閑話
「レヴィはずるい」
「え?」
深紅のベルベットの生地の長椅子に腰掛けるノエルの腰に巻きつきながら口を尖らせ頭を擦り付ける小さな可愛らしい王子様。
柔らかい髪を撫でるが、琥珀色の澄んだ瞳には涙が溜まったまま。
「ヴィンセント様、何がずるいのですか?」
「……」
むーっと口を引き結び、腰にしがみ付いてくるヴィンセントは今年五つになったばかりでまだまだ甘えん坊だ。
本当はヴィンセントと年も近い弟のレヴィが遊び相手として選ばれていたはずなのだが、何故か二人は顔を合わせれば喧嘩ばかりでノエルを困らせていた。
喧嘩、と言ってもいつもヴィンセントが口でも腕っ節でも負けてしまい、最終的に泣いて終わる。
幼い頃の年齢差と言うものは大きい。
わんわんと大声でべそをかくヴィンセントを抱き上げて泣き止ませるのがノエルの役目だ。
今だってそう。
まるで白磁のような真っ白でぷにぷにの頬を膨らませつつも鼻を啜っている愛らしい五歳児にノエルは微笑みかける。
「ヴィンセント様?」
「~~~! 名前! やめてっていったっ!」
「……つい。ごめんなさいね、ヴィ?」
「……えへへ」
愛称を呼ぶだけでご機嫌になったヴィンセントをひょいと抱き上げて膝に乗せると、まるで母親に甘える子供のようにヴィンセントがくっついて来る。
ノエルの顔を正面からじっと見つめて、その小さな手でしがみ付く。
「……レヴィはずるいよ」
「そうなの?」
可愛いなぁ……と柔らかい気持ちになりつつ、小さな身体を抱きしめて背中を叩いてやるとヴィンセントがぽつぽつと不満を零した。
「レヴィはノエルを僕にくれないんだもん」
「まぁ……」
私は物ではありません、とはっきり言ってしまうと悲しそうな顔をして拗ねてしまうのだろうな……といつものパターンを思い出し、何と声を掛けていいか迷う。
「……僕だって、ノエルが欲しいよ」
「えと……妹か弟なら、陛下にお願いすればできるかもしれないわ」
昔からノエルとレヴィは仲の良い姉弟でよく周りの人から羨ましがられることが多々ある。
優しいお姉様がいて羨ましい。可愛い弟がいて羨ましい。
政務の忙しい父親にヴェンセントが寂しがって兄姉を欲しがるのも無理はない。
帝王学を学ばされ、王としての教育を施されているからと言ってもヴィンセントはまだ幼いのだ。
「……それ、たぶんちがう……」
「そうね、でも弟や妹でもきっと楽しいわ」
「……だから、ちがうんだけど」
「?」
ぷくっと両頬を膨らませるヴィンセントが可愛くて、何を言っても顔が緩んでしまう。
「ノエル、きいてるの!」と怒る姿さえ愛らしい。
ぎゅっと抱きしめるとミルクの匂いがした。
「ヴィは本当に寂しがり屋さんね」
「ノエル、あのね」
「大丈夫、あなたも大切な私の弟だもの。あなたも私を本当の姉だと思って甘えていいのよ?」
「いや、だからね……むぎゅっ」
抱きしめて、頬ずりをする。
「……大丈夫。あなたが寂しくなくなるまで、ずっと傍にいるから」
「……むー」
恥ずかしいのか、ヴィンセントはノエルに顔を見られまいとノエルの胸に顔を埋めた。
自分の腕に収まる、この小さな存在を愛おしく思う。
「……いっぱい、甘やかしてあげる」
こんなに小さい身体に、とても大きな責任を持っている存在。
大きくなるにつれそれを自覚し、さらにそれに答えなくてはならなくなる。
一伯爵令嬢のノエルなどには予想も出来ないほどの重圧を背負わされる運命。
守ってあげたいと思うことさえおこがましいのかもしれない。
でも、ヴィンセントは今ノエルを必要としている。
せめて、甘えが許されるほんのひと時の時間は思いっきり甘えさせてあげたかった。
「でも、もっとレヴィとも仲良くして欲しいわ」
「むりっ!」
今までノエルの行為に甘んじていたヴィンセントががばりと顔を上げて即答した。
これもいつものことなのでノエルは苦笑する。
キライと言いつつ、二人のするそれはまさに兄弟喧嘩のよう。
喧嘩がノエルに見つかれば、ヴィンセントは泣きながらノエルに向かって走ってきて、レヴィはしまったと顔を顰めむっとしてその場で俯く。
二つ幼いヴィンセントを優先してあやしてはいるものの、レヴィもきっと今頃一人で拗ねていることだろう。
どうしてそいつを優先するの。姉上は俺の姉上なのに。
本当は嫌で、寂しくて仕方ないのにむむむ……と我慢するレヴィはとても可愛い。
姉の欲目ももちろんあるだろう。
でもあんなに出来た弟は中々いないと思うのだ。
帰ったら、あの子も思いっきり甘やかしてあげよう。
ふふ、と笑みが零れる。
可愛い可愛い、私を好んでくれる弟達。
「ねぇ、ノエル。僕ね、ノエルがだいすきだよ」
「私もよ、小さな王子様」
くすくすと笑みを零し、ぷくぷくの頬を人差し指で突く。
「ノエル、すきだよ? ちゃんとわかってる?」
「ふふ」
腰に手を当てて胡乱気に見てくる透き通った琥珀の瞳。
精一杯の背伸びをして大人ぶるヴィンセントを見て、心がほっこりと温まる。
