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第八講義室 その2

「愛し愛され、女と永遠を誓った男。しかし、彼を待ち受けていたのは、倦怠、不信、誘惑なのだった……!」と彼女は演技くさい調子で言った。

「どこから見てた?ノックぐらいしろよ、社会常識だぜ。」

「部屋の中で白川が一人芝居に夢中になってるかもだしね。私の心は磁石なのです、粗雑で鈍重な、卑しい心なのです!」山科が楽しそうに言う。

「俺相手に口喧嘩か?分が悪いと思うぜ、あんたみたいな平和主義の日和見女に――」

「ところで、無数の男を破滅に追いやって数多の女を嫉妬に狂わせた美貌って、誰のこと言ってたの?ひょっとして西大路さん?」

「最初から見てやがったな!」

 山科は腹立たしそうに机を叩く白川をしり目に笑いながら彼の後ろの席に座ると、肩越しに覗き込んで、ねぇねぇ続きは?と尋ねた。

「さぁね。タダで部外者に見せてやるもんか。」

 青年は身をくねらせるようにして山科のあごを避け、彼女の方を向いた。

「部外者?」山科は面食らった顔をして、「……そうだよね、今は西大路さんだもんね、私なんてうっとうしいだけだよね。」と寂しげに笑いながら言った。

 ごめん、と白川はうっかり言いかけた、がしかし、悲しよう寂しいよう、と山科がわざとらしい口調で付け加えたため、彼は言葉を押しとどめて不機嫌そうな顔をするだけになった。彼女は白川を一瞥し、今度は手で顔を覆って嘘泣きを始めた。えーんえーん、という単調な声と時折思い出したかのように挟まれる鼻をすする音によって、部屋の空気はすっかり間の抜けたものになる。《ふざけてるのか、この女?》山科のこの言動、のらりくらりと、核心的な部分に近づいては遠ざかるような、思わせぶりな態度。白川は自分が侮られているように感じた。

「俺はどういう形であれ、他人が泣いたり涙を流したりするのを見るのが大嫌いなんだ、そんなに泣きたいならトイレにでも行って気のすむまでやってこいよ。」

「ごめん、嘘泣きだって!そんなに怒らないでよ。」青年の怒りをにじませた、ぶっきらぼうな言いぐさに驚いて、山科はすぐさま顔を上げた。

「どういう形であれ、たとえ嘘泣きだろうとな。でもやっぱり一番ムカつくのはあくびのときに出る涙だよなぁ。舞台の上で必死に演じてる人の気も知らないで、呑気に退屈そうなあくびなんかかましやがって……」

「それなら笑い泣きは?」山科は目に笑みを浮かべた。

「それはいい、笑い泣きは例外だ、最高だ。」白川は全く間を置かずに答えた。

「嬉し泣きは?」

「言うまでもない、素敵じゃないか。一度でいいからされてみたいもんだよ、嬉し泣き。思わず漏れた歓喜の声なんかも添えてさ。」

 先ほどの不機嫌はどこへ行ったのやら、すでに満足そうな顔で腕を組んでいる青年を見て、山科も満足げな、安堵した表情になり、白川ってやっぱり素でも面白いよね、と言った。それはかみしめるような、自分に言って聞かせるような言い方だった。

「素だって?」青年の素っ頓狂な声が少し間をおいて答える。

「前みたいにお芝居がかってたときと違って、今は素顔で私に向き合ってるんだよね?」

 小首をかしげて白川を見る彼女の顔に浮かぶ微笑みは、触れただけで溶けてしまう霜のように脆そうで、そのまなざしは夢想に遊んでいるかのようだった。それに対して、青年はあえて攻撃的な笑みを浮かべた。

「もしこれも演技だとしたら?あんたの言うところの素顔なんてものは、実は全く別のところにあるとしたら?俺の素顔が、本当は今この瞬間も眉一つ動いていないとしたら、あるいは、あんたへの情欲でグツグツ滾ってるとしたら?」

「だとしたら……」山科の笑顔の質が硬いものに変わる。その口角の震えを青年は見て取った。「悲しいかな、嫌だよ。自信がなくなって、もう私、何も信じられなくなっちゃうかも。」

