大講義室 その2
「もういいじゃありませんか、あんなやつ!ここで我々に必要なのはあなたの快い返事だけなのです。さあ、どうなんですか?」白川は地団駄をやめて口をはさんだ。
「お前は黙っててくれ、頼むから、ややこしくなる。山科、つまりどういうことなんだ?僕にはさっぱりだ。」御陵が見上げながら言った。
白川は打ち捨てられた小庭のように荒れ放題の髪をかきむしり、畜生!と吐き捨てると、再び足を強く踏み鳴らしながら歩き回りだした。山科は口を腕で隠しながら、御陵に同意するように何度も頷いた。
「察するに、おそらく――」
「してやられた、全部あいつの策略だったんだ!俺はいつも、あいつにとって目の上のたんこぶ、比肩できない宿敵だった。だからきっと俺に一泡吹かせようと、こんな……」白川は出し抜けに叫んだ。「こんな下劣な罠を仕組んだ!」
「またわけの分からないことを。僕は山科に呼ばれただけだってさっきも言ったろう?」御陵はすでに通路の中腹を越えている。
「ああ!ということは、二人は裏でつながっていた、グルだったんだ、俺の告白だって、全部筒抜けだったんだ!」白川は右手で顔を覆う。怒りで歪んだ口もとから失笑が漏れる。「はん、さぞ滑稽だったろう、あいつの謀略とは露知らず、彼女に思いの丈をぶつける俺の姿は。さながら物笑いの種さ。」
「なんだ、やっぱり山科に告白してたのか。」
「ほれ見ろ、俺が告白したことを知ってるじゃないか!しらじらしい、本当に憎たらしいやつだ。澄ました顔をして、常に他人を蹴落とす隙を伺っているときた。」
「ずいぶんと大声なモノローグだったな。」
御陵はついに二人のもとまで上ってくると、なんでまた突然山科に告る気になったんだ?と尋ねた。白川は彼をいなすかのようにくるりと身をひるがえし、そして、下り坂になった通路を一歩下がる。
「はは、本当にしらじらしい、知ってるくせに。あんたが言ったんじゃないか、お前が焚きつけたんじゃないか!」
二歩三歩と下がるごとに、彼の声は感情の抑揚を失いつつあるようだ。
「お前が言ったんだ!あの女は面白い人が好きだって!」御陵を指さしながら後ずさる。
「あんたが言ったんだ!俺のことを面白いって!」山科を指さしながら後ずさる。
彼らはいつの間にか隣り合っていたため、これら白川の動作、短い指の動きはその声量に見合わず控えめなものだった。
「なるほど、言い分は理解したよ。でも、いくらなんでも性急過ぎたんじゃないか?普通、もっと互いに心を開いて、もっと互いに距離を詰めて、もっと互いのことをよく知った上でそうするべきだと思うけど。」御陵が隣で座っている山科を一瞥する。
「なんて悠長な!そんなことをしてたら、人生が終わっちまうよ!」白川は通路の中腹で立ち止まって続ける。「だいいち、どうしたところで、結局笑いものにされるだけだったろうよ。お前が俺をコケにしようと、恥をかかせようと仕組んだことだったんだから。」
「そんなわけないだろ、どうして僕がそんな面倒なことを――」
「そんなわけないだろ!お前は本当に、俺をあざ笑ったりかついだりする気がなかった、なんて言うつもりなのか?『山科は面白い人が好きらしいよ。』だなんて、ニヤけヅラにゾッとするような気味の悪い声で俺にささやきかけた時、少しでも思わなかったのか?『こいつの恋愛を台無しにしちまおう、そして心の中の底からせせら笑ってやろう。なぁに、神妙な顔で同情するそぶりを見せておけば、馬鹿の白川にはバレやしないさ』なんてことを。」
白川のよく通る声が、憤慨している人のみが出すあの鉄のような冷然と疾風のような激情が、場を満たし出す。しかしながら、冬の大講義室は相変わらず刺すような寒さによって支配されている。
「そんなわけない、とは言い切れないよな。確かに僕の心のどこかには、そんな風に考える邪さがあったのかもしれない――」
「今度は居直り作戦ときたか!そうだよな、そうやって少しでも非を認めれば、お前の方が正しく見えるもの。濁った心の意地汚さが透けて見えるようだぜ!」
