表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/30

第八講義室 その1

 学部館の中は風通しがよく、一日中陰になっているということもあってひんやりと涼しい、しかしやはり空調の快適さには及ばないようで、白川は建物の中に入っても足を緩めることなく階段へと向かう。階段を上りながら、チラとあの大講義室を、半年前の敗北に結び付く大講義室を見た。扉は閉じて明かりも消えている、となると今日はもう使われないのだろう。青年はそれだけを頭に入れて二階にある第八講義室を目指していった。

 《それにしても、》集合場所の小さな講義室、白川は一番前の席に座っている。《西大路さんに告白するのはいつがいいだろうか、もちろん今日するつもりだが。》掛け時計を見る。あと十五分で十五時だ。《図書館に行くとは言ってたが、まだいるだろうか?もう帰ったか、いや四限の講義を受けるかもしれない――。やめだやめだ!そんなこと考えたって、どうしようもないんだから。今日の朝も昼も、彼女の方から俺の前に現れたんだ、それなら次だってまた彼女の方からやってくるさ、そう、我々を貫く運命があまりにも強固だから、意識せずとも引き寄せ合っちまうんだ。俺が考えなきゃならないのはその後、どんな言葉で告白するかだ。》

 三限の講義が終わったのだろう、学部棟の内外あちこちから声が聞こえ始めた。《そして、それに続く甘露と蜜月……》青年は西大路の手足や髪、匂いなどに想い馳せる、がいつの間にか、その女は別の姿へと変わっていた。《山科(やましな)、あいつ、散々俺のことを馬鹿にしやがって、あんなにケラケラと――》階下から甲高く澄んだ笑い声が聞こえてきて、青年は少し肩をビクつかせる。

 《ギクシャクしないように気を遣ってるのかもしれないが、やりすぎだ。もし相手が俺じゃなくて、もっとプライドが高くて自信家で気の強い奴だったら、――いや別に俺が卑屈で臆病で気弱ってわけじゃないが!》頭を振って山科を脳内から追い出そうと努める。《……あの女、あんな風に笑うやつだったか?あんなハリのない笑顔をする人だったか?》その笑顔を思い出すと、胸の張り裂けるような思いが――白川は自棄気味立ち上がり、机を飛び越えて扉の前の広い空間へと躍り出た。扉に背を向け、まるで舞台に立っているかのように、子気味よく動き、朗々と語り始める。

「かわいい人よ、あまりに美しいのも罪なのだ、君の美貌は無数の男を破滅に追いやり、数多の女を嫉妬に狂わせた!」

「そんなこと言われたって、ちっとも嬉しくありません。ああ、醜く生まれることができたなら、と何度願ったことでしょう。そして、心より愛する人にだけ私を独占させることができたなら、と。」白川は裏声で言った。

「なぜそのようなことを言うんだ、もし君がその美しさを捨ててしまえば、全ての男は求める美の基準を、全ての女は求められる美の基準を失って、もはや人間は美という価値観を理解することができなくなってしまうというのに!」

「もうやめて、私のことを美しいなんて言うのは!ああ、それにこの美しさにしたって、一番愛する人に見向きもされないのなら、無用の長物、まさに豪華なドレスも同然ですわ、裾を踏んづけられてしまうし、動きにくいし、手入れは面倒だし――」

「美しい人、僕がいつ君から目をそらした?愛しい人。」

 そう言って白川はおそらく手があるのであろう場所の空気を優しくつかみ、口もとに持っていく。が、次の瞬間、彼は素早く反対側に移動し、腰のあたりまで持ち上げていた手をサッと胸にあて、架空の手を振りほどいた。そしてまた裏声で言う。

「やめて、おやめになって!私はまだ体を許したわけではないのですから!」

「なぜだい?手の甲にキスぐらい、挨拶のようなもの、軽い愛情表現じゃないか。」

「ダメ!ダメなのです!たとえそれだけであっても、私の頭はあなたでいっぱいになって、夜も眠れなくなってしまうのですから!」

「それでいい、僕のことだけを考えてくれれば。眠れない夜だって、僕が慰めてあげよう。」

 男役の白川は一歩前に出る。しかし、女役の白川は一歩下がり、また裏声で言う。

「ダメ、ダメです!私を愛しているなら、私を悩ませないでください!」

「そうか……」男役は女役のいた場所に背を向ける。「よく分かった。他の男どものスキンシップにはコケットな顔で満足そうにする君は、僕には手の甲にキスすることすら認めないというんだね、よく分かったよ。僕は君を底も天井もなく愛してきたが、君は僕のことをちっとも愛してはいなかったんだね、よく分かったよ。」

 すると、裏声役は男役の足に縋りついた。

「ああ、耐えられない、よしてください!あなたが私につれなくすればするほど、私の心はあなたに強く惹かれてしまうのです、あなたが私によくしてくれればくれるほど、私の心はあなたにつれなくなってしまうのです!なんてことかしら、私の心は磁石なのです、粗雑で鈍重な、卑しい心なのです!」

「かわいい人、ダイヤモンドの泉を心に持つ人、利発で透き通った心をお持ちの人、そんなこと言わないでおくれ、僕が悪かった。」

 男が女の両肩に手を置き、女はそれをつかんで立ち上がる。

「いえ、私が悪かったのです!」女が言う。

「いや、僕が悪かったんだ!」男が言う。

「いえ、私が!」「いや、僕が!」二人は楽しそうに言葉をかぶせ合う、それがまるで二人だけの秘密の儀式のように。「私が!」「僕が!」二人の顔は次第に近づき、息が触れ合うほどになる。「私が……」「僕が……」そして、二人の唇が触れ合い、彼らは互いの背に手を回し、抱きしめ合う。時折口から洩れる吐息が、彼らを包む静寂を情熱的なものにしていた。

「さぁおいで、ともに夜を明かそう。日の出に燃え揺らめく山際を、川の飛沫で顔を洗うスズメを、静かに落ちる沙羅の花を、同じベッドの上から見届けよう!」男が言った。

「本当に素敵な人!私、もう他の男なんてみんな無視することにしますわ!」女が言った。

「ああ、なんて幸せなんだ、我が天使よ、幸福と歓喜と光に満ち溢れた我が天使よ!」

 そこで白川は静止し、口を閉じた。拍手の音が講義室に響く。彼は大仰な動きでお辞儀をしてみせた。体内で沸々と音を立てる、陶酔の鋭い感覚。その高揚感が彼に平生を取り戻させた。《よし。調子は良好、感度も抜群――》青年はぎょっとして振り返った、身に覚えのない拍手の音したからだ。いつの間にか彼の背後の扉が開いていて、そこに山科が立っていた。

 彼女は感心した様子でいまだに拍手をしているが、その顔には抑えきれなかったニヤニヤ笑いが広がっている。白川は彼女を無視して何もなかったかのように椅子に座り、退屈そうにあくびをして指の爪を眺め始めた。それが終わると、頬杖をつきながら外を見やった。その間も拍手の音は続いていた。それから腕を組んで天井のシミを数えていたのだが、それにも飽きるとようやく山科の方を見て、ずいぶん早いな、とまるで今初めて彼女の存在に気づいたかのような口ぶりで言った。山科は拍手をやめて部屋に入る。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