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世界最強の悪役令嬢は魅了スキルを使いません!〜落としているのは人の心ではなく、敵のほうです〜

作者: 棗 月雫
掲載日:2026/04/04


 王城の大広間は、今夜もきらきらしていた。


 天井から吊るされた魔石灯は星みたいに輝いていて、磨き上げられた床には色とりどりのドレスが映りこんでいる。

 貴族たちは笑い、楽団は優雅な旋律を奏で、給仕たちは静かに杯を運んでいた。



 そんな華やかな夜会の中央で。


「……またですの?」


 ひときわ冷ややかな声が響いた。


 声の主は、クロチルド・ヴァレンシエンヌ。


 淡い金の巻き髪に、薄紫の瞳。

 深い葡萄酒色のドレスをまとったその姿は、誰が見ても完璧な淑女だった。


 黙って立っているだけで絵になるし、少し顎を上げるだけで圧がある。


 そのせいだろうか。


 彼女はいつも、悪役令嬢みたいだと言われる。


「また、だなんて失礼ですわ」


 クロチルドの前で扇を開いていたのは、上位貴族の令嬢ヴィクトワール・ド・メザンジュだった。


 蜂蜜色の髪を豪奢に巻き上げた美しい令嬢だが、今はきつい目でクロチルドを睨んでいる。


「失礼? まあ。わたくし、事実を申し上げただけですわ。気づいておいででしょう? あなたの周り、いつも妙に殿方が多いのですもの」


「妙に、とは?」


「人心を惑わす何かをお使いなのではなくて?」



 ざわり、と周囲の空気が揺れた。


 近くにいた若い貴族たちが、びくりと肩を震わせる。



 けれどそのうちの一人、眼鏡をかけた細身の青年が、思い切ったように一歩出た。


「そ、それは違います! クロチルド様はそのような方では……!」


 文官志望のテオフィル・ダルサンである。



 すると今度は、日に焼けた快活な青年マクシマンが言った。


「そうだ! クロチルド様は俺たちを助けてくださったんだ! 去年の魔獣暴走だって――」



「黙りなさい」


 ヴィクトワールがぴしゃりと言うと、二人は悔しそうに口を閉じた。



 クロチルドは小さく息をついた。


 ――違いますのに。


 心の中でだけ、こっそり呟く。



 確かに、彼女の周りには人が集まりやすい。

 下位貴族の子息子女、若手騎士、文官見習い、果ては侍女にまで、妙に慕われる。


 だが、それは断じて魅了スキルのせいではない。


 なぜなら、クロチルドは魅了を使わないからだ。


 正確に言えば、彼女は精神干渉系統――この国で「シャルメ」と呼ばれる禁忌寄りのスキルに、極めて高い適性を持っている。



 でも、だからこそ使わないと決めていた。


 人の心を奪う力など、ろくでもない。


 もし誰かが自分を好きになるなら、それはその人自身の意思であってほしい。



 ――実はクロチルドは、前世の記憶を持つ転生者だ。


 そんな価値観も、どこか前世の影響があるのかもしれない。


 見た目に反して、クロチルドはかなり真面目だった。



「……申し訳ありませんけれど」


 クロチルドはにっこりと微笑んだ。

 笑顔は綺麗だが、綺麗すぎて逆に怖い。


「わたくし、そういうものは使いませんの」


「ではなぜ、あなたの周囲には人が集まるのかしら?」


「知りませんわ」


 即答だった。


 ヴィクトワールがぴくりと眉をつり上げる。


「知らない、ですって?」


「本当に知りませんもの。むしろ、わたくしのほうが教えていただきたいくらいですわ」



 その言葉に、少し離れた場所から「本気で言ってるのよねえ……」という呆れ声が飛んだ。



 振り返ると、栗色の髪を上品にまとめた少女がこちらに歩いてくる。


 オリアンヌ・ベルヴォワール。クロチルドの親友だ。


「また何かしでかしたの?」


「心外ですわ、オリアンヌ。わたくしは何もしておりません」


「その台詞、今日だけで三回目よ」


 オリアンヌはため息をつき、ヴィクトワールに優雅に礼を取る。


