって寝ながらでいいからおれの話聞いてろよ。
間違ってもおれに近づくな。
おとなしく聞いとけ」
「う、うん…?」
カエデはまだ少しぼんやりする頭で、おとなしく言われた通りに
ふとんにもぐりこんで、トクマを見上げた。
「これでいい?」
「…………」
「トクマ?」
「…………おまえ、剣はどうした」
「剣って…三日月刀のこと?」
「ああ。
枕元にあるな。
いつでも手に取れるようにしとけよ。
……んで、おれが、おまえに、変なことをしそうになったら、
そいつでおれを全力でぶったたけ」
「変なことって?」
「お、おまえなあ!!
そこは聞くんじゃねえよ!
おれは、今、自分でも賢明だと思える判断をしただけだっての…」
トクマは一つ大きなため息をついた。
「体は大丈夫か?」
「うん。
ありがとう。
平気。
…それより、レイヤは?
レイヤは大丈夫なの?」
「そんなに心配しなくても大丈夫だ。
実際、これを作れるくらい、元気だったんだし」
トクマは、布でできた壁を指でさし示した。
「よかった。
…………ヒタギ、は?」
「無理やりおまえからひっぺはがして、別室で休んでもらってる。
ヒタギ様の場合、どっちかというと任務の疲れの方が、体にきてるみたいだ」
「そう、なの…」
二人の無事ができたので、とりあえず安心できるる。
吐息が口からもれた。
「ここは、四鬼ノ宮?
トクマが連れてきてくれたの?」
「ああ。
あめ買って、戻ってきたら、お前らがいないから、あわてて探しにいったんだよなー」
「………ごめん」
「別に謝ることはねえって。
それでだな、レイヤ見つけて、ちゃちゃっと敵を倒した。
そのあと、おれだけ四鬼ノ宮に戻っておれの部隊に招集をかけて、
すぐにヒタギ様とおまえを探しに行った。
レイヤはおれがいない間に、お前らの探索。
そしたら一刻もしないうちに見つけた。
おまえ寝てたけど」
「……う」
彼らしい実にざっくりした説明だったが大体のことはわかった。
「トクマ、ありがとう。
あと、ごめんなさい」
「は?
何が?」
「……私がいたから、襲われたんでしょう?」
レイヤは、敵がカエデを狙っていると言っていた。
カエデの存在がみんなを危険にさらしたに等しい。
「私のせいで―――」
「ちげえよ!
何勘違いしてんだよ!!」
トクマは怒ったように言うと、彼女の細い手の甲を包むように握りしめた。
「トクマ?」
「四鬼ノ宮はでかい」
「う、うん。
お屋敷大きいね」
話の流れがよくわからないままカエデはうなづいた。
「でかいから、そのぶんうっとうしいなあ…とか思われやすい。
だから、襲撃なんか珍しいことじゃない」
「そう、なの?」
「ああ。
今回襲ってきた奴らも、たまたまおまえみたいな巫女がいたから、
ついでにさらって帰ろうとしただけだ。
おまえのせいじゃない」
「?
私みたいな巫女……?」
「そうだ。
おまえみたいな霊力が高くて、それで……
か、かかっかか…」
トクマが突然、か、を連呼し始めた。
「か?」
聞き返すとトクマの頬に朱がさす。
「か、かかか、かわっかわっ」
「かわ?
ああ、川におちるような間抜けな巫女ってこと?
…そんな巫女、普通はほしがらないと思うんだけど…・」
「ちっっげーよ!!
そうじゃなくて・・・・だあーーーーーーーー!!!!
これ以上変なこと言わせるな!!!」
「変なこと?
…トクマ?」
「トクマは、君が可憐でかわいらしすぎるから、さらわれそうになったんだって
言いたいんだよ」
ここ数日聞かなかった声。
トクマの動きがぴたりと止まった。
カエデは固まった彼に代わって声を上げた。
「ヒレン様?」
「入ってもいいかい?」
「も、もちろんです!
