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浅葱の夢見し  作者: いろはうた
第一部
10/50

7章 花祭

*愛しい人。



あなたは優しい。



だけど、今はその優しさは痛い。



その優しさも、言葉も、



あなたの全てが



あの人に



あの人のためだけに



無条件で捧げられる。





それがこんなにも苦しいから。





*カエデは冷や汗をかきまくっていた。


目の前には赤い顔をしたトクマが睨むようにカエデを見ている。


先ほど、廊下を渡ろうとしたら、


待ち伏せするかのようにトクマが仁王立ちしていたのだ。


呼びとめられてしまい、とおりすぎるわけにもいかず、こうして彼の言葉を


待っているのだが、なかなか話が始まらない。


まさかこの前、シキが来た夜に勝手に射場に入ったことが


ばれてしまったのだろうか、と嫌な汗が止まらない。



「そ、そのよ…」


「は、はははははい」


「………この前は……悪かった」


「は、はははははい。


 …はい?」


「この前のことだよ!!!」



かみつくように言われ、カエデはすべてを思い出した。


おそらく彼は、沐浴の時のことを言っているのだろう。


カエデがまっかな顔で向き直れば、


負けず劣らず真っ赤な顔のトクマがそっぽを向いていた。



「いや、その…こちらこそ…」


「だ、だから、わびをしようと思ってだな…」


「わ、わび?」



トクマの意外な言葉にカエデはきょとんとした。


対するトクマはいこごち悪そうに唇をかみしめ、視線をさまよわせている。



「明日、祭りがあるのは知ってるよな?」


「…は、はい」


四鬼ノ宮から大きな川を挟んだ向こう側に大きな村がある。


そこで花祭り、というかわいらしい名前の祭りがあると、女官たちが


噂していたのは聞いている。



「お、おまえ、レイヤみたいに剣術好きだろ?」


「は、はあ…


 あそこまで溺愛はしていないけど…」


「…おれを呼んだか?」


「呼んでねえっつーの…ってレイヤ!?」



いつもより若干目が輝いているレイヤが、いつの間にかトクマの背後にいた。


剣術という単語に反応したらしい。



「おまえ、いつからいた!?」


「…おまえがそいつを呼びとめたあたりからだ」



…剣術への大いなる愛がほとばしってしまったらしい。



「…して、話をまとめると、お前はそいつに剣術なり舞なりを


 祭りで披露してもらうかわりに、なんでも好きなものを買ってやるから、


 ともに祭りに来てくれないかと誘いに来たわけか?」


「…お、おまえ…人が何時間もかけて言おうとしたことをよくも…」


「私、もし許してもらえるなら、行きたいんだけど…」


「ほ、本当か!?」


「…ならば、おれも行こう」


「はあっ!?


 なんでおまえがくるんだよ!?」


「…剣術は相手がいなければ面白くない」


「今、剣術の話はしてないわよ?」


「…それにおまえひとりではこいつの護衛は無理だ。


 もし、こいつに何かあったら、おまえ、ヒタギ様に何て言うつもりだ?


 直々に護衛の任を預かった身だろう。


 …よく考えろ」



レイヤの淡々とした言葉に、トクマは黙り込んだ。


一方のカエデは、胸の奥でよくわからない感情が渦巻いていた。


今、カエデの身は”ハルナ”として四鬼ノ宮では扱われている。


そう。


今はハルナなのだ。


カエデじゃない。


この心遣いも、自分に向けられているようでそうじゃない。


トクマやレイヤを護衛につけるほど、


ヒタギはハルナのことを大切に思っているのだろうか。


そう考えると何故か胸が鈍く痛んだ。






「す、すごい所ね…」


結局祭りにはレイヤもついてくることになった。


三人の目の前にあるのは長いつり橋。


崖下をちらっと見れば、はるか下にごうごうと音を立てている激流。


その先を目でたどれば、ぷつりと流れは消えていた。


向こうにおそらく滝があるのだろう。


…落ちたらひとたまりもないような高さと流れだ。


「…おれが先に行こう」


そう言うなりレイヤはすたすたとつり橋を渡り始めた。


危険がないかどうか確認するためだろう。


やがて向こう側に渡り終えたレイヤが一つうなづく。


来てよし、ということだろう。


「じゃ、次はおまえ行けば?