「メザンジュ様。うちのクロチルドがご迷惑をおかけしているなら申し訳ありませんわ。でもこの子、本当にそういう駆け引きは苦手ですの」


「苦手、で片づく問題ではありませんわ」


 ヴィクトワールは扇の向こうで目を細めた。


「王子殿下にまで妙な影響を与えているのですもの」



「……え?」


 クロチルドは目を瞬いた。



 その視線の先、柱の陰からひょこっと顔を出したのは、第一王子フォスタン・セルジエだった。


 やわらかな金髪に、青みがかった明るい瞳。

 整った顔立ちの美青年なのだが、今はなぜか妙に挙動不審である。


「ち、違う! 僕は妙な影響なんて――」


「殿下、出てこないでくださいませ。火に油ですわ」


「でも、クロチルド嬢が困っているようだったから……」


「困らせているのは、だいたい殿下です」


 オリアンヌが即座に切った。


 フォスタンは「うっ」と言って黙る。



 そんなやり取りを見て、周囲の若い貴族たちはなんとも言えない目になった。


「ああ……殿下まで……」

「やはりクロチルド様はすごい……」

「いや、すごいのはそこじゃない気が……」


 クロチルドは頭が痛くなってきた。


 どうしてこうなるのか、本当にわからない。




 その時だった。


「失礼」


 低く落ち着いた声が響く。


 人垣を割って現れたのは、黒髪の騎士ガシアン・ド・ロシュフォールだった。

 王国騎士団でも一、二を争う剣の使い手で、無表情で立っているだけで威圧感がある。



 彼はクロチルドの隣に立つと、周囲を一瞥した。


「彼女を囲むな」


「え、囲んではおりませんけれど……?」

「君たちがそう思っていても、結果として囲んでいる」


 有無を言わせぬ口調だった。


 若い貴族たちはびしっと背筋を伸ばす。


 フォスタンまでなぜか一緒に伸びた。



 クロチルドは見上げた。


「ガシアン様」


「呼ばれたので来た」


「呼んでおりませんわ」


「顔が困っていた」


「……」


 それは呼んだも同然と言われると反論しにくい。



 オリアンヌが横で小さく肩をすくめた。


「はいはい、護衛騎士さまの登場ね」


「護衛ではない」


「そういうところよ」



 クロチルドはもう一度、そっと息をつく。


 ――平穏に、穏便に、静かに夜会を終えたいだけですのに。


 そのささやかな願いが叶わないことを、彼女はまだ知らなかった。


     ◇


 異変に最初に気づいたのは、宰相アリスティード・モンルイユだった。


 壁際で政務関係の貴族たちと話していた彼が、ふとグラスを置く。


 落ち着いた茶髪に、琥珀色の目。

 柔らかく微笑んでいても、目だけは鋭い。


「……おかしいですね」


 その声は小さかったが、近くにいたクロチルドの耳には届いた。


 同時に、彼女も気づいていた。


 空気の流れ。魔力の揺れ。床下から響く、ごくわずかな軋み。


 転生前の感覚と、この世界で鍛え上げた魔力感知が、同時に警鐘を鳴らす。


 前世の知識と今世で磨いた技が、こういう時だけ妙に噛み合うのだ。



「オリアンヌ」


「なに?」


「少し下がってくださいませ!」


 クロチルドの声音が変わった。



 オリアンヌはその一言だけで顔色を変える。


「……本気のやつ?」


「ええ」



 それを聞きつけたガシアンが、一歩前に出た。


「何がある」


「まだ断定はできませんけれど――」



 次の瞬間、広間の中央に展開されていた魔法陣が不気味に光った。


 床に刻まれた装飾紋様が、まるで生き物みたいにうねる。



「きゃあああっ!?」


 誰かの悲鳴が上がった。



 直後、轟音。



 床が裂け、黒い霧が噴き上がる。

 そこから現れたのは、牙と爪を持つ巨大な魔獣だった。


「魔物だ!」

「結界が……! 結界が破られている!」

「殿下をお守りしろ!」


 大広間は一瞬で地獄絵図になった。


 貴族たちが我先に逃げ出し、楽団は悲鳴を上げ、侍女たちは膝をつく。