どうぞ」
軽い衣擦れの音と共に布の端が持ち上げられ、そこから四鬼ノ宮当主のヒレンが現れた。
彼の周囲には、おつきのものがいない。
「お忍びで来たんだ。
あまり大きな声では言えないけどね」
そういうと彼はちらっとカエデを見た。
「ふうーん?」
というよりも、カエデの手のあたりに視線は向けられている。
「手までつながないといけないなんて、一体どんな話をしていたのか
お聞かせ願えるかな?」
「………おうああっっ!!??」
数拍ののち、トクマは雄たけびと共に、カエデの手を勢いよく話した。
その様子をヒレンが笑みを浮かべて見ている。
気のせいだろうか。
ヒレンの目が全く笑っていないように見えるのは。
「さて、そろそろ戻らないといけないかな…」
話に一段落ついたところで、ヒレンは息を軽く息を吐いた。
話といっても、カエデの体調のことや、危険なめに遭わせたことへの謝罪、
あとは世間話をしただけだ。
「もうしばらくはよく体を休めるといい。
何かあったら女官に言いつければいいからね」
「はい。
お気遣いありがとうございます」
カエデは、立ち上がるヒレンを目で追った。
「うん」
ヒレンはふわりと笑うと、外に姿を消した。
「無理すんじゃないぞー」
「トクマもありがとう」
トクマは軽い音をたてて、布をめくると、同じようにその向こう側に消えた。
「また来るからおとなしく寝とけよ!」
「いや、トクマには任務に行ってもらうから。
すっっっっごく遠い所にね」
「えええ!?
ヒレン様!?
なんでおれだけ!?」
「大丈夫大丈夫~。
すぐにヒタギに後を追わせるから」
最後にそう聞こえたきり、辺りはしん、としずまりかえった。
カエデは布団に横たわったまま、ふっと目を閉じた。
(また、ヒタギが…任務に行く…)
ヒレンは遠い所に行かせるとも言っていた。
また、待っているだけの日々。
そんなのはもういやだった。
どうにかして、その任務に連れて行ってもらうことはできないのだろうか。
知らず知らずの間に、カエデの眉尻がさがる。
だが、確実に足手まといなるだろう。
また今回みたいに、ヒタギ達を危険にさらしたくない。
「何を考えている」
「え?
何を考えているって…きゃっむぐぐぐぐぐ」
突然伸びてきた手に、カエデは口をふさがれた。
「騒ぐな。
おれがここにいるのが他の者に知れたらどうする」
視界の端につややかな黒髪が映る。
カエデの口を優しく覆っている手の主はここにいるはずのないヒタギだった。
別室で休んでいたのではないのか。
いつの間に隣にいたのか。
完全に固まってしてしまったカエデを見て彼は一度手を離すと、
今度は指で唇に触れてきた。
「おれという存在がいながらほかのことを考えるなんて許せないな」
カエデはあんぐりと口を開けた。
ヒタギのわがままは今日も絶好調だ。
もう呆れを通り越して感心するしかない。
「少なくとも、おれが隣にいる間は、おれのことだけを考えていたらいい」
「か、考えようにも、ヒタギ、全然そばにいないから…!!」
とっさにそう言うと、ヒタギは意外そうに片眉を上げた。
「それは、おれに、もっとそばにいろ、ということか」
「え、ぁ…」
ヒタギの青い瞳は静かにカエデの言葉を待っている。
何か、言わなければ。
カエデはまっすぐに彼の瞳を見つめ返した。
「うん。
…もっと、一緒にいてほしい」
「………なんだって?」
カエデはこわごわ手を伸ばして、ヒタギの頬にそっとそえた。
寝ている体勢のままだと少しつらかったが、それでも触れずにいられなかった。
「ヒタギがそばにいないと、私、不安になる。
任務に行って、いるときは、大けがとかしているんじゃないかって、すごく心配だった。
もっと近くで心配させてほしいの。
私だってヒタギの力になりたい。
―――だから」
任務にも連れて行って、と言おうとしたがカエデはそこで一度口を閉じた。
そういった自分自身に驚いたのだ。
いつからこんな風に思うようになっていたのだろう。
深い沈黙が落ちる。
ヒタギは一体どんな顔で今の言葉を聞いたのだろうか、とふと思って、
そっと視線を上げてみた。
(…あれ?)
