校門ーー大講義室
夏のある日の出来事
われらが白川青年について、たとえ彼がどんな雑踏に立っていたとしても、たとえ後ろ姿であったとしても、われわれが彼のことを見落とすことは普段ならまずありえまい。彼には、その前姿にも後ろ姿にも、そして何より内から外へあふれるエネルギーに、言い換えれば雰囲気に、いわゆる「個性」があるからだ。しかしながら、今この瞬間に限って言えば、どういうわけかその背を見つけることは(そう、見つける!自然と目にとまるのではなく、わざわざ見つけなければならないほどなのだ!)、都会の夜空で輝いているはずの星を見つけ出すことと同じくらい困難であった。
白川は半年ぶりに大学構内に立っていた。正門から十数歩進んだところにたたずみ、先にそびえる楠と時計塔と青空から苦々しく視線を逸らすと、疎外感のようなものを抱きながら、そわそわと首をめぐらしていたが、ようやく腰を据えた。右足を軽く折って左足に重心を置いて右手を腰にやる。おなじみの気取ったポーズだ。彼の横を、まだ朝早くにもかかわらず、ひっきりなしに自転車が通り過ぎていく。
《まさか本当に地獄に落ちるとはなぁ……》青年はきれいに刈り揃えられた芝生のような頭を撫であげる。一人喜劇を始めて約六年、毎度似た筋の繰り返しでいい加減うんざりしていた青年は、半年前の一件を良い契機として、大学を親の許可もなく休み、新たな劇的強壮剤を求めて外の世界で喜劇の続きを試みたのであるが……。《気に入った女に言い寄っただけで、やれ警察だのストーカーだの接見禁止だの、興ざめったらありゃしないぜ。それにどいつもこいつも、人をまるで道端の猫の死骸のように扱いやがる。ちぇっ、ストイックに陶酔を求める人間は、いつの世もこうなるのか?》彼が無断で大学をサボっていたことについて、こう言う人があるに違いない、「親に学費を払ってもらってるのに、何をしているのか」。それに対して彼はきっとこう答えるはずだ、「本当に返す言葉もない」と。
すぐそばから音が聞こえたので、白川は目だけを動かしてそちらを見やる。年配の警備員とワンボックスの車、それから学生、それから地面、それから木々、それから駐輪場、それから建物、それから……。大学がそこに立っていた。青年は弁明するかのようにみっともなく手を振り、こそこそと去っていった。大学の外における半年間、開放社会という舞台における洗礼、というより道徳常識の強制力が、彼のような人間を見逃すはずもなく、その結果として、青年は抵抗むなしく環境に順応せざるをえなくなり、彼の喜劇は黙劇のような、寸劇のような、そういうものへと形を変えてしまったのだった。
法学部棟へ向かううちに平静を取り戻した白川は、何食わぬ顔で廊下を抜けて一階の第四講義室のドアへと手をかける。半年前あの敗北を、大敗北を喫した例の大講義室である。それにもかかわらず、彼は決意を固める様子さえなしに澄ました顔で重いドアを開けた。一晩中閉じ込められて蒸し暑くなった空気が、風通りのいい廊下へと、救いを求める亡霊の群れのように我先にとあふれ出してくる。白川は構わず室内に入り、横手ですばやく冷房の電源と電灯のスイッチを押した。瞬時に部屋は照らし上げられ、それに続いて空調の稼働音が鳴り始める。
通路に沿って講義室を見上げれば、自然と最後列のあの座席が目につく。当然、白川の目もおのずとそこに吸い寄せられていた。青年の眉間にシワが、この半年間ほとんど刻まれてこなかったため、半年前よりもずっと浅くなっているシワが静かに寄る。かつての苦い大敗北がふと鮮明によぎったのだ、彼は決してあの事件を忘れたわけではない。しかし、彼を不快にさせたのは、かつての失態の記憶だけではなかった、というより、それは少ない比重を占めていたと言うべきだろう。
