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即興喜劇・物笑い  作者: alIsa


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23/30

大講義室 その1

 法学部棟一階の大講義室、時刻は十七時十分前。外はまだ赤銅色に燃えているが、部屋の中は電気を消されているため、外からの光によってのみ仄かに満たされていて薄暗い。その薄暮色の中を前へ後ろへ行ったり来たりする人影があった。白川青年である。講義室には彼のパタパタという足音だけが響いている。ぶつぶつと呟きながら上り下りを繰り返すその姿は、まるで勤勉な人の地縛霊みたいだ。

「いち、に、さん、し、ご……。速いな、これじゃつんのめっちまう。いち、にい、さん、しい、ごう……。遅いとなんだか間抜けだ。いち、に、さん……」

 前を向くたびに見える彼の顔は、浅黒い色から血の気が引き、そこに暗い色の影も混ざっていて、その土色はさながら死体のそれである。しかし外貌とは裏腹に、彼の内部にはエネルギーが湧き溢れていた。と、やにわに携帯の着信音が鳴り響いた。青年は足を止め、封筒の入っているのとは逆のポケットから御陵(みささぎ)のスマホを取り出すと、画面に表示された名前を読み上げた。

「西大路さんか……。」

 それは山科(やましな)の告げた名前と同じだった。西大路が御陵の相手だと聞いた瞬間、青年の体に烈火のような激しい熱が起こった。それは、四肢は急速に荒々しい力強さで満たされ、脳は細胞いっぱいに酸素を取りこみ鮮明で鋭い思考をほしいままにする、あの活動力で、彼はそのまま御陵のもとまで突っ込んでいこうとしたほどである。

 その熱は決して怒りではなかった。白川は御陵の浮気それ自体に大した関心はなかったのだから。それなら青年を貫いた烈火の正体は?彼はそれを容易に見破った、というより、彼はその感覚をずっと知っていたし、常に待望していたのだ。喜劇の恍惚、それはアルコール中毒者にとっての酒のように、大麻中毒者にとっての大麻のように、彼の全身にしみわたり、魂を強烈にした。

 《御陵と西大路さん、そして山科。バラバラだと思っていたファクターを結びつける一つの筋が、この喜劇の主題が、ようやく確定したぞ!うまくいけば、このグダついた一幕を上演に値するものに仕上げられるかもしれない!この感覚、世界の拍動を手中に感じると同時に世界の手のひらを心臓に感じる、この感覚!この一場、この一幕のためなら、将来の破滅なんて屁でもない、むしろそれすらも陶然と喜劇の俎上に乗せてやる!》

 そう傍白しながら、彼は神に、あるいはもっと漠然とした他者に感謝せずにはいられなかった。彼のおかげで、せめて今日だけは心置きなく喜劇に熱中できるようになったのだから。

 白川は通話を切った。電話に出たのは西大路ではなく御陵だったが、彼はあえて追及しなかった。どこでスマホを落としたのかと御陵は不思議がっていたが、青年は適当なことを言ってごまかし、五時にこの講義室で落ち合うよう約束を取り付けた。

 手元の携帯はロック画面のままぼうっと発光している。その明かりが青年の顔を下から照らし、ただでさえ整っているとは言い難いその顔は、陰影のせいで醜怪なものになっている。しばらくして彼は先ほど見たパスコードでロックを解除すると、数十秒ほど親指を忙しく動かしてから携帯をポケットにしまった。彼は再び歩き出し、講義室の通路を上ったり下ったりし始める。

「いち、に、さん、し、ごお……。もっと、より効果的にできるはず――」

 彼は今や、自身の今日の行動を三一致(さんいっち)の原則と照らし合わせることばかり考えていた。つまり、この喜劇を完璧に近づけることしか頭になかったのだった。


 御陵は漠然とした不安を抱きながら、白川の待つ大講義室のドアに手をかけた。多少日は暮れてきたものの、まだ外は暑く、大急ぎでここまでやってきたので、彼の顔からは普段の取り澄ました表情は消えている。たいそう汗をかいているようだが、汗にも(まみ)れるいい男という言葉もあるように、不思議と不愉快さやみっともなさを感じさせない、むしろ爽やかなくらいだ。

 そんな御陵がドアを開けた瞬間、蒸し熱い、そして数多の学生の体臭や汗や香水の臭いの混ざった空気が、突風のように彼にぶつかって通り抜けた。空調の無慈悲までに冷たい空気が汗を冷やす、あの心地いい感覚を期待していた彼は、不快で顔をしかめた。しかし彼は足を止めずに中へ踏み入った。そこで彼の目に飛び込んできたのは、スポットライトを浴びながら机に腰掛ける白川だった。彼は周囲の薄暗さに劇場の観客席を連想しつつ、白川を非難がましい目つきで見上げた。

「冷房をつけてないのか?電灯にしたって、気取ってないで全部つけろよな。」

「構うなよ。思ったんだ、ここの明かりは眩しすぎるって。それにクーラーもいいだろ、夕方になって大分涼しくなってきたようだし。」

 しかし御陵はそれに耳を貸さずにスイッチの方へ手を伸ばす。

「どうかそのままで!」鋭い声がその手を制止した。机に座ったままで彼は続ける。短い両脚は床まで届かずにブラブラと揺れていた。「夏の夕暮れってのは、静かにするもんさ。誰かも言ってたろ、『夏は暮れ。ようよう黒くなりゆく――』とかってね。けばけばしい電灯も無機質な冷房も、無粋だぜ。ここに一つ、夕立でも来てくれれば最高に風雅なんだが――」

 その時、拍手の音、それも一人や二人ではなく何百人分もの拍手の音が、外からくぐもって聞こえてきた。二人は咄嗟に窓を見る。雨だ。激しい雨の地面を叩く音が、大喝采のように聞こえたのだ。気づけば御陵の周囲は更に暗くなっていて、青年を照らす光は一層強調されている。と、彼の体が感電したように大きく震える。粘ついた微笑と獰猛な眼光が、その顔に沸き立つ。視界の隅にそれを見た御陵は、驚いて彼に視線を戻した。そこで白川はようやく机から飛び降りて坂の真正面に立つと、スタートラインに立つように注意深く両足をそろえた。そして、御陵の顔を見下ろしながら一歩踏み出し、それと同時に口を切った。

「人の犯す悪徳の中で最も罪深いものが何か、知ってるか?もちろん、殺人だ。相手の人生を丸ごと奪っちまうんだからな。我らが刑法典を繰ってみれば、おのずと察せられる。もしそうじゃないと言う奴がいたら、そいつは世間知らずだ、人生の価値を知らない間抜けだ。

 ところで、そんな悪徳も清める方法はある、贖罪ってやつが。刑罰、社会的制裁、あと地獄、笑うなよ、地獄だ。生きてるうちに償えなかった分は、地獄で償わなきゃならない。が、悪徳の中で唯一、生前に償えないものが、罪をまるきり地獄まで持ち込まなきゃならんものがある。そいつが最悪徳なんだが、分かるよな、もちろん殺人の一種だぜ。そう、自分への殺人、つまり自殺だ。」


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