 橋も問題みたいだしな」


「…ぅ」


ちらりと崖下を見て、カエデの頬に汗が流れた。


「どうした?」


きょとんとした顔で見られ、実は高い所があまり好きじゃない


などというわがままが言えなくなってしまった。


おそるおそる手すりの縄に指先をのばし、


二歩、三歩と足を木のつり橋に足を踏み出してみた。


ぎっと足元がきしむ感触。


びくりと震えて思わず足を止めると強い風がカエデの長い髪を激しくなびかせた。


ぐらりぐらりと視界が揺れるのは、つり橋が風に激しく揺れているからだ。


そのひょうしに、はるか下の激流が目に入ってしまった。



(ひ、ひええええっ!?)



その場にへたりこみそうになる寸前で腰に強い腕が回った。


体が持ち上がり、視界がぐらりと揺れる。


「き、きゃあああっ!?」


「ったく、怖いなら、さっさと言えっての」


「と、トクマ!?」


僅かに顔の赤いトクマがカエデの体を、腕一本で抱き上げていた。


これは相当腕力がないとできないだろう。


だというのに、カエデを支える腕はびくともしない。


びゅうっと強い風が吹き付け、カエデは思わず彼の首元に顔をうずめて、


その衣にしがみついた。


うっすらと汗と草とさわやかな香りがした。


何故かしがみついた瞬間、トクマの体がこわばったが、やがて彼はゆっくりとだが歩き出した。


カエデを落とさないようにという感じで慎重に支えてくれている。


「あの…ごめん。


 重いよね…」


「全然。


 つか、むしろ気持ち悪いくらい軽い。


 おまえ、ちゃんと食べてるか?」


「た、食べてるよ!」


「んじゃ、食い足りねえってことだろ。


 こんなに細こっくってふわふわしてんのに、よく生きてきたな。


 今まで」


「……」



褒められているのかはわからないが、どうやら彼は褒めているらしい。






いろはにほへと ちりぬるを



わかよたれそ つねならむ



うゐのおくやま けふこえて



あさきゆめみし ゑひもせす





細く笛の音が宙に漂う。


かろやかに、かろやかに、風のように、舞う。


左袖がなびく。


長く濃い灰色の髪が、夢のように舞広がった。


傾きつつある日差しを浴びて、まばゆく、銀の糸のようにそれは輝く。


右足首にくくりつけた鈴が、動くたびに涼しげな音をたてる。


誇り高く空を見上げれば、浮かぶ雲は茜色に染まりつつある。



ああ



かなしや



この世界、かなしや



汝、青く、しなやかでありし者



汝の手により、冷たき月はかたをも変える



汝の悲しみの瞳は、この世のかなしきことわりをあらわすものなり



たがために



たがために汝の涙は捧げられるか





色はにほへど 散りぬるを



我が世たれぞ 常ならむ



有為の奥山  今日越えて



浅き夢見じ  酔ひもせず




鈴の音がりゃん、とその場に小さく響き、カエデは静かに動きを止める。


薄紅に染められた風が、わずかに余韻を残して消えた。


しん、とその場がしずまりかえる。


音がこの世から消えてしまったかのような錯覚。


おそるおそる舞を見ていてくれているはずの村人たちの方を、


顔を上げて見てみた。


ぽかん、としていた。


皆、一様に、あんぐりと口を開けて、目を見開き、微動だにしなかった。


この前、四鬼ノ宮で披露した時と同じ反応にカエデは戸惑った。


おろおろと視線を動かしても、誰も何も言ってくれない。


ぱちぱちと乾いた音が鳴った。


少し離れたところに立っているトクマが手を打ち鳴らしたのだ。


「おまえ、やっぱすごいじゃん!!」


「…え?」


