カフェレストラン前
白川青年の一日はあと少しだけ続く。
いくらか小降りになった雨の中、彼はカフェレストランの広く突き出た庇の下で雨宿りをしていた、というより傘の所在に困っていた。大きな窓ガラスの奥には、わずかばかりの客だけだ。ずぶぬれだった体はほとんど乾いたが、服はまだ湿っていて微かに生乾きの臭いを放っている。
《御陵のやつ遅いな、きっと後から来ると思っていたが……。店の中で待とうにも、こんなザマじゃ忍びない。全く、あいつにこの傘を押しつけて、とっとと帰りたいぜ。》腕を組みながら右の足裏で地面をタンタンと叩いて、その場にいない御陵を急かす。
そうするうちに、雨と靴の音に混じってドアの開閉音が聞こえ、それからビニール袋のこすれる音が近づき、カフェのバイトらしき女学生が両手に大きなゴミ袋を持ちながら白川の前を通り過ぎていった。
空は相変わらずどんより薄暗く、時計塔は安っぽくライトアップされ、風一つなく雨が木々を単調に打ち続けている。変化といえばその女学生くらいだったので、何とはなしに青年の視線は彼女の方へ向いていった。
彼女は店の脇に設置されている回収ボックスに、店で出たプラスチックやら可燃ゴミやらを分別して捨てている。背の高い女だが、おそらく青年より一つ二つ年下だろう。黒くて長い腰巻を着けていて下はよく見えないが、上は制服らしき青みがかったグレーのシャツ、カフスボタンを開けて袖がまくられている。
若干前かがみでゴミ箱を覗く体勢をとっているため、その肩上ほどの短い髪が垂れてくるのか、彼女は髪を撫でるようにしながら耳にかけた。雨で張り付いた髪の毛が、頬に黒い線を残す。しかし彼女は気にもとめず、せっせと手を動かしている。その表情、無心の伝わる透明な茶色い目。彼女の全てをそこから見透かせそうな気がした。
《これは……これはこれは!》もはや彼の頭から御陵のことなんか消え去っていた。《いけない、見とれてる場合じゃない。そうか、ゴミ箱は屋根から絶妙に外れてるから、彼女が濡れちまうじゃないか。それはいけない。美しいからって花に水をやりすぎると、かえって腐敗を招く。あなたを潤す水は、嬉し泣きの涙で十分でしょう?……しかし困ったどうしたものか、おや、俺の手にはいつの間にか傘があるじゃないか!》
青年は大股で彼女の斜め後ろに歩み寄り、手に持っていた傘の先を空に突き刺してから開いた。その音に驚いた女学生が振り向き、そして空を遮る傘に気づく。彼女は、すみません、ありがとうございます、と愛想よく言ったが、作業に戻ったその顔には多少の困惑が混じっていた。
少し経って彼女が再び振り返り、私は大丈夫ですから、そっちが濡れちゃいますよ、と言っても白川はニコニコしながら黙って首を振るだけだった、がしかし、女学生がゴミの分別に戻ると、彼は真剣な顔になって食い入るように彼女の白い首をじいぃっと見つめた。その視線に焦り、気の毒な女の手の動きは速まるのだった。
「なぜこれほど激しい雨が降るか、お分かりですか?」と白川が出し抜けに言い、女学生は動きを止めた。
彼は続ける。
「この雨はあなたの涙、嬉し泣きのね。私とようやく出会えたことに歓喜しながらも恥じらいで面に出せないあなたに代わり、あなたの父たる天が涙を流してくださっているのです。この涙は世界の怒りを静め、私の渇きを癒し――」
雨がやんだ。栓を締めるかのように瞬く間だった。どす黒い雨雲は、舞台上で場面が移り変わるときのように、あっという間にセピア色の雲に取って代わられる。さらに雲の隙間から夕陽までも差し込む。