 頭上では王城防護の結界が明滅し、今にも砕けそうにひび割れていた。



 そして、こういう時に限って。


「や、やはり!」


 ヴィクトワールがクロチルドを指さした。


「あなたですわね、クロチルド・ヴァレンシエンヌ! あなたが人心を惑わせ、今度は魔まで――」


「メザンジュ様」


 クロチルドは静かに言った。


「今、それどころではありませんの」


「で、でも……!」


「あとでいくらでもお相手いたしますわ。生きていれば、ですけれど」



 その一言で、ヴィクトワールは口をつぐんだ。



 クロチルドはすっと視線を巡らせる。


 魔獣は三体。


 結界制御核に干渉している術式が一つ。


 さらに、天井裏に人の気配が四つ。


 王子の近くには毒針。


 奥の回廊では別働隊が動いている。



 ――面倒ですわね。


 とても面倒だ。



 だが、放ってはおけない。



「ガシアン様」


「ここいる」


「殿下の護衛を」


「お前は?」


「わたくしは少しだけ、裏に回ります」


「却下だ」


「もう行きますわ」


「待て!」




 待つわけがない。


 クロチルドは髪を飾っていた銀のかんざしに、そっと指を触れた。


 紫水晶の小花をあしらった、令嬢らしい繊細な一品に見えるかんざしは、彼女が密かに愛用する魔導武装だった。



 かんざしに魔力を流し込む。


 すると、飾り石の奥で淡い紫の光が灯る。



 次の瞬間、クロチルドの姿がふっと揺らいだ。


 まるで光の膜を一枚まとったように気配が薄れ、そのまま一歩引いただけで、彼女は人の視界から滑るように消える。



「は?」


 フォスタンが間の抜けた声をあげた。



 オリアンヌが額を押さえる。


「出たわね……くノ一趣味」


 クロチルドが転生前からくノ一に妙な憧れをこじらせていたことを、オリアンヌはよく知っている。



「趣味ではない」


 ガシアンだけが真顔で返す。



「実戦だ」


     ◇


 クロチルドは柱の影から影へ、まるで夜気そのものみたいに滑っていった。


 シャンデリアの鎖を足場にし、二階回廊の手すりを軽く蹴り、音もなく天井近くへ躍り出る。


 ドレス姿とは思えない動きだが、本人はいたって真面目だった。



「まずは結界ですわね」


 制御用の魔石に、黒い呪符が張りついている。


 敵は王城の防護結界を乱し、その混乱の中で王族暗殺と政変を狙っているらしい。



「雑ですわ」


 クロチルドは髪から一本目のかんざしを抜いた。


 銀細工のそれは、普段ならただの装飾品にしか見えない。

 だが、先端には魔力を通すための極細の溝が彫られている。


 彼女が指先で軽く弾くと、かんざしは紫の光をひいて飛んだ。


 ひゅん、と小さな音。


 次の瞬間、呪符のど真ん中に正確に突き立つ。


 ぱちっ、と紫電が走り、呪符は一瞬で灰になった。



 その直後だった。


「そこか!」


 天井裏から黒装束の男が飛び出した。


 暗殺者だ。


 クロチルドは少しも慌てない。


「遅いですわ」


 今度は二本目のかんざしを抜く。


 投げる――のではなく、男の背後、梁へ向かって放った。


 かんざしが梁に突き立った瞬間、そこを起点に見えない魔導糸が走る。


「なっ――」


 男が振り向くより早く、糸は手首と足首に絡みついていた。


「暴れると締まりますわ」


 クロチルドが指を軽く払う。


 魔導糸が引かれ、男の体勢が崩れた。


 そこへ、彼女は容赦なく後ろ蹴りを叩きこむ。


 鈍い音とともに、男は天井板を突き破って落ちていった。



 下から悲鳴が上がる。


「きゃあっ!」

「今、何が起こったの!?」

「クロチルド様……!」


 誰かが感極まった声で呟く。



「落とされたのは、人の心ではなく敵……」


 オクターヴの声だった。



 クロチルドは聞かなかったことにした。


 次の気配へ跳ぶ。



 回廊の奥。


 柱の陰に潜んでいた暗殺者が、細い毒針を構えていた。