「そうだよな、みんな!!」


そう呼びかけられた村人たちは、一拍のちに大きな歓声を上げた。


「な、なにが、なんなの…?」


舞を舞っただけでこれほど喜ばれると、戸惑ってしまう。


カエデにとって初めてのことだった。


影水月にいたころ、この程度、巫女としてできて当たり前だったのだ。


思わず口がゆるんでしまう。


ただの舞でもあろうと、少しでも村人たちの心に響いたなら、


神にも祈りが届くような気がした。


「ありがとうな」


近寄ってきたトクマに笑顔で首を振った。


お礼を言うのは自分の方だ。


自分にもできることがあると、気づかせてくれた。


そう思い、口を開こうとしたとき、感じた。


冷たい気配。


肌を刺す殺気のような霊力。


思わずびくりと体が震える。


「お?


 どうした?」


トクマの言葉が耳をすり抜ける。


カエデは激しい視線を感じた方を見てみた。


だが、あたりは人ごみがすごすぎてよくわからない。


「おい?」


カエデは、はっと我に返った。


あわてて首を横に振った。


今はもう、霊力は感じない。


トクマは何も感じなかったのだろうかと思い、カエデはそのあとすぐに理解した。


トクマは感じなかったのではない。


感じられないのだ。


霊力を一切持たないから。


さっきのは気のせいだろうと心の中で自分に首を振った。


そうでもしないと、体がひとりでに震えてしまいそうになる。


それほどまでに先ほどの気配は恐ろしかった。


「…おい」


低い声が降りかかり、カエデは反射的に顔を上げた。


感情の読み取りにくい深い緑の瞳と視線がぶつかり、あわてて目をそらした。


ヒタギの親戚だという彼の瞳はどこかヒタギのと似ている。


その心の奥底まで見抜くような視線に、カエデは長くは耐えられない。


「…何があった?」


「な、なにも」


後ろめたさのあまり、落ち着きなく視線をさまよわせる。


迷惑をかけてはならない。


心配などさせてはいけない。


そう強く自分に言い聞かせる。


沈黙が場に落ちる。


この気まずい空気を振り払うように、カエデは周囲に視線を走らせた。


辺りは人ごみでいっぱいだ。


もう完全に先ほどの冷たい霊力と気配は感じられない。


カエデがほっと息を吐くのと同時に、レイヤもため息をついた。


「…トクマ。


 飴細工を一つ、どこの屋台のでもいいから買ってきてくれ」


「はあ!?


 おまえ、甘いもの買うとき、絶対人に譲らないのに急になんだよ!?」


…使い走りにされているよりも、トクマはそちらの方に驚いたらしい。


「…おれのではない。


 こいつのだ。


 …本来ならばおれがこの目で厳選した選りすぐりの飴を買うべきだが、


たまにはお前に任せる」


「なんかすっげーひっかかるんだけど…。


 しかも、顔がものすごく嫌そうだな、おい。


 …まあいいや。


 んじゃ、行ってくる」


そう言うなり、トクマは数秒で人ごみの中に紛れて消えてしまった。


再び落ちる沈黙。


「…それで」


とびきり冷え切った声にカエデは体をこわばらせた。


カエデがあとずさる前にあごに指がかかり、無理やり上を向かされ


レイヤに視線を合わされる。


(…こ、怖っ!!!)


レイヤはうっすらと微笑を口元に貼り付けていた。


通常時はおそろしく感情の読み取りにくい青年なので、その微笑みは不気味すぎた。


しかも、目は全く笑っていない。


「…こうして邪魔者は追い払った。


 あとは、何をしたら話す?」


(怖い怖い怖い!!


 この視線直訳したら『さっさと何があったんか説明せえやごるあ』だよね!?)


