平和な教室と、招かれざる『破滅のシナリオ』
平和というのは、実に退屈なものだ。
青い空が広がり、楽しそうに小鳥の囀りが聞こえて、城下の道を子供達が楽しそうに走り去っていき、国が滅ぶ気配なんて一つもない。
かつて『魔術』といえば、平和を破壊して、世界を手中に収めるための『技術』だった。だが、四百年にわたる平穏は、その定義をすっかり変えてしまったようだ。
「サーラス先生! 見てください、できました!」
辺境侯爵邸。繊細だが、優美な様式で建てられた壮麗な館を背にしながら、素朴で自由奔放でありながらも、どこか親しみやすさのある静かな庭園が広がる。
差し込んでくる初夏の日差しよりも眩しい笑顔で、可憐な少女――シルヴィアは声を上げた。
彼女の掌の上には、直径一メートルほどの水球が浮かんでいる。
「お湯を沸かすための『ヒート』と、汚れを落とす『ウォッシュ』の複合魔法です! これなら、我が家の食器を一気に洗えますよね?」
シルヴィア・グノシス。この辺境侯爵家の第二息女であり、私の愛すべき生徒だ。
邪を祓うような銀髪と、アメジストのような瞳。十五歳になり、少女から女性へと変わるアンビバレントな美しさを湛えている。だが、その中身は驚くほどに幼く、純粋だ。
サーラスはあくびを噛み殺しながら、手元の古い本を閉じた。
「シルヴィア。何度言えばわかる」
「えっ? 魔力配分、間違ってましたか?」
「出力が高すぎる。皿を洗うのに、なぜ城壁を粉砕できるほどの水圧が必要なんだ。それだと皿ごと屋敷が消し飛ぶぞ」
「あ……」
サーラスが指をパチンと鳴らすと、巨大な水球が瞬時に霧散する。
無詠唱、かつ魔法陣の展開なし。他の魔術師が見れば腰を抜かす芸当だが、この屋敷では日常茶飯事の出来事だった。
「魔術の本質は『効率』だ。無駄な魔力の垂れ流しは三流のすることだと教えたはずだが」
「うぅ……ごめんなさい、サーラス先生。私、もっと頑張ります」
がっくり肩を落とすシルヴィア。
サーラスは軽く溜息をつきながら、彼女の頭にポンと手を置いた。
「だが、複合構成の速度は上がったな。その点は及第点といえる」
「! はいっ、ありがとうございます!」
途端に満面の笑みを浮かべるシルヴィア。
チョロい。あまりにもチョロすぎる。
サーラスの教育方針はスパルタだった。飴か鞭かで言えば、鞭が九割を占めている。だが、シルヴィアはたった一割の飴を『承認』だと勘違いして懐いてきた。
この純粋さは美徳だが、同時に致命的な欠点でもあった。
サーラスは、自分が置かれている状況を改めて俯瞰していく。
グノシス家で雇われている、ただの家庭教師。
しかしその正体は、建国期から生き続ける『不老』の大魔術師。かつては王国筆頭魔術師としてブイブイ言わせていた時期もあったが、平和になりすぎて居場所がなくなり、この地に隠遁している。
現代の基準では、サーラスの使う術は『古臭い』らしく、魔術協会からは『遺産』扱いされている。好都合だ。目立たず、騒がず、のんびりと生徒の成長を見守っては、終わらない余生を過ごす。
それがサーラスの望みであり、人生観だったのだが。
「——なんだね、その古臭い授業は」
庭園の静寂を切り裂くように、気障な男の声が響いた。
振り返ると、そこには豪奢な服に身を包んだネメシス伯爵が立っていた。細身で背が高く、顔立ちは整っているが、瞳の奥には野心が見え隠れしている。
「最新の魔導具を使えば、皿洗いなどボタン一つだ。わざわざ人間が魔力を使うなど、時代遅れも甚だしいな。これだから辺境は」
ネメシスは冷徹なまなざしで、サーラスを——いや、この国そのものを嘲笑った。
サーラスは彼を無視して、まだ温かい紅茶に口をつける。
小物が何か言っているな、程度の認識でしかない。しかし、シルヴィアは違ったようだ。
「ネメシス様……。あ、あの、サーラス先生を悪く言わないでください。先生はすごいんです!」
「ふん。まあいい。それよりシルヴィア嬢、君には才能があるそうだね」
ネメシスはサーラスの存在など、道端の石かのように無視して、シルヴィアに歩み寄る。そして、彼女の可憐な手を取った。
その瞬間、サーラスは嫌な『予感』に襲われる。殺気ではない。もっと嫌な、『因果』の歪み。
現実に対して、『既視感』から、もっとも高い『可能性』を見てしまう、魔術師の過敏な神経回路——
「君のような美しい原石が、こんな田舎で腐っていくのは惜しい。どうだろう、私が君を中央へ連れて行き、正しく磨き上げてあげるというのは」
「えっ……? 磨く、ですか?」
「ああ。君のその強大な魔力、もっと『有益』なことに使えるはずだ。領地経営の効率化、逆らう愚民の指導……私が手取り足取り教えてあげよう。厳しく、ね」
ネメシスの目が、一瞬、獲物を狙う獣のように変わった後、まるでそれを誤魔化すかのように、優しげに目が細められる。
その言葉に含まれた『悪意』と『支配欲』。普通の令嬢なら恐怖で手を引き、動揺してしまうだろう。
しかし、サーラスの『箱入り』生徒は違った。
「(厳しく……? それって、先生みたいに、私のことを思って指導してくれるってこと……?)」
シルヴィアの瞳が、期待に輝いてしまった。
彼女の中で『厳しい指導=愛』という、極めて危険な方程式が成立してしまっている。
「私、もっとお役に立てるなら……頑張りたいです」
「おお! そうかそうか! 聞き分けの良い子だ。君なら最高の『パートナー』になれるだろう」
ネメシスは満足げに笑い、シルヴィアの肩を抱いた。
その光景を見た瞬間、サーラスの脳裏に、前世の記憶とも呼べる奇妙な『既視感』が立ち上がった。
——『とある伯爵と婚約すると、悪役令嬢になることが約束されている』
あれは確か、前世の私がプレイした乙女ゲームのシナリオ。
シルヴィアという名のライバルキャラがいたはず。純粋すぎるがゆえに婚約者に利用され、非人道的な政策の実行犯となり、最後は『血塗れの魔女』として断罪される悲劇の悪役令嬢。
私は彼女を気に入っていたが、救済されるエンドは一つもなく、主人公の登場までにネメシス伯爵の強引さや、主人公の清廉さを強調するための、噛ませ犬のモブ役だった。
……冗談じゃない。
サーラスが手塩にかけて育てた生徒を、こんな成金野郎の道具にしてしまうだなんて。
(あいつがまだ出てきてない)
そして、最悪の不人気キャラの存在を思い出した。
ネメシス伯爵の背後には、さらに厄介な女がいるのだ。持ち前の美貌と打算で権力者に媚び、略奪婚だけで成り上がった正妻——ファタール夫人だ。
シルヴィアは、ファタール夫人の策謀と嫉妬に巻き込まれて、ギロチン台の上で、悪役令嬢としての生涯を終える。
(そんなの可哀想すぎる)
「どうやら私の平穏な老後プランに、修正が必要なようだな」
サーラスはカップに残った紅茶を飲み干すと、静かに立ち上がった。
まずは、あの『無能な権力者』を脅し……いや、説得しにでも行くとしよう。
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