ヒタギはそっぽを向いていた。
さらには彼の頬に添えていた手までつかまれて、引きはがされた。
「…あ」
カエデは眉根を下げた。
拒絶されたみたいで、寂しくなる。
「…巫女姫」
「…うん」
おまえの力など必要など必要ない。
そう言われるのだろう。
そう思い、目を伏せた。
「…おれの理性にも限界がある」
「…うん。
………………う、うん…?」
見ればヒタギの頬に朱がさしていた。
「み、見るんじゃない!」
そんな顔でどなられても全く怖くないのに、とカエデはまばたきをした。
その様子がむしろどこか可愛らしくて、彼女は思わず笑みをこぼした。
「見るんじゃないと言っているだろう!」
「え、ひゃっ」
背に強い腕がまわり、体が一気に浮き上がる。
次の瞬間にはヒタギの腕の中にいた。
「ひ、ヒタギ!?」
今度はカエデが赤くなる番だ。
ぎゅう、と頬を彼の滑らかな胸板に押し付けられている。
確かにこれではヒタギの姿が見えない。
「…お、おまえはなんだ。
一体なんなんだ」
押し付けられた胸板はたくましくて、しびれてしまうくらい熱くて、頭がくらくらした。
「…こうまでしておれをかき乱して何がしたい?」
「し、してない!
というよりも、離して!!」
「無理だ。
今お前を離そうとしたら、まちがいなくお前を押し倒す」
「そっ、そんな!?」
ヒタギの声が確信に満ちていて、カエデは上ずった声を上げた。
心臓が耳に来てしまったのかと思うほど、鼓動がうるさい。
だけど、ヒタギは抱きしめてくるだけで、声も発しない。
カエデは落ち着かなく視線をさまよわせていたが、
やがてヒタギの腕の中でおとなしくなった。
やはり、なぜかはわからないが、ヒタギの腕の中は安心する。
落ち着くのだ。
―――――――――でも、この腕は『カエデ』のものじゃない
どこかで自分がささやきかけてきて、すっと胸が冷えた。
反射的に、指がヒタギの衣を握る。
いやだ。いやだいやだいやだ。
―――――――――今この瞬間は『ハルナ』のものだ。
だけど、それでも、私は―――
「巫女姫」
まとわりつく思考が断たれ、カエデはゆっくり顔を上げた。
「…何?」
「今から、祭りに行く」
ひどくまじめな顔でヒタギは言い放った。
たっぷりと沈黙が落ちる。
「な、何言ってるの!?」
あまりにも唐突すぎる発言にカエデは目を見開いて、あわてて異を唱えた。
「ヒタギはまだ疲れているんでしょ!?」
「疲れてなどいない。
そもそもここに来たのはおまえと共に祭りにいくためだ」
「そ、そういう問題じゃないでしょ!」
「………おまえが、おれ以外の男と出かけたこと方がよっぽど問題だ」
地を這うような低い声にカエデは反論する気力を失った。
あなたと過ごした日々は
泣きたいほどに
幸せで
苦しかった。
離れてもいいなんて
代わりでもいいなんて
空言にすぎない
―――ねえ、私を
ただ一人
―――――――――私だけを、見て。
* …ああ。
来てしまった…。
カエデはうつろな表情でつり橋を見ながらそれだけを思った。
ヒタギに半ば強引に屋敷から連れ出されて、数日前に転落したばかりの崖の上に、
今、二人で立っている。
橋はすでに修復されていて、あの日と変わらず風に吹かれて揺れていた。
「ねえ、ヒタギ。
ヒレン様に任務の報告とかしていないんでしょ。
しなくていいの?」
「一日ぐらい遅くなってもいいだろう」
最後の抵抗も、ものすごく適当な答えで一蹴され、カエデはついにあきらめた。
うなだれる彼女を、当然のように抱き上げると、
ヒタギはすたすたとつり橋を渡り始めた。
…ああ。
離してくれない腕を、
強引にでも抱きしめてくるたくましさを
嬉しい、と感じる自分は、
本当に、どうかしているにちがいない。
