傘の下
激しい雨を傘が弾く音と雨びたしのアスファルトを歩く靴音、蒸し暑さのせいもあってか憂鬱になる音だ。白川は山科と同じ傘の下に歩いていた。カフェまで一緒にいこうと山科の方から言ってくれたのだ。
身長の関係から山科が傘を持っているが、そのことは別段彼の自尊心を傷つけることはなかった、むしろ彼女が何の屈託もなく傘に入れてくれたことに安堵していた。少し歩いてから、さっきはゴメンね?と山科が口火を切った。濃茶色の影の下で正面を凝視していた青年は、彼女の美しい横顔を見上げる。
「浮気だなんて、柄でもない、どうかしちゃってた。そんなことしてもみんな苦しいだけなのにね。」山科は小さく笑った。それから続けた。
「私はミッチーのことを信じたい、そうじゃないと全部嘘になっちゃうもん。でも決めたよ。理想ばっかり見てられない、その理想の押し付けがきっと彼を苦しめてるから。信じるなんて言って現実から目をそらすのはもうやめる、そのツケを払わされるのはいつだって私以外の人なんだから。
そしていつか、彼が全部認めてくれたら、うん絶対認めさせるから、そのとき初めて、別れるか続けるか話し合って決める。それでようやく、私は大人に一歩踏み出せると思うの。」
私って甘いよね、と彼女は晴れやかな顔で自嘲したが、白川は彼女の強さに圧倒されて何も言えなかった。ほんの少し前まで自罰思考として彼女を苦しめていたものが、今では利他精神、無償の愛の若葉へと昇華されているのを見たのだ。
危うい優しさからしなやかな強さへの成長、一体何が彼女にそれを促したのか分からなかったが、少し前まであれほど弱弱しかった彼女とはとても思えなかった。……ひょっとしたら、あれは彼女の瞳に映った彼自身の弱さだったのかもしれない。
白川は大学を辞めたことを山科に告げるかどうか迷っていた、自惚れかもしれないが、彼女に少なからぬショックを与えてしまうことを恐れていたのだ。しかし、今の彼女なら大丈夫だろうと確信して伝えることにした。
ただ、それ以外にも隠された意図があったのを彼は認めざるを得なかった、決心を固めるつもりもあっただろう、それに、彼女に止めてほしいという願望もあったかもしれない、包み隠さず言うならば、彼女の新しい愛の息吹を一身に受ける御陵への嫉妬もないわけではなかった。
寂しくなるね、と山科は心の底から悲しそうにしたが、彼はまだ不満だった。
「長い長い旅に出るんだ。しばらく帰らない、きっと何年も。だからひょっとしたら、一生会えないかもしれないな。」
何をやっているのか、これでは今日やってきたことが台無しだ。それでも青年は止められなかった、彼女にだけは知っていてほしかった。
傘の影の下から、訴えかけるような視線を山科に送る。自分のことを彼女に忘れてほしくなかったのだ、どんな形であれ彼女にとって消えない存在に、唯一の汚点でもいいからなりたかったのだ。
「でも白川ならすぐに有名になれるよ、テレビで紹介なんかされたりするかもね。」山科はくすくすと笑う。彼女の言うことが分からず、青年は眉をひそめた。それを見た山科は小首をかしげる。「お芝居の武者修行に行くんでしょ?」
白川はうつむいてしみじみと笑った。体の奥が温かくなる感覚があった、それは激しいものではなく、ゆっくりじっくりと真冬の日光浴のようで、その未知の感覚がくすぐったくて堪らなかった。
――ああ、僕は本当に愚か者だ。彼女にとって唯一の存在になりたいだなんて。彼女にとって、すでに僕は二人といない喜劇のシンボルだったんじゃないか!僕は本当に間抜けだ。あんなハリボテの雲間に神様とやらがいるなんて。神様なら目の前にいるじゃないか、傘をさす詩の女神が。僕は今日何度も彼女をそう呼んだというのに、どうして気づかなかったんだ!
――今こそ声高に叫ぼう、「将来の破滅なんて屁でもない、むしろそれすらも陶然と喜劇の俎上に乗せてやる!」と。地獄よ、来るなら来い。ミューズの歓声を胸に、僕はどんな責め苦にだって耐え忍んで見せよう。
「その通りだよ。いつかあんたにもテレビのインタヴューが来るだろうから、そのときはこう答えるといい、『彼は私に告白した時だってお芝居をやめなかったんですよ。」ってさ。」
青年は笑い冷めやらぬまま山科に答えた。
「それとあんたはさっき、理想ばかり見てられない、と言ってたが、俺はきっとあんたの理想の、いや理想以上の道化であり続けるだろうぜ。あんたが笑うとき、俺がどこかで喜劇をやってると思っていい。」
ミューズの笑いの聞こえる方、それとは反対へ進んでいこう。そうすれば、次に彼女と会うとき、世界は僕の喜劇で満たされているはずだ。山科の笑い声を懐かしい気持ちで聞きながら、彼はそう思った。
「そういえば折り畳み傘あるんだった!」
道のりの半ばほどで、とは言っても数分しか経っていなかったが、そこで山科が素っ頓狂な声を上げた。白川が何か言うのも待たずに、彼女は立ち止まって彼に傘を押しつけたので、青年は柄に残った温もりにドキドキしながらも、彼女を雨に濡らすまいと慌てて少しだけ背伸びをする。
やがて山科が、あったあった、と大げさに安堵を漏らすと、彼は傘を取り換えようと手を差し出した。しかし、山科は笑って首を振り、折り畳み傘を開きつつ傘から出た。彼女が、そっち使って、と呟く。
「いいのか?俺の方がチビなんだから、逆がいいだろ。」白川が言う。
「いいの!」山科は来た道を引き返すのか、踵を返す。「でもちゃんと返してね、明日返してね。いい?絶対だよ。借りパクしないでね、大事な傘なんだから!」
しかし、白川は急に真顔になったかと思うと、傘を閉じ、山科に背を向けて何食わぬ態度で歩き出した。激しい雨があっという間に彼を濡らし、顔から手から体中から、小川のような雨の流れがしたたり落ちる。風邪ひいちゃうってば!とそれを見ていた山科は叫んだ。
「大事な傘なんだろ?じゃあ雨に濡らさないようにしないとな。」
白川は振り返って意地の悪そうなニヤつきを浮かべながらそう言った。もう!と山科は声を高くしたが、彼女の顔にも笑みが浮かんでいる。
それを見届けた青年は、また改まった顔つきになる。堂々とした様子で閉じた傘を杖のようについて左足を一歩下げ、そして山科を見つめながら胸に右手をあててうやうやしく頭を下げた、拍手の中で舞台裏へ引き下がろうとする役者のように。彼はそのまま手首でくるくると傘を回転させる。腕は次第に持ち上がり、しまいに傘は半円を描きつつ肩めがけておろされていく……が、手元が狂ったのか、制御を失い、額に強かぶつかった。白川は素知らぬ平然顔のまま、空気をすくいあげるように肩を大仰に動かして背を向けた。数歩進み、それから改めて傘を肩に乗せ、開く。ボンッ、と気前のいい音が響く、と同時に、傘にたまっていた雨が勢いよく彼の背を濡らした。
傘で隔てられた向こう側に、女性の無邪気な笑い声を、堪える気もない手放しに楽しそうな哄笑を聞きながら、青年は歩き続けた。




