大講義室 その4
白川はそこまで吐き捨てると一番手近な、御陵の真正面の椅子に身を投げた。脱力しうなだれながら、目だけ動かして御陵を見つめている。
彼の話を聞くうちに、これがいつもの口論でないことは御陵にも分かった。白川が西大路を諦めさせるためにこのような長広舌に及んだのではないということを悟るにつれて、彼の不安は募っていった。せいぜい半年前のような、くだらない詭弁が展開されるものと思っていたし、それに対する準備ならしていたのだが、扉を開けてみれば宿敵の口から出るのは山科の名前ばかり。そのせいで白川が得体のしれないことを企んでいるように見えて、御陵は漠然とした恐怖を抱いた。
「さっきから聞いてれば、山科を選べだの別れろだの、主張が二転三転してるじゃないか。」
沈黙を恐れた御陵はそう言いかけたが、白川の薄気味悪い眼差しにぶつかった驚きで言葉を詰まらせた。次は白川が間を埋める。彼の顔はテカテカと汗で光っていた。
「あの人の平穏、幸福。これが俺の主張だ、くどいくらい明確に聞かせたつもりだったが。」
青年は続けて、あぁ忘れてた、と呟くと、机をバンと叩き、その衝撃に身を任せて再び机の上に飛び乗った。今度は練り歩くことはせず、その場で御陵を見下ろしている。彼はポケットから例の封筒を取り出した。
「どうしてここでこいつが出てきたのか、分からないって顔だな。まぁ聞けよ。」手のひらを封筒で何度も叩きながら続ける。
「お前に選べとかなんとか偉そうなこと言っといて、俺自身はどうするのかについて言及するのをすっかり忘れていたよ、これではフェアじゃない。それに、決断するに際して是非俺の選択も頭に入れておいてほしいんだ。……俺はね、大学をやめようと思う。
落ち着けよ、山科のための自己犠牲なんかじゃない、それは恋人の役目だろ、これは俺のために必要なんだ。俺にとって最もつらいのは、当然だが、喜劇ができなくなることだ。ここにいる限り、俺は常に自分の一挙手一投足が彼女に影響を及ぼさないかと気を揉まなきゃならない、つまり今までのようにのびのびと演技をできなくなるってわけだな。
それにさ、考えたんだ。彼女の幸福にとって、俺は必要なんだろうかってね。答えは否、完全に否。俺にできるのは、できたのは彼女の人生のほんの一部を楽しいものにすることだけだ。それにしたって人生を台無しにしちまう危険と背中合わせと来ちゃあ、こっちも生きた心地がしないし、彼女からしてもつり合いがとれないってもんだろ。
最後に、これはいわゆる算盤づくってやつだが、半年ぶりにここに来た時に感じたんだ、この舞台はもう俺にとって狭すぎる!ってね。だから今回の件を、本格的に外の世界へ羽ばたくきっかけにしようと思ったんだ。」青年は手を止め、封筒に目を落とす。
「ここで、ようやくこいつの話になるんだが……」
白川は中から十数枚の便箋を取り出し、封筒を足元に投げた。それから、手のひらでそのシワシワの紙たちをそろえて、縦から真っ二つに引き裂いた。くたびれた紙束は、決して軽快な音は立てず、むしろ重苦しい、老人の咳のような音を立てた。青年は破った紙束をまた重ねて破り、さらにまた重ねて破って、しかし四度目で力負けしたのか、紙屑でいっぱいになった両手を下ろした。
御陵は彼の言わんとすることを理解した、が正気を疑わずにはいられなかった。白川は紙屑を頭上に放り投げる、まるで興味を失ったかのように。そして晴れやかな顔で話し出す。
「大学をやめるとなると、もう二度と実家の敷居は跨げないだろう、構うもんか、こっちから絶縁してやるぜ。
清々したよ、あの手紙のせいで寝食もままならなかったんだもの。笑わないでほしいんだが、俺はあの手紙を毎日風呂場まで持ち込んでたんだぜ、病的だよな。だが、それももう終わりだ。
――ひょっとして、本当に大学をやめるか疑ってるのか?まぁ、当然の疑問だな。」
彼はポケットから別の紙、四つ折りにされた真っ白の紙を取り出して広げてみせた。
「退学願だ、初めて見ただろ。あとはこれを提出するだけ、はん、休学と違って面談も必要ない、楽なもんだ。なんなら今すぐ一緒に教務掛まで行くかい?」
再び沈黙が場を支配する。御陵は痛々しい病人を目の当たりにしたときのように、苦い顔をそむけている。白川はといえば、何か言い忘れたことがありそうな難しい顔をして、結局何も思いつかなかったのか、恐る恐る机から降りる。高所恐怖症の人がやるように、かがんでから机に手をつき、それからゆっくり床へ足を降ろしていった。
「まさかこんなことになるとはなぁ。」彼は注意深い動きで椅子に座ると、シャツをたくし上げて顔中を濡らしている汗をぬぐった。
「もうクタクタだ、こうなると分かってたんなら、お前に昼飯おごらせとくんだったなぁ……。西大路さんを見た時は、シメた!と思ったよ、見るからにお前好みな女だったからね。彼女を中心に据えれば、またしばらくここで喜劇をやっていけると考えたんだが、こんなことになるとは。」顔を拭きながら続ける。シャツの下から不健康にこけた腹が覗いている。
「お前という便利な演者を失ってしまうのも痛手だ、これほどまでに都合よく動いてくれるやつ、他にはいない。お前はよく俺の惚れた女の子を奪っていったが、あれには助けられた。負け惜しみじゃないよ。お前がそうしてくれるおかげで、俺は安心して次に行けた、何の後腐れもなく新しい喜劇を始めることができた。
今思い至ったけど、さっきの恋愛論は詭弁だな。少なくとも俺にあんな偉そうなこと言う資格はなかったに違いない、だって……疲れた、もうこれ以上話せないよ、僕は――」
白川は弾かれたように顔を上げて時計を確認した。十七時半ちょうど。大きく息をついて大儀そうに立ち上がる。
「幕を下ろしに行かなきゃ。どれほどマズい劇でも、たとえ観客がいなくても、だからって役者も全部放り出して帰っていいわけはない。劇は幕まで続けられなければならない。血反吐をしながらも舞台に立ち続けたモリエールのように、俺もそうありたいもんだ。」
彼を見送りながら、どのような言葉をかけるべきか御陵はしばらく考えていた、何も言わないということは思いもよらなかった。彼の中には、大きく変わりつつある周囲の環境への戸惑いと、白川が一日足らずであれほどまでの決断をなしたことへの畏怖と、この厄介者が自分の生活からいなくなることへの喜びが、渦巻いていたのだ。
ついに口から出たのは、もう行くのか?二度と戻らないのか?という含みのある言葉だけだった。
「昼間のカフェで軽く何か食べて帰る。腹が減りすぎて眠たいんだ。……最後に一つ。勇敢、それだけだ。陶酔を乗りこなすために必要な資質は、きっとそれだけなんだ。」
白川は背を向けたまま手をひらひらと振り、ドアの向こうへと消えていった。