きっと、そうなのだろう。
そう自分にいいきかせないと、自分の中のなにかが、壊れてしまいそうだった。
「うわあっ」
目の前に広がる光景に、カエデは歓声を上げた。
つい数日前に来たときは舞のことで頭がいっぱいだったのであまり周囲を見ていなかった。
道にはずらりと色鮮やかな屋台が並び、広場では曲芸師が芸を披露している。
あちらこちらではじけるような歓声が上がり、にぎやかな笛の音が流れている。
花祭り、という名前のとおり、屋台の屋根などに華やかな花飾りが飾られ、
花の形をした石鹸や、おいしそうな匂いのする焼き菓子がたくさん売ってあった。
道行く人々は皆笑顔で、見ているカエデも嬉しくなった。
「いくぞ」
穏やかな水のような声がかかったかと思うと、当然のように腰にヒタギの腕が回り、
強く彼の体に引き寄せられた。
カエデが小さく悲鳴を上げるが、彼は全く気にしない。
そして、カエデの腰をしっかりと抱いたまま、ヒタギは何でもなさそうな顔で
前を向いて歩き始めた。
……一人で赤くなったり、どきどきしたりしてうつけみたいだ。
「ひ、人がずいぶんと多いのね。
とてもにぎやかだし、皆楽しそうだし…わ、私このお祭り、好き」
顔のほてりをごまかすように、カエデはやや早口で言った。
「おれも好きだ」
静かな口調の中に深いものを感じて、カエデは顔を上げた。
「民が笑顔なのは、生活が安定していて幸せである証だ。
生活が豊かだからこそ、神に感謝する祭りを行える。
神社はその民の生活を守ってくださるよう、神に祈る場だ。
…おれは、それらすべてを守りたい。
だから、忍びになった」
穏やかな風が、ヒタギの黒髪を揺らした。
ヒタギが、ヒタギじゃないみたいだった。
他の、もっと大人の男性を見ているのような、不思議な錯覚に陥る。
この青い瞳は、四鬼ノ宮がただ、強く、繁栄するだけの未来ではなく、
大切な人が皆笑顔になる未来を、見すえていたのか。
心の中のなにかが、するりとほどけた気がした。
彼の青い瞳は、祭りを心から楽しむ民をまぶしげに映して嬉しそうに少し細められていた。
なぜか、それを見て、胸がぎゅうっと苦しくなった。
「それよりも、なにか欲しいものはないか」
「欲しいもの?」
突然話題が変わり、カエデは首をかしげた。
青い瞳はカエデだけを映している。
先ほどまで民を見ていた瞳に自分だけが映ることができて、なぜか嬉しい。
「ここには珍しいものも多く売っている。
一つぐらいあるだろう」
「え、えっと…」
カエデは分家とはいえ巫女。
巫女はあまり着飾ったりしないものだから、あまり年頃の娘らしい感覚がわからない。
困ったように眉根をよせるカエデに、何故かヒタギは狼狽した。
「ひ、一つぐらいないのか」
「え、そ、その…」
ヒタギの妙な気迫に押されてカエデはとりあえず一軒の屋台を指差した。
「あ、あれ…」
「よし。
あそこだな」
あからまさまにほっとした表情を見せると、ヒタギはカエデを抱きかかえるようにして
まっすぐにその屋台に向かった。
それはきらびやかな髪飾りがたくさん並べてある店だった。
近づくにつれ、逃げ出したい気持ちになる。
明らかに、自分には似合わないような可愛らしいものや、華やかなものばかりだ。
「あ、あのねヒタギ!!
私、今までこういうものに縁がなくて…その…それで…
やっぱり…えっと…こういうかわいい綺麗なもの、私には似合わないと思うの」
「なぜだ?
着飾ったおまえは美しくて愛らしい。
他の男になど見せたくないほどな」
「な、何言って!?」
「慣れていないのなら、慣れればいい。
おまえはかわいい。
そんなかわいいおまえが着飾って何が悪い?」
「か、かわいくなんか・・・・!!」
「おれの言葉を信じぬと?