 彼女に似つかわしくない表情、ガラス玉にできたヒビのような笑み。青年は不快で眉をゆがめた。

「なんでもいいけどさ。ところで、素顔ついでに俺からも一つ。あんたはそんな悲しそうに笑う人だったか?俺が恋のせいで盲目だっただけで、それがあんたの素顔だってんなら構わないけど。」

 すると、彼女の口角の震えは口全体に広がった。しかし彼女がすぐに俯いたので、それは見えなくなった。ぶるり、と身を震わせると、山科は歯の隙間からか細い吐息を漏らす。

「私、最低だよね――」

 その言葉と同時に講義室の扉が大きく開かれ、そこから御陵が息を切らして入ってきた。図書館で知り合いと話し込んでしまっただの、遅れて悪かっただのと早口にまくしたてるその男を、白川は乱入者でも見るかのように眺めていたが、

「あ、ミッチー、遅い!待ちくたびれちゃった!」

 あれほど深刻な様子をしていた山科が、いつもの快活さでそう言ったのを聞いて、彼の混乱はさらに強まったのだった。

 《この女、やっぱりどこかイカれてるんじゃないか?》青年は眉をひそめながら山科を見つめる。彼女と何度も目が合ったが、瞬き一つのうちにそらされてしまい、なかなか機会を見つけられない。《今日の言動自体、おかしかった、とても俺のせいでしばらく病んでいた人間のものとは思えない。もちろん、それだけなら単に俺に気を遣ってのものだと結論付けることだってできる。》山科は御陵と楽しそうに話している、というか、もはや彼女が一方的にまくしたてている構図だ。恋人とのおしゃべりが楽しくてたまらないようにしか見えない。

 《だが、さっきのは妙だ。いかにも大事な話が始まりそうだったのに……、御陵の前じゃできない話なのか?それにこの変貌は?無理しているのか?いや、そうは見えない、おそらく本当に御陵が来てくれて嬉しいんだろう。だからこそ、奇妙だな。》そこで白川は恋人たちの会話に耳を傾けた。今朝のニュースやSNS、講義や試験のこと、ありふれた会話、しかし、それはどことなくぎこちないものに感じられた。一方は意識的に、他方は無意識的に特定の話題を避けているような、言葉を選ぶ一瞬の間があるのだ。

 《直感的な答えは浮かんでる、が、確証がない。》白川は二人を見比べる。聡明そうであか抜けた男と美しくて品のある女、客観的にみれば、いや、彼らを取り巻く問題を考慮に入れても、やはり華のあるカップルだ。腹立たしいが、お似合いだった。《そういえば、御陵も思惑があってここにいるんだったな。》腹立たしかったので、御陵の計画を台無しにしてやることにした。経験上、彼の邪魔をして損することはまずないというのが、青年の考えだったのだ。もちろん、そのついでに山科の挙動不審の原因を探るつもりもあった。

「……『けれども泰然自若たるわが英雄は、長剣に身をもたらせて、船の曳く水脈を眺めて、誰一人にも敢えて振向きもしなかった。』」

 結局口から出たのは、そのようなボードレールの一節だった。ちょうど進路について話していた二人、とりわけ御陵が、不思議そうに彼を見つめた。虚を突いた沈黙の中で、彼は続ける。

「どういう道に進むのであれ、たとえそれが地獄であるにせよ、我々もドン・ジュアンのようにどっしり構えていたいもんだ。」

「何かと思えば、『地獄のドン・ジュアン』か、懐かしいな。」御陵が意を得た顔で言う。「確かボードレールだったよな。でもそんなやつ知らないって言ってなかったか?」

「そんなこと言った覚えはない、お前の早合点だろ。第一お前にボードレールを教えたのだって俺なんだから。それにしてもいい詩だよな。父親も騙した女どももスガナレルも、みんな地獄に落っこちてるさまは愉快なもんだ、賑やかでいい。だが何よりも、それを全部無視して地獄を進んでいくドン・ジュアン、これだよ。きっとあの人の心にはすでに、あの汲めど尽きない陶酔が、新しい恋愛の予感が目覚めていたんだろうなぁ。」


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