 狙いはフォスタンだ。


「殿下はあちらではなくてよ」


 声をかけると、男がぎょっと振り向く。


「なっ――」


「残念でしたわ」


 クロチルドは袖口から細い銀針を二本抜いた。


 くノ一めいた暗器として仕込んでいる、麻痺用の魔導針だ。


 致命傷ではなく、無力化のためのもの。


 彼女が軽く手首を返すと、針はほとんど見えない速度で飛ぶ。


 一本は男の肩口へ。もう一本は手首へ。


「ぐっ……!?」


「大声を出さないでくださいませ」



 さらに、クロチルドは髪から三本目のかんざしを抜いた。


 一見すれば、紫石の飾りがついた優美な髪飾り。

 だが魔力を込めた瞬間、先端が刃のように鋭く伸びる。


 かんざしは男の足元の床へ突き立った。


 そこを起点に魔方陣が走り、薄紫の線が円を描く。


「《小檻》」


 簡易拘束結界が立ち上がり、男の体がその場に縫い止められた。


「どうしてよりにもよって、逃げ足だけは妙に速い殿下を狙いますの」


 男はすでに麻痺が回り、返事もできない。


「……まあ、わたくしも人のことは言えませんけれど」




「クロチルド様ーっ!」


 下からマクシマンの声が飛ぶ。



「魔獣が二体、南側へ!」


「聞こえておりますわ!」


 返事をしながら、クロチルドは二階の欄干を蹴った。



 そのまま飛び降りる――ように見えた次の瞬間、彼女は途中でかんざしを一本、壁へ撃ち込む。


 かんざしを起点に魔導糸が張られ、その反動で軌道が変わる。



 まるで空中を滑るような、くノ一じみた変則移動だった。


 ひらり、と葡萄酒色のスカートが翻る。


 着地と同時に、巨大な魔獣の爪が振り下ろされた。



「危ない!」


 誰かが叫ぶ。



 クロチルドは片手でその爪を受け止めた。


 ごん、と重い音が響く。



 細い白い手が、魔獣の凶悪な爪を正面から止めていた。



 一拍遅れて、広間が静まり返る。



「……え?」


 フォスタンの声が震える。



「え?」


 ヴィクトワールまで同じ声を出した。




 クロチルドは首をかしげた。


「魔力で強化すれば、この程度は普通では?」


「普通じゃない!!」


 オリアンヌが全力で叫んだ。


「知ってたけど普通じゃないから!」




 魔獣が唸り、もう片方の腕を振るう。


 クロチルドはひらりとかわし、そのまま懐へ潜りこんだ。



 そして、髪から抜いた最後のかんざしを、魔獣の胸部へ突き立てる。


「眠っていなさいませ」



 かんざしを起点に紫の魔力紋が走り、魔獣の巨体に一瞬だけ拘束がかかった。



 その隙を逃さず、クロチルドが掌底を叩きこむ。


 衝撃波が走り、魔獣は吹き飛んで壁際へ転がった。



 もう一体が吠えた。


 ガシアンがすぐさま剣を抜いて前に出る。


「任せろ!」


「いいえ」


 クロチルドは微笑んだ。


「ご一緒に、ですわ」


 その一言だけで、ガシアンの目つきが少し変わる。


「……承知した」



 二人は同時に駆けた。


 ガシアンが正面から斬り込み、魔獣の注意を引く。


 そこへクロチルドが死角から入り込み、結界術で足を縛る。


「今ですわ!」


「言われるまでもない」



 黒い剣閃が走る。


 魔獣の核だけを正確に断ち切り、巨体が崩れ落ちた。



 拍手が起きそうになったが、まだ早い。



 アリスティードが声を張った。


「避難誘導を! 動ける者は子どもとご婦人を回廊へ! フォスタン殿下!」


「は、はい!」


 名を呼ばれたフォスタンは、びくっとしながらも前に出た。



 クロチルドが一瞥する。


「殿下」


「っ、な、何かな」


「格好をつけるなら、今でしてよ」



「……!」


 その一言が効いた。



 フォスタンは顔を赤くしたあと、ぐっと拳を握る。



「皆、落ち着いて! 北回廊は危険だ、南へ! 子どもと高齢の方を優先して!」


 声は少し裏返っていたが、それでも確かに王族の声だった。



