大講義室前
扉が閉まりきるのを待たずして、真向いにある吹き抜けの入り口から誰かがやってきた、西大路だ。雨上がりの生ぬるい風が湿った女の匂いを白川の鼻まで運ぶ。こっちも時間通りみたいだな、と青年は口の中で呟いた。彼はいともたやすく自然な微笑を作ったが、依然としてその顔に生気はない。
「お初にお目にかかります、我が天使よ。――あなたは絶えず絶え間なく天井知らずに美しくなってゆくものですから、お会いするたびに『今までこんな美人に会ったことは!』と我と我が目を疑ってしまうのです。
ああ、もし大気がそこに真空を残すことを許されているのなら、あなたを一目見るために自然界に大穴を空けるに違いありません。」
「白川さん、すみません。私急いでるので……」西大路は愛想よく会釈したが、その視線は青年の背後にある扉から動かない。
「あなたの美しさを前に、私はもはや辞句を並べることすら諦めました。ですから思い切って打ち明けましょう、大気にすら聞かれたくはない、私とあなただけの秘密の話です。」
青年は彼女を無視して話し続ける。
「愛しています。私の人生を、あなたに捧げさせてはいただけませんか。」
西大路は初めて白川に視線を合わせた。彼女の顔に引きつった笑みが浮かび、口から乾いた笑いが漏れる。
「冗談ですよね?さすがにちょっと……、まだ一日も経ってないんですよ、ごめんなさい。御陵さんに呼ばれてるので、ちょっと退いてもらっていいですか?」
それを聞いて青年は、脱力してドアにもたれかかった。その顔は憑き物が落ちたように、いや、化粧を落とした舞台役者のようにすっきりとしている。
「そんなに急ぐことはない、御陵は今手が離せないんだ。その間に僕の話というか情報整理に付き合ってくれないか?はっきりさせないと未練が残りそうでね、興味がなければ適当に聞き流してくれ。」
彼は困惑を浮かべる西大路に注意を払うことなく、抑揚の欠けた声で続ける。
「まず、君は鹿ケ谷君と半同棲のようなことをしてるんだろう?多分、体は許してないだろうけど。次、御陵とは言うまでもないが浮気をしていて、最後に、この赤っ鼻のお道化者。大したもんだよ、小鳥の女王様。薄々感じてはいたが、君と僕は同類のようだ。
君は単なる男たらしなんかじゃない、僕に対する一連の言動や昼間の鹿ケ谷君とのやりとりを見れば明らかだ。君は男に愛される快感のためなら、人格も思想もいくらだって改造してやると、全てを賭けたって構わないとさえ思ってるんじゃないか?
結局、僕ら三人は哀れ君の手のひら、君の陶酔を満たすための玩具だったってわけだ。」
「御陵さんは違います!本気です、本気で愛してるんです!」
西大路の目つきが敵対的なものになる。白川は「愛してる」という言葉が引っかかったものの、眉一つ動かさず、その顔に表情はなく、まるで壁にかかった能面のようだ。覇気のない声で彼は語りを続ける。
「そうかい。なら僕と鹿ケ谷君の二人だ。ねぇ、あの気の毒な鹿ケ谷君は見逃してやってくれないか。彼には大切な彼女さんがいるんだろ?このままじゃ彼らは滅茶苦茶になる。
彼女さんのことは顔も知らないが、きっといい人だ。鹿ケ谷君もいい人だ。そんなカップルが君のろくでもない欲求不満のせいで破滅に向かってしまうなんて、想像するだけで悲しいよ。陶酔に耽るのは構わない、でも相手は選ばなきゃならない。人を傷つけちゃ……駄目だよ。」
「彼の方から私に言いよって来たんですよ、なら満足させてあげないと。」女学生は、今朝見せたあの魔性の表情を一瞬だけ浮かべたが、それはすぐに消えた。「ていうか、いつもの変な口調は、お芝居はどうしたんですか、これが白川さんの本性なんですか?」
そう言われて青年は、しばらくもどかしそうに唇を動かしていたが、やがて諦めきった微笑みを浮かべた。彼はこう言おうと思ったのだが、舌がもつれて何も言えなくなったのだ。
『本性だの素顔だの、そういう言葉を聞くたびに、僕は小学生の時の調理実習を思い出すよ。カレーを作っていてね、僕は玉ねぎの皮をむいてほしいと言われたんだ。でもほら、玉ねぎって層になってるだろ?だから幼い僕はどこまでが皮か分からずに、結局全部バラバラにしちまったんだ。みんなの前でみっともなく泣いたなぁ、それを聞いた親は馬鹿みたいに笑ってさ、あれには腹が立った。
……とにかく、その本性とやらは玉ねぎと一緒なんだ。僕の喜劇の仮面をはいだところで、その下にあるのは素顔ではなく、かつて仮面だったものさ。そして本性、時に人間らしさと呼ばれるものの正体もこれだ、かつて仮面だったものたちの習慣的反射作用。じゃあその残骸たちをはいでいった先にあるのは?無だ、無個性、無性格だ。あるいは冷たい顔無し死体だろう。
それにしてもどうして君たちは、この仮面をはごうと多かれ少なかれ躍起になるんだろうな。仮面の下にしか本音はないと思ってるのか?僕の演技は全部嘘っぱちだと思ってるのか?だとすればまず、演技は嘘ではない、修道院と刑務所のように似て非なるものだということから言わなければならないな。
舞台の上でハムレットが自身の義務に悩む一方、彼を演じる役者が家賃の支払いに悩んでいたとしても、ハムレットの苦悩は嘘ではないはずだ。だから今日君に言った愛の言葉だって、どれも心からのものだと誓えるよ。――僕の言動について、どれが本音でどれが演技かなんて、考えるだけ無駄でくだらない、ナンセンスだ。』
結局口から出たのは、御陵には山科さんというお似合いの人がいる、という独り言にも近い呟きだった。
「あの女の話はやめてください、私の方が彼を愛してるんです。」
そう言った西大路の顔に、またあの挑戦的な表情が浮かんだ。女性のする中で最も恐ろしい表情、狩人の表情だ。
多くの人はそれを美しい表情や強さの現れだと言うが、白川はそれが怖くて堪らなかった。女の子が御陵にその表情を向けるのを隣で目にするたびに、彼はガリバー旅行記の馬の国に出てくる雌ヤフーを思い出して、ひそかに身震いしたものだった。一体有史以来、いつ女性はその表情を手に入れたのだろうか、それとも有史以前にはすでに備えていたのだろうか。
また明日、と言って女学生は白川の横を通り過ぎて講義室の中へ入っていった。
――ああ、またいつか、永遠にさようなら、我が人生喜劇の一幕を彩ってくれた名優さん。ありがとう、今日は君のおかげだ。もし君がいなかったら、今日の一幕はどうしようもなく湿っぽいものになっていたことだろう。
その姿が扉で見えなくなるまで、青年は彼女を見送った。