「あ、それじゃあ私は店に戻るんで!」女学生は分別も何もあったもんじゃない、ゴミ袋をひっくり返してボックスにぶちまけ、小走りで遠ざかっていった。
「まるで奇跡のように雲が割れ、そこから私の魂のように熱く燃えたぎる、この地球の心臓といっても差し支えのない太陽が!天が我々を祝福してくださっている!美しい人、あなたの名前を……、いえ、私はあなたの名前を知っています、あなたは金星の女神!夜明けにまどろむ私を見て微笑み、宵闇に沈む私の心を優しく愛撫してくださる美の神なのです!」
おそらく女学生の耳にはもはや何も聞こえていないだろう。彼女が店の陰に消えて、慌ただしいドアの開閉音が響く。青年はそれでもなお、手を広げて興奮気味に独語する。
「私のまいた物笑いの種はやがて芽を出し、雨と注ぐ拍手、陽のように差す笑い声によって、大輪の花を咲かせたのです!さぁ、女神よ、この決してもう二度と絶えることのない花畑から、胸いっぱいの花束を、花冠を、胸飾りを、あなたに差し上げましょう、あなたの笑顔が尽きないように、楽しくって堪らない日々が永遠に続きますように!」
しばらくの間、空に手を差し出したまま青年は微動だにしなかった。道行く学生が怪訝な顔を向けるが、彼は気にもとめない。
《やっぱり堪らない感覚だ、どうにかしてあの子の連絡先を聞き出さなきゃな。》幸せな陶酔感に身を浸しながら傍白する青年の背後で、一つの足音が止まった。そして、相変わらずふるってるなぁ、と感心したように言った。
聞きなじみのある声に白川は調子を落とし、遅いぞ御陵、と言いながら振り返ったが、思わず驚嘆の声を上げた。
「お前もなかなかふるってるじゃないか、その顔はどうした?」
青年はまさに絶句といった表情で御陵を見た。どこから言及すべきか迷うが、まず全身は雨でずぶ濡れになっていた、髪はペシャンコでシャツは肌にくっついていて、とてもみすぼらしい。だらしない色男でギリギリ通用するかどうかといったところだ。
そして頬にくっきりと見事な紅葉、手形の跡が刻まれていて、それから少し視線を落として首を見ると、これまた立派なキス跡が一つ、所有権を主張するかのように堂々とした存在感を放っている。白川はすぐさま一方が山科のもので他方が西大路のものだろうと直感した。……どうやらその直感は間違っていなかったらしい。
「さっき山科と話してきたんだ、」御陵は頬をさすりながら言う。
「後回しにすると悩んじゃいそうだったしさ。それで西大路とのこととか、これまでの浮気のこととか、覚えてる限り全部話した。でもその時の彼女の優しい表情につい惜しくなっちゃって、未練のやつが顔を出してきて、『けどやっぱり名残惜しいから、今後は体のお友達として月に二回くらいで会うのはどうかな?』って。そしたら……これだよ、満面の笑みだったぜ、ビンタで気を失いかけることになるとは思わなかったな。」
白川は唖然とした。おそらく、白川の提示した選択肢「生涯を山科に捧げる」か「すっぱりと切り捨てる」かを、御陵なりに悩み抜いた結果が結局それだったのだろう、「やはり両方だ、さらにもっとだ」と。
《俺が焚きつけたところもあるが、こいつ正気か?結局のところ、山科の成長のおかげで全部丸く収まったって感じだな。俺は無駄に問題をかき回しただけなのかもしれない。》
深く短いため息をホッとついて、御陵は続ける。
「これでスッキリしたよ。正直、少し重いと思ってたんだ。結婚だなんて……、僕らまだ二十歳だってのに。彼女は僕にとって、純粋過ぎた。彼女の呼吸する息はきっと僕らのものとは違うんだよ、それが僕をいくらか気疲れさせる。僕はもっと、こう、肉々しい、脂の乗った、激情的な恋愛をやりたいんだ、そう、昔みたいな。」