 混乱していた貴族たちが、少しずつ動き始める。


「殿下の指示に従え!」

「こちらです!」

「早く!」



 オリアンヌもすかさず動いた。


「マクシマン、そちらの令嬢方を! テオフィル、名簿を確認して行方不明者を洗って!」

「は、はい!」

「了解です!」


 広間はようやく秩序を取り戻し始める。



 だがその時、アリスティードが厳しい顔で言った。


「まだ終わっていません」


「ええ」


 クロチルドも感じていた。


 王座の間へ続く大扉の向こうから、もっと濃い魔力が流れてくる。


「――本命が、いますわね」


     ◇


 王座の間へ続く廊下は、異様なほど静かだった。


 広間の喧騒が嘘みたいに遠い。



 先頭を進むのはクロチルド、その半歩後ろをガシアンが歩く。


 少し離れてフォスタン、さらに後ろからアリスティードがついてきた。


「本来なら、君たちを行かせる場面ではないのですがね」


 アリスティードが苦笑する。


「ですが、今この国で最も頼りになる戦力がそこにいる以上、止めるだけ無駄でしょう」


「よく分かっていらっしゃいますわ」


「褒め言葉として受け取っておきます」


 フォスタンが小声で言った。


「……あの、クロチルド嬢」


「なんでしょう」


「その、さっきの。格好をつけるなら今、というのは」


「事実ですわ」


「そ、そうじゃなくて。ええと……君にそう言われると、頑張ろうって思えて……」


「殿下」


 ガシアンが低い声を出した。


「今は集中しろ」


「ご、ごめん!」


 クロチルドは少しだけ目を瞬いた。


 なぜ怒られたのか、よくわからない。



 そのまま扉の前へ到着する。


 黒い霧が隙間から漏れていた。



「――結界が張られていますね」


 アリスティードが眉を寄せる。



「内側から封鎖されています」


「では、壊しますわ」


「言うと思ったよ」



 クロチルドは扉の前へ進み、指先で木目をなぞった。



 封印術式はかなり複雑だ。


 外から無理にこじ開ければ、中の術者に察知される。


 ――ならば正面突破より、縫い止めて裂いたほうが早い。



 彼女は髪から三本のかんざしを抜いた。


「えっ」


 フォスタンが目を丸くする。


「そ、その髪飾り、全部武器だったの?」


「護身用ですわ」


「護身用の範囲を超えてる気がする!」


 クロチルドは返事の代わりに、かんざしを三方向へ放った。


 一本は扉の上部へ。一本は右壁へ。一本は左壁へ。


 銀の軌跡が走り、突き立った先から魔導糸が伸びる。


 紫の線が三角を描き、その中心に封印術式が浮かび上がった。


「逃がしませんわ」


 クロチルドが指を閉じる。


 ぎちっ、と術式そのものが締め上げられる音がした。


「三、二、一」


「待て、その数え方は嫌な予感が――」


 ガシアンが言い終える前に、クロチルドは魔力を一気に流し込んだ。


 紫の光がはじけ、封印術式が内側から裂ける。


 どん、と重い音を立てて大扉が吹き飛んだ。



「乱暴すぎる!?」


 フォスタンの悲鳴が響く。


 クロチルドは涼しい顔で答えた。


「丁寧に開けましたわ」


「どこが!?」


     ◇


 王座の間の中央には、黒衣の男が立っていた。


 貴族の礼装に見せかけているが、その顔には焦りと憎悪が滲んでいる。


 近衛の一人に化けていた逆賊だ。


 男の足元には、巨大な召喚陣。

 そこから今まさに、四体目の魔獣が現れようとしていた。


「来たか、化け物令嬢め」


 男が嗤う。


「やはり貴様は危険だ。人心を掌握し、王子を惑わせ、騎士も若い貴族も従えている」


「……」


 クロチルドは静かに男を見る。


 怒ってはいない。


 だが、少しだけ冷えていた。


「わたくしは」


 一歩、前へ出る。


「人の心を奪う力など、使いませんわ」


「ならばなぜ、皆が貴様を――」


「知りません」


 即答だった。


「本当に知りませんの。でも」