「取り付く島もないじゃないか、一体どうしろって――」
「さっきのお前の言葉の続きは容易に想像がつく。きっとこうさ、『――邪さがあったのかもしれない。だからせめて、謝らせてくれ。お前を勘違いさせてしまうような言い方をして、本当にすまなかった』」
「なぁ、おい――」
「お静かに願いますよ。いやはや、実に優れた口上じゃないか、こんなことを教えてくれる講義でもあるのかい?『かもしれない』だの、『勘違いさせてしまう』だの……。さて、この中でもっとも優れた箇所は、いや、そんなもんじゃない、ここが肝、印象全てを決定づけていると言っても過言じゃない、ともかく、その箇所こそ、『だからせめて』という短い言葉なんだ。これによってどういうわけか、『私は決して悪くありませんが相手がひどく立腹なようですし、皆さんのお時間もありますから、形だけでもこちらに非があるとして謝って、とっととこの話題を結んでしまいましょう、決して私が悪くはないということはご覧の皆さんも当然ご存じでしょうが』の感が生まれるってわけだ、不思議なことにな。」
「別に僕は、自分は悪くないとか謝って丸く収めようとか、思っちゃいないし、そもそもお前が言ったようなことなんて、念頭にすらなかった。『だからせめて』の解釈にしたって、お前の悪意に満ちた空想の、さらにまた空想じゃないか。だからさ、少し落ち着けよ、どうして僕がお前に敵意を持ってる前提で話を進めるんだ、冷静になれって。」
「落ち着くのはお前の方さ。どうした、俺を黙らせようと必死じゃないか。待てよ、ふむなるほど、ひょっとして……」
「ねぇ、もうやめよ?このままじゃ埒が明かないし、それに、ほら、もうミーティングの時間じゃない。」山科が、彼女は途中から二人の会話を不安そうに聞いていたのだが、机に手をついて立ち上がりながら、ようやく口を開いた。「さ、二人とも。とりあえず、仲直りの握手、しよ?」
「黙れ西瓜女め!」
白川の吐き捨てるような怒号に、大講義室はしんと静まり返った。そのあまりの大きさに、二人は面食らう。御陵がすぐさま言い返す、がしかし、
「お前!なんてことを、なんて下品な、なんて最悪な!お前、ふざけるな!」
きっと白川の空気を震え上がらせるほど迫力のあった怒号に対抗しようとしたのだろう。だが、その声は怒り慣れていない人にありがちな、変に誇張された上にどうしようもないくらい空回りしたもので、どことなく間の抜けた、頓狂な響きさえあった。それについて自覚があったのか、御陵の顔はしかめ面で真っ赤になっていた、怒りというよりはおそらく羞恥によって。
「どうした、御陵。耳たぶまで真っ赤になって、そう怒るなよ。……はは、ヘマしたな。他人のために腹を立てることのできる人間はそりゃ素敵に映るさ、でもね、致命的な点が一つある。お前が怒り慣れてないってこと?大声を出すのに抵抗があるとか、感情を表に出す訓練をあまり積んでこなかったとか、そんなことか?いいや、違うんだ、もっと根本的なことさ。つまり、お前は他人のために心から何かすることなんてできない、憤ることさえもね。」
白川は、大声を出すことにも感情を表に出すことにも必要以上に慣れている青年は、声を弾ませて愉快と軽蔑を明らかにその声に乗せながら、勝ち誇ったようにそう言った。
出し抜けに山科が、この場に、大講義室に漂う空気と二人の青年の間で飛び交う敵意にそぐわない呑気な声で御陵を呼んだ。が、彼女は御陵の方を向くと同時に息をのんだ。というのは、彼の顔が憤激に満ちて真っ赤どころか、うっ血したかのように赤黒くなり、その目に涙さえ浮かべているように見えたからだ。しかしながら、それもほんの一瞬、誰の目にも、ただ一人白川を除けば誰が見ても、光の加減や顔の角度でそう見えたのだろうと思いなおすほどの短い間のことで、一呼吸も置かない後にはすでに、彼の顔には先ほどまでの神妙なしかめ面が戻っていた。