ふわふわの栗毛頭の天辺にキスを落とすとくすぐったそうに身を捩った。
今日一番の笑顔を見て嬉しくなったノエルはそのままヴィンセントの脇を擽る。
客間にはノエルとヴィンセントの楽しげな声が響き渡っていた。
でもそんなささやかなひと時でさえ、ヴィンセントには許されない。
「失礼いたします。殿下、そろそろ……」
「……わかっている、下がれ」
「しかし」
「……すぐに行く」
ヴィンセント付きの教育者の一人が去り際にノエルを冷たく一瞥する。
個人と親しくなりすぎることをよしとしていないのだ。
まだ十二のノエルよりもさらに一回り小さいもみじのような掌が、ノエルの頬を優しく撫でる。
「すまない、時間だ」
「ヴィ……」
「……」
「ヴィ?」
自分よりも七つも年下の男の子。
他人を前にすると、いつもこう。
年相応なのはノエルと、レヴィに対してだけ。
悲しくてぎゅっと抱き寄せる。
「……ノエル?」
「そんな話し方、しないで」
「……ごめん」
「……そんな顔、しないで……」
「うん、ごめんねノエル。ありがとう。……だから、泣かないで」
「泣いていないわ」
「うん、でもここが泣いてる」
「……」
とんっと小さな指がついたのはノエルの胸。
心配してくれる愛しい存在に微笑みを向ける。
「ノエル、くるしいよ」
力いっぱい抱きしめるとヴィンセントは照れくさそうに、でもとても嬉しそうに笑った。
瞼にキスをして、ヴィンセントを見ると琥珀の瞳が揺れている。
「どうしたの?」
もう少しだけ、この子を甘やかして、愛してあげたい。
ヴィンセントは俯いて、耳を澄ませておかなければ聞こえないほどの小さな声を発した。
「……また、きてくれる?」
不安に身を震わせる、愛しい愛しい私の王子様。
安心させるように包み込むように抱きしめる。
……母親のように。
「もちろん。大切な弟ですもの」
「……だから、それ……」
「大好きよ、ヴィ。愛しているわ」
「……ぼくも、だけど」
「なんか、ちがう」と口を尖らせつつも、ヴィンセントは今日ノエルと一緒にいられるわずかな時間を無駄にすることはしない。
ノエルも今から仮面を被らなくてはならないヴィンセントを少しでも甘やかそうと、愛情を注ごうと隙間なく抱きしめる。
「ノエル、ノエルぅ……」
ドレスに皺が寄るほど小さな手で縋り付かれるように。
「私はここにいるわ。あなたの不安が消えるまでここにいるから」
「ノエル」
「大丈夫、大丈夫よ。あなたなら」
「うん」
もう少し。
もう少しだけ、この子を子供のままでいさせてあげたい。
せめて私達、姉弟だけでもヴィンセントの心の拠り所になれるというのならば。
「私達は何があってもあなたの味方よ、ヴィ」
この世に生を受けたその瞬間から、この国全ての命を背負う存在。
他人の命を背負うことがどれほど重たいか。
それを守り続けることがどれほど難しいか。
ノエルはまだ片鱗も理解できていないかもしれない。
自分よりも、弟よりも小さいこの存在に負わせてしまうものの重さに、胸が締め付けられる。
ヴィンセントはいずれこの国の王となり、ノエルの手の届かない高みにまで上り詰めるだろう。
そして、ノエルを、レヴィを……民を守る存在となる。
それではヴィンセントは誰が守ると言うのか。
気休めでもいい。
少しでもヴィンセントの心を守ってあげたい。
『父上がいってた。王とは国民の、国の奴隷なのだと』
舌っ足らずな言葉遣いでヴィンセントが窓から見える国をまっすぐに見つめて言った言葉。
この国に生まれて幸せだと、心から思う。
平和で豊かな国を築いてくれる王を心から尊敬し感謝する。
「ねぇ、レヴィ」
「なんですか、姉上?」
剥れていたレヴィも今はノエルの膝の上でご機嫌だ。
ふわりと笑みを浮かべてノエルを見上げている。
「大好きよ」
「! お。俺も、姉上が、だ、大好き! です……」
真っ赤になりながら、真剣に言葉を返してくれる小さな可愛い弟。
『大好きよ、ノエル』
「愛しているわ」
『愛してる、私達の宝』
「……姉上?」
ぎゅぅ……とレヴィを抱きしめる。
……母が昔、よくそうしてくれたように。
『愛してるわ、ノエル。私達の元に産まれて来てくれて、ありがとう』
暖かな言葉。
染み渡る体温。
確かに感じられる愛情。
幸せなあの頃の記憶はノエルの胸に、確かに存在している。
母上のようには出来ていないかもしれないけれど。
「大好きよ……愛してる」
照れくさそうに笑う弟達を見て、ノエルは昔の自分を垣間見る。
心がくすぐったくなって、幸せな気持ちになれる、あの瞬間が二人にも与えられていたらいいと、心から願う。
『ノエル……ごめんね。弟を守ってあげてね』
(……はい、母上)
大切な私の弟。
母上の分も、私が愛してあげる。
「俺も、姉上が大好きです」
『僕も、ノエルが好きだよ』
慈愛に満ちた笑みでその言葉に答える。
あなたたちが、私を必要としなくなるそのときまでは。
私があなたたちを守る。