第八講義室 その4
「本当に、楽しかったよね。」
山科がそう言いながら涙を流していた。嗚咽も濁声もなく、常と変わらないどころか心底楽しそうな調子で、微笑みさえ浮かべて、泣いていたのだ。涙がひたすら滑らかに顔を撫でては落ち、乱れた髪は頬に張り付き、その目は澄んだ輝きを放っている。それは石の隙間からこんこんと湧き出る清水のようで、この普通でない状態にもかかわらず、青年は不意に彼女を美しいと感じた。
が、すぐさまこの異常、感情が乖離したような山科の様子とそれに見とれた自身とに悪寒を覚えて正気を取り戻し、どうして泣いてるんだ?と尋ねた。腹に怒りをためているような口調だった。言われて初めてそのことに気づいたのか、山科は腑抜けた声を漏らして目をぬぐった。すっかり湿った自らの手を見て、それから驚きうろたえた顔で白川たちに視線を移す。驚愕で目を見開いている御陵と血の気の引いた顔にしわを寄せている白川、彼女はそれらを何度か交互に見ると、両手で目を覆い、ごめんね、と喉から絞り出すように何度も言いながら、席を立ち、ふらふらと部屋の外へ駆けていった。
講義室の空気は沈黙に押し殺されていた。そこにいるのは二人だけだが、机で光る涙の玉が悲痛な存在感を放ち、先ほどまでそこにいたもう一人のことを否応なく意識させる。《確証のための準備。それが今なすべきことだ。向こうからやってきたチャンスなんだ。そのためにも御陵の注意を完全に内へそらすんだ。》白川は額に浮かぶ脂汗を手の甲にこすりつけながら、隣の御陵を一瞥する、が、その顔からは何も読み取れない、ただ物思わし気だということが分かるばかりだ。青年は平静を努めて切り出す。
「そういえば、鹿ケ谷は白だったぞ、西大路さんの恋人じゃなかった。」
御陵は彼を見てそっけない相槌を打つだけだった、まるでそんなことはとうの昔に知っていたかのように。手ごたえを感じられなかった青年は、山科のことで何か心当たりは?と話題を転じたが、御陵は少し考える仕草をして力なく首を振った。
「おめでたいやつだ。彼女がああなった原因は、きっとお前にあるんじゃないか?」《そしてもちろん、俺にも。大事なのは「俺ら」じゃないということだ、別個なんだ。》
御陵は呆然と青年を見つめた、それはすぐに探るような目つきに変わったが、青年はそれを受けながらも彼と目を合わせることはなく、ただ彼の背後にある窓を顎でしゃくった。
「あの子の心の中は、あの空のようになってるんだろう。真っ暗で息苦しくて、じきに土砂降りになるだろうぜ。」白川はいつになく静かな重々しい口調で言った。
御陵は振り返って窓の外をにらみつけた。その視線は、黒い雲の奥にあるはずの太陽を、今ここからでは決して見えるはずのない光を、探し求めているようにも見えた。
その背中を横目で注視しながら、青年は慎重に手を持ち上げていく。衣擦れや椅子のきしみの音をたてないようにゆっくりと、腕の関節が鳴らないように注意深く、そして呼吸すら止まるほど真剣に、その手を御陵のバッグへと伸ばし、中から素早く静かに彼の携帯を抜き取る。それをしっかりポケットに納めると、ようやく全身の筋肉を弛緩させて大きなため息をついた。御陵は未だ窓を眺めていたが、もう十六時か、という白川の呟きで我に返ったようだった。
「四時から人と会う約束があるんだった、悪いけど先に失礼するよ。」御陵はバッグを手に慌ただしく扉の方へ向かう。「山科のことだけど、今はそっとしておいた方がいいと思う。」白川の非難がましい視線を避けながら彼は続けた。「それに、相手を待たせるわけにもいかなくてさ、OBの人でさ、就活関係のことでさ。とにかく、少し時間をおいて僕の方でケアしておくから。お前ももう帰ってもいいぞ。」
「いや、少しだけ待っとく。彼女が戻ってきたときに誰もいないのも具合が悪いだろ?」
御陵は、分かった、と言い切らないうちに講義室を出ていった。おそらく白川の言葉もほとんど聞いていなかったのだろう、彼の足取りは軽く、その足音は扉越しに部屋の中まで響いてきていた。
白川青年は一人きりになったが、それでも彼はもう一人の存在を確かに感じていた。彼は机上の涙の跡に視線を落とす。《あいつ、よっぽど急いでたんだろう、俺があんなことを言ったのに気にもとめないなんて。俺にしたって、そのつもりはなかったんだが……。まぁいい、これであの女にあれこれ聞く時間ができた。山科が戻ってくる前に、少し情報の整理をしたい。ただでさえ西大路さんや御陵との関係にもうまくオチをつけなきゃなのに、ここに来てあの女まで俺の即興劇に組み込まないといけないなんて、頭がパンクしそうだ!》
