19 月光の下、王女の戦い その1
「よっし!もう落ち込むの終了!」
両頬をぱちんと軽くはたいて、ロザリアは声をあげた。
もっとも場所が場所だから、見つからないように小さな声だったけれど。
土埃の立つ床から立ち上がると深呼吸をして、手のひらを見る。
握って開いて、握って開いて。
どうしても小刻みに震えてしまう手を動かして落ち着こうと自分に言い聞かせた。
(ジンについては後で思いっきり落ち込むことにしよう。今は、だめ。動かないと)
立ち直ったわけでも、もちろん吹っ切れたわけでもない。
赤い髪の騎士のことを考えると、心臓がずきずき痛む。
知らない場所へ殺すために連れてこられている現状は怖くて寂しくて、足がすくんだ。
それでもここでただ脅えて泣いているだけなんて、絶対してはいけないから。
出来ることを探そうとするくらいのこと、やらなければ。
「とにかく…逃げ道をさがさないと…」
気を抜けばパニックを起こしてしまいそうな頭の中を、深呼吸して落ち着かせながらロザリアは狭い室内をぐるりと見回した。
(窓と、戸、かぁ…。王宮みたいに都合よく抜け道なんてあるはずもないわよね)
外へと出られる出口は2つ。
この2つのうちのどちらから、どうやってか逃げなければならない。
「戸は…無理よね」
落ちこんでめそめそしている数時間の間に、何度か人の気配と小さな話し声を聞いた。
おそらう見張りがいるのだろう、
だったら窓からと思って、ロザリアは閉じられた窓枠へと足を向けた。
ガラスの窓に手をついて、そっと外の様子をうかがってみる。
「……2階くらいかしら…」
どうやら小さく古い屋敷にロザリアは連れてこられたらしい。
地面まではずいぶんな距離があり、けれど3階にあるロザリアの私室よりはずいぶん近いから、おそらく2階くらいにいるのだろうとなんとなく考える。
脱走なんて何度もしたロザリアでも、さすがに2階の窓からの脱走劇なんて初めてだ。
ロザリアがいるも抜け出しているのは、王族だけが知っている抜け道。
だからわざわざ高い場所にある窓から出るなんて危険なルートは通らない。
ジンはロザリアには出来ないだろうと思ったから、こんなに窓側が手薄なのだろう。
見下ろす限りは屋敷の裏手になるらしく、張っている人間も見えなかった。
「…………っ」
緊張から酷く喉が乾いて、ごくりと唾を飲んだ。
失敗して落ちたりなんてしたら、相当痛い…どころか大けが。悪くて命を落とすかもしれない。
でも、建物の構造からか足場になりそうな小さなくぼみや突起は所に見えた。
元々ボコボコした石造りの壁で、さらに古い屋敷によく見られる増改築を繰り返したがための継ぎ目、雨水を通すパイプも、出窓の上に設けられた飾り屋根もある。
(うまく足をかけて行けば降りられそうな……気はする。運動神経は良いほうだし。これしか道は無いわよね)
こうして手で窓の取っ手をゆすっただけでもきしむ音がする。
古くて長い事放置されていたものだから、ずいぶん痛んでいるようで、壊そうと思えば簡単に出来そうだった。
何か窓を壊すためのものをと室内を見回して、足にまとわりつく薄紫の生地に気づく。
「…緊急事態だし、お行儀の悪さに文句は言わせないわっ」
思い切って下に履いていた3重のパニエを脱ぐと、思った通りボリュームは減って歩きやすくなった。
けれどもちろん長さは変わらない。
壁を伝い降りるのは難しいだろう。
薄紫色の裾を捲し上げて左右を結んでみたけれど、素材がなめらかすぎて大きく動くとすぐに解けてしまう。
せっかくの贈り物を駄目にするのは心が痛んだものの、結局思いっきり引っ張って脹脛程度の長さまで割き切った。
「靴も…」
夜会用の歩きにくい靴で壁を伝うなんて、絶対に出来ない。
これもセインがドレスに合わせて贈ってくれたものだけど、ここに置いていこう。
出来ればあとで回収できればいいな。なんて、小さな希望を抱きながらロザリアは靴を脱いでそろえた。
******************
「いっ……」
最後の最後でうっかり足を踏み外し、思いっきり尻もちをついてしまった。
上を見ると何とか開けられた窓と、必死の思いで這い降りてきたデコボコの石造りの壁。
暗い闇夜に輝く月。
淡く照らされた土の上で周囲を見回すと、うっそうと茂った林がある。
それが、今のロザリアからみえる全ての景色。
「正面に回るより、林を抜けて迂回する方が逃げ切れる確率は高いような気がする。でも迷って遭難しそう…」
そもそもここが何処なのかさえ分からない。
とにかく隠れる場所に行かなければと、ロザリアは立ち上がって裾についた砂を払った。
「おいおい、これ例の王女様じゃねぇ?!」
後ろから声を掛けられ、文字通り飛び上がった。
おそるおそる振り返ると、3人の男がこちらへと寄ってくるところだ。
(さっそく見つかってるし…!)