 クロチルドは薄紫の瞳を細めた。


「助けたいから助ける。それだけで十分ではありませんこと?」


 男が顔を歪める。


「綺麗事を!」


 召喚陣が大きく脈動した。


 黒い魔力があふれ、巨大な魔獣が頭をもたげる。


 王座の間を埋め尽くすほどの巨体。


 もし完全に出現すれば、王城どころか城下にまで被害が及ぶだろう。



 フォスタンが青ざめた。


「まずい……!」


「殿下、下がって」


 ガシアンが剣を構える。


 アリスティードも後ろへ下がりながら言った。


「クロチルド嬢。加減は」


「難しいですわね」


 クロチルドはさらりと言った。


「ですが、なんとかします」



 男が叫ぶ。


「やれっ!」


 魔獣が咆哮する。


 床が揺れ、窓ガラスがびりびりと震えた。


 クロチルドは静かに息を吸う。


 ――本当は、目立ちたくありませんのに。


 でも、ここまで来たなら手早く終わらせるしかない。



 彼女は髪から残っていた二本のかんざしを抜いた。


 一本を床へ。一本を柱へ。


 さらに袖から銀針を数本滑らせ、召喚陣の外周へ正確に打ち込む。


 かんざしと針、それぞれに込められた魔力が共鳴し、薄紫の術式が一気に組み上がった。



「逃がしませんわ」


 男が顔色を変える。


「な、何を――」


「《紫晶の檻》」


 瞬間、王座の間全体に紫の光が走った。


 無数の結晶壁が生まれ、魔獣と黒衣の男だけを囲い込む。

 衝撃波は完全に遮断され、周囲には一切届かない。


「なっ――結界を、瞬時に……!?」


 アリスティードが珍しく目を見開いた。



 クロチルドは小さく首を振る。


「瞬時ではありませんわ。下準備はしておりましたもの」


「その下準備が見えなかったんだよ!」


 フォスタンが叫ぶが、クロチルドはもう次の動きに入っていた。


「《夜渡り》」


 その姿が消える。



 次の瞬間には、魔獣の頭上にいた。


 巨大な爪が襲いかかるが、遅い。


 クロチルドは空中で身をひるがえし、魔力を足先に集中させる。


「失礼」


 かかと落とし。


 轟音とともに、魔獣の頭部が床へ叩きつけられた。


「…………」


 フォスタンが口をぱくぱくさせる。


 ガシアンはもはや驚かない。

 頼もしい顔で一歩前へ出るだけだ。



 黒衣の男は後ずさる。


「ば、馬鹿な……!」


「まだ終わっておりませんわ」


 クロチルドは男の前に降り立った。


「あなた、逃げる気でしょう?」


 びくり、と男の肩が跳ねる。


「図星ですのね」


「くっ……!」


 男が懐から短剣を抜く。


 毒の塗られた刃だ。


 けれどクロチルドは動じない。


「そういうの、先ほども見ましたわ」


 彼女は手首を軽く振った。


 いつの間にか指の間に挟まっていた銀針が、三本まとめて走る。


 一本は短剣を握る手へ。一本は肩へ。一本は膝へ。



「ぐっ……!」


 男の動きが止まる。



 クロチルドは、手元に残していたかんざしをすっと構えた。


 一見すれば優雅な仕草だった。



 だが次の瞬間、かんざしの先端に紫の刃が伸びる。


「おとなしくなさいませ」


 床へ突き立てる。



 かんざしを起点に拘束陣が開き、男の両腕と両脚が光の鎖で縛られた。


「くっ……!」


「暴れると少し痛いですわよ」


 その言い方だけ聞くと悪役令嬢めいていたが、実際には命を取る気はまったくない。



 無力化して終わり。


 それがクロチルドのやり方だった。



 同時に、倒れかけていた魔獣が最後のあがきのように口を開く。


 黒い瘴気が集まり、王座の間を飲みこもうとした。



「クロチルド!」


 ガシアンが叫ぶ。


「分かっておりますわ!」


 クロチルドは振り返り、両手を前に出した。


「《白暁》」


 閃光。


 白く、紫がかった巨大な魔法陣が開く。



 次の瞬間、瘴気ごと魔獣の核が浄化され、夜明けのような光に飲まれて消えた。



 