その時、何の前触れもなく講義室のドアが開いて、山科が入ってきた。御陵がいなくなるのを、彼の足音が聞こえなくなるのをどこかで耳を澄まして待っていたのではないかと疑ってしまうほど、間断のない入れ違いだった。二人は目を合わせ、一瞬の沈黙を感じ取ったが、それが先の異質さを含んでいないことに青年は気づいた。幽霊のような存在感を帯びていた「もう一人」が実体を伴ってここに戻ってきたため、これできっちり二人になったのだ。
「ごめんね、楽しいおしゃべりの途中だったのに。」山科の方から口を利いた。
むしろ助かったよ、と放言した青年に、山科は控えめに困ったような笑みを向けた。彼女は少しだけ口の中で言葉を選ぶ様子を見せて、口を開く。
「最近どうも涙脆くなっちゃったみたいで……、歳かな?」
「わしもじゃよ、婆さんや。」
白川の軽口にクスクスと笑うと、彼女は今更ながら部屋を見回し、ミッチーは?と尋ねた。
「ついさっき出てった、用事があるんだと。見事な入れ違い、アントニーとクレオパトラもびっくりだ。就活がどうのOBがこうのとか言ってたっけ。」
山科は何も返さなかった。口を小さく開いて目をしばたき、押し黙っている。そのせいで白川の言葉はどこか見当違いの響きを持って壁に吸い込まれていった。しかし、その無言の中に幾千の祈りと疑い、幾万の愛と失意、理想と現実のせめぎ合いが、果てなき闘争が繰り広げられているのを、青年は彼女の目から悟った。
「そう?そうだよね。ミッチーは将来のために、私との将来のために、いっぱい頑張ってるんだよね。それなのに――、」山科の口はまだ何かを言おうともがいていたが、一度閉じられ、言葉を呑みこみ、それから意を決して再び開かれた。「それなのに、私って最低なんだ。あの人が、あんなに優しくて一途な人が、浮気をしてるかもだなんて。」
《やはり、そうか。》彼女の告白は青年を全く動揺させなかった。《ずっと気がかりだった。女にだらしなかったあいつが、大学に入ってから全く女の気配をさせなくなったことが。山科を手に入れるための演技だったんだ、あいつは山科の気に入るために、清廉潔白を演じていたんだ。だがそれも、彼女を手に入れた以上不要になったというわけだ。一度体の関係を持ってしまえば、彼女のような人間は自分から逃れられなくなると踏んで、そして、心優しい彼女は自分の不貞を見逃すと見越していたんだろう。一度修道院から連れ出したエルヴィールは、文字通り死んでも自分を見捨てることはないと高をくくっていたわけだ。》
「……そんなわけない。ゴメンね、突然。びっくりしちゃったよね、私、どうかしてるみたい。ミッチーが浮気なんて、ありえないよね。ね?」
白川は何も言うことができなかった。本音か嘘か、それぞれがどれほど彼女を傷つけるのか、彼女の理想とする御陵をうち支えるべきか実像を突きつけるべきか、判断がつきかねていたのだ。その一瞬の惑いが青年の顔に渋い色を、同情のようなものを浮き上がらせた。
「あはは、白川ってば、分かりやす過ぎるよ。ありえないって、彼がそんなことするはずがないって、嘘でもいいから言ってくれればいいのに、演技が得意なんだから。」山科は机に両肘をついて顔を覆った、がすぐに勢いよく顔を上げた。「そう、ありえない!あの人がそんなことするはずがない!最低なのは私。恋人を疑ったりなんかして、その挙句、ねぇ、聞いて、その挙句、私ったら最近、特に今日は一日中ずっとこのことばかり考えてたんだけど、もしかしたら白川はまだ私のことが好きなんじゃないかとか、もし白川と付き合ってたらどうなってたんだろうとか、そんなことばっかり考えてたの。はは、あの人の浮気を疑ってるくせに、私自身はこんな浮ついたことばかり考えてたの!」端正な顔を醜く崩して彼女は笑う。そして早口に続ける。
「もういっそのこと、私たちも浮気しちゃおっか?あの人もしてるんだしさ、仕返しにやってやろうよ、浮気された方はどんなにつらいか――」
「やめてくれ、君はそんな人じゃないはずだ。」
それはこれまでこの場にいなかった人間の声だった。舞台裏からうっかり洩れ聞こえた悲鳴のようで、演技がかっていない、それゆえその悲痛を生々しく伝える声だった。それは明らかに白川青年の口から出た言葉だった。非常に簡素で簡潔な言葉で、それゆえ一語一語が重みと力強さをもって空気を弾いた。しかしながら、青年の耳にはその声は、弱弱しく頼りなく、芯のないものに聞こえた。
疲労で鈍った脳が数拍子遅れて自身の声を認識すると、青年はそれを唾棄するように鼻を鳴らし、お道化る。
「俺の知ってるミューズ・エルヴィールさんは、そんなに尻の軽い女じゃないよ、まあ、頭は多少軽いかもしれないが。でも尻軽なんかじゃない、むしろ尻重さ!……とにかく、誠実な人だよ、あんたは。純真で誠実で、ついでに鈍重な尻を持っている、詩の女神だ。」
山科は笑った。青年の言ったことはほとんど理解できなかったが、その必死な身振り、忙しい表情、無理におちゃらけた声で、彼が自分の愚行を諫めつつも慰めてくれていると受け取ったのだ。