ほら、これなんかおまえに似合いそうだ」
そういって彼が手に取ったのは、宝石でできた美しい花をかたどった髪飾りだ。
青玉でできた青い花が、水晶の雫にきらめいてとても美しい。
青玉がヒタギの瞳の色ととてもよく似ていた。
「きれい…」
「つけてやるから、じっとしていろ」
止める間もなく、しゃら、と髪が揺れる音がした。
少し不器用な手つきで長い指が髪をくぐる。
「…できた」
すっと名残惜しげにヒタギの指が離れる。
(こんなきれいなもの、私には絶対に合わない)
なんだか恥ずかしくてカエデはうつむいた。
「巫女姫。
顔をあげてくれ」
頬に大きな手が添えれられ、優しく上を向かされた。
青い瞳と視線がぶつかり息が止まる。
ヒタギはまぶしいものを見るように目を細めてカエデを見た。
「…とても、きれいだ」
すうっと頬を涙が伝った。
「な、なんで泣くんだ」
焦ったようにヒタギが言う。
「違うの。
う、嬉しくて…」
まばたきをすれば、ぱしゃっと涙が落ちた。
どうして涙が出たのかはわからない。
ヒタギは、『カエデ』を見て、きれいだ、と言ってくれた。
ハルナにはこの髪飾りは絶対に合わない。
彼女にはこの銀細工のような清楚なものではなく、もっと豪奢で派手なものが似合う。
だから、彼の言葉が本当にうれしかった。
だけど、嬉しさと共に、別の感情も強くこみあげてきたのだ。
もっと、私を見てほしい。
『カエデ』だけを見てほしい。
―――違う。
そんなのはだめだ。
彼は永遠に『カエデ』を見てはいけない。
せめぎ合う心。
…ヒタギは、私を『ハルナ』だと思っているから、こんなにも大切にしてくれる。
それを、決して忘れてはいけない。
絶対に勘違いなどしてはいけない。
……彼が、一瞬でも『カエデ』を大切に想ってくれていると。
「泣くな」
不器用な指が涙をぬぐった。
壊れ物を扱うかのようにそっと触れてくれる温もり。
「こんなことで泣くとは、本当におまえは…」
「あ、あきれた?」
赤くなったであろう目で彼を見上げると彼は、ふいっと目をそらした。
「…本当におまえは…愛らしい」
ちゃらん、ちゃらん、と一歩ごとに、水晶の飾りが揺れて澄んだ音をたてる。
その涼しげな音を聞くと、なんだか嬉しいような恥ずかしいような不思議な気持ちになる。
影水月の地方では、男性が女性に贈り物をするということは、
その女性を大切におもっている、という証だ。
しかし、ここは四鬼ノ宮。
ヒタギにその気はないとわかってはいるのだが、それでも頬がゆるんでしまう。
「ヒタギ。
本当に、これを買ってくれて、ありがとう」
「おれが贈りたかっただけだ。
礼などいらない。
好いている娘に何かを贈りたいのは男の性だ」
カエデは顔をうつむけた。
いつもだったら、好いている、という単語に過剰反応しただろう。
でも、今は、聞きたくない。
『ハルナ』のことをヒタギが想っているなんて、認めたくない。
信じたくない。
自分が、とても嫌な女になったように思えて、唇をかみしめた。
「どうした」
うつむいているカエデの頬にヒタギがそっと触れた。
とたんに無数の針のような目線がとんできた。
見なくてもわかる。
先ほどから、若い娘たちが熱い視線をヒタギに送り続け、
そしてその隣にいるカエデに険しい視線を送り続けているのだ。
「…な、なんでも、ない」
「………」
ヒタギが無言でカエデを強く引き寄せた。
そのまま彼の胸元に顔を突っ込む形となる。
「どうしたの?」
ヒタギはひどく険しい表情で周囲を見渡している。
カエデの体がこわばる。
まさか、また敵の忍びが現れたのだろうか。
思わずヒタギの衣の衿のあたりをつかむと、青い瞳がひた、とカエデを見据えた。
「…ヒタギ?」
「他の男どもが、皆、お前を見ている」
「…は?」
「くそっ。
おまえが、ただでさえ愛らしいのに、
飾り物なんかつけてさらに愛らしくなったからだ。
他の男が皆おまえに惚れてしまったらどうしてくれよう…」
「な、ないない!