 ――静寂が落ちる。



 砕けた窓から冷たい夜風が吹きこみ、クロチルドの髪を揺らした。




 男は呆然と彼女を見上げる。


「なぜだ……なぜ、そこまでの力を持ちながら……その力があれば、世界征服も、人心の掌握も、望むままだろうに……」


()()()()()、興味がないからですわ」


「何を言って……」



 クロチルドは冷ややかに目を細めた。


「人の心を奪って勝っても、少しも嬉しくありませんもの」



 魅了スキルは使わない。


 使わずに勝てるのなら、なおさらだ。


 それがクロチルド・ヴァレンシエンヌの矜持だった。




 男は言葉を失った。


 フォスタンも、アリスティードも、しばらく何も言えなかった。



 やがて、ガシアンだけが静かに剣を納める。


「終わったな」



「ええ」


 クロチルドは少し疲れた顔で頷く。



「終わりましたわ」


     ◇


 騒動が収まったあと、夜会の空気は一変していた。



 広間にはまだ戦いの跡が残っていたが、負傷者の手当ては進み、王族も無事。


 逆賊も確保され、事件の全容も明らかになりつつある。



 そして当然のように、視線という視線がクロチルドへ集まっていた。


「クロチルド様……」

「なんとお美しく、そしてお強い……」

「やはりあの方こそ真の淑女……」



「一生ついていきます!」


 マクシマンが勢いよく言った。



 テオフィルも、眼鏡を押し上げながら深く頷く。


「知性、気品、武力、そのすべてを兼ね備えておられる……完璧です!」



「尊い……」

 オクターヴがうっとりして胸を押さえる。




「その言い方、なんとかなりませんの?」


 クロチルドが本気で困った顔をすると、なぜか周囲の頬が赤くなった。



 ヴィクトワールまで複雑そうな顔で近づいてくる。


「……その」


「なんでしょう、メザンジュ様」


「誤解、していた部分は……あったかもしれませんわ」


「はあ」


「ですが、あなたの周囲に人が集まる理由は、少し分かった気がいたします」


「そうですの?」


 クロチルドはぱっと表情を明るくした。


「では、ぜひ教えてくださいませ」


「それは……」


 ヴィクトワールは口を開き、閉じた。


 結局、何も言えずに視線をそらす。



 オリアンヌが横から小さく笑った。


「自分で考えなさいな」


「難題ですわ……」



 そこへフォスタンがやって来た。

 今度は逃げも隠れもせず、まっすぐだ。


「クロチルド嬢」


「殿下」


「今日は、その……ありがとう。君に言われた通り、少しは格好をつけられたと思う」


「ええ。よく頑張られましたわ」


「そ、それで! 僕はこれからもっと強くなる。国も守れる王になる。だからいつか――」


「殿下」


 また低い声が割り込んだ。



 ガシアンである。


「順番待ちだ」


「じゅ、順番!?」


「何のですの?」


 クロチルドが首を傾げると、アリスティードがちょうどいいところで咳払いした。


「若者たちの会話は眩しいですね。既婚者としては少々目に痛い」


「宰相閣下まで茶化さないでください!」


「茶化してはいませんよ。半分しか」


「半分は茶化してるじゃないですか!」


 フォスタンが赤くなる。



 そのやり取りに、ようやく広間に笑いが戻った。



 オリアンヌが肩をすくめる。


「ほらね、クロチルド。あなた、魅了なんて使わなくてもこうなるのよ」


「どうしてですの?」


「それを本気で聞くの?」


「ええ」


 真顔だった。



 オリアンヌは額を押さえ、ガシアンは無言で視線を逸らし、フォスタンは「かわ……」と言いかけて飲み込んだ。




 クロチルドはまったく気づかないまま、小さくため息をつく。


「……わたくし、平穏に暮らしたいだけでしたのに」



「無理だな」


 ガシアンが即答した。



「無理ですわね」

 オリアンヌも頷く。



「たぶん無理だと思う」

 フォスタンまで続く。



「ええ、無理でしょう」

 アリスティードが上品に微笑んだ。



 四人そろって断言され、クロチルドは目を丸くした。


「そんな」



「諦めてくださいませ、クロチルド様!」

 マクシマンが拳を握る。



「我々がついております!」

 テオフィルも続く。



「どこまでも……」

 オクターヴはまたうっとりしていた。



「ついてこなくて結構ですわ!」


 思わず叫んだその瞬間、広間にどっと笑いが起きる。




 クロチルドは頬を少しだけ赤くしながら、そっぽを向いた。


 魅了スキルは使っていない。


 これからも使う気はない。



 それなのに、どういうわけか今日もまた、周囲はますます彼女に惚れこんでいた。



 世界最強の悪役令嬢は、たぶん明日もきっとこう言うのだろう。


 ――わたくし、また何かしてしまいましたの?



 もちろん答えは、決まっている。


 大いに、である。


2026/04/05 一部修正しました

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