夢の田舎道ーー大講義室 その1
白川は町の近くの寂しい田舎道を歩いていた。時刻は夜半でしゅう雨が身を濡らす。彼の斜め前方を背の高い男が歩いている。威厳があり、豪奢で、たいした男っぷりだ。雨が激しさを増し、風も強くなった。突風が押し寄せて白川はつい目をつむる。しかしおぞましい声がして目を開けると、そこにいたのは黒いヴェールで顔を隠した女の亡霊だった。それを見て白川は何か言ったが、雨と風に遮られて自分の言ったことさえ聞こえない。もう一人の男も何か言った。これもまた、風雨のせいで聞こえない。
二人が満足のいくやりとりもできないうちに、女の亡霊は姿を変える。鎌を手にした老人、時の神の姿へと、粘土をこねるように変形していった。そのおぞましい変身に、白川が悲鳴のような声で何かを叫んだのに対し、前に立つ壮健な男は一切物怖じせずに切りかかろうと腰につけた剣に手をかけた。が、次の瞬間、亡霊は飛び去っていった。
二人の間の沈黙を黒い雲から鳴る雷のうめきが埋める。それに混じって、何かの音がすることに白川は気づいた。何か、重く硬いものが水にぬれた草や地面を強くたたく音。足音?彼は首をかしげる。しかしながら連れの色男は彼よりも早くその正体に気づいたようだ。正面を向いて何かを言った。その表情からして、彼の豪胆さが窺える。白川はハッと声の方を向き、落ち着き払った主人の前に騎士の石像が立っているのを見た。勇敢な紳士が石像に手を差し出す。それから、石像はその手を取って――、
「――雷、なんじの頭上に落ちん。」
すると、無音の爆発が白川の感覚を奪った。
「ああ!――目に見えぬ火がおれを焼く――体中が燃えさかる烈火のようだ――ああ!」
あの大胆不敵な武人がそのような悲痛な叫びをあげるのを聞いた気がして、彼は急いで目を開けた。まだチカチカと明滅を繰り返す視界に映ったのは、大地が裂け、あの泰然自若の人を呑みこみ、その割れ目から大きな炎が吹き出す一部始終だった。彼の勇敢さにもかかわらず、いや、彼の勇敢さがこの死を招いたのだ!白川はもはや自暴自棄になり、激しい風雨の音も雷鳴も、真っ赤に染まる視界もやまない耳鳴りも恐怖で干上がった喉も、すべて無視して喚きたてた。
「おれの給料!おれの給料!――あの人が死んでみなさんご満足――かわいそうなのはおれひとり――おれの給料!おれの給料!おれの給料!」
おれの給料!という誰かの情けない声で白川は目を覚ました。青年は起き上がり、あたりをゆっくりと見回す。《誰もいないってことは、今の間抜けな声は俺のか?なんてみっともない声を出しちまったんだ。》あくびをしてから伸びをする。《今の夢は「ドン・ジュアン」のあの印象深いラストに違いない、確認するまでもなく。何冊も買い替えなきゃならないほど読み返してるんだもの。まぁ、最近は一切手をつけてないんだが……》
それから、ため息をついて机に伏す。《ところで、俺の目の前にいたあの色男、それに「おれの給料」。あの夢の中でどうやら俺はスガナレルをあてがわれてたらしい。ちぇっ、よりにもよってどうして鼻たれ道化のスガナレルなんか。夢の中くらい気持ちよくドン・ジュアンを演じさせてくれよ――、いやでも、今の俺ではまだ彼を演じきれない、他の役ならなんだってこなしてみせる自信はあるが、ドン・ジュアンをやりきれる自信はない、大役だもの、ただでさえブランクがあるっていうのに。そう考えれば、スガナレルの位置から、もっともあの人に近い位置から、あの人の身振りや声を観察できたというのはいい経験に違いない。ふむ、なんだか彼の勇敢さに与れた気がするぞ!》
青年は勢いよく身を起こした。と同時に、講義室の厚いドアの奥から複数人の足音と話し声が聞こえた。焦って時計を見ると、とっくに八時半を過ぎている。そろそろ講義が始まる時間だ。《……そうだ、俺はあの人の勇敢さに憧れたんだったな。》両開きのドアが持ち上がり、くぐもっていた笑い声が明瞭になる。白川は不安げに視線を迷わせながら、扉を視界の端に収めた。二人組の男女が入ってくる。男の方は、あまり興味を引かれなかったのだろう、白川は彼をすぐに意識の外へ追いやった。