《なんだか味気なくて居心地が悪い。俺が二年以上も喜劇を演じた舞台は、こんなにみすぼらしい場所だったのか?》傍白はもはや習慣としてしみついていた。《それにしても、眠い。この半年で早起きの習慣が身について……、ええと、スズメと親しくなっちまったからなぁ。》教壇の上に置いてある時計を見やる。まだ七時を数分過ぎたところだ。《ちぇっ、まだ七時じゃないか、生まれ持った生真面目に嫌気がさすぜ、全く。》通路を投げやりにつかつかと歩く。《後期から復学するために大学や講義に体を慣らしとこうと思ったが、まさか緊張でほとんど眠れないとは――、緊張?俺が?一体何に?……いや、よそう、俺が緊張なんて、思い違いさ。》
青年は目についた座席に近寄り、講義室のど真ん中にある席だ、どすんと腰を下ろした。そして、左右の席に足と頭を乗せ、横たわった。そのまま目をつむってしばらく動かなかったが、ふと何かを思い出したかのように起き上がってポケットから二つに折った茶封筒を取り出した。しわくちゃでへろへろになった封筒だ。白川はそれを手で何度も強く撫でたが、諦めて机の上に放り出すと、また横になった。
長机の上でふてくされたように寝転がっている封筒は、所在なさげで、不安そうで、しかしどこか尋常ならざる気配を漂わせている。それは、およそ二か月前に白川の実家から送られてきた封筒だった。中身は十枚の便せん、最初に挨拶と青年の体調を気遣う文句があり、その次に実家の周囲や家族についてのニュース、それから――。そのように脇道にそれてたらふく道草を食った後で、ようやく本題にたどり着く。その内容は大体以下の通りだ。
・大学から届いた成績表によると、どうやら二回の後期は一切単位を取得していないようではないかということ。
・もう三回生だというのに、卒業するためにはまだ五十単位近く必要なのではないかということ。
・留年も退学も一切認めないということ。
・就職先はしっかりしたところではないといけないということ。
・上記二つが守られない場合、青年に家業や財産を継がせないのはもちろんのこと、今後二度と実家の敷居を跨がせないことさえ十分ありうるということ。
それ以降はまた青年の健康と勤勉を祈る丁寧な文章が続いて結びとなっている。
《全くもってとんでもない手紙だぜ。》とうに寝付いたように見えた青年はゆっくりと目を開ける。しかしながらその目はとろんとしていて、視線はおぼつかない。《前文と後文はくどくてうんざりするほど愛にあふれてるっていうのに、本題になった途端、刀みたいに冷徹になって別の意味でうんざりさせられると来た。こりゃ名手だ、うちの親ときたら人を参らせる文章を書く名人だぜ、全く。「十分ありうる」だとさ。こんな気の利いた文句、普通じゃちょっと思いつかない。》長く大きいため息をついて、青年はまた目を閉じた。
彼が半年の自主休学から復帰した理由の大部分、あるいは全部がこの愛情深い手紙だった。しかしまた、彼が復学をためらっていた理由の何割かもこの無情な手紙なのだった。《家業だの財産だの、そういうのはまっぴらどうでもいいんだが、実家に入れないってのはなかなか効くねえ。我が親ながら、俺の弱点ってやつをしっかり分かってやがる。……本当に、二度と帰れないってのはなかなか応えるなぁ。》
脳裏の光景が、故郷や実家の様子が、いつしかまぶたの裏に広がりだす。日当たりがよくて空調も使い放題の自室、自慢の本棚に広い庭、風通しのいいベランダに夏でも陰になっていて涼しいベンチ、そこで横になって読むモリエール、それにカーテンを開けば、草木の匂いがすぐそこまで漂ってきそうなほど緑で賑やかな山と対岸の家がかすみがかって見えるほど大きな川があって、それから――。白川は去年の夏季休暇に見た光景を思い出しながら、睡魔に身をゆだねていった。睡魔は彼の思っていたよりも優しく丁寧に彼を夢の舞台へとエスコートしていくのだった。