泣きそうな気分で後ずさるロザリアに対して、男達は非常に上機嫌だ。
「まじかよ。逃げ出してきたとかか?」
「どんだけじゃじゃ馬なんだよ。へへっ」
つんと鼻に、酒の匂いが香った。
(…そう言えば5年前も、正気を保っている人はほとんどいなかった)
10歳のロザリアが囲まれたのは酒と薬におぼれ前後も分からないような、正気を無くした男たちの中だった。
主犯は一切顔をださなかったし、証拠さえ未だ掴めていないと聞く。
あのときと同じ状況ならば、この人たちもまともでは無いのではと思った。
(それなら…)
足さえおぼつかなく見える男達に、ロザリアは緊張したままソックスしか履いていない足で地を蹴った。
油断していた一番前にいた男の懐に体当たりをし、腰の柄を力任せにひっぱる。
男は虚を突かれて驚きながらも、ロザリアをあっと言う間に振りほどいた。
「っ…!」
勢いよく投げ出されてしまうけれど剣を奪取することには成功した。
「あ、このっ!」
「おい、何やってんだよ」
「だ…だってよぅ」
「ほらお姫様。そろそろ大人しくしてくんないと、痛いことしちゃうぞー」
下卑た笑いを浮かべてにじり寄ってくる男が気持ち悪い。
「なぁ、俺らが捕まえたってこの王女様連れて行けば、褒美もらえんじゃねぇ?」
「マジかよ。そりゃあ逃がせねーわ」
背中を伝う冷や汗を感じながら、ロザリアは手にした剣を両手に構えて対峙する。
奪った剣はいつも見ていた騎士たちが使うものよりも大きく厚いもので、素材の鉄も質が悪いようで酷く重かった。
両手で持ち上げていても気を抜いてしまえば地面へと落してしまいそうだ。
「っ……来ないで。これ以上近づいたら怪我をするわよ」
「ははっ!可愛いなりして勇ましいなぁ」
「俺らを切るつもりなのか。持ち上げるだけで精いっぱいに見えるがな」
生まれたころから全ての物に傅かれ守られてきた王女陛下が、まさか剣を握れるなんて考えもつかなかったのだろう。
こうして実際にロザリアが剣を持って対峙しているのに、馬鹿にするように下品な笑いを浮かべている。
泣いて震えて、あっても弱々しい抵抗程度だと、それが王女なのだと彼らは信じ切っていた。
(……自分より大きい人を相手にする時は、ええっと)
自分たちの想像する深層の令嬢の姿を信じて疑わない。
偏った思考の男たちに一層笑いそうになるけれど、せっかく油断してくれているのだから指摘することもないだろう。
ロザリアは片足を蹴って一番大柄な男の懐に飛び込む。
「なっ…?!」
思いがけない素早さに、男たちは虚をつかれたようで一瞬反応がおくれる。
(力任せにしないこと。姿勢を真っ直ぐ保つこと。足を地からはなさないこと)
「それから、絶対に目を離さないこと」
相手から視線をそらさないように気を付けながら、斜め下から剣を振り上げる。
遠心力に任せてしまえば大きな剣でもそれほど重さは感じなくなり、剣先は弧を描いて突き上げられる。
「っ…!」
男の額からはらりと髪が落ち、次いで赤い筋がこめかみから流れ落ちる。
「っ…いってぇなぁ」
勇敢に立ち向かおうとしたその行為が、ただ相手の神経を逆なでするだけのものだと気づいたのは、持っていた剣を叩き落とされ、腹部に勢いよく当てられた蹴りで身体が後ろへ吹き飛び、床に崩れ落ちてからだ。
背中が壁に叩きつけられ、衝撃で呼吸が一瞬止まった。
「っ…!!」
「んだよっ、大人しくしれてばいいのに!もういい!人を呼べ!!」
「おーい!誰か来てくれ、おーじょ様が逃げ出してんぞぉ!!!」
大きな声で屋敷の方へ叫ばれてしまった。
表情を固めてしまったロザリアを、男たちは楽しそうに指差して笑う。
「ほらほら、すぐに怖いお兄さんたちが来るぞぉ」
「お兄さんとか!おっさんの間違いだろうが!」
「違いねぇ!」
ぎゃはははは!と下品な笑い声が、静かな月夜の空に大きく響く。
ロザリアの足はがくがくと震えていて、今にも崩れ落ちそうだった。
きっと直ぐに屋敷の裏口からぞろぞろと男達が出てきて、ロザリアを捕えに来るのだろう。
こんなに刺激してしまったのだから、今度こそ彼らはロザリアに母と同じことをするのかもしれない。
痛くて苦しくて、泣き叫んでいた声が頭の中によみがえった。
頭の中に鳴り響く悲鳴が怖くて、ロザリアは思わず両手で頭を抱え込んでしまう。
-----------------------っ…!!
何かが聞こえたような気がして、涙目で顔を上げると、屋敷の角を曲がって何か黒い生き物がこちらへと走り寄ってくるところだった。
「んだぁ?」
「…セ、イン?」
馬の嘶きにと共に、細身の男がさっそうとそこから降りてくる。
あまりに突然のことに誰もが呆然と、彼がこちらへとやってく来るのを見守るしかなかった。
ロザリアと男たちの間に割り込んで、腰の剣を抜いて男たちへと対峙した。
「ど、どうして…なんで?寝てなきゃ駄目じゃない」
ロザリアを守るように背中を向けていたのは今頃ベッドの上でうんうん唸って眠っているはずのセインだった。
どれだけ急いできたのだろうか、息は荒く、白いうなじには汗で金色の髪が張り付いている。
細くて儚い印象を受ける人だったのに、思っていた以上に大きな背中がロザリアを怖い男たちから
守ってくれている。