女の方は……白川は弾かれたように首を回し、彼女を世界の中央に据えた。《こりゃあ、とんでもない美人がいたもんだ、いや美人なんてもんじゃないぞ、まるで……天使だ!いや、安直すぎる、つまり……天使だ!》あまりの興奮に、青年の口角が自然と上がっていく。実際のところ、その女学生は決して美人ではなかった。男受けのする小柄ではあったが、浮き出た頬骨と薄い唇と鋭い鼻が勝気な印象を、面長で受け口気味な顔を隠すように伸ばした髪が野暮ったい雰囲気を彼女に与えていた。しかしながら、恋をする男の例にもれず、白川の目には彼女が二人といない美人に見えていたのだろう。この世には男に運命を感じさせる顔、彼女には自分しかいないと感じさせる種類の顔をした女が多くいるものだ。
傍白は続く。《とびきりの天使――、っと、おいおい、目が合ったぞ、あ、そらした。ああ、なんて素敵な人なんだ、あの瞳、俺と目が合って羞恥に震えていたぞ!今だって、あの長くて美しいまつげの奥で!ああ、目を伏せちゃって、なんて奥ゆかしいんだ!出会ってすぐ目が合って、それに彼女は恥じらっていて……、なるほどこれは運命だ!》あれほどジロジロと眺めていれば、不審に思った彼女と目が合うのは当然なのだが、白川はついにそこまで及ばなかった。《美しい人、瞳の奥にバラを咲かせる人、あなたのその鮮やかな瞳を見てすぐに分かりました。私に一目ぼれしたのでしょう、何も恥じらうことはありません、私もあなたに一目ぼれしたのですから。》
ようやく本調子になってきた青年は、周囲が半年前と同じ彩りを取り戻しつつあることに気づかなかった。久しぶりにやってきた恍惚を貪ることに夢中になっていたのだ。その陶酔は、まるで夏の起き抜けに飲む一杯の水のように、彼の心身を蘇らせた。しかし、まだ足りない。青年は咀嚼するように口をモグモグと動かしてゴクリと呑みこんだ。
女学生は隣にいた男と二、三会話を交わすと、講義室を出ていった。白川は、抜かりなくもう一度彼女と視線を合わせることに成功して満足げな様子で、傍白を続ける。《運命の出会いだ!もし俺がこのアカデミックなリハビリを明日か昨日にでもしていたら?もし別の講義室を選んでいたら?もし二限目や三限目に登校していたら?そう、あの子との出会いはなかった!はは、神様も憎いことしやがるな。その通り、喜劇には恋愛が不可欠さ、だからってあんな素敵な人を……、張り切りすぎだぜ、職権乱用じゃないか?それに加えてドン・ジュアンの夢までプレゼントと来た、まさに至れり尽くせり、用意周到、よほど俺の即興喜劇の再開が待ち遠しいらしい。……俺自身、ここに戻ってくればまた喜劇をやれるかも、と期待していた節はあるが。》
ニヤニヤと笑いながら思索にふける白川を、男子学生は、先の女学生の連れだ、訝しそうに見つめながら歩いていく。《人の顔をジロジロ見やがって、失礼だし不審者みたいだぞ》青年は彼の方を見ないようにしながら顔をしかめる。《さしずめ、あの子を俺に取られそうで不安にでもなっているんだろう。はん、お前みたいな冴えないやつは惚れた女を片っ端から俺みたいなやつに奪われる運命なんだよ、諦めな。》背にその学生の視線を感じながら、鼻を鳴らす。《不愉快だ。今ならまださっきの子もそれほど遠くに……、いや違う、今ならまだあの天使も地上に奇跡を振りまいている最中だろうし、追いかけてみるか?いや、必要ない、なぜなら運命で結ばれているんだから。立っているだけで向こうからやってくるさ。》
白川は机に手をついて腰を浮かした、のだが……。《おっとっと、また誰かが来るぞ。》彼は急いで腰を下ろした。ドアが開いて一人また一人と学生が入ってくる。《ふむ、さすがに天使の方から迎えに来たわけではないか。》また腰を浮かす。《……っと、また来るぞ。》急いで腰を下ろす。男子学生の一団が入ってくる。《この半年でどうも……》またまた腰を浮かす。《……全く困ったな》腰を下ろす。《ずいぶんとシャイになっちまったらしい……》腰を浮かす。《……御覧の通り》腰を下ろす。そうしているうちに、試験前だからか座席はほとんど埋まり、教授がやってきて、講義が始まった。




