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即興喜劇・物笑い  作者: alIsa


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第八講義室 その5

 《彼女が俺に抱いているのは恋愛なんかじゃない、そんなものを一度だって指先にも触れたことがない、それくらい俺にも分かってる。彼女は復讐のために浮気をしようとしたんだ、浮気が浮気を呼ぶってやつだな。……復讐?この人が?違う、どちらかと言えば、自罰の方が正しいだろう、あるいは自傷か。御陵を信じきれない自分を罰するために、浮気なんてやりたくもない卑しいこと言い出した、ひょっとすると俺への償いも――、は、自惚れだな。》

 白川は、おそらく今日初めて、改めて山科の顔を子細に眺める。うっかり手を取ってしまいそうになるほど美しい女、というのが彼のあくまで客観的な感想だった。その目は今のような苦しみの中でも無邪気さを捨てず、口もとの微笑みは快活さと儚さが不思議と調和して穏やかなものになっている。

 彼女の顔を見ていると、どういうわけか心が安らいで、青年の思考は鮮明になり、体は活力に満たされた。純粋に彼の目を見つめ返す山科の瞳、その輝かしい濃茶色に映る自身の姿を見て青年は、今まで自分が喜劇のための恋愛しか為してこなかったことを、恋愛を喜劇の道具としか見ていなかったことを、痛烈に再認識されられたのだった。

《もしこの人の自傷に付き合ったらどうなる?まず、自罰的行為や思考というものは癖になりやすい、そして、一度きりでは終わらない、それどころか、回数を重ねるごとに次第に過激になっていくものだ、ついには自殺まで試みることも――。もし彼女がそうなったら?もし彼女があの目で、「私と一緒に死んでほしいの。」なんて言ったら?俺は、おそらく……》

 目の前の女を見つめながら、その光景を空想する。激しい無力感と僅かばかりの退廃的な甘美がよぎった。堪らず顔を伏せた先に山科の腕が映る。おそらく涙を止めようとして何度もつねったのだろう、白い肌のあちこちに赤い痕が点々としていた。

 《馬鹿げてる!俺の喜劇のせいで死人が出るなんて!そう、俺のせい、彼女がこうなった少なくとも半分は俺のせいだ。俺の喜劇に彼女を巻き込んだから、半年前に俺が愚かにも彼女に恋を打ち明けたから、彼女は俺をただの道化ではなく、一人の男と認識してしまった。それから御陵への不信、この二つが彼女をこうしてしまったんだ。だから本来責められるべきは俺と御陵なのに。この人にも罪があるとすれば、優しすぎたことだろう……、なんて陳腐な罪なんだ!》

 憧れの人の勇敢さを求めて始めた喜劇、しかしいつの間にか、青年は演じることの生み出す狂熱に、世界を意のままに操り、時には世界の意のままになる陶酔に、完全に飲まれてしまっていた。現実が理想を拡張したのだ。その産物たる悲劇とも呼べるこの惨状を、彼は呆然と眺めた。それから、幸福という言葉が脳裏を走った。

 《誰の?俺の幸福?そんなものはどうでもいい、あの情熱の前では、それは安逸や諦念の言い換えに過ぎない。両親の幸福?なるほど、これは無下にはできないな。そうでなければ、あんな手紙を四六時中持ち歩いたりはしない。だが場合によれば――。他人の幸福?知ったことか、勝手にやってればいい、あんたらが俺に対してそうであるように。それなら、彼女の幸福は?》

 視界がぐらりと揺れ、ピントがぼやける。彼女の穏やかな幸福、今まで考えたこともなかったその巨大なガラス細工が、突如彼の眼前に現れたのだ。青年はこれまで貪婪(どんらん)に耽ってきた陶酔を探し出し、それと引き比べる、自分にとって大事なのはどちらなのだろうか、と。……その二つは、大きさにおいても、質においても、一寸の差もなかった。

 自身の喜劇が、演技への熱が、全てに優先してきた彼にとって、それはまさに雷に打たれたかのような衝撃だった。そして、地面が割れて地獄へ、正真正銘の奈落へと墜落していくような心地だった。《これが、》青年は完全に体感してしまう。《陶酔に生きてきた人間の受ける罰なのだろう。》自身の破滅を見据えながら、彼は神の嘲笑を頭上に聞いたような気がした。

 衝撃がひとまず静まると、青年は活路を求めて自身のどん詰まりを冷静に眺めた。(ありえないが、)喜劇を諦めればどうだろうか、(あってはならないが、)山科を見捨てればどうだろうか、いや両方に背を向け遁走(とんそう)すればどうだろうか――。なるほどやはりどの道を選んだところで破綻は避けられそうになかった。

 そして、最悪なことにようやく思い及んだ。彼の喜劇によって損なわれた彼女の平穏を、同じ喜劇の中で取り戻させてやらねばならないということ。つまり、彼女の前では永久に演技をしなければ、道化でいなければならないのだ。それが山科の求めている白川であり、もし生々しい一人の男としての白川の顔をうっかり露わにしようものなら、いかに彼女が幸福を取り戻しても元の木阿弥、それどころか、青年の苦悩に気づいてより一層心を痛めることになるかもしれない。《だが、彼女に対して今までのように演技をできる自信がない。西大路さんや御陵が相手なら、道化にだって喜劇的敵役にだってなってやるというのに!》

 それなら大学を去るというのはどうだろう。そうすれば山科の平和を乱す恐れはあるまい。《大学を去る?大学に戻ったことでようやく喜劇を再開できたというのに?いやだ、またあの地獄に、今度は半年どころか一生居続けろだなんて!》無関心と無視、そうでなければ、気狂いやバイ菌のように厭遠される、それが彼の過ごした外の世界、彼が地獄と呼ぶ場所の一区画であった。

 それでも彼は諦めず、自分と同じように狂熱を求める人を探したが、見つかるのは「生活に刺激を求める人」ばかりであった。そうして、青年の意志は次第に抑圧されていった。喜劇は少しずつ生活から撤退し、それに伴って彼の肉体は衰弱し、精神は無感動になっていた。彼にとって陶酔を捨てることは、すなわち死を意味するのである。

 一度始められた喜劇は、幕まで続けられなければならない。白川は脳裏にドン・ジュアンの勇敢さを描きながら意を決して口を開いた。

「大丈夫だよ、明日になれば、一度幕が閉じた後数十分の休憩が明ければ、全ては元通り。御陵はもうあんたを悩ませないし、俺はあんたの永遠の道化さ。大丈夫。」

 しかし、彼はその言葉にどんな根拠も持っていなかった。その証拠に、彼は泰然自若に努めたつもりだが、声は震えていた。よほど自信のない顔をしていたのだろう、山科も不安で顔を曇らせる。青年はそれを目の当たりにして、内心泣きそうになりながらそれを隠すように露悪的な笑みを浮かべた。

「なぁ、それで誰なんだ、御陵の浮気相手ってのは?ほんの野次馬根性だがね。」


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