「ようやく正直になれたな、正直正気を疑うよ。」青年は滅入った声で受け流し、「ということは、その首筋の熱いキスマークは西大路さんのものかい?」と続けて尋ねた。
「情熱的だったよ。『私が一番あなたを愛してるって、絶対分からせるから。』ってさ。いやぁ、あの子にも少し冷めてきてたんだけど、これでまた熱くなっちゃったな。」
それを聞いて、白川の脳裏に一瞬だけ影が落ちる。
《「愛してる」か……。彼女、御陵のことは本気で愛してると言っていたが、そんな言葉では表せないほど心中は荒れ狂っているに違いない。恋の女王が彼のために恋の奴隷となってしまったんだもの。
でも御陵は近いうち必ず彼女のもとから去るだろう、彼女にとっての地獄が始まるのはそのときだ。そのとき彼女はどうなる?いや、知ったことか、それが彼女の宿命だ。陶酔を追い求める人間は、俺も彼女も、みんないつかは各々の地獄に、試練に行き着くんだ。》
「お前はいずれ、いろんな意味で地獄に落ちる。じゃなきゃ嘘だ、世界の欺瞞だ。」
「なら雷に打たれないように、雨の日はなるべく外出を控えなきゃな。」
どこか誇らしげな顔でそう言ってのけた御陵に、青年は冷ややかな視線をやっていたが、カフェの方からドアの開閉音がした気がして顔が弾かれた。
《ヴィーナスか?金星よりも強い俺の愛の引力に惹きつけられて?》果たしてその通り、現れたのは先の女学生だった。
彼女は笑顔で白川の方にやってきて、お久しぶりです、と嬉しそうに言う。はてなと青年は困惑したが、ようやく彼女の視線が御陵に向けられていることに気づいた。彼は呆気にとられて、しばらく二人のやりとりを目で追っていたが、女学生と目が合うことはついぞなかった。蚊に刺されでもしたのか、青年はその間ずっと体をポリポリとかいていた。
五分ほどみっちり立ち話をしたのち、それじゃあ門の前で待ってますね、と彼女は手を振りながら去っていった。一緒に帰る約束でもしたのだろうか。すぐ行くから、と御陵も手を振り返して白川に向き直ってそれから、
「欲深く生きていこうって決めたよ。清貧ヅラしていたって、手に入らないものは手に入らないんだから。」としみじみ言った。
青年が生返事をして、さっきの人は?と尋ねると、どうやら高校時代の部活の後輩らしい。彼は再び気のない返事をして、思い出したかのように手の中にある傘を御陵に突きつけた。
「これ、明日山科に返しといてくれ。」
「自分でやれよ。ちょっと会ってすぐ返せばいいだろ。」御陵は訝しがった。
「勘弁してくれ。あんな素敵な人、あと一秒でも一緒にいたら、また好きになっちまうよ。俺は今新しい恋の予感にうずうずしてるっていうのに。」
さっきの子と一緒に帰るんだろ?俺も行くからな、と白川は言葉に圧をかけたが、御陵は気まずそうに苦笑いをして目をそらすだけだった。
彼はやがて、また同じ女の子を好きになっちゃったかぁ、と呟いた。
「お前、まさか……」白川の顔がひきつる。「彼女にもすでに手を出してるのか?」
御陵は黙って明後日の方を向いたまま、指を二本たてた。それはピースサインなのか、はたまた「二度ほど寝たよ」の意か。青年は失笑も一瞬に、大きく息を吸った。
「お前なんか今すぐ地獄に落ちちまえ!」
それはまさに雷鳴の如く空にとどろいた。数十秒もの間、また夕立が来ると勘違いした人たちの傘を開く音が、周囲一帯から鳴りやまなかったほどだ。次から次に、ボンッ、ボンッ、と響くその音は、さながら祝砲のようであった。