背中を冷たい汗が流れる。


これは心配してもらっていると受け取ってもいいのだろうか。


夕日を浴びて代々に染まった緑の瞳はただ静かできれいだった。


「…絶対にそうだって、言えることじゃないけどそれでもいい?」


「…かまわない。


 話してみるといい」


レイヤの吐息が唇を包み込む。


それほどまでに二人の距離は近かった。


あごにかかる指が気になるが、


カエデはぽつぽつと霊力を感じたということを小さな声で告げた。


おそるおそるレイヤの表情をうかがってみる。


「…何故もっと早くに言わなかった」


やはりその表情からは何を考えているかはわからない。


だが声がわずかな焦りといら立ちを含んでいた。


「ご、ごめんなさい…」


「…謝罪をしろと言っているのではない。


 トクマを追い払ってしまったのは間違いだったな。


 …行くぞ」


がっと手首をつかまれた。


レイヤはそのまま速足で人ごみの中を縫うように進んでいく。


その背中からは緊迫した空気が漂っている。


あわててその背中に駆け寄る。


「レイヤ!


 でも、でも、気のせいかもしれないし…!」


「…お前の霊力は並みのものではない


 案ずるな。


 おれも、霊力はあまり感じ取れないが、後ろから何者か…複数名が


 追ってきているのは感じる」


その言葉に、カエデは体をこわばらせた。


できることなら、間違いであってほしかった。


レイヤは小さな声でカエデにささやきかけた。


「…しばらくはおれがひきつけておく。


 おまえはつり橋のところで待ってろ。


 半刻(三十分)してもおれが帰ってこなかったら、おまえ一人で四鬼ノ宮まで帰れ。


 …できるな?」


「レイヤ、でも…!」


「…案ずるな」


するりとレイヤの手が離れる。


カエデはいつの間にか一人で人ごみの中で立っていた。





カエデはつり橋の近くの茂みに身を潜ませていた。


少し遠い所からごうごうと激流が流れ、落ちていく音が聞こえる。


それは、地上から川までの距離が相当あり、落ちたらただですまないことと、


流れがおそろしく速いことを物語っていた。


そして、カエデはそれを聞き続けながらひたすら二人の帰りを待っていた。


もうすぐ半刻になってしまう。


とてもじゃないが、一人でつり橋なんて渡れそうにない。


がざっと目の前の草が揺れた。


考え事をするとどうも気配に疎くなる。


あわてて上を見上げると、安堵の表情をあらわにしたレイヤが立っていた。


「…あ」


かすれた声が漏れ、胸に奇妙な感情が広がる。


寂しい、という言葉が一番しっくりくるだろうか。


これではまるで、レイヤ以外の誰かに見つけてほしかったみたいだ。


「…すまない。


 遅くなった。


 …大事ないか?」


「う、うん。


 大丈夫だから…」


後ろめたい気持ちで立ち上がりながら、レイヤの全身にざっと目を走らせる。


特に大きな外傷はなさそうだ。


だが聞いておくにこしたことはない。


「レイヤこそ、大丈夫?」


「…おれのことはどうでもいい。


 おまえの身の方が大事だ」


そっけなく返答されてしまったが、


そこにレイヤの優しさがにじみ出ている気がしてカエデは表情をゆるめた。



「トクマは?」


「…追っ手をまいた後、一応探してはみたが、見つからなかった。


 案ずるな。


 どうせそのうち四鬼ノ宮に戻ってくる」


「そ、そうなの…?」


「…かまうな。


 大丈夫だ。


 とりあえず、戻るぞ」


「う、うん」



手を引かれて歩き出そうとした時、カエデの足がひとりでに止まった。


怪訝そうにレイヤが振り返る。



「…どうした?」


「ふ…伏せて」


「…おい?