それはないから!!」
「今、おまえに見惚れている男どもを、一人残らず叩き斬ってしまいたい…」
「ち、ちょっと、なに言ってるのよ!?」
「そこの仲のいいお二人さん」
静かだけど、よく通る声が後ろから響いた。
振り返れば、そこには銀髪の青年が、道端に座り込んでいた。
「二人の運命、占ってみたくはありませんか?」
ヒタギは非常に険しい視線を青年に向けた。
ひどく風変わりな恰好をした青年だった。
そのせいかどこか胡散臭く(うさんくさく)思える。
「…貴様も巫女姫に惚れたのではなかろうな」
「な、なんでそうなるのよだから!!」
「え~?
惚れてないですよ~。
とてもきれいだと思いますけど。
……特にその髪が光に透けて銀色になるところとか、
瞳の色が光に透けてきれいな青になるところとかね」
カエデはびくりと震えた。
にぎやかな笛の音が一瞬遠くなる。
ここは、ちょうど背の高い木が多いから日陰となっている。
今のカエデの髪色は濃い灰色で、瞳は群青とも藍ともとれる暗い青。
だというのになぜ、カエデの瞳と髪の色が強い光にすかすと
色が変わることを知っているのだろうか。
―――言霊を使うときぐらいにしか、色は変化しないというのに
急に青年の不思議な色をした瞳が底知れぬものに思えて、怖くなった。
青年は瞳を糸のように細めてにこにこ笑っている。
「いやだなあ、きれいだって言っただけじゃないですか。
そんな風に怖い顔しないでくださいよ」
自分い言われた言葉だと思って、カエデは小さく震えたが、
どうやら青年はヒタギに向かって言ったらしい。
「貴様などに、巫女姫を愛でる権利など皆無だ。
…もう、行くぞ」
ヒタギに強く腰をひかれる。
「…巫女さんは、あなたから離れていきますよ」
ヒタギの足がぴたりと止まった。
ゆっくりと青年の方をヒタギが振り返る。
「…なんだと」
「巫女さんは、あなたのもとから必ず離れていきます。
…四鬼ノ宮の若頭さん」
カエデは目を見開いた。
ヒタギの身分までこの青年は知っている。
ますます薄気味悪くなって、カエデはヒタギの体にしがみついた。
「おれは巫女姫を永劫離す気などない」
「あはは、違いますよ」
青年が苦笑しながら片手を顔の前でひらひら振った。
彼の瞳が静かに、だが鋭く射抜く。
「…巫女さんは、ご自分の意志で、若頭さんのもと離れる」
これは、予言じゃない。
未来に起こる事実を口にしているのだ。
絶対的な響き。
そう思わせる強い口調。
「ち、違うわ!!」
それを振り払うようにカエデは強く言った。
「私はヒタギのそばを離れたりなどしない」
第一、ここに来たのは姉の身代わりとしてだ。
離れるわけにはいかない。
それでは、姉の身を守れなくなってしまう。
そう思いかけて愕然とした。
すいぶん長くそう思わなかったと、気づいてしまった。
だんだん、最初の目的が自分の中で薄れてきているのを感じた。
これではまるで自分のためにここにいるようではないか。
ただ、ヒタギの傍にいたいという。
「いや、お嬢さん。
あなたは若頭のもとを自ら離れる。
…絶対にね」
底の見えない瞳を見て背筋を震えが走った。
「もういい」
カエデを青年の視線から守るように抱きかかえると、
ヒタギは足早にその場を立ち去ろうとする。
「代金はいらないですよ~
特別にただにしてあげますね~」
背後からどこまでも明るく青年が言うのが聞こえた。
ヒタギはそのまままっすぐ四鬼ノ宮に帰った。
その間、ずっと彼は無言で、カエデは何も言えなかった。
やがて空に満月がのぼり
――――――ついにその夜がやってきた。