大講義室 その2
白川は続ける。
「今のはほんの前口上だから、そんな深刻に考えてくれるなよ。さて、それなら最も程度の低い悪徳は?ヒントはあったぜ、……そう、刑法典だ。ちぇっ、こいつ、何を考えるにしてもいつだって俺らみたいな法学部生にはついて回る。お前、今日まで携帯六法を持たずに大学に来たことはあるか?俺は自慢じゃないが、たとえレジュメや判例集や教科書を忘れても、六法は一度だって――
答えは浮気だ。嫌そうな顔すんなよ、これはなにも俺だけの主張じゃない、高名なさる学者も言ってることだ、そう、おサルの学者さんがね。曰く、『あまりに氾濫していて、また刑罰の効用も薄いため、裁判資源の効率と対価の観点から、不相応である。』だとよ。あの謹厳実直で評判の刑法君もあまりのしょうもなさに呆れかえって、民法に丸投げってわけだ、当事者だけでやってろってな具合でな。
そういう理屈抜きにしても、浮気してるやつってのはみみっちいのばっかだ。こいつらの大部分はハムレット気取りで、『生か死か、それが問題だ。』とか自分に言い聞かせて酔いたがって、寂しい微笑みなんか浮かべて、自分の脳みその問題を宿業の問題だと思い込もうとして。そりゃ精神科医や脳外科医の家に生まれなかったのは気の毒な運命だと思うけどさ。
ところで、どうしてこういう連中は、現実をそのまま凝視せずに、悲劇的にデフォルメしたがるんだろうな。俺の考えでは、彼らは刺激に飢えてるんだ、人生をピリッとさせるスパイスに。お前がそういう手合いの一人じゃないことを祈ってるぜ、切実に。」
白川はそこでちょうど坂を下り終えると、御陵の目前にある机によっかかって呟く。「ハムレットか、ハムレットねぇ……。彼は自身の宿命に追い立てられる中、ほんの一瞬の空白を生み出しては気晴らしのために、時には過激なまでに演技をした。気の毒な人だ、それを想えば演じること自体が宿命である俺は恵まれてるよ。」
彼は丸い両手を組んだが、その短く太い指は何度も落ち着きなく組み直されている。御陵が険しい顔で見つめたまま黙っているので、青年はさらに加える。
「長え通路だよな。ちょうどいい口上を考えるのに三十分もかかっちまった。白状すると、もう何も考えちゃいないんだ、この坂のせいだぜ、全くのところ。」いつの間にか雨はやんでいる、通り雨だったのだろう。静けさの中で、白川の荒い息だけが目立っている。
彼はポケットから携帯を取り出し、御陵に差し出した。しかし御陵がそれを受取ろうと手を伸ばしたところで、またもや言葉を加えた。
「お前さ、西大路さんと浮気してるんだろ?」
御陵はまるで動揺していなかった、少なくとも白川の目にはそう見えた。わずかな沈黙の後、彼は呆れ果てた微笑みを浮かべて首を振った。たっぷり時間をかけられたその動作は、普段であれば青年の神経を逆なでするには十分すぎるものだった。
「彼女に気があるのは知ってるけどさ、そうやって僕を巻き込んで、難癖つけて、大事にして、言い方は悪いけどはしたないよ、子供っぽいというか。もうそういうのには付き合わないって、半年前にも言っただろ?」
彼はわざとらしく等閑に付したが、白川は黙って彼を見返すだけだった。軽蔑や冷笑さえも含まない無感動な目だった、まるで何も聞いていないかのように。しかしその目が、「もういい、全部知ってるんだから。諦めろ、お前の負けだ。」と語っているように思えて、御陵は少し声を荒げた。
「おっしゃる通りだよ。でもそれがどうした?言っとくが、お前がどうしようと西大路を諦めるつもりはない。山科にバラしたければ勝手にすればいい、何の意味もない、それくらいのことで彼女からの信頼は揺らがないんだから。」
御陵は白川に詰め寄り、威圧的に見下ろした。が、白川はその細い目をぼんやりと開けたまま、無表情だった。少し間が合って彼は口を開く。
「お前の携帯で西大路さんとのメッセージを見たよ。だからくだらん言い逃れはよせ、時間の無駄だ。」
沈黙。御陵はその言葉を悪意に満ちたおどけの類いだと受け取ったのか、激憤をにじませた顔で彼をにらみつけて舌打ちをした。にわかに雨の音が聞こえだした、また夕立だろう。
「そんなに怒るなって。間だよ、メリハリ。劇には欠かせないテクニックだ。だが――」青年は打って変わって生き生きとした表情で朗々と話す。彼は机に手をついて、ひょいと身軽にその上に立った。「うむ、お前も忙しいんだろう。大変惜しいが、お互い時間のない身、ここはひとつ、極力間を廃してみるか。」
机に乗った青年は、波に乗るようによろよろと体を揺らしたが、すぐに姿勢を正して歩き出した。彼はつまらなそうに顔をしかめ、しかしその足音は愉快に机の裏から響いている。机の端まで来ると、ひょいと大股で隣の長机に移った。そしてまた歩き、飛び移り……、隅の机まで来ると、次は後ろの机に飛んだ。それからまた飛び乗り飛び移り、講義室の中ほどまで来ると、再び隣の机へと進路を変えた。――ちょうど四角形を描くように机から机へと歩き回っていく。青年はそのような単調で異様な動きを淡々とこなしながら、一席をぶつ。
「結論から言おう、賢い人は皆そうしてるものな。お前は山科か西大路さんか、どちらかを選ばなくてはならない。もちろんどちらも切り捨てることはできるが、どちらも選ぶなんてことは不可能だ。山科に浮気のことを心から謝って今後一生彼女に尽くすか、山科と別れて西大路さんと一緒になるか、どちらかだ、俺としては前者をお勧めするがね。
だってそうだろ、浮気相手とくっついても不幸になるのが世の常だし、それに山科は一生添い遂げる相手としては申し分ないどころか、お釣りが出るくらいだ。あの女は器量も気立てもいい、加えて実家が金持ちと来てるんだもの。西大路さんのことは心配するな、俺が責任をもって大事にするから。
おや、お前は今、『選ぶなんてばからしい、両方だ、いや、もっとだ。山科を捨てる?とんでもない!俺の将来のためには彼女が必要だし、なんてったって彼女が適当だ。西大路を諦める?とんでもない!俺は今あの子に夢中なんだ。全部守り抜いてみせる、俺にはそれができる。俺は成長した、今だけじゃなく将来のためにも行動できるんだ。』とでも言いたげな顔をしているね。
はん、なにが将来のためだ、下らん。現実が理想を妥協させただけだろ。そんなに驚くなよ、六年近い付き合いなんだ、お前の考えてることくらい分かるさ。だからここからは、俺がよほど見当違いな代弁したとき以外は黙っててくれ。……静かにしてるな、図星ってわけだ。」