 何が―――」


「いいから!」



動こうとしないレイヤにじれて、なかば無理やり体当たりするようにして


彼を地面に押し倒す。


ひゅっと自分たちの頭上を何かが掠めとんでいったのを感じた。


今の見えない斬撃。


霊力を練りこんで作る、風術のものだ。


レイヤの体に自らの体を押し付けるようにしながら、


術者はどこにいるのだろうかと視線と感覚だけで探る。


だが、感じられない。


また消えた。


おそらく気配を消しただけで、まだ近くにいるに違いない。


言霊で攻撃を弾くわけにもいかないので、油断できない。


カエデは慎重にあたりをうかがいながら、レイヤの顔をのぞきこんだ。



「レイヤ、けがは……あれ?」



…目線を合わしてくれない。


合わせようとその瞳をのぞきこもうとすると、ふいっとあらぬ方向を向かれる。


もう一度のぞきこもうとしてもまたしてもそっぽを向かれる。


カエデは今の状況を忘れて困り果ててしまった。


レイヤが何に対して怒っているのか全く見当がつかない。


無理やり押し倒したのが悪かったのだろうか。



「…レイヤ・・・?


 あの…重いなら…ごめん…。


 すぐにどけるから…」


「………しばらくこのままでいろ」


「それならいいけど…って、え?」



レイヤが言った言葉を頭の中でなぞってみる。


相変わらず、カエデと視線を合わそうとしてくれない。



「……」



レイヤを押し倒したときに、彼は地面に頭を激しくぶつけたのだろうかと


カエデは本気で心配になってきた。



「レイヤ…?


 っきゃ!?」



二本のたくましい腕が背に回り、きつく抱きしめてきた。



「れれれれれれレイヤ!?」


「…黙ってこのままでいてくれ」



相当打ち所が悪かったのだろうかと思っていると、


ぐるりと視界が反転した。


今度はカエデが押し倒されているような格好になった。




ずががががっ




つい先ほどまで自分たちがいたところに数本の小刀が


鈍い音をたててつきささった。


レイヤはしなやかな動きで身を起こすと、カエデを抱えたまま


すばやく上にとびあがった。


半拍後、再び数版の小刀が地面に突き刺さる。


彼は振り向きざまに刀を抜き放ち、とんできた小刀を全てそれで弾いた。


風切り音と共に、甲高い金属音が続けざまに鳴り響く。


耳が痛い。


空気が震える。


レイヤに己の体を押し付けているので、決して軽くはない衝撃が直に伝わる。


明確な意志を持った攻撃。


体が、唇が震えた。



「れ、いや…」


「舌をかみたくないのならば、少し黙っていろ!!」



姿が見えない敵からの攻撃に、レイヤは苦戦していた。


レイヤは両刀使い。


飛び道具が相手だと一気に不利になる。


敵もレイヤの腰にある刀をを見てのこの戦法だろう。


しかも片腕にカエデを抱えているため、刀は一振りしか使えない。



「…いいか。


 よく聞け」



つり橋の方に駆けながらレイヤはせわしない口調で言った。



「…おまえはつり橋を渡ってすぐに四鬼ノ宮に戻れ」


「レイヤ!


 何で!?


 私も一緒に―――」


「こいつらはおまえを狙っている!!」



至近距離でどなられカエデはレイヤの腕の中でびくりと体を震わせた。


それに気づいたかのように、彼は少し声を落とした。



「…先ほどの攻撃はすべておれを狙ったものだった。


 おおかた邪魔なおれをさっさと消してから、おまえをさらうつもりなのだろう」



景色が後ろに流れ、どんどんつり橋が近づいてくる。


現実と共に。


これがハルナの身代わりになるということ。


これが力ある者として狙われるということ。


これが現実。


風が冷たく頬を打った。



「…おれが食い止める。


 その隙におまえは…逃げろ」



その言葉を聞いた瞬間、ふわりと地面におろされた。


目の前にはつり橋。


振り返ればレイヤはすでに駆けだした後だった。


もう一度彼の名前を呼ぼうとして、やめた。


鮮やかな手つきで抜刀し、現れたいくつかの人影に向かって彼は目にもとまらぬ速さで切り付けている。


カエデはうまく力の入らない手を弱々しく握りしめた。


きっとこのままいても、レイヤの足手まといにしかならないだろう。


ようやくそのことを受け入れたカエデはたどたどしく足をつり橋にのせた。


情けないくらい足が震える。


つり橋から落ちるかもしれないのが怖かった。


レイヤが負けてしまうかもしれないのが怖かった。


…命が失われてしまうのが怖かった。


ひときわ風が強く吹き付ける。


カエデはぎゅっと目を閉じてそれをやりすごそうとした。


ひゅっと。


よろよろと進む彼女の耳は風をきるような鋭い音をとらえた。


ぞくりと肌があわだつ。


とっさに低く身をかがめると頭上を見えざる斬撃が飛んで行ったのを感じた。


先ほどの風術による攻撃。


そして、少し先の崖にある地面とつり橋をつなぐ杭を、それが破壊したのを見た。


何が起こったのかすぐにはわからなかった。


やけにゆっくり体が傾く。


激しい風に長い髪が舞広がり、夕日をあびて金と銀のまだらに輝いた。


少しずつ、つりばしは崩れていくのを視界の端にとらえた。


西に沈みかけている、鮮烈な陽光に目を細める。


ああ。


私はおちるのか。


ああ。


私は死ぬのか。


どこか他人事のように思った。


かろうじて地面に引っかかっていた太い縄がずるりと動き始める。


片足がついにつり橋の板から離れた。



―――最後に



奇妙な浮遊感が全身を包む。


時が止まったかのような錯覚。



―――最後にもう一度だけ



カエデはゆっくりとまばたきをして、己の心を静かに見つめた。



―――もう一度でいいからあの人に







会いたかった。







今更出た本音。


カエデは自分をわらった。


だが次の瞬間、ありえないものを見てその目は大きく見開かれた。


その男は四鬼ノ宮へと続く森の中から駆け出で、一切のためらいも見せずに力強く崖を蹴った。


まっすぐに、落ちかけているカエデのもとに彼は向かう。


さらにとんできたいくつかの風術の刃のひとつが、彼の首筋あたりでそのつややかな髪を束ねている


留め具をかすり、壊した。


宙に漆黒の羽のように、切られた髪がぱっと散った。


その青い瞳は一途なまでにカエデしか映していない。



「ひ、たぎ……?」



何故、彼がここにいるのか。


何故、こんな自ら命を捨てるようなことをするのか。


何故…何故…何故。



「手を伸ばせ!!」



みたことがないほど必死さで彼は叫んだ。


空中でカエデはおそるおそる右手を伸ばした。


周囲の景色がどんどん速度を上げて上に上がっていく。


だけど彼は、彼だけは変わらずに手を伸ばしてくる。


指先が一瞬触れ、かすめ、次の瞬間大きくて温かい手に手首を強くつかまれ


ぐいっと引っ張られた。


重力に逆らって体が少しだけふわっと浮いた後、もう彼の腕の中にいた。


たくましい腕は少しだけ震えていた。


強く強くかき抱いてくれる腕に何故か涙が出そうになる。


びゅおおおおっとすさまじい風が吹き付けてくる。


どんどん川の水面が近くなってくるのがわかった。


だというのに、全く恐怖を感じていなかった。


カエデはとても穏やかな気持ちで目を閉じた。



―――ああ、そうか。


――――――私は、あの時…



激しい水しぶきを上げて二人は川に落ちた。


体が深く水の中に沈んだ後、ゆっくりと浮かび上がってくる。


さらに逆らえない強い力で押し流されていく。



―――私はあの時レイヤにじゃなくて…


滝がどんどん近づいてくる。


抱きしめてくれる腕にさらに力がこもる。


水面からなんとか顔を出して深く息を吸った。


空は紫とだいだいに染まっていた。



「おれから、決して離れるな」





―――この人に、見つけてほしかったのだ。


――――――この人に会いたかったのだ。





目を閉じた。


頬を水滴が伝う。


それが涙なのか川の水なのか、カエデにはわからなかった。


耳元でごうごうと激しい水音が鳴り響く。


カエデはどこまでも穏やかな気持ちで、一瞬ヒタギと共に宙に浮かんだ。


すぐに襲い掛かる奇妙な浮遊感と、上からの押しつぶされそうな水量。


抱きしめてくれる腕にさらに力がこもる。


満ち足りた気持ちの中、カエデは意識を手放した。


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